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  • 第29回 長崎料理ここに始まる。(一)

    はじめに 江戸の酒落本にテンプラの事を次のように説明している。(山東京山説・蜘蛛の糸巻) 昔、天竺の浪人、ぶらりと来りて作り始めたる料理をテンフラと言う。 たしかに、テンプラは天竺南蛮(ポルトガル)より我が長崎に伝えられた料理なのである。ポルトガル人が長崎の街なかに住み始めたのは元亀二年(1571)以降であるから、其の時代より長崎の家庭でテンプラが造り始められ事になる。 資料によると徳川家康もテンプラを好んだと記してある。其の資料とは「東照宮御実紀」附録巻十六にある。元和二年正月二十一日(1616)家康公、駿府の田中に放鷹に出かかけらる。其のころ、茶屋四郎次郎、京より帰りて、様々の御物語ども聞え上がりしに、近頃、上方にては、何ぞ珍しきことはなきかと尋ねられ候えば、此ごろ京阪の辺にては、鯛を萱(かや)の油にてあげ、その上にニラをすりかけしが行はれ、いと良き風味なりと申す。折しも榊原内紀清久より、能浜の鯛を献りければ即ち其のごとく調理してめし上げられしに…… 大変、家康は慶ばれて賞味されたと記してある。一、テンプラの資料▲江戸の料亭八百善 文政5年(1832)刊・料理通 私は若い頃、長崎学の中に「長崎・食の文化史」の構想を描いて各地を訪ね回っていたとき、東京新橋の有名なテンプラの老舗「天国」さんで、お店の露木幸子様にお逢いでき、お話を聞いているうちに、露木様より「叔父の露木米太郎が著述した天婦羅物語があるので、お読みになってください。」と言われて、其の本を下さった。 私は此の本でイロイロな事を教えて戴き、「天国」さんでは、江戸風のテンプラの味を堪能させて戴いた。 長崎初期のテンプラの四郎は長崎県立図書館内渡辺文庫にあった。本の題名は「阿蘭陀菓子製法」とあった。そこには次のように記してあった。一、てんぷら里の志ようイ、こせうのこ、につけいのこ、ちやうしのこ生が。ひともじ、にんにく、之をこまかにきざみ、とりを津くりて、鍋に油を入れ、此六いろをいりて、とりを入れ、またいり、其の上くちなし水もてそめ、それにだしを入て、またさかし候さし、あんはい候てよく候ロ、うおのれう里、なに魚なりともよし、せきり、むきのこつけ油にてあげ、その後、丁子のこにんにく すりかけ 志るよき様にして にこめ申候 千葉大学の松子幸子先生の研究資料によると東京国立図書館その他に収蔵されている「料理集」の中にテンプラがあるとの事であった。その「料理集」には寛政九年(一七〇七)「崎水の人白蘆華記」とあった。崎水とは、長崎の事であり次のように記してあった。一、てんふら魚の身、背切にても、おろし身にても、うとんの粉とき、まふして油にて上げだす、又小魚なと丸にてむき、粉つけ、す上げ出す時は セラアト云うあり 文政十三年(一八三〇)江戸の喜多村信節の「嬉遊笑覧」巻十には南蛮・てんぷらを次のように記している。○昔より異風なるものを南蛮と云…○文化のはじめ頃(一八〇四~)深川六軒ばかりに「松がすし」出きて、世上すしの風一変し、それより少し前に、日本橋きわの屋台みせに吉兵衛と云もの、よきてんぷらにして出してより他所にも良きあげものあまたになり、是また一度せり 明治二十六年長崎の歴史家香月薫平先生は、代表作「長崎地名考」物産之部にテンプラテンプラとは唐伝なり。小海老又は魚の肉に製するを良とす。丈唐麻油にて製するべし。此他の製は皆住品にあらず。二、テンプラの語源 長崎市史風俗変の南蛮料理の項に古賀十二郎先生はテンプラの事を詳しく述べられておられる。 それによると 今日までテンプラの語源はしっかり判明していない。語源に近いものとして、ポルトガル語のTemperad(名詞)とTemperado(形容詞)がある。併しTemperadoは転訛してTemperad(名詞)になる。その料理は「野菜などをゆでて其を能く調和結合したる食物を言う。」▲伊万里焼色絵皿 私は、ここで前述の「てんぷら里の志よう」の説明文を思い出し、初期のテンプラには二様のものがあったのではないかと考えた。最後に古賀先生は次のように結論されている。 要するに、テンプラはポルトガル語のTemperoにあたり、我が国のテンプラ料理を意味している。 其の後、私は二十六聖人記念館艦長の結城了悟神父についてテンプラの事をお尋ねしたら、それは「長崎がキリシタンの時代Temporasの時に食べる食事がその語源になったのでしょう」と教えて下さった。 ポルトガル語の辞書を見るとTemporasはキリスト教では四季(春夏秋冬)の始めの木・金・土の三日間は小斎日と言と書いてあった。私は神父さんに日本で言う「精進料理を食べる日」ですねと言ったら笑っておられた。Temporasの日は「牛肉類は食べないで野菜や魚を食べられたのですね」とも言われた。 今はポルトガルでも殆どこの宗教習慣はなくなったそうである。 成るほど、我が国でも葬式の時の精進料理は殆どなくなりましたからね。 念のため、ポルトガル駐日大使アルマンド氏が一九七一年発刊された「南蛮文化渡来紀」付記ポ語と日本語の交流を見たらTempora斎日(複数で)天ぷらの語源(?)とあった。 後記、長崎名物のシッポクにテンプラが用意されていたか調べてみたら、足立正枝翁の「長崎風俗考」にも、足立敬亭「藤屋シッポク献立」にもテンプラは用意されていなかった。 テンプラは長崎の家庭料理だったのでしょうね。第29回 長崎料理ここに始まる。(一) おわり※長崎開港物語は、越中哲也氏よりみろくや通信販売カタログ『味彩』に寄稿されたものです。

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  • 第521号【初夏の陽気に包まれた長崎】

     桜前線がようやく北海道に上陸。一方、長崎はすっかり初夏の装いで、山々は新緑に覆われています。ゴールデンウィークに先駆けて、港では「長崎帆船まつり」が行われ、大勢の人出で賑わいました。青空の下、停泊する帆船の姿はとても優雅。外国からの観光客を乗せた大型客船も連日入港して、港はいつも以上に華やかに。長崎のまちは、一足はやく大型連休に突入したかのような開放感に包まれています。  長崎港は帆船がよく似合います。江戸時代にこの港にやってきた唐船やオランダ船はもちろん帆船でした。そんなことを思いながら足元を見たら、シロツメ草がかわいい花を咲かせていました。シロツメ草はヨーロッパ原産の植物。その昔、人知れずオランダ船に乗り込み大海原を渡って日本へやってきました。  というのも、シロツメ草は、交易品であった医療器具やガラス製品などのワレモノの間に詰められた干し草のひとつだったそうです。その種子がいつしか日本で花を咲かせるようになったといいます。どこかレンゲ草(ゲンゲ)にも似たシロツメ草が、「オランダゲンゲ」とも呼ばれるのは、そんなエピソードがあるからなのですね。  長崎港から中島川沿いを上流に向かって歩いていると、久しく見かけなかったマガモのつがいを発見。さらに新顔のコサギもいます。中島川の生き物たちも、春から新旧入れ替わったようです。  桃渓橋から川沿いを外れ、諏訪神社(長崎市上西山町)へ。参拝者を見守る大クスは、新緑をさやさやと揺らし、長坂(大門前の参道の階段)では、鯉のぼりが気持ちよさげに宙を泳いでいました。諏訪神社の端午の節句にまつわる行事といえば、5月5日「こどもの日」に行われる、「長坂のぼり大会」です。大人もきつい長坂を、子どもたちが一番札をめざして一斉にかけのぼります。その姿はとても微笑ましく、小さな感動も味わえます。  諏訪神社からほど近い長崎歴史文化博物館の広場へ行くと、長崎式だという鯉のぼりが設けられていました。それは、支柱から斜めにかけられた笹の旗竿に鯉のぼりを下げた形で、風向きに合わせて旗竿が自在に動いて鯉がなびくだけでなく、風がなくても鯉がきれいに見えるのだそうです。  ところで、端午の節句の行事食といえば、全国的に柏餅やちまきなどが知られていますが、長崎の場合は、「唐あくちまき」が郷土の味として食べ継がれています。唐あくで風味をつけたもち米を、棒状の木綿の袋に入れ、飴色に煮炊きあげたものです。糸を使って好みの大きさに切り、きなこや砂糖などをまぶしていただきます。唐あくは独特の風味があり、好き嫌いがあるかもしれませんが、クセになるおいしさです。子どもの頃から食べている人にとっては、ちまきといえば、これ。この時期は、地元の和菓子屋さんなどで手に入ります。   いよいよはじまるゴールデンウィーク。たっぷり休める方も、そうでない方も、何かひとつ、この季節ならではの楽しい体験、おいしい味に出会えますように。

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  • 第520号【サクラ、ツバメ、花まつり】

     3月末に開花した長崎のサクラ。1週間後には満開のときを迎えました。いまは、散りはじめた花びらがまちのあちらこちらで宙を舞っています。そんなやさしい春景色のなかで、何だか忙しげにビルの軒先と外を往復していたのがツバメです。巣作りの真っ最中でありました。  くちばしで泥や枯れ草を運んで作るツバメの巣。ツバメは一度作った巣の場所を覚えているそうで、翌年、同じところにもどったとき巣が残っていれば再利用します。その場合は修復するだけなので1〜2日間ほどで完成。新しく作るとなれば1週間ほどかかるそうです。  ところで、お天気に「ツバメが低く飛ぶと雨」ということわざがあります。これはちゃんと根拠のある話で、雨が降る前、湿度が高くなるとツバメの餌となる虫たちの羽が重くなって低いところを飛ぶようになり、それをねらってツバメも飛行するからだそうです。  さて、長崎のサクラが満開のときを迎えたのは先週8日土曜日。この日は、お釈迦さまの生誕を祝う「花まつり」(灌仏会)の日でもありました。「花まつり」は、全国各地で古くから行われている仏教行事です。誕生仏(釈迦)を祀った花御堂を設け、参拝者は竹のひしゃくで甘茶を仏像の頭上からそそぎかけて生誕を祝います。  いまから約2500年前の4月8日、北インドのルンビニーの花園でお生まれになったお釈迦さま。その生誕を祝う行事が、中国を経由して日本へ伝わったのは7世紀頃だそうです。ご存知の方も多いと思いますが、誕生仏の像が右手で天を指し、左手で地を指しているのは「天上天下唯我独尊」と宣言されたときのお姿をあらわしたもの。像に甘茶をそそぐのは、お生まれになったとき、甘露が産湯代わりに降り注ぎ、花々が芳しい香りを漂わせたという故事にちなんだものです。  シーボルトのお抱え絵師として知られる川原慶賀は、江戸時代の年中行事の様子をいろいろ描き残していますが、そのなかのひとつに「花まつり」もあります。屋根に花が飾られた4本柱の花御堂や、参拝者が水盤の中央に立つ誕生仏に甘茶を注ぐ様子など、いまとまったく変わらない光景です。  現在、長崎市内で行われている「花まつり」(主催:長崎釈尊鑽仰会・長崎市仏教連合会)では、毎年、花御堂を市内各所の商店街など全21カ所に設置し、参拝者に甘茶などを振舞います。こんなふうに各商店街と協力して行う「花まつり」は全国的にも珍しいケースだとか。お買い物がてら気軽に参拝の列に並ぶ人々の様子に、お釈迦さまが身近な存在であることが伝わってきます。  「花まつり」の法要には、毎年、各宗派のお寺の住職が集いますが、そこには、カトリック長崎大司教の姿もあります。今回も「平和な社会を築くためにみなさまと一緒に考えたい」などと記されたローマ法王庁からのメッセージが読み上げられました。   お釈迦さまの生誕を祝うために集った長崎の宗教指導者たち。宗教・宗派を超えて互いを尊重し、平和と幸福を祈願する姿を、長崎から発信しています。

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  • 第28回 出島オランダ屋敷の復原と西洋料理

    一、出島オランダ屋敷復原の歩み▲出島 カピタン部屋2階大広間 阿蘭陀冬至料理再現大正11年10月、国は史跡名勝天然記念物保存法により長崎県下では平戸オランダ商館跡、出島オランダ商館跡、シーボルト宅跡、高島秋帆旧宅の4件を史跡地に指定している。この当時の模様を長崎県は昭和3年、次のように報告している。 この地(出島)は、もと扇型の小島であったが明治19年以来・周囲の大修築により現在の出島の地はまったく陸地となり、唯その名を存するのみで公有地は出島周辺とその内にある県市道のみで他は全て民有地である。 ただ出島1番地より26番地の間は、公益上必要止むを得ざる場合の他、現状の変更は之を許可せざる方針である。指定史跡地において旧の偲びを止めるものとしては、史跡地内を縦貫せる二筋の道および地番石標のみが残っている。二、出島復原の第一歩 昭和26年8月20日、長崎市教育委員会に国の文化財保護調査委員会より「出島問題について指示したい事があるので至急東京に出て来て下さい」との連絡があった。 長崎市教育委員会では早速、田川務市長と相談し市教育委員会より当時文化財担当を兼ねておられた築瀬義一社会教育課長(後の市会議員)を文化財保護委員会総務部長富士川金也氏の所に派遣している。▲出島 カピタン部屋外観 先ず文化財教育委員会は「どこからどこまでが昔の出島であるか確認して下さい」と言うことであったと、記録が残っている。 然し出島全体が私有地であってみれば、発掘調査がすぐに出来るわけでないので「先ず旧出島の一部を公有地として買いあげ、其処を拠点として出島復興の第一歩とします」と言うことになったと言う。 文化財保護委員会より間もなく記念物課史跡地担当の黒板昌夫先生がおみえになった。黒板先生のお父様は波佐見町出身で有名な歴史学者黒板勝巳先生であり、私達には本当によく指導して戴いた思い出がある。 次に出島に関する基礎資料の収集を黒板先生は指導して下さった。 旧出島内の土地購入については、幸いなことに出島の中心地の一部にあたる処に旧川南造船所所有の石倉と其の隣接地300坪があり、之を購入する事が決定した。価格は坪1万円であったが原爆により傷んでいるので其の整備修復費を加算すると900万円はかかるとの事であった。この整備事業については国も其の大分を援助して下さると言うことになり、結果としては450万円の補助を国から戴いた。復興事業の技官としては後に工学博士となられた山口光臣先生が赴任してこられた。これによって出島復興の第一歩が踏み出されたのである。三、出島整備の完成 其の後、出島全域の完全公有化を達成したのは確か4年前のことであったと思うので、その間約半世紀と言う事になる。其の間、長崎新聞社の皆様、朝永、海江田、両病院ならびに日野様はじめ出島地区居住の皆様方に大変お世話になった事が今更ながら思い出される。 昭和57年10月本島市長の時、本格出島の基礎研究をせよと言うことになり「出島史跡整備審議委員会」が発足。その成果として昭和62年3月長崎市より「出島一その景観と変遷」の大冊を発刊している。 その本の発刊によってオランダ関係の原本資料をはじめ、国内外の出島関係資料を収集することができたので、之に基づいての発掘調査が進められ、現在の出島遺構復原の完成となっている。四、出島内部の展示 出島遺構の復原と共にその内部に何を展示するかという事も考えられた。 私には出島内料理の展示を考えるようにと言われた。今回復元された建物は、寛政10年3月6日(1798)夜の出島大火後再建された出島の建物を原型として復元されているので、展示資料もそれにあわせて1800年初期の出島料理にして戴き、その料理模型はカピタン部屋の2階とし、有名なオランダ正月の料理を考えてくれないかと言われた。 当時の資料としては、1800年頃編纂された「長崎名勝図絵」。次いで私が昭和57年発刊した「長崎西洋料理」(第一法規出版)内に編集しておいた浦里豊氏蔵の「異国食用図」、長崎版画の各種、川原慶賀筆「唐蘭館絵巻」、石崎融思筆「蘭館図」等があった。オランダ正月の料理には次のようなものがある。○ 子豚。型のごとくにして内臓を取り去る。ボートルを引き(註:ボートルとはバター)。直火にてあぶる。口に橙をくわえさせる。尾には帛(きれ)をつけて飾る。背かに金箔をふる。この料理オランダ語にてスペイトと言う。○ パステイ。内に鶏の切身、エンス(燕巣)の類、椎茸、木茸、ネギ、胡椒、肉ずうく、にて合わせ蒸す。ボートルに卵を潰し入れて味を加減す。次に麦粉とボートルを加味して焼く、食用となす。○ ラーグ 鶏たたき丸めて椎茸、ねぎ、すましあんばい。○ スペーナン 菜みじんにたたく、ボートルにてサット揚て皿に盛り、玉子・四ツわりにして盛り合わせ。○ カステイラブロト 花かすていら、紙焼のかすていら、紅毛紙を箱に折、かすていらの種を焼鍋の中にならべ焼たるなり。○ パン オランダ本国は米なし。故に小麦を以て常食とす。▲出島を一望 出島にはカピタン部屋の右裏1棟に「阿蘭陀台所」がありオランダ料理人にまじって日本人料理人3人が勤めていた。 オランダ商館の医官ツンベリは其の日本人料理人について次のように記している。 日本人料理人は出島にいます。 オランダ風の料理を上手に作るのに慣れていた。この出島の日本人料理はオランダ人が江戸参府の時には必ず3人のうち2人が江戸までテーブルと椅子を持参し、同行している。そして2人の料理人の1人は必ず1日前に出発し、オランダ人が宿所につく前に食事を用意していたと記している。 出島では、日本産の牛は食べる事を禁じられていたので、毎年春にバタビヤより入港してくるオランダ船には食用となる牛が積まれていた。司馬江漢も天明8年(1788)長崎に来遊したとき、此の出島の牛を見て、其の模様を「西遊日記」に綴っている。 今回復原された出島オランダ屋敷は全国的に評判となり、毎日参観される人が多く来られ、出島内にはボランティアの案内者も多数おられるとの事でした。第28回 出島オランダ屋敷の復原と西洋料理 おわり※長崎開港物語は、越中哲也氏よりみろくや通信販売カタログ『味彩』に寄稿されたものです。

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  • 第519号【長崎から春便り】

     めきめき春めくこの時期は、五島産や島原産など新ものが出回るアオサがおいしい。温めたダシ汁にアオサを入れるとふわりと潮の香が広がって、思わず笑みがこぼれます。日本各地で採れるアオサ。いま、あちこちの食卓に旬を届けているのでしょう。  温かな日が続いた3月中旬。眼鏡橋がかかる中島川沿いを歩けば、新顔の若いアオサギの姿がありました。後頭部から生えている黒く細長い羽毛やブルーグレーの翼がツヤツヤしています。そんなアオサギの脇を小さな黒い鳥がスーッと横切りました。ツバメです。今年の初見で、3月16日のこと。前日にはウグイスの初鳴きを耳にしたばかり。東北あたりではツバメ、ウグイスは4月に入ってからでしょうか。こうした鳥の初見、初鳴きは、季節の移り変わりを知る目安になります。地方気象台ホームページの「生物季節観測」などで確認することができます。  中島川沿いから寺町通りへ。石垣の隅にスミレが咲いていました。スミレの花言葉は「小さな幸せ、誠実、謙虚」。小さく可憐な花なので、弱々しく思われがちですが、実は丈夫でたくましい野草。女の子に「スミレ」と名付ける親心がわかります。スミレは紫、白、黄色、ピンクなどの花色があり、種類も多いので図鑑で名前を調べる楽しみがあります。スミレのそばでは、セイヨウタンポポや西日本で見られるシロバナタンポポも花盛りでした。  寺町通りの一角にある延命寺へ。ここは、1616年の建立時から長崎奉行所との関わりが深かったお寺です。その山門は、長崎奉行所立山役所の門が移築されており、現在、門扉のみ当時のものが残っています。参拝をすませ境内を散策すると、杏(あんず)の花が咲いていました。杏は、梅、桜と同じバラ科サクラ属の落葉高木。花は梅にも似て、実は梅よりもちょっと大きい。その種子は漢方で杏仁(きょうにん)と呼ばれ、咳止めに使われます。また、中国料理のデザートで知られる杏仁豆腐の原料でもあります。  家々の庭先ではハクモクレンも開花しています。同じモクレン属のコブシにも似ていますが、花びらはやや大きく厚め。上を向いて咲くのが特長です。また、長崎は、日本一のビワの生産地だけあってか、庭木としてビワを植えているお宅が多いのですが、この時期から、実を害虫から守るために袋かけをした木を見かけるようになります。  ジューシーでやさしい甘さのビワの果実は咳止めに効果があり、ビタミンAとCの相乗効果でお肌のトラブルにもいいといわれます。葉や種子もさまざまな薬効があり、古くから民間療法に用いられています。   路地ビワは春の間においしく育ち、食べ頃を迎えるのは梅雨前。待ち遠しいですが、まずは春を満喫するのが先。数日中には、長崎の桜が開花しそうです。

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  • 第518号【往時がよみがえる出島の表門橋】

     「あれ?出島って扇型の島じゃなかったの?」出島を初めて訪れた人から、ときおり聞かれる言葉です。ええ、たしかに鎖国時代は、小さな橋一本で対岸とつながった扇型の小さな人工島でした。現在の出島は、中島川に面した北側(扇型の内側の弧)以外の三方が明治以降に埋め立てられ、「島」の姿は見ることはできません。  出島の正式名称は「出島和蘭商館跡」(でじまおらんだしょうかんあと)。大正11年にシーボルト宅跡(長崎市鳴滝)や高島秋帆旧宅(長崎市東小島町)とともに国指定史跡になりました。「江戸時代、西洋に開かれた唯一の窓口」だった出島の歴史的な意義ははかりしれず、その特異な存在感で、いまも国内外からの観光客が絶えることはありません。  そんな出島に先月末、約130年ぶりに橋がかかりました。シンプル&モダンな美しい橋です。名称は「出島表門橋」。文字通り、出島の表門に通じる橋で、全長38.5メートル、幅4.4メートル。女性の足だと100歩くらいで渡れる長さでしょうか。実は昔、ほぼ同じ位置に架かっていた橋は、全長5メートルに満たない石橋だったとか。中島川の変流工事にともない撤去され、出島の北側も大きく削られたために川幅が大きく変わりました。また、出島が国の史跡ということで工事にもしばりがあり、そのため復元ではなく新たな橋のデザインになったそうです。  新しく架けられた「表門橋」。江戸時代にそこにあった橋は、「出島橋」と呼ばれていました。ちなみに、現在、同じ名称の橋がすぐそばの出島東側に架かっています。鉄製の道路橋で、1890年(明治23)の架設当初は、現在地よりも下流の河口近くに「新川口橋」の名称で設けられました。20年後、すでに撤去された旧出島橋に代わるものとして、1910年(明治43)に現在の場所に移設され、名称も「出島橋」となったようです。  「出島橋」は、現役の鉄製道路橋としては日本最古のものになるとか。鉄は当時アメリカから輸入したもの。水色に塗られた細い鉄骨を組み合わせた姿は、とてもシンプルで丈夫そうな印象です。明治の人たちのセンスの良さや意気込みが感じられます。「表門橋」と並んだことで、上流の石橋群とはまた違った橋の名所として、さらに注目されるようになるかもしれません。  さて、大きなクレーンで「表門橋」が架けられたとき、工事を見守った大勢の市民から拍手がわいたとか。江戸時代、長崎奉行の管理下にあった出島は、オランダ通詞や料理人など限られた日本人しか出入りできませんでした。長い時を経て架けなおされた橋は、誰でも渡ることができます。開通は周辺の整備を終えてからで、今年11月24日を予定しているそうです。「島」の出島にはもどれなくても、この「橋」を渡ることで、当時の感覚や人々の気持ちに近付けるような気がして、期待感が高まります。   余談ですが、出島近くの道路(NIB前付近)では、江戸時代の出島の絵図をモチーフにしたマンホールの蓋を複数見かけます。その絵図は、出島の商館医として1690年から1692年に来日したケンペルが著した「日本誌」に記載されたもの。対岸とつながる橋も略図ながらちゃんと描かれています。探してみませんか。

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  • 第27回 出島・カピタン ティチングの記録より(一)

    ▲山下南風版画 オランダ人酒宴図 はじめに出島・カピタン ティチング(Isaac Titsingh)について記しておかねばならない。 彼は1779年8月15日初めて出島オランダ商館のカピタンとして在任。翌年2月19日江戸参府のため出島を出発。4月5日将軍家治に謁見。5月27日長崎帰着。11月バタビヤに帰っている。そして、翌1781年再び出島カピタンを任命され8月2日出島に到着。1782年には再び江戸参府に出発。4月13日再び将軍家治に謁見している。この時は出島カピタンの仕事が多忙で彼が再びバタビヤに向けて出発できたのは1783年11月6日であった。ところがオランダ政府は三度彼を出島カピタンに任命したので翌1784年6月バタビヤを出発。8月18日出島に上陸している。 但し、オランダ政府は「この仕事を最後にオランダ本国に帰ってきてよろしい」との許可を与えていた。ティチングが無事に日本での最後の仕事を済ませ再びバタビヤに帰着したのは1785年の1月2日であった。そして彼がようやくイギリス船に乗り、ロンドンに帰着できたのは1796年12月であったと記してある。 以上ティチングの伝記功績についての論考については沼田次郎先生翻訳の「ティチング日本風俗図誌・解説」(新異国叢書)を読まれるとよい。一、ティチングの見た日本▲赤絵皿(ベトナム製) ティチングは帰国後、多くの資料を持ち帰っていたので是等の資料を活用し各方面にその研究を発表した事によって、次第に東洋学研究者として名声が上がると共に彼の東洋関係のコレクションも有名だったと沼田先生は記し、更に其の彼の多数の編本がロンドンの大英博物館に所蔵されていると記しておられる。 今回はティチングの代表作とされる前記日本風俗図誌を中心にして述べてみることにした。○最初に初期の豊臣秀吉の話が出てくる。  その当時、秀吉は非常に貧乏で婚礼の席で花嫁と祝言の酒を酌むのに必要な、ごくありふれたシガラク焼きという陶器の酒入れ(瓶子)すら持っていなかった。○次に秀吉と家康との関係にふれて次の話を記している。  家康の第八子ヒデユキ(Fide-youki)の夫は勇敢な武将であったので、太閤はは非常に彼を恐れていた。そこで秀吉はお茶の中に毒を入れて彼を毒殺しようとしたが、他の者の主張に従いつつmandjouと言う小さな菓子の中に毒を入れて殺してしまった。二、長崎・深堀騒動の事ティチングが集録した逸話の中に元禄13年(1700)長崎で起こった深堀義士の話がある。事件は、同年12月20日長崎町年寄高木彦右衛門家では産まれた子供の名前をもらうため子供を駕篭にのせ宮参りに行く途中。(雨がひどく降っていたので道はぬかるみであった)駕篭のわきを急いで通り抜けようとした鍋島深堀藩の武士深堀勘左衛門は足をすべらせ、其の駕篭に泥を跳ね上げてしまった。これが事件の発端となっている。深堀武士は多いに謝ったが高木の家来達は武士達を大いにたたき、更にOuya-goto-matche(浦五島町)にあった深堀屋敷にまで押しかけて散々に深堀武士達を馬鹿にした。遂に深堀の武士達は腹をたて、高木の家に押しかけ高木彦衛門の首を戦利品と持ち帰り、後本蓮寺に胴と共に埋めた。この戦いの時、高木家の白い番犬が主人を守ろうと駆け出し、何人もの敵を傷つけ、そのため殺されたが、高木の墓には其の白い犬が埋められた。  ティチングは更に続けて、次の話を加えている。  私の日本滞在中にその高木彦右衛門を殺した連中が血の滴る首の髪を掴んで提げて通るのを見たという婦人がまだ長崎に住んでいた。三、九代将軍徳川家重について○八代将軍吉宗の長子家重は過度の女色と飲酒で白痴同様になった。世人は家重をAnpontan(アンポン丹)と呼んだ。アンポン丹を服用すると暫く知覚を失う。   家重は対馬の藩主宗対馬に「中国竜門の滝でとれた鯉を献上するよう清国に使をだせ」と命じている。其の鯉を焼いて、其の灰を水にとかし子供を洗うと疱瘡(ほうそう)のにかかった時、大変効き目があり痛みもなく、疱瘡の跡も残らないと言う。将軍は朝鮮国経由で清国竜門で得た鯉で作った焼灰を水でとき二人の子供を春夏秋冬それぞれ洗わせた。○将軍家重は酒を飲み過ぎて健康は日々衰え、もはや言葉も出ず将軍はIsoumo-no-kami(大岡忠光)を通してのみ命令を出し、間もなく尿器官が弱って自分の部屋に閉じ込もらねばならなくなった。   ティチングは以上の将軍家重の事のみでなく歴代将軍の裏面史も多く入手していた事が彼の著書を読めば読むほど其の思いを深くする。四、ティチングの史料収集▲山下南風版画 出島図 ティチングは前述のように三回も日本に来航し、2回も江戸に参府。将軍謁見は2回もしている。そして、交友関係には、当時の長崎奉行を始め、薩摩藩主島津重豪・福地山藩主朽木昌綱、更に長崎ではオランダ通詞吉雄幸作を始め長崎の知識人、江戸では蘭学者の中川淳庵・桂川甫周等とも交友があった。それは彼の人柄と外交手腕にあったといわれている。そして、当時ティチングの名は日本人の間に広く知られ、その人物は高く評価されていた。○ティチング自身、大いに日本趣味があり次第に日本研究に深く入り込んでいったのであろうが、彼の此の行動は当時の日本人にオランダ趣味を待たせ、オランダ研究、ひいては我が国の洋学研究を進めさせていると、ティチング研究の第一者であられる沼田次郎先生は述べておられる。 次項では、ティチングの目から見た、日本人の祭事や儀式に関する食文化を中心に筆を進めてみたいと考えている。 例えば、日本人は死者の葬儀の時にはできるだけ清潔に調理する。そして、小さな善にお椀の御飯と汁と三種の食物の入った椀が用意される。(以下次号)第27回 出島・カピタン ティチングの記録より(一) おわり※長崎開港物語は、越中哲也氏よりみろくや通信販売カタログ『味彩』に寄稿されたものです。

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  • 第517号【早春の小鳥たち】

     散歩中、小鳥を見かけるとつい目で追ってしまう。聞きなれないさえずりが聞こえると、思わず立ち止まりその姿を探してしまう…。そんな方はいませんか。名前は知らなくても、小鳥ってちょっと気になる存在です。小鳥たちの魅力は、かわいらしいその姿だけではありません。寒い日も暑い日も、したたかにシンプルに生きている、そんな姿がとてもたくましい。そして、何より、身ひとつでビュンと飛べるところが、かっこいい。そんなわけで、早春のこの時期、長崎のまちなかで見かける小鳥をご紹介します。  スズメ以外の小鳥で、最近よく見かけるのはナンキンハゼの白い実やウメの花をついばんでいるメジロです。全国各地に棲息しているメジロは、一年中見かける留鳥。ご存知のように、オリーブ色の羽毛に目の周りの白が映えて、とてもきれい。メジロは群れて移動する習性があり、お互いの身体をくっつけあって枝にとまることがあるそう。その様子から、「めじろ押し」という言葉が生まれたとのことですが、メジロたちの「めじろ押し」は、まだ見たことがありません。  河原をトコトコ歩いては、長めの尾を上下に振ったりして、落ち着きがないのが、ハクセキレイとキセキレイです。遊んでいるのか、それとも縄張りから追い出しているのか、ハクセキレイがキセキレイのあとを追う様子を見かけました。2羽とも、波を描くように飛ぶのが面白い。「チュチン、チュチン」という鳴き声もよく似ています。単体で行動していますが、それぞれ微妙に羽毛の色が違うタイプを近場で見かけます。図鑑で調べたら、それは雄雌の違い。もしかしたら、つがいかもしれません。  キセキレイの頭上をヒューとまっすぐに飛び、石橋の下をくぐって河原に留まったのは、カワセミです。コバルト色の美しい羽を持ち、お腹あたりはオレンジ色をしています。小さな体ながら、くちばしがけっこう長い。これで小魚をつかまえるのです。じっと、川面を見つめる姿が印象的でした。  こちらの視線に気付かないのか、生垣の下をのんきに歩いていたのは、ジョウビタキ。秋頃に大陸方面からやってくる渡り鳥です。雄と雌は、羽毛の色合いがはっきり違いますが、どちらも翼に白い斑があり、尾羽根の外側はだいだい色をしています。やさしいベージュグレーの羽毛を持つ雌は、ひときわ愛らしい。羽毛をふくらませた姿はヒヨコみたいです。   中島川の上流に位置する鳴滝へ。シーボルトの鳴滝塾があった界隈は、山林に囲まれた静かな住宅街で、さまざまな野鳥の鳴き声が聞こえてきますが、その姿は枝や葉に隠れてなかなか見ることができません。そんな中、カサコソと落ち葉の上を歩いていたのは、シロハラです。ムクドリほどの大きさで、ツグミの仲間。図鑑には、「暗い林を好む」「地上で採餌」とあり、見かけた状況から、納得。大陸からの渡り鳥で、日本で越冬します。そして、春は旅立ちの季節。鳴滝のシロハラも、もうすぐ渡りのときと知って準備をしていたのかもしれません。

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  • 第516号【めくるめく如月の暦】

     旧暦の新年を祝う「長崎ランタンフェスティバル」は今週の土曜日(2/11)まで。この期間中、とくに「立春」を過ぎてからは日差しがどんどん春めいてきました。その昔、一年のはじまりと考えられていた「立春」は、二十四節気のスタート。これから「雨水」「啓蟄」「春分」と時候を刻んでいきます。  暦に記される二十四節気は、太陽が1年でひとまわりする道(黄道)を24等分し、約15日ごとの時候を2文字の漢字で表現したものです。そのいちばん最後(24番目)は「大寒」で、今年は1月20日でした。  二十四節気をさらに分けて、季節の変化をよりこまやかによみとる目安となっているのが七十二候です。古代中国で生まれたものですが、日本に渡った後、江戸時代に日本の気候に合わせて改められています。七十二候も「立春」の日にはじまり、第1候は「東風解凍」(はるかぜこおりをとく)。それから約5日ごとに第2候「黄鶯睍睆」(うぐいすなく)、第3候「魚上氷」(うおこおりをいずる)と季節をめぐり第72候「鶏始乳(にわとりはじめてとやにつく)」まで続きます。  二十四節気や、七十二候でもないけれど、暦のうえでさらに季節の節目を教えてくれるのが「雑節」です。「立春」の前日の「節分」や、梅雨入りの目安となる「入梅」、新茶を摘む時期とされる「八十八夜」、台風など自然災害への備えを促す「二百十日」などがそれです。畑を耕したり、海や川で漁をするなど自然を相手に暮らした人々が生活に役立てるためにもうけた「雑節」は、現代の暮らしにもおおいに役立てられています。  2月3日の「節分」には、あちらこちらの社寺で「鬼火焚き」や「豆まき」が行われました。「鬼火焚き」は地域によっては、「左義長」、「どんど焼き」と呼ばれています。この日、お正月の注連縄や去年のお札などをもって近所の社寺へ出かけた方も多いことでしょう。長崎市の諏訪神社でも恒例の「鬼火焚き」と「豆まき」が行われていました。  消防車がそばで待機しての「鬼火焚き」。無病息災、家内安全を願って、じっと炎にあたる人々。炎のゆらぎやパチパチと燃える音が心地よく、自然に無口になります。手をかざせば身体もじんわりと温まり、気分もほっこり。屋外で大きな炎をみる機会があまりない現代人にとって、「鬼火焚き」は貴重なひとときです。人間が洞窟に暮らした時代から変わらない炎がくれるやすらぎのようなものをいまに伝えている気がします。  そして節分の日には、伝統の行事食をいただきます。ここ数年、関西発祥の恵方巻きが全国的に知られていますが、けんちん汁、こんにゃく料理、いわし料理を食べる地域もあるようです。長崎では、紅大根の酢の物、カナガシラの煮付けなどが知られています。   季節のさまざまな節目や行事が続く2月。来週はバレンタインデーも控えています。みろく屋の「皿うどんチョコレート」は、サクサクの皿うどん細麺と上質チョコレートのおいしいコラボ。もらった人は「へぇー」なんて言いながら、ほおばれば、きっとにっこり。大切な人、お世話になった方へ、贈ってみませんか?

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  • 第26回 平戸にみる西洋料理(其の二)

    ▲安南手色絵皿前号で解説したように平戸のポルトガル船への開港は1550年であり、長崎の開港は1571年であるので、当然・長崎県下で最初のヨーロッパ風食事が開始されたのは平戸の町である。 今回は前回に引続き、1613年6月11日平戸港に到着。平戸藩主松浦隆信(1603~1637)に面会。8月6日にはイギリス国王の書簡をたずさえて駿府に家康を、更に江戸まで足を伸ばして将軍家光に面会したジョン・セーリス「日本渡航記」(新異国羨書)を中心に西洋料理関係の話を進めてきた。一、セーリス(J.Saris)の平戸出発 1613年8月、平戸公はセーリスのために大阪まで船を用意している。その船は片側に25本にカイがあり、乗り組みの船員は60人であった。 使節の一行はセーリス以下、イギリス人10名、通詞の日本人1名、W・アダムスとその家来(日本人)2名、警護の武士1名とその家来3名、槍持ち1名であった。 8月6日、出帆のとき祝砲13発をもって送られた。平戸より2日間漕ぎ続け博多の港につき上陸している。博多の町では人々が騒ぎたて自分達の後ろよりついてきた。日記には「之にかまわず行きました」と記してある 下関を過ぎ、8月27日大阪に着いている。途中何も異状もなかったと記してあり。船中の給与については、ビールとビスケット。1食は豚肉・1食は米と油と記してある。 次に当時の日本人の食に関する記事が収録してある。▲中国色絵壷 日本人は全般に米を食べ、白い米が最高である。我等のパンの代わりである。次に塩漬けの魚、酢漬けの菜類。豆類。 塩漬けまたは酢漬けの大根と其の他の根。野禽・家鴨・真鴨・鵞鳥・雉・しぎ・うずら・其の他多くの種類がある。彼等は其れ等に粉をかけて塩漬けにする。(粉は糠(ぬか)のことである) 鶏は多い。鹿も同様であり赤いのと淡黄色の両方ある。野猪・野兎・山羊・牝牛などもある。チーズはあるがバターはない。牛乳は飲まない。 註:チーズは豆腐を間違えたのだろう。 9月8日、セーリスは駿河につき家康に国王の書と使節よりの贈物を呈している、その贈物は、立派な繻子の布団・絹の穀物・飾帯・毛織布2布・ソユトラ産蘆荅・オランダ製手布3枚。二、江戸におけるセーリス一行 9月14日、一行は江戸に着いた。9月17日、将軍家光に面接。 9月21日、浦賀港の調査のため出発・浦賀より再び駿河に向かう。9月29日・駿河にはスペイン使節一行も来ていた。スペインの使節は「甘いぶどう酒5壷」と「緞子」を献上している。 10月16日、一行は京都出発、21日正后ごろ大阪に着いた。10月24日、大阪まで私達を送ってくれた平戸藩の船が大阪で持っていたので早速その船に乗り込んだ。 11月6日、朝10時頃・平戸に着いた。平戸では早速私達の船(イギリスのボート)に乗り上陸しイギリス商館に向かうとき祝砲5発があげられた。三、セーリス江戸参府・留守中の江戸 (平戸イギリス商館員リチャード・コックス日記より) 9月13日、平戸の老法印が病気と聞いたので、私は通訳ミグエルに「あまいぶどう酒の大瓶1個と砂糖漬け及び砂糖パン2箱を見舞として贈った。」 平戸ではこの当時、一般には、まだ「甘いパン」は造られることがなかったので、珍しいものとして「甘いパン」がイギリス商館内では作られていたことが知られる。 10月10日、7日以来長崎奉行が平戸に来た。この夜、長崎の役員の子息2人が来た。平戸公はこの時、イギリス商館に来られたので皆と一緒に宴席をもった。平戸公は此の時、「葱と蕪菁とを入れて煮たイギリス牛肉と豚肉を食べたいので明日もってきてくれ」との事であった。 10月11日平戸公に早速、注文の牛肉・豚肉それにぶどう酒1本と白パン6個を持たせた。公より孫の若殿、弟の松浦信実、親類の松浦主馬を招き一緒に之を賞味されたとの報告があった。▲オランダ人形(陶器) 10月13日、平戸公より使いが来てぶどう酒1本を持ってオランダ商館に来るようにとの事であった。そこには大変結構な中食が用意されていた。肉は日本風とオランダ風の両方で美味しく調味されていた。松浦公は彼の長男、若き兄弟と一つのテーブルにつかれ、他のテーブルには公の弟(信実)、それに私と松浦家の家老が席についた。オランダ・カピタン自身は席につかないでテーブルの肉を切って接待した。 10月30日、平戸公の家来より明日、城内で能(のう)があるので、食料品を献上するようにとの連絡あり、スペイン産のぶどう酒2本・焼鶏・焼豚肉・軽パン及び料理の材料3箱をとどけた。 以上のように平戸公は様式料理を非常に好まれたことが良く理解されるし、平戸には西洋料理を調理できた日本人の料理人がいたことも知られている。第26回 平戸にみる西洋料理(其の二) おわり※長崎開港物語は、越中哲也氏よりみろくや通信販売カタログ『味彩』に寄稿されたものです。

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  • 第515号【中国文化と長崎の「よりより」な関係】

     長崎ではおなじみの中華菓子「よりより」。はじめてその名を聞く人は、「???」ですが、そういうときは、「小麦粉で作った生地を、ぐるぐると縒って、油で揚げたものよ…」なんて説明するより、「ほーら、これよ」と差し出したほうが早い。見た目通りの名称に「なるほどね」と笑顔がこぼれます。  きつね色に揚げられた「よりより」は、香ばしく、小麦粉の旨味がしておいしい。噛むと「カキン」と頭に響くほど固いのですが、近年、サクサクと心地よく噛めるタイプも出ていて、固いタイプとともに人気のようです。「よりより」は、長崎のお土産品の定番のひとつで、パッケージには中国語の名称「麻花兒」と書かれたものも見かけます。  さて、中国といえば、旧正月(春節)を祝う「長崎ランタンフェスティバル」が、もうすぐはじまります。開催期間は、1月28日(土)から2月11日(土)までの15日間。これは、旧暦の元旦(春節)から1月15日(元宵節)にあたります。長崎市中心部はすでに中国ランタンの装飾がほどこされイベント開催の気分が高まっているところです。  国内外からのおよそ百万人の来場者で賑わうようになった「長崎ランタンフェスティバル」。人気の理由のひとつは、まず圧巻ともいうべき1万5千個にも及ぶ中国ランタン装飾でしょうか。極彩色の灯りが醸す雰囲気は、日本でも、中国でもない、中国文化と融合した長崎ならではの幻想的な世界。凍てつく季節のなかにあっても、長崎のまちを不思議なぬくもりで包みます。  長崎市中心部7カ所に設けられた会場(新地中華街会場、中央公園会場、唐人屋敷会場、孔子廟会場など)では、中国獅子舞、中国雑技、龍踊り、二胡演奏など、中国ゆかりの催しが連日行われます。期間中の土・日には、華やかな衣装に身を包んだ皇帝パレード、媽祖行列が行われます。また、昨年もいち押しの催しとして紹介しましたが、今年も孔子廟会場では「中国変面ショー」が毎日行われます。一瞬で仮面が変わる特殊な技は見応えたっぷりです。  新地中華街会場では、干支の酉年にちなんだ高さ10メートルもある巨大オブジェが設置されます。眼鏡橋がかかる中島川界隈では黄色のランタン、新地中華街そばを流れる銅座川では桃色のランタンが出迎えてくれます。頭上にゆれるランタンの灯りを見上げて歩く時、その向こうの夜空も仰いでみましょう。長崎ランタンフェスティバルは、ちょうど新月から満月になる期間と重なるので、月が次第に満ちていく様子も楽しめます。   「長崎ランタンフェスティバル」に繰り出せば、店頭で「よりより」を見かけることもあるはず。2本の生地がひとつに縒られ、螺旋を描くその姿は、はからずも普遍的。それは、中国文化と長崎の関係のようにも思えるのでした。

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  • 第514号【良い年になりますように、社寺巡り】

     年末年始、いかがお過ごしでしたか。九州地方の三が日は天候に恵まれ、和やかな新年の幕開けとなりました。  年を越した場所は、長崎市寺町にある唐寺・興福寺です。除夜の鐘が鳴り響くなか山門をくぐると、境内も本殿も新年を迎える準備が整えられ、すがすがしい空気が漂っていました。1620年(元和6)に創建された興福寺は、日本最古の唐寺。朱色の建物や仏像の姿に、のどかでおおらかな大陸文化の影響が感じられます。  その本殿で、去年今年をまたぐ深夜の数十分間、箏と尺八による演奏が行われました。あたりに染み入るように響く日本の伝統の音色。新年を寿ぐその音色が唐寺の空気と混じり合うとき、おそらく長崎でしか味わえない豊かな時間が生み出されているようでありました。新春の定番曲「春の海」も奏でられ、初詣に訪れた大勢の人々が演奏に聴き入っていました。  興福寺での年越しの演奏会は、長崎在住の箏・尺八の奏者である竹山直樹氏とそのお弟子さんらによって数年前から行われているそうです。「年の初めに、日本人の感性が育んだ伝統の音色をあらためて感じてほしい」という竹山氏。異文化に美しく馴染む日本の音色の奥深さを感じた年の初めでありました。  元旦の午前零時台。興福寺での参拝をすませ、諏訪神社(長崎市上西山町)近くを通りがかると、初詣客のために深夜運行をしている路面電車から、大勢の人が降りてきました。出店で賑わう参道は早くも人々で埋め尽くされ、長崎県内でもっとも初詣客が多いといわれる神社の変わらぬ人気ぶりを目の当たりにしたのでありました。  初詣を終えても、新年を迎えたばかりの一月は折にふれ社寺に参拝したくなります。諏訪神社近くにある松森神社を訪れると、境内に植えられたロウバイが満開を迎え、あたりに甘くさわやかな香りを漂わせていました。学問の神様、菅原道真公を祀る松森神社は、この時期とくに受験を控えた学生たちの姿が目立ちます。拝殿横に植えられた梅を見ると、大半のつぼみが膨らんで開花も近いようでありました。  毎年、元日の頃に開花することで「元日桜」の呼び名で親しまれている西山神社(長崎市西山町)の寒桜。足を運ぶと五分咲きといったところ。これから満開を迎え、一月いっぱい楽しめるとのことでした。西山神社は1717年(享保2)、長崎聖堂の学頭で天文学者であった盧草拙(ろ そうせつ)が、妙見社を建てたことにはじまります。  妙見社は北辰(北極星)を信仰するもの。西山神社の鳥居の額束(がくづか)はちょっとめずらしい丸型をしていますが、これは北極星を現したものといわれています。江戸時代中期の長崎で活躍した盧草拙はたいへん有能な人物だったようで、書物改めなど唐船との貿易に関わる務めのほか、長崎奉行所にも勤務、さらに天文学者として江戸に招かれたこともあります。   学者になるほど星好きだった盧草拙は、ちょっと気になる長崎人のひとり。彼だったら、良い年になりますようにと、夜空の星を見上げ願ったに違いありません。

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  • 第25回 平戸にみる西洋料理(其の一)

    平戸の領主は松浦氏である。平戸の開港は長崎の開港より古く、ポルトガル船の初めての入港も長崎開港より20年も前の1550年であった。そしてこの年、フランシスコ・ザビエルも平戸に到着しキリシタンの布教を開始している。そして当然、そこにはポルトガル風の料理が普及していた。当時の平戸の食の事情について、1560年平戸地方にキリシタンを布教していたフェルナンデス神父は次のような書簡をローマに報告している。▲中国染付蓋物この町(平戸)にはポルトガルと同じ食糧があります・・・・・・日本の人達は何でも平戸の町では食べているが、坊さんのみは牛肉を食べません。この地方にはポルトガルと同じ食糧はありますが其の量は少ない。平戸の人達はあまり働かないので飢餓する人が多い、又、この地方は非常に寒い。平戸・松浦地方は、ポルトガル船が入港する以前より倭冦や朝鮮貿易のこともあって唐船が入港していた。其の故もあって豚は当地方では其の一部は使用されていた。次に、長崎県下で最初にパンが焼かれ、洋風の食事が開始されたのは平戸地方であった。一、イギリス船の入港ポルトガル船は種々の事情もあって、1562年(永禄5)には平戸の港を出て、大村氏領の横瀬浦(現・西彼杵郡西海町)に入港し更に1571年には長崎港(大村氏領)に入港して以来平戸の港にポルトガル船の入港は殆どなかった。松浦氏は、1609年5月ポルトガル船にかわってオランダ船の平戸入港に成功している。オランダ人は、早速平戸の町にオランダ商館を建設し貿易を開始している。更に平戸港にはオランダに続いて1613年にはイギリス船クローブ号が入港し、同年10月には平戸イギリス商館を建設し、オランダ、イギリスの二国は長崎を中心にしているポルトガルの貿易船に対抗することになった。この時のイギリス商館長はジョン・セーリス(John Saris)といった。セーリスは1813年6月12日(慶長18・5・5)平戸に入港し、8月には将軍秀忠と前将軍家康に面接するため江戸・駿府に向けて出発し、通商の許可を受け11月6日平戸に帰着している。このセーリスはイギリス東インド会社の貿易船隊司令官であり、彼の日本来航は英国王ジェームス一世の将軍家康への国書をたずさえ、対日貿易開始の使命を帯びての事であった。そして彼は其の時の記録「日本来航記」(村川堅固訳・岩生成一校訂・新異国羨書)を執筆している。私達は今、このセーリスの渡航記の中より我が国に及ぼした食文化を考えてみることにした。尚、長崎談叢九十輯に伊東秀征氏の「平戸と長崎の出来事に関するエドマンド・セーヤーズの日記」があるので本稿には大いに参考にさせて戴いた。 二、平戸と西洋料理▲伊萬里赤絵急須セーリスは1612年1月14日胡椒七千袋を船に積み込み日本に向けバンタムの港を出発している。乗り組み員はイギリス人74名、スペイン人1名、日本人1名、インドネシヤ人5名であった。次に其の日の船中食の記録に次のように記してある。船中の給与、一Sack酒(スペイン産葡萄酒)及びビスケット。二食、全能の神が彼らに健康を恵み給う牛肉。次の日の1月15日には岩礁の難関を無事脱出した記録と次の食の記録が讀まれた。給与Sack酒及びビスケット。二食は小麦と蜂蜜なお岩礁を無事に通過した苦労に報い各員にバイトン葡萄酒。四月十四日船はモルック諸島を平戸に向かっている。其の時の食事は給与、ビスケット及びラック酒、一食は牛肉と焼団子、一食はオートミール。六月十日、船は天草の近くに進んできた。午前九時、南の疾風、西寄り北へ航進。四隻の大型の(日本人の)漁船が予の船に近付いてきた。船は一本の柱に帆をはり片側に四本の櫓がついている。予等は長崎に行くのかと聞く。予は船長・事務長に命じて漁船の船長と他の一人に平戸まで案内させることにした。彼等は三十リアルの金と、彼等の食事に要する米を報酬として望んだ。そして彼等の内二人は予の船に乗り込み予の船の全ての仕事に快く労力を提供して下さった。この日の給与、サック酒及びビスケット。一食は牛肉、一食はオートミール。翌六月十一日午後三時、平戸の手前半リーグに投錨。潮が引き進むことが出来なくなったからである。礼砲一発を射つ。それから、領主松浦鎭信公がイギリス船を訪問したと記している。然しイギリス船の平戸訪問はこの時が始めてなのであるのに、どうして領主松浦鎭信公が同船を訪問したのであろうか。これは先年来、平戸に来航していたオランダ人より、イギリス船の来航があることを知らされていたからであると考える。船長セーリスは、この時領主松浦鎭信公を「数種の缶詰をガラス器に盛ってもてなした」とある。この時がイギリス船の入港は平戸公にとっては大いに歓迎すべきものであった。この時、平戸の人達(商人達)は、セーリスに日本酒の樽、魚、豚肉を贈ったと記してある。そして平戸の身分ある婦人が船を訪ねてきたので船室に入ることを許したところ、室になったビーナスの画像をみて彼女等は此の画像をマリヤと思って礼拝し、他の人に聞こえないように「私達はキリシタンである」ことを告げた。▲ 東巴(トンパ)文字絵皿6月13日。セーリス一行は王の歓迎をうけている。この時の料理は塩と胡椒で調理された類種の野菜や菓物であった。6月22日平戸松浦の老公が船に来た。彼は遊女を同伴してきた。セーリスは音楽と色々の砂糖漬を出してもてなした。王は其れを良く食べた。私達は王に望遠鏡一個と黒絹と金の縫取りのあるナイト・キャップを贈った。平戸藩では、当時すでに洋食が大いに普及していたし、平戸公自身も大いに洋食を好まれていた。7月3日のセーリスの日記には、王と私と朝食を共にするために「イギリス商館に来られた」と記録されている。(次号に続く)第25回 平戸にみる西洋料理(其の一) おわり※長崎開港物語は、越中哲也氏よりみろくや通信販売カタログ『味彩』に寄稿されたものです。

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  • 第513号【師走、ちゃんぽんを食べながら】

     師走半ば五島在住の方から、かんころもちが届きました。お礼の電話を入れると、「高齢なので、かんころもち作りはあと数年で引退かも…」とポツリ。5月、サツマイモの苗植えからはじまるかんころもち。秋の収穫やイモを蒸して干す作業も体力勝負で、家族や友人の「おいしかったよ」の声を励みに毎年作っているそうです。我が家では、かんころもちはすっかり師走の風物詩。届くと先方のお元気そうな様子が見えてきて、ほっとします。今年もありがたくいただきました。  何かと忙しい年末ですが、恒例の贈り物が届いたり、帰省した親戚の子や友人たちが、ひょっこり訪ねてくるとうれしいものです。久しぶりの顔ぶれが揃うとき、我が家では地元産の牡蠣などいつもよりちょっと贅沢な具材を使ったちゃんぽんで、もてなします。ちゃんぽんは、「おいしい」と喜ばれるのはもちろんですが、作る側にとっては手間がかからないので、ありがたい。手前味噌になりますが、麺もスープもやっぱり「みろくや」。試作と研究を重ねた絶妙な加減で、野菜やお肉、魚介類のおいしさを引き立てます。  お客さま用に加え、年越しそばならぬ、年越しちゃんぽん用など、年末年始はちょっと多めにちゃんぽん麺とスープを買い置きします。そのお買い物がてら眼鏡橋界隈へ出向くと、冬休みとあって若者の姿が多くみられました。護岸の一角にはめ込まれたハート・ストーンは、すっかり恋する人たちのパワースポットに。眼鏡橋の2つのアーチがくっきりと水面に映る光景が見られる、ひとつ下流にかかる袋橋には写真を撮る人が次々にやって来ます。この界隈で最近目立つのは、中国からの観光客です。ところで彼らは、眼鏡橋をはじめとする中島川の石橋群が、中国にゆかりのあることを知っているのでしょうか。  中島川にかかる眼鏡橋は、寛永11年(1634)、唐寺・興福寺の二代目住職で黙子如定という唐僧が浄財で架けた橋です。これを機に当時、長崎に居住していた中国人貿易商らの寄附により、中島川に次々に石橋が架けられました。石橋は、木の橋と違って洪水のたびに流されたり、腐ったりしません。当時、長崎港に入った唐船はその荷を小舟に移し、中島川上流の桃渓橋あたりまで漕いで来たそうなので、荷を上げ下ろしするためにも丈夫な石橋は必要だったのかもしれません。また、多額の寄附は、長崎を拠点にした商いで富豪となった彼らの恩返しであり、このまちに溶け込もうとした気持ちの表れであったかもしれません。いずれにしても、彼らがその財力を石橋にそそぎ、長崎のまちづくりに活かしたことは大きな意義のあることでした。  中島川の石橋群だけでなく、長崎には中国とゆかりのある場所がそこかしこにあり、興味をそそる謎めいたことも多々あります。たとえば、長崎市鳴滝地区にある唐通事の彭城(サカキ)家の別宅跡(現・県立鳴滝高校)。江戸時代、その庭園の一隅に置かれていたという陶製の織部灯篭(復元)がいまも残されています。十字のデザインが配され、別名キリシタン灯篭ともよばれるものを、禁教時代になぜ彭城家がもっていたのか。その真相は知る術もなく、謎が謎を呼ぶばかりです。  しかし、歴史の真相はわからないから面白いもの。長崎と中国の友好の証しでもあるちゃんぽんを食べ、ああだ、こうだといいながら、来年もその迷宮を右往左往して楽しみたいと思います。今年も読んでいただき、誠にありがとうございました。

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  • 第512号【肥前長崎かぼちゃ町!?】

     ご近所の庭先では柚子がたわわに実り、その黄色のあたたかさにほっこり。「冬至の柚子湯で風邪知らず」などと言いますが、この日は(今年の冬至は12月21日)習わし通りに柚子湯につかり、カロテンやビタミンCが豊富なかぼちゃを食べ、寒さに負けない心とからだを養いたいものです。  すぐれた栄養価で緑黄色野菜を代表するかぼちゃは、戦国時代、ポルトガル船が九州に運んできたのが最初の伝来で、「かぼちゃ」の語源は産地のカンボジアが転じたものといわれています。また、九州では「ぼうぶら」とも呼ばれ、その語源はポルトガル語でかぼちゃを意味する「abo(、)bora 」(アボブラ)からきたものだそうです。ちなみに、豊臣秀吉は九州に来た時かぼちゃを初体験。その甘さに喜んだというエピソードが伝えられています。  かぼちゃは、漢字では「南瓜」と書きます。これは「南蛮渡来の瓜」の意味からきたもので、これを「なんきん」とも呼ぶのは主に関西方面が多いそう。また、主に関東方面での異名として、「唐なす」があります。いずれにしても異国の野菜であることがその名に表されています。  さて、16世紀半ばから17世紀初め頃の長崎には、「ボウラ町」という町名が存在したようです。「ボウラ」とは、「ぼうぶら」のこと。つまり「かぼちゃ町」ということですが、場所は、長崎市役所近くにある長崎市立桜町小学校北側の道路を隔てた一帯(長崎市勝山町と八百屋町にまたがる)です。1745(延享2)年刊本の「肥之前州長崎図」(京都・林治左衛門版)に記載されています。  長崎市中を中心に長崎港沖合や近郊の様子までつぶさに描き、地名、町名、寺社、役所などの名称がこまかく記されたこの地図。ボウラ町の南側には高木代官屋敷(現・桜町小学校)、西側に長崎奉行所立山役所(現・長崎歴史文化博物館)が通りを隔てて建っています。地図には「古ハボウラ町ト云 南蛮人ボウラヲ作リシ故ニ」とある。その昔、南蛮人がボウラを作ったのでボウラ町と呼んだ、などとわざわざ記したところに、どこか観光マップ的な意図がうかがえます。当時は、長崎に限らず、各地のまちの地図が作られていて、けっこう売れていたのだそうです。  さて、高木代官屋敷の場所は、江戸時代初期には「サント・ドミンゴ教会」があり、長崎奉行所立山役所の場所には、天正年間に建てられた「山のサンタマリア教会」がありました。そうした教会跡からもわかるように、このあたりは当時、ポルトガル船でやってきた宣教師や船員などが盛んに往来したところであります。  かぼちゃは、サツマイモと同じく保存がきき、やせた土地にも育つそうです。そのすぐれた栄養価を経験的に知る南蛮人たちが、寄港先でその土地の人々と一緒に作るのは当然かもしれません。江戸時代に著された「長崎夜話草」(西川休林)には、長崎で作ったかぼちゃを唐人や紅毛人に売っていたという内容が記されています。  ポルトガル船が日本へ運んできたかぼちゃは、のちに「日本かぼちゃ」と呼ばれるようになり、「鶴首(つるくび)」「黒皮ちりめん」などたくさんの在来種を生み出しましたが、いまでは、明治以降に導入された「西洋かぼちゃ」(栗かぼちゃとも呼ばれる)に押され気味のようです。市場などをめぐると、数は少ないですがその地域でしか作られていない品種など、いろいろな種類のかぼちゃに出会います。一度手にとって味わってみませんか。   ◎  参考:「長崎やさいくだもの博物誌」(タウンニュース社)、「からだによく効く食べもの事典」(監修・三浦理代/池田書店)、「100万人の野菜図鑑 〜畑から食卓まで〜」(野菜供給安定基金)

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