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  • 第527号【長崎南画家、蟹の八百叟】

     暑中お見舞い申し上げます。長崎では先週の梅雨明けに合わせるかのように、サルスベリが開花。フリルのような花びらが夏の青空に映えてとてもきれいです。  今回は、江戸後期に生まれ、明治・大正を生きた八百叟(やおそう)こと伊藤惣右衛門(いとう そうえもん)(1835〜1917)という長崎南画の名手をご紹介します。八百叟とは雅号で、ほかにも、玉椿軒(ぎょくちんけん)、蔬香(そこう)とも称しました。とくに蟹の画を得意としたことから、「蟹の八百叟」と呼ばれ、そのユニークな人柄とともにいくつかのエピソードが語り継がれています。  八百叟の家は立山の長崎奉行所にほど近い今博多町にありました。代々、野菜や乾物などをあつかう商家で、長崎奉行所の御用も務めました。八百叟は五代目として家業を継ぎ、そのかたわらで趣味人として南画を描いたようです。  ところで、長崎南画は、江戸時代に中国から伝わったもので、長崎三筆と称される南画家、鉄翁祖門(1791〜1871)、木下逸雲(1799〜1866)、三浦悟門(1808〜1860)によって大成されました。その画法を学ぼうと、長崎には各地から人々が集い、また長崎から全国へ広まりました。長崎南画がもっとも盛んな時代に生まれた八百叟は、鉄翁祖門や木下逸雲に学び、南画を描く中国人とも交流があったと伝えられています。  なぜ、八百叟は蟹画を得意としたのか。はっきりした理由はわかっていませんが、とにかく幼い頃から蟹をよく描いていたそうです。すでに南画の大家であった鉄翁祖門には、蟹をよく観察して描くようアドバイスを受けたこともあったとか。また、八百叟と鉄翁との間には次のようなエピソードも伝えられています。当時、春徳寺の住職だった鉄翁。八百叟がそこへ出向くのは、いつもお昼近くで、たいがい蕎麦を持参しました。蕎麦は鉄翁の好物。気を良くした鉄翁は、毎回お礼に自分の作品を八百叟に与えたそうです。商人でもあった八百叟のちゃっかりとした面がうかがえます。  もうひとりの師・木下逸雲とは、生死を分けるエピソードが残されています。中島川をはさんだ隣町の八幡町に住んでいた逸雲とは、親しい交流があったようで、慶応2年(1866)、逸雲が江戸に旅した時に八百叟も同行しています。しかし、帰路の船で逸雲は遭難。八百叟はたまたま船に乗り遅れ難を逃れました。また、明治5年(1872)、長崎への明治天皇行幸の際、八百叟は、天皇が使用した白木の箸や食べ残しのご飯の下賜を願い、保管しました。大胆にそのようなことを願い出るところがユニークです。そのときの箸とご飯が、現在も長崎市立桜町小学校の地域・学校交流センター内に展示されていることは、あまり知られていません。  かつて八百叟の家の隣で海産物商を営んでいたというお宅のご子孫が大切に所蔵している八百叟60歳のときの蟹画を見せていただきました。11匹の蟹がイキイキと楽しそうに描かれています。また、八百叟の描いた蟹画は、桜馬場天満宮の天井絵にも残されています。   サワガニにしても、ワタリガニにしても、甲羅からかわいく突き出た目、1対のハサミ、そして4対の脚で横歩きするその姿は、子ども心をくすぐります。八百叟は、そんな童心を生涯持ち続けたのかもしれません。大正6年(1917)84才で亡くなった八百叟。ちょうど没100年にあたります。大音寺後山(長崎市鍛冶屋町)にある墓碑には、雅号を連ね「玉椿軒八百叟蔬香之墓」と刻まれていました。

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  • 第526号【乗り越えていく】

     九州北部地方での記録的豪雨による被害に合われた方々に、心よりお見舞い申し上げます。引き続き大雨や土砂災害の情報に注意して過ごされ、どんなときも身の安全に努めてください。そして、1日も早く安定した状況になることをお祈り申し上げます。  歴史を振り返れば、異常気象や地震などの自然災害で、わたしたちの生活は幾度も窮地に追い込まれました。自然の脅威には逆らえないことを思い知らされる一方で、人々は自然発生的に炊き出しや救護を行い、助け合いながら切り抜けてきました。全国各地にはそうしたエピソードがいくつも語り継がれ、ゆかりの品々などが大切に残されていることもあります。  長崎市鍛冶屋町にある唐寺・崇福寺の大釜(市指定重要文化財)もそのひとつです。大釜の重さは約1,200キログラム、直径1.86メートル、深さ1.7メートル。一見、五右衛門風呂のようでもあるこの大釜は江戸時代のもの。石畳の境内の一角に設置されていて、いつでもその姿を拝むことができます。  この大釜が造られたのは、延宝年間(1673-1681)に各地で不作が続き飢饉が発生したことがきっかけです。その流れで長崎では1681年(延宝9)に大飢饉が起き、餓死者が出ました。当時の崇福寺の住職は自分の衣類や道具を売ったり、托鉢をして浄財を得、庶民に粥を施したと伝えられています。そして、増える難民に応じるためだったのでしょう、翌年、同町内の鋳物師に、一度に十俵(約三千人分)の粥を炊くことができる大釜を造らせたのでした。  大釜は、その大容量で多くの難民を救ったと伝えられています。実際に目の当たりにすると、釜戸に乗せたり、米と水を入れたり、粥をついだりする作業はかなりたいへんだったろうと想像できます。まさに人々が協力し合っての施粥だったに違いありません。  近年、相次ぐ自然災害の折、被災地で人々が助け合い、協力し合う姿を報道などでよく見聞きします。人はきっと、危機にさらされた状況を見たとき、本能的に手をつなぐようにできているのかもしれません。そして、今回の豪雨の被災地に対しても、自分にも何かできることはないかと思う方も大勢いらっしゃることでしょう。  災被災された方々が元気をとりもどすことを願って、本当にささやかですが、長崎から「ハート」のある風景をお届けします。まずは、眼鏡橋のそばにあるハートストーン。ここは観光客の姿が絶えない場所。愛する気持ちをたくさん浴びたストーンですから、きっと縁起がいいはず。そして、ハト胸ならぬ、ハート胸のネコ。数年前、浦上天主堂の敷地内でひょっこり出会ったネコです。胸の毛並みを見るたびに、気持ちがゆるみます。   梅雨空の下、長崎港に出ると先月下旬に初入港した「ノルウェージャン・ジョイ」(167,725t)という大型客船が再び寄港していました。建造されて間もない船で、白い船体に描かれたイラストが目を引きます。長崎港にはこの夏も多くの客船が入港を予定しています。多くの人が笑顔で往来する平穏な風景のありがたさを感じるほどに、被災地への思いは募ります。被災された方々がこの窮地を乗り越え元気をとりもどすことを心から祈ります。

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  • 第31回 長崎料理ここに始まる。(三)

    一、南蛮料理編(二)▲ポルトガルの人形 我が国で南蛮(人)と言えば、一五四三年以来、徳川幕府が鎖国令を発した寛永一六年(一六三九)までの間に来航してきたポルトガル船・スペイン船により我が国に来航してきたポルトガル人、スペイン人、イタリヤ人を南蛮(人)と呼んでいる。 今回は、その南蛮から来航してきた人たちが、当時の日本人の食生活を、どのように理解していたかと言う事を中心に話を進めてみたいと考えている。其の一  一五四四年 メンデス・ピントとともに日本に渡り九州地方を回っているジョルジュ・アルバレスの報告書(この報告書はヨーロッパ人が直接に我が国を訪ねた人の報告書としては最初のもので七ヶ国語に訳されヨーロッパで広く読まれていた)によれば次のように記してある。 日本は美しい国で多くの松、杉、梅、桜、栗、樫がある……味のよい梨があるが日本人は食べなかったが私たちが食べたのをみて食べるようになった。私たちの土地にはない多くたくさんの果物があった。日本人は自分の家に飲み食いに来るようにと招待し、欲深くなく、極めて大様な国民である。…食事のことについても次のように記している。 日本人は日に三度の食事をする。毎回少ししか食べない。肉はわずかしか食べない。但し鶏は食べない。それは鶏は家に飼っているから食べないそうである。日本人が食べるのは米と豆とムンゴ(インド地方で木の実を言う)山芋と麦。また麦をどろどろに煮て食べるようである。日本人がパンを作るのを見なかった。米から作る酒と身分の別なく飲む酒があり、酩酎すると日本人はすぐに眠ってしまうので酔っぱらいは見たことがない。豆で作るチーズを食べる(豆腐)私は食べたことがないので其の味はしらない。食器については次のように記している。 食事は床の上で食べている。各自が彩色した自分の食器を持っており、中国人と同様棒(箸)で食べている。食器は陶器と外は黒く中は赤く塗ってある鉢と皿(漆器)をつかっている。▲ポルトガル人は鳥を大事にする其の二  一五四九年、F・ザビエルが我が国にキリスト教の布教を開始して以後、イエズス会の神父たちが多く布教のため来日してきた。其の神父達は我が国におけるキリスト教布教の状況を毎年ローマに報告している。それを私達は「イエズス会士 日本通信」とよんでいる。その通信文を一五九八年ポルトガルのエヴォオラのManoel de Lyraから出版している。その通信文の内容は一五四九年より一五八〇年までの書簡集である。 私はこの日本通信(上下・新異国叢書 柳谷武夫先生訳)の中より食に関することに限定し収録させて戴くことにした。A、 一五五四年、パードレ・ガスパル・ビレラが初めて平戸に赴くに当たってインドのコチンより本国のコインブラに送った書簡。この時にはまだビレラ神父は我が国の事は良く知らなかったのでコチンで友人達から教えられた日本の状況を報告している文章であり、当時の人達が我が国の事をどのように考えていたかが知られる。食事のことについても次のように記している。日本は貧弱でポルトガル国よりも寒く、山多く、雪がふる処である由。然し国民は文化的に開け物の道理は良くわきまえている。食料は大根の葉の上に少し大麦の粉をかけたものを食べている。日本には油、牛乳、卵、砂糖、蜂蜜、酢はないそうである。又、塩がないので大麦の糖を用いている。註・大麦のヌカと言うのは味噌の事を言っているのであろう。B、 一五五五年九月平戸に居たガゴ神父がポルトガルに送った手紙。手紙によると当時平戸には五百人のキリシタンがおり、領主松浦氏はキリシタンになることを望み、キリシタン信者の為に墓地を与えたので「九月二十四日その地に十字架を建てたのでキリシタン信者は盛大な祝祭を行いました」と記している。同じ書籍の中でガゴ神父は山口(山口県)の事を次のように記している。 この山口の地には信者は二、〇〇〇人います。然し、此の地は食物欠乏の地です。此の地には少しの米と野菜しかありません。然し元は肥満の地だったそうです。この山口は海岸より遠く魚は稀にしかありません。物は多く不足しています。 牛は殺さず野獣の肉は時々食べます。日本人は唐人を非常に軽蔑しています。日本人は戦いを好み、十歳位より刀を帯び刀をだいてねているようです。C、 一五五七年。ビレラ神父は平戸よりイエズス会に長い報告文を送り我が国に於ける布教の状況を報告している。その中に日本人が大分で祝日の日に次のように牛肉を食べた事が報告されている。そして、之の文章が日本人が牛肉を食べた最初の報告文であるとされている。一五五七年、大分に於いて四旬節が近づいた。四月十一日その聖週を向かえた。その御復活祭の翌日は大いなる祝日である。其の日は約四百人のキリシタン一同を食事に招きました。其の時、我等は牡牛一頭を買い、その肉と共に煮たる米を彼らにあげました。彼らは皆、大いに満足を以て之を食べました。また多くの貧民も集まり皆・主を讃美しました。 一五五七年には、まだ長崎開港の前であり、大村領主大村純忠もまだキリシタンに入信していなかった。やがて一五六二年ポルトガル船は初めて大村領横セ浦(現長崎県西海市)に入港している。(以下次号)第31回 長崎料理ここに始まる。(三)  おわり※長崎開港物語は、越中哲也氏よりみろくや通信販売カタログ『味彩』に寄稿されたものです。

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  • 第525号【職人町だった界隈(魚の町)】

     前号でご紹介したウラナミジャノメと思われるチョウ。後になって、絶滅のおそれがある希少な動植物をまとめた長崎県のレッドデータブックに掲載されていたことがわかりました。それを機に、これまで以上にチョウの存在が気になるように。6月下旬、花期も終盤となったシロツメクサのまわりを飛んでいたのは、お馴染みのモンシロチョウと、オレンジ色系の翅を持つツマグロヒョウモン。翅の先端に黒、白、グレーのきれいな模様を持っていたので、これはメス。オスにこの模様はありません。ツマグロヒョウモンは、もともとは南方系のチョウでしたが、近年は温暖化の影響で近畿地方でもよく見られるとか。小さな昆虫たちの世界からダイナミックな気象の変化が垣間見えます。  長崎市中心部は、オフィスビルが建ち並ぶバス通りからせまい路地に入ると、古い側溝や石垣などがそこかしこに残り、季節まかせの草花がのんびりと咲いています。チョウたちは、そんなところにふわりと姿をあらわすのですが、長崎市桜町にある長崎市役所別館の裏手もそうした界隈のひとつです。まちの真ん中にありながら、静かな路地裏の風情が漂うそのエリアは魚の町(うおのまち)。一角ではいま、長崎市公会堂の解体工事が進められていて、跡地には長崎市役所本庁舎が建てられることになっています。  まちの表情が大きく変わろうとするなか、このあたりの江戸時代をふりかえってみると、今紺屋町、中紺屋町、本大工町というまちが隣接。町名からわかるように、それぞれ紺屋(染物屋)、大工職人が集まる職人町でした。  紺屋は大量の水を使う仕事なので、中島川沿いに発展しました。実は今紺屋町、中紺屋町より先に、慶長2年(1597)につくられた最初の紺屋町が少し下流にあって、それが本紺屋町。南蛮貿易で栄え、長崎の人口がどんどん増えるなか、紺屋は大繁盛。職人も増えて10年もしないうちに、今紺屋町ができ、間もなく中紺屋町も生まれたのでした。同じ頃、中紺屋町の隣には、桶職人らが集まった桶屋町もありました。  かつて大工職人が居住した本大工町。現在、長崎市内で、「大工」が付く町名は、新大工町と出来大工町の2つがありますが、そのルーツが、この本大工町です。長崎開港後、まちの発展に伴うもろもろの建設に大工職人は不可欠。次第に職人も増え、本大工町だけでは収まりきれなくなりました。慶長11年(1606)、近隣に新大工町ができ、その後さらに、新大工町は2分され一方は出来大工町と称しました。いずれもその当時とほぼ変わらぬ場所で、現在に至っています。   南蛮貿易の時代から江戸時代にかけて商人のまちとして発展した長崎。そこには貿易に携わる者だけでなく、まちを形造り、生活に欠かせない物をつくるさまざまな職人たちの存在もありました。史料には残されていないそうした職人たちの姿を想像すると、また違った長崎の歴史の表情が見えてくるようです。

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  • 第524号【6月長崎ネイチャー歳時記】

     6月1日、長崎くんちの始まりを告げる「小屋入り」が行われました。「小屋入り」とは、その年の踊町(おどりちょう)の世話役や出演者たちが揃って諏訪神社と八坂神社で清祓いを受け、くんちの無事達成を祈願するもの。この日から、それぞれの踊町は演し物の稽古に入るといわれています。今年の踊町は、馬町(本踊り)、東濵町(竜宮船)、八坂町(川船)、銅座町(南蛮船)築町(御座船・本踊り)の五カ町。小屋入りの様子を見ようと、早朝、諏訪神社を訪れると、参道脇ではザクロの花が咲きはじめていました。この花の果実が熟れる秋、長崎くんちは本番を迎えます。  長崎を含む九州北部地方が梅雨入りしたのは6月5日。その数日後の6月9日は満月でした。この日の満月は今年のうちで地球からの距離がもっとも遠いため、最小に見えるといわれていました。さらに月見好きの人たちの間では、「ストロベリームーン」が見られるとあって、ちょっとした話題に。「ストロベリームーン」とは、夏至の時期の満月が、地平線、水平線近くでいつもより赤みを帯びて見える現象のこと。しかし、天体の専門家たちは、この日の満月だけが特別に赤く見えるわけでないといっているとか。この日、住宅街からはさすがに地平線・水平線近くの満月はのぞめませんでしが、深夜、南の空を見上げると、満月はいつもよりかわいいサイズで、心なしかピンク色を帯びて見えたのでした。  この時期、身近な自然に目を向けると、雨と日差しをたっぷり浴びるからか、野の花はどれも元気いっぱい。そこへ、ひらひら、ちらちらと姿をあらわすのがチョウたちです。いまは、モンシロチョウより小ぶりで色彩豊かなシジミチョウ科の仲間をよく見かけます。濃いオレンジ色に黒褐色の斑紋が美しいベニシジミは特長的なので分かりやすいですが、青紫色のシジミチョウは、ヤマトシジミ、ルリシジミ、シルビアシジミなど似たような色あいと模様で判別がむずかしい。道脇の葉っぱに翅(はね)を開いてとまっていたのは、たぶん、ルリシジミ。それにしても青紫色のきれいなことといったらありません。  翅(はね)に魅力的な目玉模様を持つジャノメチョウ科の仲間たちも、小さくて目立たないけれど美しい姿をしています。目玉模様の数や茶褐色の濃淡などで種類が違ってきます。写真におさめたのは、後翅に3つの目玉模様がついているところからウラナミジャノメと思われます。けして珍しい種類ではありませんが、日本全国どこでも見られるジャノメチョウと比べ、生息地は限られてくるそうです。   かわいくて美しいチョウ。子どもの頃は平気でつかまえていたけれど、大人になってからは、触ることができなくなったという人もいるようです。チョウを追いかけていると、つかの間ですが童心に帰ることができますよ。ひらひらと目の前を横切るチョウがいたら、あとを追ってみませんか。案外めずらしいタイプのチョウかもしれません。

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  • 第30回 長崎料理ここに始まる。(二)

    はじめに 私は始めより食文化研究を専門にしていたわけではなかったが、私が長崎市立博物館在職中の昭和五十一年八月長崎司厨士協会の方々より、全国司厨士大会を長崎で開催するので其の記念誌として「長崎西洋料理史」をまとめてくれとの依頼を受けたのに始まっている。そして昭和五十七年「長崎の西洋料理-洋食のあけぼの-」(東京・第一法規社)を発刊した。そして、続いて「卓袱考」「長崎菓子考」と各方面より進められるままに執筆しているうちに、いつのまにか私の言う「長崎学研究」の中に長崎食文化とうい項目を加えていた。 この長崎食文化の事を知られた「みろくや」の先代社長故山下泰一郎氏が昭和四十四年九月より年六回「長崎食文化を学ぶ会」を開催したいので協力して戴きたいと依頼を受けた。此の学習会も今年で第百五十回になりますよと現社長の山下洋一郎氏より先日お話をお聞きした。 其の頃、山下前社長より「うちの機関誌・味彩にも何か投稿してくださいよ」との依頼を受けた。そこで私はとりあえず寄稿したのが「長崎料理ここに始まる」であった。▲伊万里焼染付皿 私は昭和三十一年十二月、六十歳の市立博物館定年後、長崎純心女子短大の教壇に立つ事になったが、ここでも私の言う「長崎学」を大きく取り上げて戴き、其の中のひとつに長崎学文化研究所を置かせて戴いた。更に一九九五年には「長崎学・食の文化史」を発刊して戴いた。更に二〇〇二年には「長崎学・食の文化史」は好評であるので「續・食文化」を編集する事になった。次にみろくやの山下社長より私が今まで「みろくやの味彩」に寄稿した文章も次号には集録されてよろしいとの事であった。 二〇〇二年九月私は味彩に寄稿した一号より十九号までの稿を整理し、純心大学長崎学研究「續々・長崎食の文化史」に集録発刊することができた。此の発刊については各方面よりの御要望が多く、増刷することになった時、みろくやの山下社長が援助してくださるとの事となり一同大いに感謝申し上げた。一、南蛮料理編一五七一年春ポルトガル船が貿易のため初めて入港した年を長崎開港の年としているが、実は其の年より早く医師でイルマンであったルイス・アルメイダが長崎甚左衛を訪ね、キリシタンの布教が開始されているので、此の時より長崎の人達はパンと葡萄酒に接していたはずである。 然しポルトガル船の来航は長崎より早く一五五〇年すでに松浦氏の城下町平戸に入港し、其の年ザビエルも亦・平戸の町で布教を開始し以来一五六〇年まではポルトガル船は平戸に来航していたのであるから長崎の街の人達より早く平戸の人達は南蛮料理に親しんでいたはずである。 当然そこでは牛肉が食べられていたのである。この事について私は二十六聖人記念館長結城了悟神父より平戸の初期洋風料理について「当時平戸に布教に来ていたフェルナンデス神父が一五六〇年インドのゴアよりローマに宛てた書簡の中に平戸の町の食文化の事が書いてありますよ」と教えて戴いた。その手紙には次のように記してあった。日本の人たちは何でも食べています(平戸の町では)。然し、坊さんのみは牛肉を食べない。此の平戸の町にはポルトガルと同じ食料はありますが、其の量は少ない。平戸では働く人が少なく、飢餓する人が多い。又この地方は非情に寒い。 平戸の町には今もカスドースという菓子が残っている。この言葉はポルトガル語のカステラ・ドースであると考えられている。カステラはBolo de Castelaであり、ドースはdoce甘いという意味である。▲幕末より長崎に多く輸入された中国紅絵茶碗 江戸時代のオランダ通詞楢林氏の記録の中にもパウンドウスという菓子の名が記されてあり、其の説明には「蜜を煎じて卵をかけて煮る」と記してある。 一五七一年以来、色々と政情の事もあり、ポルトガル船の入港は長崎一港となっている。そして更に長崎地方の領主でキリシタン大名であった大村純忠(洗礼名ドン・パルトロメ)は一五八〇年長崎と其の隣村茂木の地をイエズス会の知行地として寄進している。そして更に一五八四年には大村純忠の甥で島原地方の領主有馬晴信が佐賀龍造寺氏との島原の合戦で勝利した感謝のためイエズス会に長崎の隣村浦上村を寄進している。 これらの事により長崎の街は、我が国におけるキリスト教布教の中心となり長崎岬の先端(現在長崎県庁の地)に当時我が国最大の教会であった「被昇天のサンタマリヤ教会」が創立され、其の教会敷地内にはイエズス会本部・修道院・学校・印刷所等の多くの施設が建設され毎年のようにポルトガル船が入港し、我が国における西欧文化を移入できる唯一の港(街)として長崎の街は繁栄してきた。 年と共に全国より多くの商人たちが長崎の港に集まってきたが、そこではキリスト教以外の人達の参加は認めなかった。其の基本には長崎の街はイエズス会の知行地であり、この地方の領主大村純忠は熱心なキリスト教徒であり、大村領内における社寺のすべては破却し、大村領内は全てキリシタンであったので、他宗派の人達は領内に入る事はできなかった。 そこで、当時はイエズス会に好意を持った商人意外は長崎貿易に関わる事はできなかった。此の時期・博多・堺方面の商人たちが多く長崎貿易に参加しているが、これらの人達は全てキリシタンでありキリスト教に厚意を示す人達であった。 そして当時の長崎の街の様子は多くの南蛮屏風によく描かれている。(以下次号)第30回 長崎料理ここに始まる。(二) おわり※長崎開港物語は、越中哲也氏よりみろくや通信販売カタログ『味彩』に寄稿されたものです。

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  • 第523号【明治・大正の面影残る長崎公園】

     今年も「ながさき紫陽花まつり」(5/20〜6/11)がはじまりました。出島やグラバー園、眼鏡橋、シーボルト記念館などで、咲きはじめの初々しい紫陽花が市民や観光客をお出迎え。紫陽花の花色は「七変化」の異名のとおり、日毎に表情を変えながら人々の目を楽しませています。  雨の季節がはじまる前に、新緑を楽しもうと長崎公園(長崎市上西山町)へ行ってきました。長崎の市街地を見渡す丘稜地にあり、諏訪神社に隣接する長崎公園は、明治6(1873)年に太政官布告により制定された長崎でもっとも古い公園です。  そんな由緒ある公園だからか、園内には明治・大正時代のものが点在。そのひとつが、池に設置された装飾噴水です。これは、明治11年(1878)頃に造られた日本最古の装飾噴水だそう。ふだんは高く吹き出る水にばかり目が行きますが、噴水のデザインをよくよく見ると、モダンで美しい。ハイカラ好みの明治の名残でしょうか。また、池のそばで営業している月見茶屋は、明治18(1885)年創業。名物のぼた餅は、甘さ控えめの変わらぬおいしさでありました。  長崎公園は、長崎の歴史を物語る数々の顕彰碑や文学碑があることでも知られています。そのなかのひとつ「郷土先賢紀碑」は、いまから100年前の大正5年(1916)に建立されたもの。碑には海外貿易、医学、国文学、儒学、砲術、活版術、写真術、慈善などさまざまな分野で功績を残した日本人79人、外国人22人、合計101人の名が刻まれています。  漢字の古い書体のひとつである篆書体(てんしょたい)で刻まれた碑の題字「郷土先賢紀碑」は、徳川宗家16代目の徳川家達(1863〜1940)の書。家達は明治維新後、公爵を授けられ貴族院議長を勤めました。また、外国人の名はカタカナと合わせて洋字(ローマ字)でも刻まれているのですが、洋字は、長崎学の礎を築いた古賀十二郎(1879〜1954)によるものです。  「郷土先賢紀碑」を建立したのは、「長崎市小学校職員会」。郷土の先賢を後世に伝え、将来を担う子供たちの励ましにするのが目的だったよう。それにしても、なぜ、家達が題字を書くことになったのか。碑の近くには徳川家ゆかりの東照宮(安禅寺跡)があるのですが、何か関係があるのでしょうか。ちなみに、洋字を書いた古賀十二郎の記念碑は、公園そばの長崎県立図書館前に設けられています。  「郷土先賢紀碑」のある広場の片隅で、アメリカ合衆国大統領ゆかりのアコウの木が葉を生い茂らせていました。明治12年(1879)6月、第12代アメリカ合衆国大統領の任期(1869〜1877)を終えたグラント将軍が、軍艦で世界旅行の途中、長崎に寄港。5日間ほど滞在し、長崎公園で開催されていた長崎博覧会を視察するなどしました。アコウの木はその際にグランド将軍夫妻が記念に植樹したものです。日本側は夫妻を国賓待遇で迎え、迎陽亭で歓迎会を催しています。   歴史家たちは、グラント将軍を軍人としては高く評価していますが、大統領としては残念ながら真逆で、スキャンダルや汚職により、最悪の大統領のひとりともいわれているそうです。時はめぐり、いまは第45代アメリカ合衆国大統領ドナルド・トランプ氏の時代。はてさて、後世の人々はどんな評価をするのでしょう。

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  • 第522号【長崎の庭から】

     鮮やかな赤い実に、甘い果汁がぎゅっとつまったサクランボ。産地として知られる山形県では、収穫の時期は6月に入ってからでしょうか。ひと足はやく初夏を迎えた長崎の家々では、ゴールンデンウィーク中に庭木として植えられたサクランボが摘み頃を迎えました。天候にめぐまれたのか、いつもより実がたくさんなっているように見えます。サクランボの季節が終わったら、梅雨前にウメやビワが収穫の時期を迎えます。いずれも、すでに青い実がたわわ。どうやら、今年の長崎の庭の果実は表年(豊作年)のようです。  「庭」といえば、ゴールデンウィークに、新緑を満喫できる庭園などへお出かけになられた方も多いのではないでしょうか。長崎駅から車で約7分。長崎市中心部にある「心田庵」(市指定史跡)も、そうしたスポットのひとつです。バス通りをそれた住宅街の一角にあり、かやぶき屋根の家屋と新緑におおわれた日本庭園を楽しむことができます。  心田庵の庭園には、ヤマモミジやツツジなど樹木約300本が植えられています。新緑(4月下旬〜5月初旬)と紅葉の季節(11月中旬〜12月中旬)の年に2回一般公開されていて、昨年の紅葉の季節にも、このブログでご紹介しました。  心田庵は、何 兆晋(が ちょうしん)という江戸期の唐小通事(とうこつうじ)が建てた別荘です。家屋には茶室が設けられています。庭園に面した和室のテーブルには、新緑にかがやくカエデが、逆さに映り込んでとてもきれい。しっとりとした風情の晩秋とはまた違った趣で、訪れる人々を魅了していました。  兆晋の父・高材(こうざい)は、もともと中国の商人で寛永の頃、長崎に移り住み商売をした人物です。お寺や石橋建設の際に寄進をして長崎のまちづくりに大いに貢献しました。裕福な家に生まれ育った兆晋は、風流を楽しむ心やさしき人物だったと伝えられ、心田庵の名称も、人は地位や名誉・財産などより、心の田畑を耕すことが大切だという意味から付けられたとか。また、心田庵は、長崎の茶道文化にも影響を与えたといわれていて、庭園の景色を楽しみながら、茶をたて、友と語らったのだということが想像できます。士農工商の時代にありながら、兆晋は身分を超えた人との交流をもったようで、そのことがうかがえる史料も残されています。  心田庵で新緑を堪能した帰り道、ひとさまの庭先からバニラのような香りが漂ってきました。オガタマノキの花の香りです。花期も、後半に入っているよう。そばの石垣では、アオスジアゲハの姿を確認。名前のとおり羽に青緑色の線が入ったこの蝶は、毎年5月頃から見かけるようになります。   日に日に様子が変わっていく植物や昆虫。そんな小さきものが棲む家々の庭は、地球サイズでめぐる季節を何気に映し出し、日々にうるおいを与えてくれるのでした。

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  • 第29回 長崎料理ここに始まる。(一)

    はじめに 江戸の酒落本にテンプラの事を次のように説明している。(山東京山説・蜘蛛の糸巻) 昔、天竺の浪人、ぶらりと来りて作り始めたる料理をテンフラと言う。 たしかに、テンプラは天竺南蛮(ポルトガル)より我が長崎に伝えられた料理なのである。ポルトガル人が長崎の街なかに住み始めたのは元亀二年(1571)以降であるから、其の時代より長崎の家庭でテンプラが造り始められ事になる。 資料によると徳川家康もテンプラを好んだと記してある。其の資料とは「東照宮御実紀」附録巻十六にある。元和二年正月二十一日(1616)家康公、駿府の田中に放鷹に出かかけらる。其のころ、茶屋四郎次郎、京より帰りて、様々の御物語ども聞え上がりしに、近頃、上方にては、何ぞ珍しきことはなきかと尋ねられ候えば、此ごろ京阪の辺にては、鯛を萱(かや)の油にてあげ、その上にニラをすりかけしが行はれ、いと良き風味なりと申す。折しも榊原内紀清久より、能浜の鯛を献りければ即ち其のごとく調理してめし上げられしに…… 大変、家康は慶ばれて賞味されたと記してある。一、テンプラの資料▲江戸の料亭八百善 文政5年(1832)刊・料理通 私は若い頃、長崎学の中に「長崎・食の文化史」の構想を描いて各地を訪ね回っていたとき、東京新橋の有名なテンプラの老舗「天国」さんで、お店の露木幸子様にお逢いでき、お話を聞いているうちに、露木様より「叔父の露木米太郎が著述した天婦羅物語があるので、お読みになってください。」と言われて、其の本を下さった。 私は此の本でイロイロな事を教えて戴き、「天国」さんでは、江戸風のテンプラの味を堪能させて戴いた。 長崎初期のテンプラの四郎は長崎県立図書館内渡辺文庫にあった。本の題名は「阿蘭陀菓子製法」とあった。そこには次のように記してあった。一、てんぷら里の志ようイ、こせうのこ、につけいのこ、ちやうしのこ生が。ひともじ、にんにく、之をこまかにきざみ、とりを津くりて、鍋に油を入れ、此六いろをいりて、とりを入れ、またいり、其の上くちなし水もてそめ、それにだしを入て、またさかし候さし、あんはい候てよく候ロ、うおのれう里、なに魚なりともよし、せきり、むきのこつけ油にてあげ、その後、丁子のこにんにく すりかけ 志るよき様にして にこめ申候 千葉大学の松子幸子先生の研究資料によると東京国立図書館その他に収蔵されている「料理集」の中にテンプラがあるとの事であった。その「料理集」には寛政九年(一七〇七)「崎水の人白蘆華記」とあった。崎水とは、長崎の事であり次のように記してあった。一、てんふら魚の身、背切にても、おろし身にても、うとんの粉とき、まふして油にて上げだす、又小魚なと丸にてむき、粉つけ、す上げ出す時は セラアト云うあり 文政十三年(一八三〇)江戸の喜多村信節の「嬉遊笑覧」巻十には南蛮・てんぷらを次のように記している。○昔より異風なるものを南蛮と云…○文化のはじめ頃(一八〇四~)深川六軒ばかりに「松がすし」出きて、世上すしの風一変し、それより少し前に、日本橋きわの屋台みせに吉兵衛と云もの、よきてんぷらにして出してより他所にも良きあげものあまたになり、是また一度せり 明治二十六年長崎の歴史家香月薫平先生は、代表作「長崎地名考」物産之部にテンプラテンプラとは唐伝なり。小海老又は魚の肉に製するを良とす。丈唐麻油にて製するべし。此他の製は皆住品にあらず。二、テンプラの語源 長崎市史風俗変の南蛮料理の項に古賀十二郎先生はテンプラの事を詳しく述べられておられる。 それによると 今日までテンプラの語源はしっかり判明していない。語源に近いものとして、ポルトガル語のTemperad(名詞)とTemperado(形容詞)がある。併しTemperadoは転訛してTemperad(名詞)になる。その料理は「野菜などをゆでて其を能く調和結合したる食物を言う。」▲伊万里焼色絵皿 私は、ここで前述の「てんぷら里の志よう」の説明文を思い出し、初期のテンプラには二様のものがあったのではないかと考えた。最後に古賀先生は次のように結論されている。 要するに、テンプラはポルトガル語のTemperoにあたり、我が国のテンプラ料理を意味している。 其の後、私は二十六聖人記念館艦長の結城了悟神父についてテンプラの事をお尋ねしたら、それは「長崎がキリシタンの時代Temporasの時に食べる食事がその語源になったのでしょう」と教えて下さった。 ポルトガル語の辞書を見るとTemporasはキリスト教では四季(春夏秋冬)の始めの木・金・土の三日間は小斎日と言と書いてあった。私は神父さんに日本で言う「精進料理を食べる日」ですねと言ったら笑っておられた。Temporasの日は「牛肉類は食べないで野菜や魚を食べられたのですね」とも言われた。 今はポルトガルでも殆どこの宗教習慣はなくなったそうである。 成るほど、我が国でも葬式の時の精進料理は殆どなくなりましたからね。 念のため、ポルトガル駐日大使アルマンド氏が一九七一年発刊された「南蛮文化渡来紀」付記ポ語と日本語の交流を見たらTempora斎日(複数で)天ぷらの語源(?)とあった。 後記、長崎名物のシッポクにテンプラが用意されていたか調べてみたら、足立正枝翁の「長崎風俗考」にも、足立敬亭「藤屋シッポク献立」にもテンプラは用意されていなかった。 テンプラは長崎の家庭料理だったのでしょうね。第29回 長崎料理ここに始まる。(一) おわり※長崎開港物語は、越中哲也氏よりみろくや通信販売カタログ『味彩』に寄稿されたものです。

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  • 第521号【初夏の陽気に包まれた長崎】

     桜前線がようやく北海道に上陸。一方、長崎はすっかり初夏の装いで、山々は新緑に覆われています。ゴールデンウィークに先駆けて、港では「長崎帆船まつり」が行われ、大勢の人出で賑わいました。青空の下、停泊する帆船の姿はとても優雅。外国からの観光客を乗せた大型客船も連日入港して、港はいつも以上に華やかに。長崎のまちは、一足はやく大型連休に突入したかのような開放感に包まれています。  長崎港は帆船がよく似合います。江戸時代にこの港にやってきた唐船やオランダ船はもちろん帆船でした。そんなことを思いながら足元を見たら、シロツメ草がかわいい花を咲かせていました。シロツメ草はヨーロッパ原産の植物。その昔、人知れずオランダ船に乗り込み大海原を渡って日本へやってきました。  というのも、シロツメ草は、交易品であった医療器具やガラス製品などのワレモノの間に詰められた干し草のひとつだったそうです。その種子がいつしか日本で花を咲かせるようになったといいます。どこかレンゲ草(ゲンゲ)にも似たシロツメ草が、「オランダゲンゲ」とも呼ばれるのは、そんなエピソードがあるからなのですね。  長崎港から中島川沿いを上流に向かって歩いていると、久しく見かけなかったマガモのつがいを発見。さらに新顔のコサギもいます。中島川の生き物たちも、春から新旧入れ替わったようです。  桃渓橋から川沿いを外れ、諏訪神社(長崎市上西山町)へ。参拝者を見守る大クスは、新緑をさやさやと揺らし、長坂(大門前の参道の階段)では、鯉のぼりが気持ちよさげに宙を泳いでいました。諏訪神社の端午の節句にまつわる行事といえば、5月5日「こどもの日」に行われる、「長坂のぼり大会」です。大人もきつい長坂を、子どもたちが一番札をめざして一斉にかけのぼります。その姿はとても微笑ましく、小さな感動も味わえます。  諏訪神社からほど近い長崎歴史文化博物館の広場へ行くと、長崎式だという鯉のぼりが設けられていました。それは、支柱から斜めにかけられた笹の旗竿に鯉のぼりを下げた形で、風向きに合わせて旗竿が自在に動いて鯉がなびくだけでなく、風がなくても鯉がきれいに見えるのだそうです。  ところで、端午の節句の行事食といえば、全国的に柏餅やちまきなどが知られていますが、長崎の場合は、「唐あくちまき」が郷土の味として食べ継がれています。唐あくで風味をつけたもち米を、棒状の木綿の袋に入れ、飴色に煮炊きあげたものです。糸を使って好みの大きさに切り、きなこや砂糖などをまぶしていただきます。唐あくは独特の風味があり、好き嫌いがあるかもしれませんが、クセになるおいしさです。子どもの頃から食べている人にとっては、ちまきといえば、これ。この時期は、地元の和菓子屋さんなどで手に入ります。   いよいよはじまるゴールデンウィーク。たっぷり休める方も、そうでない方も、何かひとつ、この季節ならではの楽しい体験、おいしい味に出会えますように。

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  • 第520号【サクラ、ツバメ、花まつり】

     3月末に開花した長崎のサクラ。1週間後には満開のときを迎えました。いまは、散りはじめた花びらがまちのあちらこちらで宙を舞っています。そんなやさしい春景色のなかで、何だか忙しげにビルの軒先と外を往復していたのがツバメです。巣作りの真っ最中でありました。  くちばしで泥や枯れ草を運んで作るツバメの巣。ツバメは一度作った巣の場所を覚えているそうで、翌年、同じところにもどったとき巣が残っていれば再利用します。その場合は修復するだけなので1〜2日間ほどで完成。新しく作るとなれば1週間ほどかかるそうです。  ところで、お天気に「ツバメが低く飛ぶと雨」ということわざがあります。これはちゃんと根拠のある話で、雨が降る前、湿度が高くなるとツバメの餌となる虫たちの羽が重くなって低いところを飛ぶようになり、それをねらってツバメも飛行するからだそうです。  さて、長崎のサクラが満開のときを迎えたのは先週8日土曜日。この日は、お釈迦さまの生誕を祝う「花まつり」(灌仏会)の日でもありました。「花まつり」は、全国各地で古くから行われている仏教行事です。誕生仏(釈迦)を祀った花御堂を設け、参拝者は竹のひしゃくで甘茶を仏像の頭上からそそぎかけて生誕を祝います。  いまから約2500年前の4月8日、北インドのルンビニーの花園でお生まれになったお釈迦さま。その生誕を祝う行事が、中国を経由して日本へ伝わったのは7世紀頃だそうです。ご存知の方も多いと思いますが、誕生仏の像が右手で天を指し、左手で地を指しているのは「天上天下唯我独尊」と宣言されたときのお姿をあらわしたもの。像に甘茶をそそぐのは、お生まれになったとき、甘露が産湯代わりに降り注ぎ、花々が芳しい香りを漂わせたという故事にちなんだものです。  シーボルトのお抱え絵師として知られる川原慶賀は、江戸時代の年中行事の様子をいろいろ描き残していますが、そのなかのひとつに「花まつり」もあります。屋根に花が飾られた4本柱の花御堂や、参拝者が水盤の中央に立つ誕生仏に甘茶を注ぐ様子など、いまとまったく変わらない光景です。  現在、長崎市内で行われている「花まつり」(主催:長崎釈尊鑽仰会・長崎市仏教連合会)では、毎年、花御堂を市内各所の商店街など全21カ所に設置し、参拝者に甘茶などを振舞います。こんなふうに各商店街と協力して行う「花まつり」は全国的にも珍しいケースだとか。お買い物がてら気軽に参拝の列に並ぶ人々の様子に、お釈迦さまが身近な存在であることが伝わってきます。  「花まつり」の法要には、毎年、各宗派のお寺の住職が集いますが、そこには、カトリック長崎大司教の姿もあります。今回も「平和な社会を築くためにみなさまと一緒に考えたい」などと記されたローマ法王庁からのメッセージが読み上げられました。   お釈迦さまの生誕を祝うために集った長崎の宗教指導者たち。宗教・宗派を超えて互いを尊重し、平和と幸福を祈願する姿を、長崎から発信しています。

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  • 第28回 出島オランダ屋敷の復原と西洋料理

    一、出島オランダ屋敷復原の歩み▲出島 カピタン部屋2階大広間 阿蘭陀冬至料理再現大正11年10月、国は史跡名勝天然記念物保存法により長崎県下では平戸オランダ商館跡、出島オランダ商館跡、シーボルト宅跡、高島秋帆旧宅の4件を史跡地に指定している。この当時の模様を長崎県は昭和3年、次のように報告している。 この地(出島)は、もと扇型の小島であったが明治19年以来・周囲の大修築により現在の出島の地はまったく陸地となり、唯その名を存するのみで公有地は出島周辺とその内にある県市道のみで他は全て民有地である。 ただ出島1番地より26番地の間は、公益上必要止むを得ざる場合の他、現状の変更は之を許可せざる方針である。指定史跡地において旧の偲びを止めるものとしては、史跡地内を縦貫せる二筋の道および地番石標のみが残っている。二、出島復原の第一歩 昭和26年8月20日、長崎市教育委員会に国の文化財保護調査委員会より「出島問題について指示したい事があるので至急東京に出て来て下さい」との連絡があった。 長崎市教育委員会では早速、田川務市長と相談し市教育委員会より当時文化財担当を兼ねておられた築瀬義一社会教育課長(後の市会議員)を文化財保護委員会総務部長富士川金也氏の所に派遣している。▲出島 カピタン部屋外観 先ず文化財教育委員会は「どこからどこまでが昔の出島であるか確認して下さい」と言うことであったと、記録が残っている。 然し出島全体が私有地であってみれば、発掘調査がすぐに出来るわけでないので「先ず旧出島の一部を公有地として買いあげ、其処を拠点として出島復興の第一歩とします」と言うことになったと言う。 文化財保護委員会より間もなく記念物課史跡地担当の黒板昌夫先生がおみえになった。黒板先生のお父様は波佐見町出身で有名な歴史学者黒板勝巳先生であり、私達には本当によく指導して戴いた思い出がある。 次に出島に関する基礎資料の収集を黒板先生は指導して下さった。 旧出島内の土地購入については、幸いなことに出島の中心地の一部にあたる処に旧川南造船所所有の石倉と其の隣接地300坪があり、之を購入する事が決定した。価格は坪1万円であったが原爆により傷んでいるので其の整備修復費を加算すると900万円はかかるとの事であった。この整備事業については国も其の大分を援助して下さると言うことになり、結果としては450万円の補助を国から戴いた。復興事業の技官としては後に工学博士となられた山口光臣先生が赴任してこられた。これによって出島復興の第一歩が踏み出されたのである。三、出島整備の完成 其の後、出島全域の完全公有化を達成したのは確か4年前のことであったと思うので、その間約半世紀と言う事になる。其の間、長崎新聞社の皆様、朝永、海江田、両病院ならびに日野様はじめ出島地区居住の皆様方に大変お世話になった事が今更ながら思い出される。 昭和57年10月本島市長の時、本格出島の基礎研究をせよと言うことになり「出島史跡整備審議委員会」が発足。その成果として昭和62年3月長崎市より「出島一その景観と変遷」の大冊を発刊している。 その本の発刊によってオランダ関係の原本資料をはじめ、国内外の出島関係資料を収集することができたので、之に基づいての発掘調査が進められ、現在の出島遺構復原の完成となっている。四、出島内部の展示 出島遺構の復原と共にその内部に何を展示するかという事も考えられた。 私には出島内料理の展示を考えるようにと言われた。今回復元された建物は、寛政10年3月6日(1798)夜の出島大火後再建された出島の建物を原型として復元されているので、展示資料もそれにあわせて1800年初期の出島料理にして戴き、その料理模型はカピタン部屋の2階とし、有名なオランダ正月の料理を考えてくれないかと言われた。 当時の資料としては、1800年頃編纂された「長崎名勝図絵」。次いで私が昭和57年発刊した「長崎西洋料理」(第一法規出版)内に編集しておいた浦里豊氏蔵の「異国食用図」、長崎版画の各種、川原慶賀筆「唐蘭館絵巻」、石崎融思筆「蘭館図」等があった。オランダ正月の料理には次のようなものがある。○ 子豚。型のごとくにして内臓を取り去る。ボートルを引き(註:ボートルとはバター)。直火にてあぶる。口に橙をくわえさせる。尾には帛(きれ)をつけて飾る。背かに金箔をふる。この料理オランダ語にてスペイトと言う。○ パステイ。内に鶏の切身、エンス(燕巣)の類、椎茸、木茸、ネギ、胡椒、肉ずうく、にて合わせ蒸す。ボートルに卵を潰し入れて味を加減す。次に麦粉とボートルを加味して焼く、食用となす。○ ラーグ 鶏たたき丸めて椎茸、ねぎ、すましあんばい。○ スペーナン 菜みじんにたたく、ボートルにてサット揚て皿に盛り、玉子・四ツわりにして盛り合わせ。○ カステイラブロト 花かすていら、紙焼のかすていら、紅毛紙を箱に折、かすていらの種を焼鍋の中にならべ焼たるなり。○ パン オランダ本国は米なし。故に小麦を以て常食とす。▲出島を一望 出島にはカピタン部屋の右裏1棟に「阿蘭陀台所」がありオランダ料理人にまじって日本人料理人3人が勤めていた。 オランダ商館の医官ツンベリは其の日本人料理人について次のように記している。 日本人料理人は出島にいます。 オランダ風の料理を上手に作るのに慣れていた。この出島の日本人料理はオランダ人が江戸参府の時には必ず3人のうち2人が江戸までテーブルと椅子を持参し、同行している。そして2人の料理人の1人は必ず1日前に出発し、オランダ人が宿所につく前に食事を用意していたと記している。 出島では、日本産の牛は食べる事を禁じられていたので、毎年春にバタビヤより入港してくるオランダ船には食用となる牛が積まれていた。司馬江漢も天明8年(1788)長崎に来遊したとき、此の出島の牛を見て、其の模様を「西遊日記」に綴っている。 今回復原された出島オランダ屋敷は全国的に評判となり、毎日参観される人が多く来られ、出島内にはボランティアの案内者も多数おられるとの事でした。第28回 出島オランダ屋敷の復原と西洋料理 おわり※長崎開港物語は、越中哲也氏よりみろくや通信販売カタログ『味彩』に寄稿されたものです。

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  • 第519号【長崎から春便り】

     めきめき春めくこの時期は、五島産や島原産など新ものが出回るアオサがおいしい。温めたダシ汁にアオサを入れるとふわりと潮の香が広がって、思わず笑みがこぼれます。日本各地で採れるアオサ。いま、あちこちの食卓に旬を届けているのでしょう。  温かな日が続いた3月中旬。眼鏡橋がかかる中島川沿いを歩けば、新顔の若いアオサギの姿がありました。後頭部から生えている黒く細長い羽毛やブルーグレーの翼がツヤツヤしています。そんなアオサギの脇を小さな黒い鳥がスーッと横切りました。ツバメです。今年の初見で、3月16日のこと。前日にはウグイスの初鳴きを耳にしたばかり。東北あたりではツバメ、ウグイスは4月に入ってからでしょうか。こうした鳥の初見、初鳴きは、季節の移り変わりを知る目安になります。地方気象台ホームページの「生物季節観測」などで確認することができます。  中島川沿いから寺町通りへ。石垣の隅にスミレが咲いていました。スミレの花言葉は「小さな幸せ、誠実、謙虚」。小さく可憐な花なので、弱々しく思われがちですが、実は丈夫でたくましい野草。女の子に「スミレ」と名付ける親心がわかります。スミレは紫、白、黄色、ピンクなどの花色があり、種類も多いので図鑑で名前を調べる楽しみがあります。スミレのそばでは、セイヨウタンポポや西日本で見られるシロバナタンポポも花盛りでした。  寺町通りの一角にある延命寺へ。ここは、1616年の建立時から長崎奉行所との関わりが深かったお寺です。その山門は、長崎奉行所立山役所の門が移築されており、現在、門扉のみ当時のものが残っています。参拝をすませ境内を散策すると、杏(あんず)の花が咲いていました。杏は、梅、桜と同じバラ科サクラ属の落葉高木。花は梅にも似て、実は梅よりもちょっと大きい。その種子は漢方で杏仁(きょうにん)と呼ばれ、咳止めに使われます。また、中国料理のデザートで知られる杏仁豆腐の原料でもあります。  家々の庭先ではハクモクレンも開花しています。同じモクレン属のコブシにも似ていますが、花びらはやや大きく厚め。上を向いて咲くのが特長です。また、長崎は、日本一のビワの生産地だけあってか、庭木としてビワを植えているお宅が多いのですが、この時期から、実を害虫から守るために袋かけをした木を見かけるようになります。  ジューシーでやさしい甘さのビワの果実は咳止めに効果があり、ビタミンAとCの相乗効果でお肌のトラブルにもいいといわれます。葉や種子もさまざまな薬効があり、古くから民間療法に用いられています。   路地ビワは春の間においしく育ち、食べ頃を迎えるのは梅雨前。待ち遠しいですが、まずは春を満喫するのが先。数日中には、長崎の桜が開花しそうです。

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  • 第518号【往時がよみがえる出島の表門橋】

     「あれ?出島って扇型の島じゃなかったの?」出島を初めて訪れた人から、ときおり聞かれる言葉です。ええ、たしかに鎖国時代は、小さな橋一本で対岸とつながった扇型の小さな人工島でした。現在の出島は、中島川に面した北側(扇型の内側の弧)以外の三方が明治以降に埋め立てられ、「島」の姿は見ることはできません。  出島の正式名称は「出島和蘭商館跡」(でじまおらんだしょうかんあと)。大正11年にシーボルト宅跡(長崎市鳴滝)や高島秋帆旧宅(長崎市東小島町)とともに国指定史跡になりました。「江戸時代、西洋に開かれた唯一の窓口」だった出島の歴史的な意義ははかりしれず、その特異な存在感で、いまも国内外からの観光客が絶えることはありません。  そんな出島に先月末、約130年ぶりに橋がかかりました。シンプル&モダンな美しい橋です。名称は「出島表門橋」。文字通り、出島の表門に通じる橋で、全長38.5メートル、幅4.4メートル。女性の足だと100歩くらいで渡れる長さでしょうか。実は昔、ほぼ同じ位置に架かっていた橋は、全長5メートルに満たない石橋だったとか。中島川の変流工事にともない撤去され、出島の北側も大きく削られたために川幅が大きく変わりました。また、出島が国の史跡ということで工事にもしばりがあり、そのため復元ではなく新たな橋のデザインになったそうです。  新しく架けられた「表門橋」。江戸時代にそこにあった橋は、「出島橋」と呼ばれていました。ちなみに、現在、同じ名称の橋がすぐそばの出島東側に架かっています。鉄製の道路橋で、1890年(明治23)の架設当初は、現在地よりも下流の河口近くに「新川口橋」の名称で設けられました。20年後、すでに撤去された旧出島橋に代わるものとして、1910年(明治43)に現在の場所に移設され、名称も「出島橋」となったようです。  「出島橋」は、現役の鉄製道路橋としては日本最古のものになるとか。鉄は当時アメリカから輸入したもの。水色に塗られた細い鉄骨を組み合わせた姿は、とてもシンプルで丈夫そうな印象です。明治の人たちのセンスの良さや意気込みが感じられます。「表門橋」と並んだことで、上流の石橋群とはまた違った橋の名所として、さらに注目されるようになるかもしれません。  さて、大きなクレーンで「表門橋」が架けられたとき、工事を見守った大勢の市民から拍手がわいたとか。江戸時代、長崎奉行の管理下にあった出島は、オランダ通詞や料理人など限られた日本人しか出入りできませんでした。長い時を経て架けなおされた橋は、誰でも渡ることができます。開通は周辺の整備を終えてからで、今年11月24日を予定しているそうです。「島」の出島にはもどれなくても、この「橋」を渡ることで、当時の感覚や人々の気持ちに近付けるような気がして、期待感が高まります。   余談ですが、出島近くの道路(NIB前付近)では、江戸時代の出島の絵図をモチーフにしたマンホールの蓋を複数見かけます。その絵図は、出島の商館医として1690年から1692年に来日したケンペルが著した「日本誌」に記載されたもの。対岸とつながる橋も略図ながらちゃんと描かれています。探してみませんか。

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  • 第27回 出島・カピタン ティチングの記録より(一)

    ▲山下南風版画 オランダ人酒宴図 はじめに出島・カピタン ティチング(Isaac Titsingh)について記しておかねばならない。 彼は1779年8月15日初めて出島オランダ商館のカピタンとして在任。翌年2月19日江戸参府のため出島を出発。4月5日将軍家治に謁見。5月27日長崎帰着。11月バタビヤに帰っている。そして、翌1781年再び出島カピタンを任命され8月2日出島に到着。1782年には再び江戸参府に出発。4月13日再び将軍家治に謁見している。この時は出島カピタンの仕事が多忙で彼が再びバタビヤに向けて出発できたのは1783年11月6日であった。ところがオランダ政府は三度彼を出島カピタンに任命したので翌1784年6月バタビヤを出発。8月18日出島に上陸している。 但し、オランダ政府は「この仕事を最後にオランダ本国に帰ってきてよろしい」との許可を与えていた。ティチングが無事に日本での最後の仕事を済ませ再びバタビヤに帰着したのは1785年の1月2日であった。そして彼がようやくイギリス船に乗り、ロンドンに帰着できたのは1796年12月であったと記してある。 以上ティチングの伝記功績についての論考については沼田次郎先生翻訳の「ティチング日本風俗図誌・解説」(新異国叢書)を読まれるとよい。一、ティチングの見た日本▲赤絵皿(ベトナム製) ティチングは帰国後、多くの資料を持ち帰っていたので是等の資料を活用し各方面にその研究を発表した事によって、次第に東洋学研究者として名声が上がると共に彼の東洋関係のコレクションも有名だったと沼田先生は記し、更に其の彼の多数の編本がロンドンの大英博物館に所蔵されていると記しておられる。 今回はティチングの代表作とされる前記日本風俗図誌を中心にして述べてみることにした。○最初に初期の豊臣秀吉の話が出てくる。  その当時、秀吉は非常に貧乏で婚礼の席で花嫁と祝言の酒を酌むのに必要な、ごくありふれたシガラク焼きという陶器の酒入れ(瓶子)すら持っていなかった。○次に秀吉と家康との関係にふれて次の話を記している。  家康の第八子ヒデユキ(Fide-youki)の夫は勇敢な武将であったので、太閤はは非常に彼を恐れていた。そこで秀吉はお茶の中に毒を入れて彼を毒殺しようとしたが、他の者の主張に従いつつmandjouと言う小さな菓子の中に毒を入れて殺してしまった。二、長崎・深堀騒動の事ティチングが集録した逸話の中に元禄13年(1700)長崎で起こった深堀義士の話がある。事件は、同年12月20日長崎町年寄高木彦右衛門家では産まれた子供の名前をもらうため子供を駕篭にのせ宮参りに行く途中。(雨がひどく降っていたので道はぬかるみであった)駕篭のわきを急いで通り抜けようとした鍋島深堀藩の武士深堀勘左衛門は足をすべらせ、其の駕篭に泥を跳ね上げてしまった。これが事件の発端となっている。深堀武士は多いに謝ったが高木の家来達は武士達を大いにたたき、更にOuya-goto-matche(浦五島町)にあった深堀屋敷にまで押しかけて散々に深堀武士達を馬鹿にした。遂に深堀の武士達は腹をたて、高木の家に押しかけ高木彦衛門の首を戦利品と持ち帰り、後本蓮寺に胴と共に埋めた。この戦いの時、高木家の白い番犬が主人を守ろうと駆け出し、何人もの敵を傷つけ、そのため殺されたが、高木の墓には其の白い犬が埋められた。  ティチングは更に続けて、次の話を加えている。  私の日本滞在中にその高木彦右衛門を殺した連中が血の滴る首の髪を掴んで提げて通るのを見たという婦人がまだ長崎に住んでいた。三、九代将軍徳川家重について○八代将軍吉宗の長子家重は過度の女色と飲酒で白痴同様になった。世人は家重をAnpontan(アンポン丹)と呼んだ。アンポン丹を服用すると暫く知覚を失う。   家重は対馬の藩主宗対馬に「中国竜門の滝でとれた鯉を献上するよう清国に使をだせ」と命じている。其の鯉を焼いて、其の灰を水にとかし子供を洗うと疱瘡(ほうそう)のにかかった時、大変効き目があり痛みもなく、疱瘡の跡も残らないと言う。将軍は朝鮮国経由で清国竜門で得た鯉で作った焼灰を水でとき二人の子供を春夏秋冬それぞれ洗わせた。○将軍家重は酒を飲み過ぎて健康は日々衰え、もはや言葉も出ず将軍はIsoumo-no-kami(大岡忠光)を通してのみ命令を出し、間もなく尿器官が弱って自分の部屋に閉じ込もらねばならなくなった。   ティチングは以上の将軍家重の事のみでなく歴代将軍の裏面史も多く入手していた事が彼の著書を読めば読むほど其の思いを深くする。四、ティチングの史料収集▲山下南風版画 出島図 ティチングは前述のように三回も日本に来航し、2回も江戸に参府。将軍謁見は2回もしている。そして、交友関係には、当時の長崎奉行を始め、薩摩藩主島津重豪・福地山藩主朽木昌綱、更に長崎ではオランダ通詞吉雄幸作を始め長崎の知識人、江戸では蘭学者の中川淳庵・桂川甫周等とも交友があった。それは彼の人柄と外交手腕にあったといわれている。そして、当時ティチングの名は日本人の間に広く知られ、その人物は高く評価されていた。○ティチング自身、大いに日本趣味があり次第に日本研究に深く入り込んでいったのであろうが、彼の此の行動は当時の日本人にオランダ趣味を待たせ、オランダ研究、ひいては我が国の洋学研究を進めさせていると、ティチング研究の第一者であられる沼田次郎先生は述べておられる。 次項では、ティチングの目から見た、日本人の祭事や儀式に関する食文化を中心に筆を進めてみたいと考えている。 例えば、日本人は死者の葬儀の時にはできるだけ清潔に調理する。そして、小さな善にお椀の御飯と汁と三種の食物の入った椀が用意される。(以下次号)第27回 出島・カピタン ティチングの記録より(一) おわり※長崎開港物語は、越中哲也氏よりみろくや通信販売カタログ『味彩』に寄稿されたものです。

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