第31回 長崎料理ここに始まる。(三)

一、南蛮料理編(二)



▲ポルトガルの人形


 我が国で南蛮(人)と言えば、一五四三年以来、徳川幕府が鎖国令を発した寛永一六年(一六三九)までの間に来航してきたポルトガル船・スペイン船により我が国に来航してきたポルトガル人、スペイン人、イタリヤ人を南蛮(人)と呼んでいる。


 今回は、その南蛮から来航してきた人たちが、当時の日本人の食生活を、どのように理解していたかと言う事を中心に話を進めてみたいと考えている。


其の一

  一五四四年 メンデス・ピントとともに日本に渡り九州地方を回っているジョルジュ・アルバレスの報告書(この報告書はヨーロッパ人が直接に我が国を訪ねた人の報告書としては最初のもので七ヶ国語に訳されヨーロッパで広く読まれていた)によれば次のように記してある。


 日本は美しい国で多くの松、杉、梅、桜、栗、樫がある……味のよい梨があるが日本人は食べなかったが私たちが食べたのをみて食べるようになった。私たちの土地にはない多くたくさんの果物があった。


日本人は自分の家に飲み食いに来るようにと招待し、欲深くなく、極めて大様な国民である。…


食事のことについても次のように記している。


 日本人は日に三度の食事をする。毎回少ししか食べない。肉はわずかしか食べない。但し鶏は食べない。それは鶏は家に飼っているから食べないそうである。


日本人が食べるのは米と豆とムンゴ(インド地方で木の実を言う)山芋と麦。また麦をどろどろに煮て食べるようである。日本人がパンを作るのを見なかった。米から作る酒と身分の別なく飲む酒があり、酩酎すると日本人はすぐに眠ってしまうので酔っぱらいは見たことがない。豆で作るチーズを食べる(豆腐)私は食べたことがないので其の味はしらない。


食器については次のように記している。


 食事は床の上で食べている。各自が彩色した自分の食器を持っており、中国人と同様棒(箸)で食べている。食器は陶器と外は黒く中は赤く塗ってある鉢と皿(漆器)をつかっている。



▲ポルトガル人は鳥を大事にする


其の二

  一五四九年、F・ザビエルが我が国にキリスト教の布教を開始して以後、イエズス会の神父たちが多く布教のため来日してきた。其の神父達は我が国におけるキリスト教布教の状況を毎年ローマに報告している。それを私達は「イエズス会士 日本通信」とよんでいる。


その通信文を一五九八年ポルトガルのエヴォオラのManoel de Lyraから出版している。その通信文の内容は一五四九年より一五八〇年までの書簡集である。


 私はこの日本通信(上下・新異国叢書 柳谷武夫先生訳)の中より食に関することに限定し収録させて戴くことにした。


A、 一五五四年、パードレ・ガスパル・ビレラが初めて平戸に赴くに当たってインドのコチンより本国のコインブラに送った書簡。この時にはまだビレラ神父は我が国の事は良く知らなかったのでコチンで友人達から教えられた日本の状況を報告している文章であり、当時の人達が我が国の事をどのように考えていたかが知られる。食事のことについても次のように記している。


日本は貧弱でポルトガル国よりも寒く、山多く、雪がふる処である由。然し国民は文化的に開け物の道理は良くわきまえている。食料は大根の葉の上に少し大麦の粉をかけたものを食べている。日本には油、牛乳、卵、砂糖、蜂蜜、酢はないそうである。又、塩がないので大麦の糖を用いている。

註・大麦のヌカと言うのは味噌の事を言っているのであろう。


B、 一五五五年九月平戸に居たガゴ神父がポルトガルに送った手紙。手紙によると当時平戸には五百人のキリシタンがおり、領主松浦氏はキリシタンになることを望み、キリシタン信者の為に墓地を与えたので「九月二十四日その地に十字架を建てたのでキリシタン信者は盛大な祝祭を行いました」と記している。


同じ書籍の中でガゴ神父は山口(山口県)の事を次のように記している。


 この山口の地には信者は二、〇〇〇人います。然し、此の地は食物欠乏の地です。此の地には少しの米と野菜しかありません。然し元は肥満の地だったそうです。この山口は海岸より遠く魚は稀にしかありません。物は多く不足しています。

 牛は殺さず野獣の肉は時々食べます。日本人は唐人を非常に軽蔑しています。日本人は戦いを好み、十歳位より刀を帯び刀をだいてねているようです。


C、 一五五七年。ビレラ神父は平戸よりイエズス会に長い報告文を送り我が国に於ける布教の状況を報告している。その中に日本人が大分で祝日の日に次のように牛肉を食べた事が報告されている。そして、之の文章が日本人が牛肉を食べた最初の報告文であるとされている。


一五五七年、大分に於いて四旬節が近づいた。四月十一日その聖週を向かえた。その御復活祭の翌日は大いなる祝日である。其の日は約四百人のキリシタン一同を食事に招きました。其の時、我等は牡牛一頭を買い、その肉と共に煮たる米を彼らにあげました。彼らは皆、大いに満足を以て之を食べました。また多くの貧民も集まり皆・主を讃美しました。


 一五五七年には、まだ長崎開港の前であり、大村領主大村純忠もまだキリシタンに入信していなかった。やがて一五六二年ポルトガル船は初めて大村領横セ浦(現長崎県西海市)に入港している。(以下次号)


第31回 長崎料理ここに始まる。(三)  おわり


※長崎開港物語は、越中哲也氏よりみろくや通信販売カタログ『味彩』に寄稿されたものです。

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