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  • 第19回 長崎開港430年

    長崎開港430年▲南蛮の小鉢(越中文庫)長崎の開港は元亀(1571)の初夏である。最初に長崎に入港してきたポルトガル船の船長はTristao Vas de Vesigaといった。当時の長崎の町は、港の中につき出ていた岬の上に新しく建てられた教会(サン・パウロ)と其の前に開かれた6町があった。そして其の町の住人は全て他国より移住してきた信者の人達で1,000人前後はいたようである。以来、毎年のようにポルトガル船が定期的に入港したので、他国の商人達が集まってきた。そして其の町の発展には目をみはらせるものがあった。協会の神父さん達は全てポルトガル、スペインの人達であり、ポルトガル船の人達も自由に町中を歩き、町の人達もすべてが信者であったので毎日曜ごとの教会のミサには、いつも信者で溢れ、ラテン語の賛美歌が遠くまで響いていたそうである。前号で私は、其の当時長崎の町でつくられたパンや輸入されてきた砂糖の事について記したので今回はその他の南蛮料理について考えてみることにした。1.平戸の南蛮料理長崎の南蛮料理のルーツは平戸の町にあり。平戸城の中にも南蛮料理を作る料理人がいた。▲スープを飲む南蛮人(越中文庫)長崎の南蛮料理のルーツを訪ねてゆくと、其処には長崎の開港よりも半世紀前(1520年)に既にポルトガル船の入港があり、以来南蛮貿易の街として栄えていた平戸の町がうかんでくる。そして平戸の町にも教会が建てられ信者の人達も多くいたのであるが、平戸は長崎の町とは違い古い城下町であり寺院や神官、山伏などの力も強かったので、事あるごとにキリシタンの人達と争っていた。然し当時の平戸の町は南蛮貿易の町として賑わっていたのである。1560年頃、平戸の町の様子をフェルナンデス神父は次のようにローマに書き送っている。平戸の人達は何でも食べるのですが、お坊さん達は牛肉を食べない。この地にはポルトガルと同じ食料がありますが其の量は少ないのです。平戸の人達の中には労働をしない人がいて其の人達は飢餓(貧乏)です。又この地方は寒いのです。これによっても平戸では既に牛肉豚肉が食べられていたことがわかる。現在も平戸の土産に「カスドス」という菓子がある。このカスドスの語源はカステラ・ドスというポルトガル語と考えている。カステラは我が国では一般にポルトガルの菓子(Pao-dose)であり、ドスはdose(甘い)でるので、甘いカステラの意味である。現在のカステラは非常に甘いが初期のカステラは甘味が少なかったので蜂蜜をつけたと記してある。その故に平戸のカスドスには今も蜂蜜が加えられているそうである。平戸には、この他にも南蛮料理の話がある。1621年スピノラ神父の手紙の中に「自分が平戸のお城に呼ばれた時、殿様からポルトガル式の肉の振舞いがありました」。又他の同神父の他の手紙には「城から帰ったとき夕食に冷たいけれども肉のパイ及びパンと鶏肉が運ばれ、平戸の殿よりポルトガルと日本の良い酒が贈られた」と記してあった。オランダ商館も1641年長崎出島に移される以前は平戸にあったので、オランダ人も最初は平戸に住んでいた。当時平戸オランダ商館日誌を読むと之にもヨーロッパ風料理が平戸の町で作られていたことや、当時の平戸の殿様は「鶏のむし焼き」が好物であったと記してある。そして平戸城の中には此のような南蛮料理を作ることのできる料理人がいたのである。2.長崎南蛮料理のルーツ長崎の南蛮料理は1571年の開港と共に始まる。▲江戸時代長崎港図(純心大学博物館蔵)長崎の南蛮料理のルーツは、前述したように長崎より約半世紀も前に開港した平戸の人達によって伝えられたと考えている。一体、半世紀近くも親しんだ平戸の町を離れてポルトガルの人達は何故長崎の港に来たのであろうか。そこには平戸の領土松浦隆信と大村領主大村純忠との勢力争いが第一の理由である。ポルトガルの史料によると、「松浦氏の一部の人達の中にポルトガル商人団に好意を持たない者がいる。次にキリスト教徒に不親切な人達がいるので、吾等に厚意を示している大村氏の領内の港に貿易港を移す」と記している。ポルトガル船は大村純忠と必要な協定を結び1561年7月には大村領内横瀬浦(現・裁西海町内)に入港、貿易を開始している。純忠は翌1562年6月、26名の家臣と共にキリスト教に転宗、霊名をドン・パルトロメと称した。じつに素早い行動である。之に対して反純忠派は同年11月末、横瀬浦を焼き払っている。1565年純忠は再起して長崎港外福田の港を開きポルトガル船を迎えている。神父達は1567年福田の隣り長崎村に布教を開始している。そして其処にすばらしい港を発見し1570年港を測量し、大村純忠の協力もあって1571年長崎開港となった。この時平戸の信者達は大勢移住し平戸町を作っている。ここに南蛮料理のルーツが開かれたのである。第19回 長崎開港430年 おわり※長崎開港物語は、越中哲也氏よりみろくや通信販売カタログ『味彩』に寄稿されたものです。

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  • 第501号【東洋と西洋のドラゴン・アイズ】

     すももが出回る季節になりました。すももの酸味(リンゴ酸、クエン酸)は疲労回復に効果があり、食物繊維の働きでお腹の調子も整えてくれます。何となく気分も体調もスッキリしない梅雨どきにうれしい果物です。  すももは、バラ科サクラ属の落葉小高木。枝に小ぶりの実が付いた様子は梅にも似てかわいいですね。ところで、沖縄にはすももと同時期の果実で、「竜眼(リュウガン)」と呼ばれるものがあるそうです。こちらはムクロジ科ムクロ属の木。ライチに似て、とってもジューシーだとか。名の由来はその形が「竜の眼」を思わせるからだそう。  長崎には、この果物と同名のかまぼこがあります。ゆで玉子をアジやイワシ、サワラなどのすり身で包み、油で揚げたものです。名前の由来もやはりその形が竜の眼に似ているからなのでしょう。てっきり、どこでも作っていると思っていたら、転勤族の知人らに聞いてみると、長崎以外では見たことがないという人ばかり。ということは、長崎の郷土料理ということでしょうか。  70代の地元の女性数人に話をうかがうと、「竜眼は、伝統料理とまでは言わないけれど、比較的新しい長崎の行事食かもしれないね」とおっしゃる。というのも、戦後間もない頃までは、玉子はとても貴重で、竜眼は作られていなかったと思われること。その方々が竜眼を食べるようになったのは、食生活が豊かになりはじめた昭和30年代半ば以降で、その頃から主にお正月や運動会、行楽時に作る行事食のひとつであったそうです。  ところで洋食に、「スコッチ・エッグ」というものがあります。イギリスでは惣菜の定番のひとつで、ゆで玉子をミンチで包み、パン粉を付けて揚げたものです。18世紀にロンドンのデパートで作られはじめたのが、イギリス中に広まるきっかけになったという説があります。ルーツをさらに辿ると、大航海時代にイギリスが拠点のひとつとした東南アジアから伝わったという説もあります。  長崎の「竜眼」も、「スコッチ・エッグ」も、玉子を包む素材がお肉か、魚かの違いだけで、作り方も姿もよく似ています。さしずめ「西洋と東洋のおいしいドラゴン・アイズ」といったところでしょうか。もしかしたら、長崎で竜眼が根付いたそもそものきっかけは、江戸〜明治期に全国でもいち早く西洋料理を見たり味わったりする機会があった歴史のなかで、すでに玉子をお肉で包んだ料理を目にしていて、手に入りやすかった魚のすり身で応用したということも考えられます。  一方で、「竜眼」はその名前も姿も、どこか中国料理っぽさがあります。長崎の郷土料理には、同じ「竜(龍)」が付く料理で、「飛竜頭(ヒリュウズ、ヒロウス)」があります。中国ゆかりの普茶料理(精進料理)の一品ですが、その名はポルトガル語で揚げ物の一種を意味する「フィリョース」に由来し、漢字を当てたものともいわれています。ちなみに、「飛竜頭」とは豆腐にニンジンやゴボウなどを混ぜて作る「がんもどき」のことです。   料理の名の由来や作られはじめたきっかけを辿っていくと、たくさんの枝葉に分かれ、収集がつかなくなります。ただ、ひとつ言えるのは、おいしいものは時代や地域性に応じた変化を遂げながら食べ継がれるということ。昔ながらの郷土の味をいただくことは、そうやって時代をくぐり抜けてきたパワーをいただくことでもありました。

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  • 第500号【人々と風土のたまもの】

     庭に植えられたザクロの花が咲きはじめた6月1日は、秋の大祭「長崎くんち」の稽古始めの日とされる「小屋入り」。今年の踊町である六カ町(上町・筑後町・元船町・今籠町・鍛冶屋町・油屋町)は、午前中に諏訪神社と八坂神社にお参りを済ませ、午後からは「打ち込み」(くんち関係先への挨拶)に廻りました。紋付の黒い羽織に唐人パッチ(ステテコ)姿の役員さんたち、担ぎ手や演者、そしてシャギリ(囃子)の人たちがまちを練り歩く姿は颯爽として、本番(10月7・8・9日)への期待感が高まりました。  賑やかな小屋入りの行列が通り過ぎた街角で、静かに咲いていたのが中南米原産の「トケイソウ」です。花のつくりが時計の文字盤に見えたのがこの和名の由来です。一方、英名は「passion flower」(パッション・フラワー)で、「キリストの受難の花」を意味するとか。16世紀、中南米に派遣されたイエズス会の宣教師が、この花の個性的な姿が十字架やイバラの冠などキリストの受難を象徴するものに見えたことから、そういう意味を持つラテン語の名前で呼び、のちに英語に訳されてパッション・フラワーになったそうです。  宣教師たちによって布教活動にも利用されたというパッション・フラワー。この花が日本へ渡来したのは享保年間(1716〜1736)だといわれています。当時の日本は鎖国下にあり、キリスト教は禁止の時代です。こんな曰く付きの花が一体どのようなルートで日本へやって来たのでしょうか。トケイソウは、ちょっと不思議なその容姿も相まって、いろいろな物語を想像させる花であります。  眼鏡橋がかかる中島川のそばに咲いていたトケイソウ。川面に目をやると、アオサギが獲物の小魚をじっと待つ姿がありました。中島川では、これまで数種類のサギを見かけましたが、毎年春になると新しい顔ぶれに変わるよう。現在、常連で見られるのは2羽のアオサギのみ。ここ数年、どこかペンギン似のゴイサギの姿はなく、半年前に見かけたシラサギもいません。サギ類は、各地に生息していて田んぼやあぜ道に限らず、まちなかを流れる川などでも見かけます。あなたのまちのサギはどんな様子でしょうか。  6月4日、九州地方は梅雨入り。タイサンボクの大きな白い花や、南天の小花がそぼ降る雨にぬれています。めぐる季節のなかで、港に出て海上から長崎のまちを見渡せば、恵まれているばかりとは言えない風土のなかで、長い寒村の時代を経て、16世紀からは商人のまちとして栄え、伝統の祭りやカステラ、ちゃんぽんなどのおいしい名物を生み、さらには平和の尊さを伝え継ぐまちとなった怒涛の歩みに感慨のようなものがこみあげてきます。   どの時代にも言えるのは、長崎はつねに近隣の地域や日本各地、さらには世界各国の人々とのさまざまな関わりやつながりに支えられてきたということ。人知れず大海原を越え長崎港を渡る潮風は、何にも記されることのない星の数ほどの人々の営みの先に私たちがいて、未来の人たちがいることを教えてくれるのでした。

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  • 第18回 長崎食文化の夜明け

    1.長崎食文化の夜明け長崎人が最初に口にした南蛮の味は、ホスチヤ(初期のパン)と葡萄酒。▲荷揚げ 山下南風作(純心博物館蔵)我が国ではポルトガル、スペインより来航する船を南蛮船といい、オランダ、イギリスより来航する船を紅毛船又はオランダ船といった。ヨーロッパより最初に我が国に来航した船は南蛮船である。それは1543年初めてポルトガル人が種子ヶ島に来航してより間もなくの事であったという。南蛮船は鹿児島、坊ノ津、豊後、博多などに寄港し、1549年には平戸、1571年には長崎の港に入港している。以来、本格的な我が国とヨーロッパとの通商が開始され、今年はその南蛮船が長崎に初めて入港して430年という記念の年である。この南蛮船の長崎入港には、長崎地方の領主大村純忠が熱心なキリシタンであった事とイエズス会の神父達の協力によるものがあった。その南蛮船が長崎に初めて入港して430年という記念の年である。住民は全てキリシタンの信者であり、そして此の町には神社もお寺も一つも建っていなかった。ポルトガルの人達は長崎の街中を自由に歩くことができたし、日本人女性と家庭をもっていたポルトガル人の人達も多く住んでいた。その故に長崎の町ではポルトガル風の南蛮料理や南蛮菓子がつくられ、ポルトガル語の会話もできた。私はその当時の長崎南蛮食の文化史を『第1回 西洋料理編(一)』に記しておいたので今回は其の続編として稿を続けることにした。長崎の人達が、最初に口にした南蛮の味はパンと葡萄酒であったに違いない。それはキリシタンの人達は必ず教会に行き洗礼をうけ、パンと葡萄酒を戴くことから始まるからである。パンはポルトガル語のpaoを語源としているのでポルトガル人が最初にこの言葉を我が国に伝えたものである事がわかる。パンは小麦粉さえあれば比較的容易にできるのであるが、我が国にはパンを焼く釜「オーブン」はなかったので日本では鍋を改良してパンを焼いたにしても一応の指導をポルトガル人にうける必要があったに違いない。▲ポルトガルの皿(越中文庫)我が国初期のパンは主として教会で作られていたのである。1599年10月28日付マニラ発・メスキタ神父のパンについて次のような報告書がある。京都でつくられた金箔のホスチヤの箱を去年おくりました。その中には日本の小麦でつくったホスチヤを入れておくりました。ホスチヤ(ポルトガル語hostia)については1600年(慶長5)6月長崎で発刊された「ドチリナキリシタン」を読むと次のように記してある。パンの上に、キリストの教え玉う言葉(聖書の言葉)をとなえ玉えば、それまでのパンは、即時にキリスト様のお身体の一部と変じホスチヤとなり玉う・・・・これ不思議のことなり。要約すると、同じパンであっても聖書の言葉を上からとなえると信仰的なものとして崇められるものになると言うのである。先日、長崎西坂町にある二十六聖人記念館を訪ねたら多くのキリシタン遺品の中に17世紀初期につくられたホスチヤがあった。そしてこのホスチヤこそ我が国に現存している唯一の初期のパンであろうという。2.我が国の食文化に大きな影響を与えた砂糖考南蛮船による砂糖輸入に始まる、調理用としての砂糖使用。▲ポ南蛮船の積荷 一般に我が国で砂糖を調理用として使用するようになったのは南蛮船による砂糖輸入に始まるとされている。1563年来航し1597年長崎で歿し日本についての種々の記録を残しているイエズス会のフロイス神父は日本人の食に関しても次のように記してある。1. 吾れ吾れ(ヨーロッパ人)は甘い味を好むが日本人は塩辛いのを喜ぶ。1. 吾れ吾れは砂糖、卵をつかって麺類を食べるが日本人は芥子や唐辛子をつかう。1.日本人の汁は塩からい。日本人は吾れ吾れのスープを塩気がないという。然し1600年を過ぎる頃には南蛮船が長崎に毎年運んでくる砂糖の味を日本人は楽しみ次第に次のような砂糖菓子がつくられているとポルトガルの文献に記してある。Sato Mochi(訳文) 砂糖を中に入れ餅。Mochi 米で作った円いBollo(菓子)。Yocan 豆と黒砂糖をまぜて作る菓子。Sato インド、アフリカで作る甘味。1600年以降の南蛮船の積荷を調べると次第に砂糖の積荷が増えている。そしてポルトガルの貿易記録には「白砂糖は仕入値が百斤につき15匁であるのに長崎では百斤30~45匁で売れ、黒砂糖は日本人が好むので仕入値百斤4~6匁に対して40匁~60匁に売れる」と記してある。そして1655年頃になると我が国の人達も黒砂糖より白砂糖を好むようになり1700年頃(元禄時代)の記録には「白砂糖二百五十万斤、氷砂糖三十万斤、黒砂糖七・八十万斤」を輸入したと記してある。我が国で使用される砂糖は全て長崎に毎年入港してくる唐蘭船によって大いに繁昌していたと言っても過言ではない。その故にか、今でも長崎料理の味は他所の味付けに比べて「甘い」と言われている。第18回 長崎食文化の夜明け おわり※長崎開港物語は、越中哲也氏よりみろくや通信販売カタログ『味彩』に寄稿されたものです。

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  • 第499号【去来と長崎】

     中島川の上流では、オシドリがこの春生まれの子どもたちを連れて、のんびり泳いでいます。沖縄は一足早く梅雨入りしましたが、長崎はまだ五月晴れの爽やかな日が続いています。そんな中、紫陽花の季節がはじまって、夏服姿の人も増えてきました。  紫陽花や帷子時の薄浅葱(あじさいや かたびらどきの うすあさぎ)  芭 蕉 帷子とは夏用の麻の着もののこと。夏衣になった梅雨前、うっすらと青緑色を帯びた咲きはじめの紫陽花の初々しい姿を詠んでいます。長崎の紫陽花もちょうどいま、この句のような感じ。これから梅雨にかけて色合いが濃くなり七変化を楽しめます。  蕉門十哲のひとりである向井去来(1651-1704)に、紫陽花の句を見つけることはできませんでしたが、この季節の山の緑を詠んだものがありました。みずみずしい若葉におおわれた山の表情がまっすぐ伝わってきます。  ひかりあふ二つの山のしげりかな   去 来  芭蕉の信頼も厚かったと伝えられる去来は、長崎生まれ。長崎市立図書館そば(長崎市興善町)に「去来生誕の地」の碑が立っています。父、向井元升(げんしょう)は、儒学者で儒医でもありました。また出島に輸入されてきた海外の書物の内容を確認する「書物改め」もつとめていました。また、私塾の輔仁堂を開いて民間の子弟へ学問を教え、さらに長崎聖堂(学問所)を建立するなどしています。元升は、去来ほど知名度はありませんが、長崎の歴史に大きな影響を及ぼした人物です。別の機会にあらためてご紹介したいと思います。  さて、去来は8歳のとき父の意向で一家そろって京都に移住。十代後半には母方の親戚である福岡の久米家に身を寄せ武芸に励み上達するも、思うところあって二十代半ばで京都の家にもどります。そこでは、儒医としての名声を高めていた父の医業を継いだ兄・元端をサポート。その一方で天文学や暦数の知識を活かし、皇族や公家の家に出入りしていたそうです。  その後、去来が芭蕉に師事するようになったのは三十代半ばのこと。芭蕉は去来を高く評価し、「鎮西俳諧奉行」とまで言わしめたほどでした。去来は、身内が居住していたこともあり、たびたび故郷・長崎を訪れたといわれていますが、はっきりとした記録に残っているのは、40歳(1689年)のとき(約2カ月滞在)と、49〜50歳のとき(約15カ月滞在)の帰郷です。40歳のときの短い滞在中は、身内に問われるままにおしみなく俳諧の奥義を説いたとか。長崎を去るとき、日見峠まで見送りにきた卯七(義理従弟)との別れを惜しみ、「君が手もまじるなるべし花薄」の句が詠まれました。この句は約100年のちの1784年に長崎の俳人たちによって句碑が建立され、現在も日見峠に近い場所に残されています。  49歳のときの帰郷では、いろいろな人に招かれて度々句会に参加。長崎の俳壇に大きな影響を及ぼしました。高潔で恩愛の人であったといわれる去来。諏訪神社、春徳寺、梅香崎町、飽の浦町など長崎市内には去来ゆかりの場所がいくつも点在しています。興味のある方は、訪ねてみてはいかがでしょうか。  ◎  参考にした本/「俳諧の奉行 向井去来」(大内初夫・若木太一 著)、「向井去来の句碑・足跡を訪ねて」(宮川雅一 著)

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  • 第498号【大きなクスノキをめぐる】

     長崎港を囲む山々は青葉若葉におおわれて、すっかり初夏の装い。なかでも目を引くのが黄緑色のみずみずしい葉を茂らせたクスノキです。この時期は小さな白い花がたくさん付くので、若葉がますます輝いて見えます。あらためて長崎にはクスノキが多いことを実感する季節でもあります。  クスノキ(楠)は南の木と書くように、暖かい地域に育つ樹木です。「緑の国税調査」(環境省の自然環境保全基礎調査のこと)によると、クスノキの分布範囲は関東以南の太平洋側、とくに九州地方に多く見られるとのこと。九州のなかでも鹿児島は、特にクスノキとのゆかりが深いところのようです。江戸時代、出島を通して西洋に輸出された品物には銀や銅、漆製品、伊万里焼などがありますが、クスノキを原料に作られる樟脳もそのひとつでした。当時の樟脳の主な製造・輸出元は薩摩藩。そうした歴史もあって、クスノキは鹿児島の県木にもなっています。  クスノキは寿命が長く、巨木になる樹種です。スギ、ケヤキ、イチョウなども大きく育ちますが、「緑の国税調査」の全国巨木リストをみると、1位の鹿児島県蒲生町の大クス(幹回り24.2m)を筆頭に、上位の大半をクスノキが占めていて、ダントツで日本の巨木を代表する樹木であることが分かります。  さて、地元長崎の県下各地には樹齢数百年ともいわれる大クスが数多くあります。長崎市中心部では、「大徳寺の大クス」(西小島町)がよく知られています。樹齢は800年くらいと言われ、幹回りは約13m。長崎県内では島原市有明町の「松崎の大クス」と1、2位を競う巨木です。ところで、クスノキは常緑樹ですが、葉の寿命は約1年で、春、新葉が出る頃に落ちます。「大徳寺の大クス」の下は、この春の落ち葉でいっぱいでした。  諏訪神社や松森神社がある上西山町の山の斜面もクスノキが多く見られます。クスノキは英語で「カンファ・ツリー」といいますが、居留地時代、長崎にやって来た外国人が、この一帯の山を「マウント・オブ・カンファ」(クスノキ山)と呼ぶほど目立っていたようです。松森神社の境内にはクスノキが群れ、もっとも巨大なものは「松森の大クス」と呼ばれています。8mはあるという太い幹から天に伸びた枝葉、がっしりとした根はどこか神聖さを帯び、思わず手を合わせてしまいます。   浦上駅近くの山王神社境内入り口にそびえる2本の「被爆クスノキ」も長崎市内でよく知られる巨木です。数年前、このクスノキをモチーフにした歌が注目され参拝者が増えました。被爆する直前まで葉を茂らせ涼しい木陰を提供していたであろう2本のクスノキは、強烈な爆風と熱線を受け無残な姿になりました。しかし2年後、息を吹き返したかのように新芽が出て、71年後の今日に至っています。五月の風が吹き抜ける昼下がり、この木の下で耳を澄ませば、心地良い葉ずれの音が聞こえてきます。この音は、長崎県で唯一「日本の音百景百選(環境省)」に認定されたとか。いつまでも奏でてほしい平和の葉音でありました。

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  • 第17回 阿蘭陀料理編(二)

    地方史研究に外国文献を取り入れ、新分野「長崎学」を開拓した古賀十二郎。▲ポルトガルの絵皿(越中文庫)今年の長崎には"ながさき阿蘭陀年"の各種行事に軌をあわせるように、なかにし礼先生の小説・長崎ぶらぶら節の直木賞受賞、それに続いて市川森一先生の脚本、深町幸男先生の監督による映画化で観光地長崎は今更ながら全国的に大きく認められてきた。この小説の主人公は実在されていた古賀十二郎先生と名妓愛八である。古賀先生は長崎の二十世紀を代表される博学の人で明治12年長崎五島町の旧黒田藩御用達で素封家萬屋の長男として家督を継いでおられる。先生は長崎商業高校を卒業後、東京外国語学校に進学、やがて郷里に帰られて以後は長崎県立図書館の創立など長崎文化の推進に尽くされている。先生の学風は従来の地方史研究にみられなかった外国文献を大いに取り入れられ研究されたことで、ここに新しく、「長崎学」という新分野を開拓された功績は各方面より高く評価されている。1.長崎学における食文化長崎人の食習慣などを集録した、代表的著者「長崎市史風俗編」▲平戸三川内焼 デミタス・カップ(越中文庫)古賀先生の代表的著者に長崎市史風俗編があり其のページ数は上遍742ページ、下遍330ページの大冊で大正14年11月長崎市役所より市史佛寺編、神社編などと共に出版されている。風俗編は18章に分類され其の第9章が衣食住であり、同章の第2節(P618~700)が料理となっている。料理は先ず1,卓袱料理。2,南蛮料理。3,ターフル料理。4,長崎料理。5,揚屋。6,待合。7,料理屋。8,鰻屋。9,鋤焼屋。10,食事。11,牛肉類其他食用の禁。12,夜打。13,菓子其他。14,煙草と阿片。に分類されている。この内第10食事というのは長崎人の平常もちゆる食事のことが集録されている、その中より2、3の事を拾うとイ)長崎人の家庭では朝飯は冷飯の茶漬けに香のものを用う。味噌を朝飯に用うることはない。これは贅沢な家庭にてもこの習慣あり。 但し客人に対しては朝飯でも汁物、魚肉類を出すことは云ふ迄もなし。ロ)冬になると朝芋がゆを用うることもあり。天明8年(1771)長崎に遊学した司馬江漢の日記の文に「11月11日、雨天、朝・・・・・・夫よりしてサツマ芋の粥(かゆ)を喰ふ。」と記してある。2.長崎学とターフル料理ターフルとは、蘭語の食卓の意。パン、酒類など出島オランダ屋敷の食生活を解説。▲色絵コンプラ正油瓶(越中文庫)ターフルとは蘭語のTafelに外ならぬのである。そして食卓と云う意味を持っている。と先生の説明は始まっている。そして続いてパンの説明が記してある。パンというのは蘭語ではなくポルトガル語paoスペイン語でpanと称した。蘭語ではbroodというが長崎人にあわせてパンと言っていた。パンはオランダ人の主食で長崎の街に唯1軒のパン屋があり、毎日数をきめて焼かれていた。そのパンは出島オランダ屋敷に納入するだけの数が焼かれ日本人にはパンを売ることは禁止されていた。それはキリスト教とパンとは関係があり、「パンはキリスト教の肉、葡萄酒はキリスト教の血なり」と教会で教えられていたからである。出島のオランダ人と長崎のパン屋との間には次のような取り決めがなされていたと1649年8月4日の出島オランダ商館日記に記してある。向う1年間は1匁に10個のパンのかわりに善く焼いた目方もちがわぬパン11個半ずつ納めると言ってきた。これで目方65匁のパン100個であったのが115個となった。次にターフル料理によくでてくる言葉としてはボートルという言葉がある。古賀先生は「ボートルとは蘭語のboterである」と説明され元禄15年(1702)6月13日より来崎していた土佐藩士吉本八郎右衛門の日記を引いて出島のオランダ人の食生活について次のように説明されている。パンと申す小麦粉にて仕候餅に、牛の乳を塗り申候更に、先生は明和2年(1765)刊行の「紅毛詩」を引用されてバタは「牛の乳をねりつめたものなり。紅毛人諸食物にまじへ食す。日本の鰹節を用ふるがごとし。此もの丸薬となし、衣に砂糖をかけ小児の百日ぜきに用ゆ、効あり」と説明されている。洋食器の中にフォークがあらわれてくるのは出島のオランダ式の食卓からで、ポルトガル船の時代にはまだフォークがあらわれていない。先生の論考には次のように記してある。ホルコという。蘭語Vorkにあたる。蘭語辨惑には「物をこの器にてさし喰ふ俗に関さしといふなり」とある。長崎ではホコと称する。長崎名勝絵には三刃鑽と記し右傍にホコと片暇名をつけている。英語にてはforkという。ターフル料理には酒類もいろいろある。葡萄酒、麦酒、アラキ酒、焼酒の名をあげられている。このうち麦酒は蘭語のbierに外ならぬのである。蠻語箋には「麦酒 ビール」とある。亦長崎の出島で編集されたドーフハルマ辞書にはBiter Oomogite Kosiraje-tar' nomi mono.とある。ビールも亦紅毛船によって長崎に舶載されたものである。アラキ酒はよく出島オランダ屋敷の招待客のもてなしに食卓に並べられている。アラキ酒は蘭語orakと云う。ポルトガル語ではaracaスペイン語ではaracフランス語ではarack、英語ではarack(or racl)その母語はアラビヤ語aragに見いだすのである。古賀先生は更に言葉を続けられてアラキ酒は我が国では阿刺吉、荒気など書いた。蘭領インドのバタビヤ産のアラキ酒は最良のものである。アラビヤ語のaragは汗または汁という意味を持っている。東インドのイスラム教徒の間にこの言葉は普及した。そして強い酒と云う意味である。そして古賀先生は「これは要するに強い酒である」と結ばれている。古賀先生は上述のように東京外大の御出身で語学には非常に堪能であられ、この酒の解説は先生ご自慢の文であられた。第17回 阿蘭陀料理編(二) おわり※長崎開港物語は、越中哲也氏よりみろくや通信販売カタログ『味彩』に寄稿されたものです。

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  • 第497号【崇福寺の吉祥文様と大釜】

     熊本地震で被災された方々には心からお見舞い申し上げます。長崎にとって熊本はお隣の県。熊本が揺れるとき、長崎はその余波を受けながらも日常生活への影響はなく、熊本・大分で避難生活をおくる方々へ多くの人が思いを寄せています。いま現地へはボランティアが入れるようになり、各地の自治体などで被災地への支援物資の受付がはじまっています。状況を見極めながら、微力でもできる支援を続けていきたいと思います。  クスノキの若葉がまぶしいこの季節。九州ではツツジが満開。アヤメ属の花々もあちらこちらで咲きはじめています。長崎市鍛冶屋町にある唐寺、崇福寺へ足を運ぶと花期を迎えた「カラタネオガタマ」がバナナに似た甘い香りを漂わせていました。モクレン科オガタマノキの仲間のひとつで、やや黄色をおびた花びらをもつ「カラタネオガタマ」は中国原産。江戸時代に日本に伝わったといわれています。ちなみに日本のオガタマノキの花びらは白です。  崇福寺の「カラタネオガタマ」は、参道の階段を上った先にある「第一峰門」(国宝)のそばに植えられています。1696年頃に建てられた「第一峰門」は、吉祥文様が彩り豊かに描かれた朱色の門扉です。扉に施された青いコウモリ、白いボタンの花が目を引きます。軒の部分にも、瑞雲、丁子、方勝(首飾り)、霊芝など、福につながる意匠がぎっしり描かれています。この絵のタッチは、いまどきのイラストめいていて楽しい。崇福寺ではこうした縁起かつぎの意匠が各所に見られます。そのご利益が被災者の方々に届くことを願いながら境内をめぐります。  江戸時代初期、長崎在住の福州のひとたちが唐僧・超然を招いて創建した崇福寺。境内はどこかおおらかでのんびりとした空気が漂い、日本の寺院とは違う趣き。国宝の大雄宝殿(本殿)をはじめ三門、媽祖堂、鐘鼓楼など多くの建造物が重要文化財や史跡に指定されているだけあって見応えがあります。  境内の一角には、大きな釜が祀られています。4石2斗のお米を炊くとされるこの大釜は、二代目住職の千がいが飢餓救済のためにつくったもの。そのきっかけは、延宝8年(1680)の全国的な不作による米不足でした。お米を諸国に頼っていた長崎は翌年には餓死者が出るという状況に見舞われます。大釜は不作の影響が続いていた2年後に完成。多い日には3千から5千人に及ぶ人々に粥を施したそうです。   いつの時代もさまざまな天災に見舞われ、日常生活を脅かされてきた日本。その度に、人々は助け合い、のりこえ、いまに繋いできました。未曾有の災害といわれるものでも、必ず復旧・復興の日は来ます。たいへんな状況にある被災者の方々が、まずは、きょう一日を無事に過ごされることを祈っています。

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  • 第496号【教会のある里山の植物】

     桜前線は青森あたりに到達したでしょうか。長崎のソメイヨシノは葉桜へ移行中。残りわずかな桜の花びらが静かに舞う春の休日、長崎市は外海(そとめ)地方へ足を運び、教会めぐりとのどかな里山の風景を楽しんできました。  西彼杵半島の南西部に位置する外海地方は、長崎駅から車で小1時間ほどのところにあります。半島の海岸沿いをいく国道202号線は、サンセットロードと呼ばれ、五島灘に沈む美しい夕日の名所として知られています。その道路沿いに、南から黒崎教会(上黒崎町)、出津教会(西出津町)、大野教会(下大野町)が点在。いずれも海に近い静かな里山の風景のなかに建っています。  「黒崎教会前」のバス停から石段を登ったところに建つ黒崎教会(1920年完成)。山の緑を背景にした煉瓦積みの外観が目をひきます。この地域は遠藤周作の小説『沈黙』の舞台となったことでも知られています。車から降りて最初に出迎えてくれたのは、イソヒヨドリです。教会の屋根の十字架の上から、まるでおしゃべりでもしているかのように鳴き声を響かせていました。鳥好きの知人によるとイソヒヨドリは、ヒトが鳴き声をマネすると、それに返答することもあるそうです。  黒崎教会から国道を北上。途中、遠藤周作文学館があり、その向こう側に丘の上に建つ出津教会(1882年完成)が見えてきます。出津教会は、風あたりの強さに耐えられるよう建物は低めで堅牢な設計になっているとのこと。出津文化村とよばれる教会周辺を散策していたら、ムサシアブミ(サトイモ科)を見かけました。黒紫色で縞模様のある花は、葉や茎とともにおおぶりで目立ちます。地域によってはレッドデータブックに記載される植物です。  出津教会から202号線をさらに北上して、山の中腹に建つ大野教会(1893年完成)へ。途中、山の斜面から海側を見渡せば、沖合にかつて炭鉱の島として栄えた池島が見えます。大野教会は石造りの小さな教会堂。出津教会もそうですが、フランス人のド・ロ神父が私財を投じ、信者さんたちの奉仕によって建造されています。ド・ロ神父は建築に造詣が深く、黒崎教会も敷地造成や設計などで関わっているそうです。  新緑と土の香に包まれた大野教会周辺の土手や道端では、紫色の小さな花をつけたキランソウ(シソ科)がたくさん生えていました。「ジゴクノカマノフタ」という別名を持つこの植物は、咳を鎮め、痰をのぞき、解熱や健胃の効果もある生薬にもなるとか。ちょっと怖い別名は、「病気を治し、地獄の釜に蓋をする」という意味なのだそうです。   近くには、四方竹(しほうちく)も生えていました。中国南部が原産の細めの竹で、茎部分が四角なのが特長です。長崎市では鳴滝塾跡(現・シーボルト記念館)の庭園の一角でも見られます。めずらしい竹だと思っていたら、高知県にも生えているらしく、煮物や炒めものなどにして食べている地域があるそうです。四方竹のタケノコは秋採れ。アクが少なく、歯ざわりも良いとのこと。江戸時代、密かに信仰を続けた大野教会周辺の集落でも食べられていたかもしれません。

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  • 第16回 阿蘭陀料理編(一)

    1.幕末から明治初期の洋食最初のパスティに始まり、ペール(梨)コムポットまで13種。▲古渡オランダ皿(越中文庫) 私は前号で紹介した東北大学狩野文庫所蔵の「阿蘭陀料理煮法」と「阿蘭陀料理献立」を参考にしながら幕末より明治初期の洋食を今回は述べてみたいと考えている。  両書共に最初に出されている西洋料理としてパスティをあげている。その料理の材料としては家鳩、鶏かまぼこ、椎茸、ひともじ、ささ燕巣、鶏卵、粒胡椒、肉豆蒄の粉と記しその調理法は、○家鳩は四つ割りにしてボートルを以・赤く色つく様に炙り焦付ときは水を少しづつふりかけ撹する也。○鶏の肉コウ(かまぼこ)鶏の肉を細くさき、鶏肉、ビスコイト、粉胡椒、肉豆蒄の粉を入、塩を加えまぜ合わせおおよそ竜眠肉の大きさに丸くし鳩同様にボートルにて焚る。○鶏卵はゆで長さに四つきり右の具を一同にし胡椒の粉、肉豆蒄の粉を加え鶏汁にて煮込む。2番目の料理はケレーフトソップと記してある。その調理法については次のように記述してある。○材料。伊勢海老肉コウ、椎茸、ひともじ、海老を丸ながらゆで頭を去、竪に2つに切りて肉を抜き取り細くたたき、ひともじをきざみ、粉胡椒、肉豆蒄の粉、鶏卵、塩、ビスコイ此6品を加え撹ぜかまぼこを造る。これを海老のからにつめボートルにて煮る。煮方はゆで海老の頭をつき砕き鶏汁に入れ撹ぜ布にて漉しアクを去る、此汁にて上の具を煮塩を加え塩梅するなり。3番目の料理としては次の2品がでる。1,ゲコークト・ヒス(ゲコークト=煮物・ヒス=肴)鯛鱈鰈の類1,ゲブラード・ハルク(ゲブラード=揚物・ハルク=豕)炙豚 ボートル但是よりペールコンホット(梨子)まで13種あり。上のゲーコクト・ヒスを引取り、その跡に一同でる。ゲーコクト・ヒスの煮方は、魚・鯛、鱈、鰈の類の鰓腸を去り、塩水にて煮る。からし・ボートルにてゆるめ煮魚を浸し食す。1,ケブラード・ハルク 豚の体股を取、毛皮を去り、膝節より足先を切、接股のさかいの所に割のかたを付て二重になしてまげ糸にて伸びぬようにくくり付け水にてよく煮、汁を捨てる。ボートルおおよそ茶碗2盃入る。色つく様になるまで煮る。折々水をうちふり鍋に煮付ぬように煮あげ、其汁に塩を加えかけ汁とする也。但し豚に限らず野猪・羊・野牛の類いづれも是に倣ふ。2.阿蘭陀料理煮法鴨料理、小鳩料理、紙焼鶏等から菓子、スープの調理法まで。▲九谷焼金彩赤絵蓋茶碗 この後、料理はゲブラードフウドル(鶏料理)ケブラードアンドホヤゴル(鷺料理)他鴨料理、小鳥料理、紙焼鶏、焼豚、焼鰻、蒸魚の料理と続き次の野菜料理3品を用意する。○ゲストーフトラアプ(蕪菁) かぶらを蒸し芹葱を置て細くきざみ、ボートル・ビスコイト粒・胡椒の粉・肉豆蒄の粉を入れ撹ぜ塩を加え鶏汁をいれ煮て塩梅す。○ゲストーフトゲルウヲルトル これば前述の材料が胡蘿蔔とかわる。○スピナアジイ(菜または千さの類を用う) 野菜を柔らかにゆで鉋丁を以て至て細かにたたきボートル胡椒の粉、肉豆蒄の粉を加え鶏汁にて堅くにつめ若汁多き時はビスコイトを加えて塩梅す。鉢に盛るときは其上をハアカにて平らめに慣て其上に鶏卵を四つ割にしてならべ別にパンを上にきせる。竿まわり長さ一寸余りに拵えボートルににて焚、是を鶏卵のあいあいに御して置なり。 次にペールコムポットが用意される。その製法は次のように記してある。梨子の砂糖煮 梨を丸むきにし蔕付の所より穴をあけしんを抜去。水にてゆであげ穴の所より砂糖をつめこみローイウエを似て煮込むなり。但、肉桂少し香気に加え又砂糖を入れ汁を密の如く濃く粘るようにするなり。折々に梨子に汁をかけ赤く色つくように煮るべし。ローイウエインというのは葡萄酒のことであり、ボートルとはバターのオランダ語である。スコイトというのはビスケットのことであり、その作り方は次のように説明されている。○パンを薄くはき臼に晒し細末にす。悉なる時はパンの上皮をはき去り内の水に浸しぶりて用也。パンの拵様は次にのぶ。パンは麦粉を白酒にて堅くなておおよそ茶碗大に丸く少し長めに造り鍋に入れ上下より蒸焼にす。始めは至極く小火にて焼。少しふくらの出来た時、武火を以焼終わる也。但白酒はまんぢうを拵る時用る白酒なり。次に菓子の事が記述されている。○タルタ、○ソイクルブロートーかすていらに当たる。○ヒロース、○スペレッツ、○スース。そして前述の「阿蘭陀料理煮法」には、その菓子の製法が記してある。 次には「汁拵様」と記し、その調理法をつぎの様に記してある。「汁は鶏を骨抜にきり水にて骨の砕るまで能く煮、布にてこし、汁をとり、別に麦の粉にボートルを入れておく・・・」とある。現在のスープに調理法を述べている。次に本書は蒸焼調理法に関することも詳しく述べてある。3.終わりにこの時期の阿蘭陀料理は、現在の西洋調理法の出発点。▲19世紀長崎に輸入されたオランダ皿(越中文庫)この時期の料理が現在の西洋調理法の出発点になったのであり、これらの料理法が一般に普及するようになったとき我が国の料理史も大きく変化してきたのである。このオランダ料理の出発点は勿論出島のオランダ屋敷に勤務させられていた3人の「オランダくずねり」(料理人)であった事も忘れてはならない。第16回 阿蘭陀料理編(一) おわり※長崎開港物語は、越中哲也氏よりみろくや通信販売カタログ『味彩』に寄稿されたものです。

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  • 第495号【長崎四福寺めぐり】

     先週末(3/19)、福岡でソメイヨシノが開花。いよいよ桜前線がスタートしました。今年の天気予測では、九州は見頃を迎える3月末頃までに気温が下がる日があるそう。花冷えが功を奏し、春の嵐にも見舞われず、桜を長く楽しめるといいですね。  日に日に温かくなっていくと散歩に出たくなります。そこで今回は、観光もかねて唐寺めぐりを楽しんできました。足を運んだのは、「長崎四福寺」と称される興福寺(1624年創建)、福済寺(1628年創建)、崇福寺(1629年創建)、そして聖福寺(1677創建)です。初代の住職が中国僧で、江戸初期につくられた興福寺、福済寺、崇福寺は、特に「長崎三福寺」とも呼ばれています。ちなみに、聖福寺の初代は中国人と長崎人の間に生まれた鉄心という僧侶でした。  まずは、長崎の桜の名所のひとつとして知られる風頭山の西側山麓へ。そこは「崇福寺通り」、「寺町通り」が続くところで、10数のお寺が並び建っています。通りの一角で出迎えてくれるのは、崇福寺の赤い山門です。三つの門があり装飾の美しさから竜宮門とも呼ばれていますが、正式には「三門」といい国指定重要文化財です。崇福寺には、国宝の「第一峰門」と「大雄宝殿」(本堂)をはじめ、いくつもの文化財を擁し、明末期の建築様式や吉祥模様など見どころ満載です。  「崇福寺通り」から「寺町通り」に抜け、興福寺へ。その山門では、大きな隠元禅師のお顔が出迎えてくれます。ここは、明末の1654年、約30人の弟子を伴って日本へ渡ってきた隠元禅師が初めて入山した由緒あるお寺です。隠元禅師は、黄檗宗の開祖として知られています。「長崎三福寺」は、隠元禅師の渡来後、黄檗宗に移行。隠元禅師の影響力がいかに大きかったかが分かります。風格ある興福寺の大雄宝殿(国指定重要文化財)は、大陸的なおおらかさが感じられます。境内の一角には三江会所門(県指定有形文化財)という門があります。三江(江南、浙江、江西)は、揚子江の下流に位置する地域で、興福寺はこの地域出身の中国人の社交場でもあったそうです。  寺町通りから徒歩約10分。長崎歴史文化博物館ある立山の麓へ。この界隈にはいずれも長崎駅へつながる「筑後通り」と「上町通り」があり、10近くのお寺が点在。福済寺と聖福寺は「筑後通り」にあります。  長崎駅により近い福済寺は、福建省は漳州、泉州の人々によって建てられました。かつては国宝を有する建造物もあり文化財の宝庫でしたが、原爆により焼失。現在は、亀の甲羅の上にたつ大きな観音像が目を引きます。この観音像は平和のシンボルとして建てられたものです。  最後は聖福寺。2014年に大雄宝殿、天王殿、山門、鐘楼の4棟が国の重要文化財に指定され話題となりました。建物の配置は、黄檗宗の大本山「萬福寺」(京都)に倣ったもの。一見、地味な印象ですが、随所に黄檗宗の建築様式が見られ、日本の寺院との違いを感じられます。    それぞれの唐寺は、長崎の歴史に大きく関与しています。一つひとつ、たっぷり時間をかけてめぐるのがおすすめです。

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  • 第494号【春めく長崎市中に飛び交う中国語】

     3月に入ってから、ぐんぐん気温が上昇。土のなかで冬を過ごした虫たちも啓蟄(今年は3月5日)前には地上に顔を出しはじめたようです。黄砂や春霞のない晴天の日に長崎港を見渡す高台へ登れば、はやくも4月を思わせる陽気。長崎地方気象台は、先週(3/2)タンポポの開花を告げました。次はソメイヨシノの開花日が待たれるところです。気象台はこうした植物の開花や鳥・昆虫の初見、初鳴などの観測を通して刻々と変化する季節を折々に発表しています。これを「生物季節観測状況」というそうで、気象台のホームページで公開しています。その観測記録から、長崎ではそろそろウグイスの初鳴が聞こえる頃で、さらに、今月中旬にはツバメやモンシロチョウの姿も見られるようになることが分かります。  「生物季節観測状況」の対象となる植物は、基本的には気象官署構内に植えた標本を使い、動物は同構内およびその付近で観測が行われるそうです。長崎地方気象台は、長崎港を見渡す南山手の丘の中腹にあります。洋館や石畳の景観で知られるこの界隈には、大勢の観光客が訪れるグラバー園もあるのですが、ほとんどの方はグラバー園を楽しむと引き返すので、そのすぐ先にある長崎地方気象台あたりの通りは、人もまばらでたいへん静かです。  話が横道にそれますが、長崎地方気象台で思い出すのは、日系イギリス人作家のカズオ・イシグロ氏のことです。『日の名残り』という作品で、イギリス最高の文学賞「ブッカー賞」を受賞した作家です。長崎地方気象台は、前身である長崎海洋気象台の時代にイシグロ氏の父親が勤めていました。1960年、父親の仕事の関係で一家は渡英。イシグロ氏が5歳のときでした。のちに作家となり、日本でも名を知られるようになって久しいのですが、雑誌などのインタビュー記事を読む限り、幼少期を過ごした長崎での記憶はほとんどないようなのが、残念ではあります。イシグロ氏の小説はとても読み応えがあり、映画化されたり、日本でもドラマ化されるなどしていますので、興味のある方はご一読ください。  さて、あす3月10日は、七十二候(二十四節気を3つに分け、約5日ごとに気候に応じた名称を付けたもの)でいう「桃始笑」(ももはじめてさく)の日。「笑」は「咲く」ことを意味していて、桃の蕾がほころんで、笑顔もほころぶ、という感じでしょうか。観光客で賑わう眼鏡橋そばの桃の花も笑っていました。  眼鏡橋を背景に記念撮影をしている人たちから聞こえてくるのは、中国語です。この日長崎港に寄港していた国際クルーズ船「スカイシー・ゴールデン・エラ」の乗客でしょうか。思えば江戸時代初めの長崎では、貿易でやってきた中国人は市中に自由に雑居していたので、まちなかではごく普通に中国語が飛び交っていたはずです。出島の築造から半世紀後の1689年以降は、中国人は「唐人屋敷」というエリア内で暮らさなければならなかったとはいえ、出島のオランダ人とくらべれば、市中への出入りは比較的ゆるやかであったといわれています。  眼鏡橋界隈に飛び交う中国語に、江戸時代の風景が重なる眼鏡橋。時代はめぐるということでしょうか。

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  • 第15回 長崎オランダ年によせて

    1.今年は長崎オランダ年という400年前、我が国初のオランダ船は、豊後国(大分県)に到着。▲ギリシャ色絵鉢 編集子より今年は「長崎オランダ年」という行事があるので、今回はそれにそった長崎料理物語にして戴きたいとの依頼があった。  今年は日蘭交流400年の年であるので長崎県市では「長崎オランダ年」と銘打った各種記念行事を行うという。 然し、400年前すなわち1600年の初夏オランダの貿易船が我が国に初めて到着したのは豊後国(大分県)の海岸であったと記してある。そして、その後1609年オランダ船は平戸に入港、更に長崎の港に初めてオランダ船が入港したのは1641年6月25日早朝でカピタン(オランダ商館長)は早速出島に上陸したと記してある。  それ以来オランダ船は、1859年に至るまで我が国では唯一長崎港にのみ入港することが許可されていたので、其の間は全てヨーロッパの近代文化は長崎の港を経由して我が国に渡来してきたのである。  長崎でのオランダ人は出島オランダ屋敷にのみ居住することが許され、許可なく出島外に出る事は堅く禁じられていた。2.出島内でのオランダ人の生活生活様式は全てヨーロッパ式、年に一度は「オランダ正月」を催す。▲長崎板画・阿蘭陀人卓子図(長崎市立博物館所蔵) オランダ人の出島内での生活は全てヨーロッパ式である事は幕府は認めていたが、オランダ人女性の渡航は禁じた。然し、そのかわりに丸山遊女の出島出入りを認めることにした。 出島内の朝夕の食事は勿論洋食であり主食はパンで、牛肉やバターが食べられ、コーヒーやビール、葡萄酒も飲まれていた。  そして年に一度、出島関係の人達が出島オランダ商館より招待をうけごちそうになっていた。これを長崎の人達は「オランダ正月」といった。なぜ、長崎の人達はこの日を「オランダ正月」といったのであろうか。 それは其の招待日が、我が国での暦は当時東洋的旧暦であったが、出島内では西暦がつかわれ其の1月1日に招待をうけていたからである。  長崎名勝図絵(1800年頃編纂)にこの日の事について次のように記している。 オランダ正月とて出島館中に年々定まる祝日あり。冬至の後十二日に当たる日なり。此日館中盛饌あり・・・ オランダ人の食事は、箸を用いず三又鑚(ホコ)快刀子(ナイフ)銀匙(さじ)の三器を用う。  ホコは三股にして先は尖りて長く象牙の柄をつく、以之、器中の肉を刺し、ナイフを取りて切さき、之をサジにすくい食す。  又上器三器と共に白金巾(白布)を中皿に入れて人毎に各一枚を卓の上にだしておく。白金巾は食事のときに膝の上におほひ置く也。 同書にはこれに続いて料理の献立が記してある。私はその出島オランダ料理全般について、本紙「長崎料理ここに始まる」-其の2おらんだ料理編より其の5までの間に記したので、この方面に興味をもたれる方はご参考にして戴ければ幸甚である。3.史跡地出島の発掘成果と食文化発掘された資料を基に、出島食文化を新しい視点で研究。▲現川焼茶碗(長崎純心大学・清島文庫) 戦後・国指定史跡出島約12,000平米の発掘調査は進み着々として大なる成果をあげている。その中でも食文化に関する新研究は注目を集めている。 長崎県史編纂委員であられた箭内健次先生が中心になられて、平成5年3月親和銀行文庫第17号として「長崎出島の食文化」が発刊されている。この本には新しく発掘された資料を中心に出島食文化の実態を新しい視点から調査され良く編集されており、我が国の西洋料理を知る上には拙著の「長崎の西洋料理」(昭57、第1法規社刊)と共に一読しておかれることをお勧めする。 私は同書の中で特に興味を引かれたものの一つに片桐一男先生執筆の「鷹見泉石とオランダ料理」の中で江戸における「和蘭の会」の人達の活躍であった。「和蘭の会」の中でも、特に私は出島カピタン・H・ヅーフよりオランダ語の名前をつけてもらうほどオランダ狂とよばれた江戸の菓子商伊勢屋七左衛門兵助の伝記に興味をひかれた。  彼のオランダ名はFrederik van Gulpenと記してある。「和蘭の会」では会食があった記事は読まれるが、その時の料理、飲み物、その時の食器が如何なるものであったかと言うことについては記録がないようである。 ただ菓子類についてはパンとカステラが作られていたことは記録の中よりわかる。そこで、パン・カステラを作るとなれば、其の製造には当然のこととして引釜(オーブン)を必要とする。また引釜を用意したとなると、オーブンを使用する料理もつくられていたと考えている。 私はこの、つくられたであろう料理について前回にもご指導をうけた千葉大学教授の料理研究家松下幸子先生より先年送って戴いた東北大学狩野文庫所蔵の「阿蘭陀料理献立」と「オランダ料理煮法」を参考書として取り上げてみることにした。松下先生の但書によると「両書共に幕末のものではないかと東北大の書誌に詳しい人のお話でした」と記してあった。(以下次号)第15回 長崎オランダ年によせて おわり※長崎開港物語は、越中哲也氏よりみろくや通信販売カタログ『味彩』に寄稿されたものです。

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  • 第493号【桃カステラ、寿桃、マーラカオ!】

     三寒四温。日によって大きく揺れる気温差にひとの体はとまどいがち。スズメやイソヒヨドリ、ムクドリなど、日差しのなかで遊ぶ中島川の鳥たちも、まだまだ体をふくらませて防寒体制。甲高くチィー、チィーとさえずっているのはメジロでしょうか。名前の由来となった目のまわりの白い輪と黄緑色のきれいな羽を生垣からのぞかせていました。ここ数年、住宅街でもよく見かけるようになったメジロ。冬場、庭の小枝にリンゴやミカンを刺していると、目ざとくやってくるかわいい小鳥です。メジロの鳴き声は、「長兵衛、忠兵衛、長忠兵衛(チョウベエ、チュウベエ、チョウチュウベエ)」と聞こえるといわれ、鳥好きの人は、その声を頼りに姿を探します。ただ、この長めの美しい鳴き声はもうちょっと温かい季節にならないと聞けないようです。  長崎のまちは、「長崎ランタンフェスティバル」が終わったばかり。期間中、厳しい寒さに見舞われる日も多かったのですが、今年も大勢の人々がランタンの下に集いました。中国ゆかりのさまざまな催しが行われるなか、孔子廟で連日開催された中国変面ショーは、一瞬で仮面が変わる妙技を間近で観られ、大盛況でした。  ランタンが片付けられ静かになった長崎のまちをズンズン歩けば、気持ちはすでに次の季節へ向かい、あちらこちらの店頭に出ている「桃カステラ」が気になります。  縁起物の長崎の郷土菓子、桃カステラ。南蛮貿易時代に伝えられたカステラの生地の上に、桃をかたどった砂糖細工がのったお菓子で、長崎では桃の節句や出産祝いの贈答に用いられます。桃は不老長寿の象徴、魔除けのフルーツとされ、中国では桃の形をした「寿桃(スートゥ)」というおまんじゅうが、いまも長寿のお祝いや結婚式などのおめでたい席に用いられるそうです。「寿桃」は、長崎では「桃まんじゅう」と呼ばれ、黒あんや白あんのおまんじゅうと並べて売っているお店もよく見かけます。中国の文化が色濃く残る長崎ならではの光景かもしれません。  中国ゆかりのお菓子といえば、「マーラカオ(馬拉糕)」があります。中国語の「馬拉」は、「マレーシア」を意味し、「糕」は、蒸しケーキのことだそうです。生地がふんわりしているのはカステラと同じですが、卵の風味が効いたカステラとちがい、こちらは、調味料に「しょうゆ」や「酢」を使ったり、またはちゃんぽん麺にも使う「かん水」を用いたりします。これらの調味料が、あの茶系の色合いとアジアらしい香りを生んでいるのです。   ほおばれば、どこか懐かしい風味と味わいがする「マーラカオ」。日本の食文化が、中国の影響を大きく受けた証のひとつかもしれません。

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  • 第492号【雪景色から一転、極彩色の長崎ランタンフェスティバルへ!】

     1月下旬、九州各地で記録的な寒波が訪れた日、大雪に見舞われた長崎市は、観測史上最高の17センチの積雪を記録。交通がマヒし、水道管も凍結するなど生活に影響がありました。被害に合われた方々には心からお見舞い申し上げます。慣れぬ雪に大人たちが右往左往する一方で、子どもたちは一面の雪景色に大喜び。雪だるまを作ったり、雪合戦をしたりして歓声をあげる姿が見られました。  いつもなら観光客で賑わう眼鏡橋や出島界隈は、雪に埋もれて人の気配はなく、南蛮貿易時代、長崎の領主の居城があった高台から見渡せば、まちは白く静まりかえっていました。長崎が雪景色に包まれるたびに思い出すのは、江戸時代に川原慶賀が描いた『長崎港雪景』(ライデン国立民族学博物館所蔵)です。長崎港を囲む山々も出島も新地も雪に覆われ、シンとした空気まで伝わってくるような絵図です。きっと、このときも大雪だったと想像され、慶賀も子どものようにドキドキする気持ちを抑えながら静かな雪景色を描いたのではないでしょうか。  この冬いちばんの出来事と思えた大雪も、どこか遠い日のことのように思えるのは、いま長崎のまちを埋め尽くしているランタンのせいでしょうか。春の訪れを告げる極彩色のあたたかな灯りが、凍てついた気持ちを溶かすようです。  2月8日(月)からはじまった、「長崎ランタンフェスティバル」。国内外から100万人が訪れる長崎の冬の風物詩です。旧正月(春節)を祝うこのお祭りは、2月22日(元宵節)まで開催されます。長崎の中心市街地に、約1万5千個にも及ぶランタンや中国の故事にちなんだ多彩なオブジェが各所に設置されています。  物語やゆかりを知っていれば、なお一層楽しめるオブジェの中で、ぜひ見てほしいのが干支の巨大オブジェです(長崎新地中華街に隣接する湊公園の会場に設置)。今年は申年にちなんで「西遊記」がモチーフに。高さ10メートルもあり、孫悟空や三蔵法師、猪八戒、沙悟浄などが登場する楽しいオブジェです。  期間中、中国獅子舞、中国雑技、龍踊りなどの催しが行われたり、中国らしい雰囲気を満喫できる会場は全部で7カ所(長崎新地中華街、中央公園、唐人屋敷、興福寺、鍛冶市、浜んまち、孔子廟)。孔子廟では、なかなか見る機会のない中国伝統芸能の「中国変面ショー」が毎日公演されています。   ランタンの色は朱色が中心ですが、眼鏡橋がかかる中島川は黄色のランタン、長崎新地中華街そばを流れる銅座川は桃色のランタンと、それぞれの川でまったく違う雰囲気の灯りを楽しむことができます。灯りは夕方になると灯されますが、昼間青空を背景にしたランタンもきれいです。長崎のまち中にくまなく丁寧に施されたランタン装飾は、期間中、雨風や雪にさらされながらも、ほとんど乱れることがありません。いつもすみやかに設置や解体をして、この祭りを支える黒子さんたちに感謝したくなります。

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