第510号【西海キリシタンゆかりの地を訪ねて】

 「北海道の各地では積雪…」というニュース映像が流れていましたが、九州では小春日和が続き日中は20度を超える日もあります。そんな晴天に恵まれた先週末、「長崎日本ポルトガル協会」が主催するバスツアー「西海キリシタン史跡めぐり」に参加。自然豊かな西彼杵半島(にしそのぎはんとう)に息づく歴史を味わってきました。

 

 九州の北西部に位置する西彼杵半島。南北に伸びる半島の西岸は角力灘・五島灘に面し、北岸は佐世保湾、東岸は大村湾に面しています。農業が盛んな地域で、行き先々で収穫した稲を天日干ししている風景が見られました。



 

 江戸時代、この半島一帯をおさめていたのは、日本初のキリシタン大名・大村純忠で知られる大村藩です。今回訪れた室町から江戸時代にかけての史跡は、藩主・純忠が洗礼を受け、その後間もなく禁教の時代がやってきて、すでにキリシタンとなっていた人々が迫害を受けた歴史の跡でありました。

 

 長崎市街地を出て間もなく、遠藤周作の『沈黙』の舞台となった長崎市外海地区(黒崎・出津)へ向かう途中でバスを下車。国道202号そばの山の斜面にある「垣内の潜伏キリシタン墓碑」(長崎市多以良町垣内地区)を見学しました。長方形の石を伏せた「長墓」がいくつも並んだこの墓碑群は、キリシタンが厳しい迫害を受けた江戸初期のものといわれていますが、破壊されることなくほぼ完全な形で残っているとか。迫害を免れた理由は、垣内地区が佐賀藩深堀領の飛び地であったため、周囲の大村藩領に比べ取り締まりがゆるやかで見逃されたという説や「平家の落人の墓」と伝承されていたため、という説があるそうです。



 

 国道をさらに北上。天正遣欧使節のひとり、中浦ジュリアンの出生の地である西海市中浦へ。畑に囲まれたのどかな場所に「中浦ジュリアン記念公園」があり、海原の向こうのローマを指差す中浦ジュリアンの銅像が建っていました。1582年(天正10)、長崎港を出帆した使節団。ローマ教皇に謁見し日本にもどったのは8年後の1585年。キリスト教の布教が禁じられた時代でした。帰国した中浦ジュリアンは迫害のなか布教活動を続けますが、その後捕えられ長崎・西坂で殉教します。西果ての小さな村に生まれ育った中浦ジュリアン。波乱に満ちた人生をおくり、まさか400年以上も先の未来で語られる人物になるとは想像だにしなかったことでしょう。



 

 半島の北端に近づくと、大根畑が目立つようになりました。「ゆでぼし大根」の産地として知られる面高(おもだか)地区です。冬、収穫された大根は短冊に切って大釜で茹でられ、空っ風にさらされておいしい「ゆでぼし大根」になります。栄養価も優れ、素朴な味わいが人気です。



 

 史跡めぐりでは、大村純忠を支援した多此良領主小佐々氏の墓所(敷地内に数基のキリシタン墓碑がある)、純忠が長崎に先駆けて南蛮貿易港として開港した横瀬浦、さらに大村湾に面した場所にある小干浦キリシタン殉教碑なども訪ねました。各所を案内してくれた方がツアーの最後に、キリスト教関連の史跡に対する土地の人々の言い伝えは、激しい弾圧を逃れるために、口をとざした部分があったり、事実がゆがめられたりしているものが多く、真相は闇の中というケースがほとんどではないだろうか、という話が印象的でありました。





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