第21回 長崎版画に描かれた異国の料理

はじめに


先日、みろくやさんより長崎版画について教えて戴けないかとのご要望があったので、今回は其の中より異国の料理を題材にした版画は長崎にしかないので取りあげてみることにした。



1.長崎版画とは



▲阿蘭陀人食事之図 竹壽軒版

(長崎県立美術博物館蔵)


 江戸時代における版画は、其の土地の名勝古跡を人に語るときのよき資料となるし、旅行きの時の手軽な土産品(現代の絵葉書)にもなった。又、美人図の版画は現代のブロマイド的なもので江戸時代には特に評判の物として大いに発売されていた。


 次に江戸時代の版画は大別して三つの種類に分類することができる。


 一つは江戸を中心にした江戸版画、二つは京都、大阪を中心にした上方版画、三つは長崎の版元で製作された長崎版画である。


 その長崎版画の特長は他の地方では描くことのできなかった唐船、蘭船の図でありその船で来航してきた異国の人達の生活風俗を描いた異国趣味の版画であった。



2.版画と地図



▲漆絵 オランダ船(越中文庫)


 版画の今一つの作品として旅行者のために各地の地図が造られていた。其の地図にも墨色一色のもの、それに手彩色が加えられている物と、多色刷りのものもあった。

 其の地図の中でも「肥州長崎之図」は評判のものであった。


それは地図の中に出島や唐蘭船など異国趣味の物が描かれていたからである。そして其の種類も30種類のものが造られる程評判の高いものであった。


 長崎地図版画研究の参考資料としては1977年6月京都古典同好会が発刊している「古版長崎地図集」がある。一読されておかれるとよい。


 長崎版画初期のものとしては1681~88年の間に製作されたと推定されている墨刷筆彩の長崎図がある。大きさは63.4×15.1糎であり版元は記されていない。

 そして、この地図の特長は、地図の下欄に南京人、阿蘭人など異国の人物5人と異国までの距離が書き込んであり、港内には唐蘭船図や港番所が描かれているところにある。



3.長崎版画と料理



▲オランダの皿(越中文庫)


 当時の人達にとっては唐蘭館内での食事風景には大いに興味がもたれた。それは唐蘭館内の生活は全て異国風であった事と其の中には係役人以外は自由に出入りすることが禁じられていたからである。


 この人々の好奇心に目をつけて発売されたのが唐蘭館内食事風景の版画である。

 この種版画の初期の物としては版元竹寿軒製作の「阿蘭陀人会食の図」がある。そしてこの時代より長崎版画にも江戸版画の技法を取り入れて合羽刷や多色刷の版画が製作されている。


 竹寿軒の図にはテーブルを囲んで5人のオランダ人が椅子に座り、一人の黒人の召使は酒を注ぎ、他の黒人は大皿に盛られた料理を運んでいる。そしてオランダ人の手には各人フォーク、ナイフ、スプーン、コップをそれぞれ持たせ、テーブルの上には、大皿に乗せられている角のついた牛の頭の料理を中心に5皿の料理が描かれている。


 更に図の左手には高台に下げられた鐘が描かれ、其の横に次の文字が読まれる。

 食鐘 メイザンとも云う


 図の左下には「長崎恵比寿町 竹寿軒改板」と刻してある。

 竹寿軒は宝暦年間(1751)を中心に活躍した版元で、始めは東浜町にあり版元は中村 惣三郎と言い、後には恵比寿町に移っている。


 次に此の図には「改版」と記してあるので此の版画の他に原本があったと思うが不明である。


 次には豊嶋屋版の大判の蘭人宴会図三種と蘭人会食図がある。


そしてこの図の上部には次のようなオランダ文字が書かれている。それは正面に大きくHOLLANDERと書き左右に小さくDeze print Zuiver gedruchtと記してある。一説では此の蘭文字は長崎に遊学していた林子平が書いたものだと言うが、長崎のオランダ通詞関係の人達は全て蘭文が書けたので、此の蘭文の筆者を林子平とのみ限定することは出来ないかもしれない。


 豊嶋屋は天明・寛政の頃(1721~1800)勝山町にあった版元で店主は大畠文治右衛門で二代は大畑伝吉と言い、此の時屋号を富嶋屋と改めている。更に此の版元のことは司馬江漢の「西遊日記」の中にも記されている。


 次に有名な長崎版画の文錦堂にも賀蘭人床楽図という合羽刷のオランダの食事風景の版画が造られている。


 文錦堂も亦「勝山町上の角」にあった。多分富嶋屋が廃業した後に江戸より合羽刷の職人を招き新しい技法で長崎版画を製作したのであろう。他に合羽刷の三種の紅毛人食卓図がありこれには版元の記載はないが多分文錦堂版であろうと考えている。そして此の三種の食卓図には始めてオランダ婦人が描かれており、其の中には食卓でヴァイオリンを弾くオランダ婦人が描かれている。


 文錦堂は初代を松尾齢右衛門、二代を俊平、三代を林平といい明治4年に歿している。文錦堂の繁栄期は二代の時であったので1800年より二代俊平が没した1859年頃まであったと考える。


 以上、オランダ人食卓図に対して唐人食卓の図は極めて其の数が少ない。唐人の食卓之図としては文錦堂合羽刷の大清人酒宴図、益屋版唐人卓子ノ図、版元不明の唐人拳戯図の三種がある。


食卓の上には大皿に乗せられた大魚、家鴨の丸焼、桃の実などが描かれ、中でも文錦堂版には中国風の食卓、其の左右にはガラスの大きなホヤを被せた燭台、卓の下には二つの七輪が置かれ此の上に煮物鍋と大土瓶が描かれていて実に良くその雰囲気があらわれている。


第21回 長崎版画に描かれた異国の料理 おわり


※長崎開港物語は、越中哲也氏よりみろくや通信販売カタログ『味彩』に寄稿されたものです。

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