第22回 パン物語(一)

はじめに


 昨今、各方面から、どうした訳かパンの事について問い合わせが多い。そこで今回は我が国におけるパンの歴史を訪ねることにした。

 パンという言葉が我が国で一般に使用されるようになったのは1549年F・ザビエルが鹿児島に上陸し本格的にキリスト教の布教を開始したことにより始まっていたと考える。


それはパンと葡萄酒がキリスト教に関係があるからである。

  ポルトガル人の種子島来航はザビエル上陸以前のことであり、当時のポルトガル船には当然食料としてパンは持ち込まれていたがそのパンは船員用であり日本人一般には普及されていなかったと考える。



1.パンの始まり



▲オランダ船図(越中文庫)


 パンの語源はポルトガル語のPaoである。~


 1562年10月西海町横瀬浦からローマに報告されたアルメイダ神父の手紙をみると、この年大村純忠を教会に招待したと記してあり、その中に次のように記してある。


 私達は修院を良く飾り大村の殿様と其の一族の人達を食卓に迎えました。 この時、日本人の食事、ならびに我が国風(ヨーロッパ式)の食事もつくりもてなしました。

そして其の間に3つのビオラの楽を演奏しました。


 このようにヨーロッパ式の食卓を用意したのであるから、そこにはパンが焼かれ牛肉料理が用意されていたと考える。


 横瀬浦の開港は1562年であるが平戸にポルトガル船が初めて入港したのは1550年であり、槙セ浦開港以前ポルトガル船が入港し、キリシタンの信者も多くいた府内(現在の大分市)の街では此のとき既にパンは造られていたと考える。


 それは1655年ガゴ神父がポルトガルに送った府内のことを報告した書簡の中に病人のためにパンを造ったと次のように記してあるからである。

 貧窮な病人のため他に薬がないので聖水と聖パンを供した然しこの聖パンというのは洗礼の時に使用されるパンはホスチヤのことである。



2.ホスチヤのこと



▲デルフト(オランダ)焼絵皿(越中文庫)


 1600年(慶長5)6月長崎イエズス会の後藤宗卯(当時、長崎を代表する頭人の一人)が刊行した「ドチリ・キリシタン」に次のように記してある。


 バテレン様(神父)ミサをおこない給うとき、聖書のお言葉をカリスとパンの上にとなえ給えば、其の時までパンたりしもの即時にゼス・キリスト様のまことの御身となり、カリスの中にある所の葡萄酒はイエス・キリスト様の御血となる(意訳)


 ドチリナキリシタンという書名は「これキリシタンのおしへと言う義也」と記してある。

 この意味でパンと葡萄酒はキリスト教では宗教上大事なものとしてであり、キリスト教の我が国布教と同時にパン(ホスチヤ)が作られたが、パンを日本人の食卓に用いることはなかった。


 1604年(慶長14・9)上総国に漂着したドン・ロドリコの報告書によると次のように記している。


 日本人はパンを(主食として)食べるより菓物を食べるように食べていた。


 1600年代になると長崎の町にはイエズスの本部や岬の教会、ミセルコルデイヤの教会など多くの教会があり、街の人達は全てキリシタンの信者であり、まだ長崎の町にはひとつもお寺もお宮もなかったのである。


 前回に引用した事もあったが1618年10月18日長崎の教会にいたコロウス神父はローマの本部に次のように長崎の町のことを報告している。


 長崎の町には建物はヨーロッパ風であるし牛を殺したり、パンを焼いたりすることのできる人達が多く町中にいるのでポルトガルやスペインに住んでいるのと同じような生活ができる。

 この頃(1604年頃)、全国のキリスト教徒は75万人で我が国のキリシタン史上最高の人数であり1610年の長崎の人には1万5千人と記してある。


 然し1612年徳川幕府はキリシタン禁教令を発したので教会が破却されている。これ以来キリシタンに対する弾圧が始まり1622年(元和8)8月には長崎では西坂の地で元和の大殉教が行なれている。



3.オランダ船来航とパン



▲スペインの水壺(越中文庫)


 オランダ貿易船が我が国に始めて来航したのは平戸であり其の時は1597年7月(慶長7)であった。


 平戸の町は1500年ポルトガル船の入港以来南蛮貿易港として栄えていたが、宗教上の事もあって1564年(永禄8)以後は南蛮船が入港することが無くなったので町は寂しくなっいた。其の町へオランダ船の入港をみたので町は大いに沸いた。


 1612年、オランダは平戸オランダ商館を平戸崎方に設置している。そして其の翌年にはイギリスの貿易船も平戸に入港し、町は一層にぎやかになった。

 幸なことに、この平戸オランダ商館の日記が現在オランダのハーグの国立文書館に保存されていたのである。(永積洋子訳・平戸オランダ商館の日記)


その日記を読むとパンに関する多くの資料が記されている。当時の平戸の町には既にパンを焼くことのできる人達がいたと記してある。

  一例をあげると1615年のコックス日記(コックスは平戸イギリス商館長)を読むと次のように記してある。


 私はパン製造人に小麦一袋を渡しました。そして其の代金の代わりにパンで返してもらうことにした。


 1630年代の平戸オランダ日記には「砂糖入りパン」という言葉もあった。パンは平戸オランダ、イギリス商館内では常食として使用されていたことが知られる。勿論長崎の町でも当時はポルトガル人はパンを常食としていた事は前述のとおりである。(以下次号)


第22回 パン物語(一) おわり


※長崎開港物語は、越中哲也氏よりみろくや通信販売カタログ『味彩』に寄稿されたものです。

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