第507号【伊藤小左衛門・350年の時を超えて】
9月も終わりに近づき、ずいぶん朝晩が涼しくなりました。とはいえ九州は、日中の気温が30度近くまで上る日もあり、長崎の路面電車はまだまだ冷房をきかせて走っています。夏の名残と秋が入り混じるこの時期、長崎駅に近い電停に降り立つと、「金木犀(きんもくせい)」の香りが鼻先をくすぐりました。ふとした瞬間に感じる小さな秋。きょうは、どんな秋に出逢うでしょうか。
先日の秋彼岸の頃には、申し合わせたかのように曼珠沙華(彼岸花)があちらこちらで咲きはじめました。この花を眺めながら法要やお墓参りなどに出かけた方も多いと思います。博多の妙楽寺本堂では、江戸時代に長崎で活躍した博多の豪商、伊藤小左衛門の350年忌法要が営まれました。「17世紀中葉の長崎情勢と伊藤小左衛門事件」をテーマに、本馬貞夫先生(長崎県 長崎学アドバイザー)のご講演もあり、350年を経てなお注目され愛される伊藤小左衛門の姿を垣間見ることができました。
黒田藩の御用商人であった伊藤小左衛門。中世以来、東アジアの海を大胆にかけめぐり商売をした博多商人の末裔といわれています。その活躍の名残として、玄界灘に浮かぶ対馬では、小左衛門のことを歌った民謡が残されています。
また、壱岐島では小左衛門は地蔵として祀られているそうです。
南蛮貿易の頃、長崎に出店した伊藤小左衛門。出島に近い五島町あたりに居をかまえました。初代伊藤小左衛門の亡き後を継いだ二代目も商才にたけ、西日本一帯で活躍したといわれています。承応元年(1652)6月24日のオランダ商館日記には小左衛門のことが次のように記されているそうです。「小左衛門は毎年銀十貫を消費できる身分で、通事や乙名(地役人)の話では、銀七千貫以上の資産を持つ豪商である…」。その当時(江戸初期)、銀千貫以上の資産を持つ者を豪商といったそうですので、小左衛門の富豪ぶりがうかがえます。
しかし、寛文7年(1667)、小左衛門は密貿易の罪に問われ、長崎の西坂で処刑されました。犯科帳に記されたこの「伊藤小左衛門事件」。実はその背景には表沙汰にはできない黒田藩や対馬藩との複雑なからみがあり、小左衛門ばかりに非があるわけではないといわれています。
「伊藤小左衛門事件」に関連する史跡が、稲佐の悟真寺(ごしんじ)の境内に残されています。小左衛門と定家(ていか)という丸山遊女を祀った比翼塚です。定家は、処刑された小左衛門のあとを追い、この近くにある海岸に入水し果てました。その約200年後、偶然、海岸の工事に入った男性が、定家のものとされるクシや経文が書かれた小石などを発見。その晩、男性の夢に定家が現れ、見つかった遺品と小左衛門の骨とを一緒に埋葬してくれるよう告げたというエピソードが伝えられています。
初代も二代目も、そのひととなりついては、残された史跡や史料から想像するしかありませんが、定家とのエピソードからは情に厚い人物像が浮かび上がります。また、「小左衛門は人望があった」と長崎郷土史家の古老も言います。財や行いを通していろいろな人に恩恵を与えた人柄が、目に見えない縁に導かれ、魅力的な博多豪商としていまに語られているのでありましょう。
○ 参考:「福岡の通史」(青木晃)