第527号【長崎南画家、蟹の八百叟】

 暑中お見舞い申し上げます。長崎では先週の梅雨明けに合わせるかのように、サルスベリが開花。フリルのような花びらが夏の青空に映えてとてもきれいです。



 

 今回は、江戸後期に生まれ、明治・大正を生きた八百叟(やおそう)こと伊藤惣右衛門(いとう そうえもん)(18351917)という長崎南画の名手をご紹介します。八百叟とは雅号で、ほかにも、玉椿軒(ぎょくちんけん)、蔬香(そこう)とも称しました。とくに蟹の画を得意としたことから、「蟹の八百叟」と呼ばれ、そのユニークな人柄とともにいくつかのエピソードが語り継がれています。

 

 八百叟の家は立山の長崎奉行所にほど近い今博多町にありました。代々、野菜や乾物などをあつかう商家で、長崎奉行所の御用も務めました。八百叟は五代目として家業を継ぎ、そのかたわらで趣味人として南画を描いたようです。



 

 ところで、長崎南画は、江戸時代に中国から伝わったもので、長崎三筆と称される南画家、鉄翁祖門(17911871)、木下逸雲(17991866)、三浦悟門(18081860)によって大成されました。その画法を学ぼうと、長崎には各地から人々が集い、また長崎から全国へ広まりました。長崎南画がもっとも盛んな時代に生まれた八百叟は、鉄翁祖門や木下逸雲に学び、南画を描く中国人とも交流があったと伝えられています。

 

 なぜ、八百叟は蟹画を得意としたのか。はっきりした理由はわかっていませんが、とにかく幼い頃から蟹をよく描いていたそうです。すでに南画の大家であった鉄翁祖門には、蟹をよく観察して描くようアドバイスを受けたこともあったとか。また、八百叟と鉄翁との間には次のようなエピソードも伝えられています。当時、春徳寺の住職だった鉄翁。八百叟がそこへ出向くのは、いつもお昼近くで、たいがい蕎麦を持参しました。蕎麦は鉄翁の好物。気を良くした鉄翁は、毎回お礼に自分の作品を八百叟に与えたそうです。商人でもあった八百叟のちゃっかりとした面がうかがえます。


 

 もうひとりの師・木下逸雲とは、生死を分けるエピソードが残されています。中島川をはさんだ隣町の八幡町に住んでいた逸雲とは、親しい交流があったようで、慶応2年(1866)、逸雲が江戸に旅した時に八百叟も同行しています。しかし、帰路の船で逸雲は遭難。八百叟はたまたま船に乗り遅れ難を逃れました。また、明治5年(1872)、長崎への明治天皇行幸の際、八百叟は、天皇が使用した白木の箸や食べ残しのご飯の下賜を願い、保管しました。大胆にそのようなことを願い出るところがユニークです。そのときの箸とご飯が、現在も長崎市立桜町小学校の地域・学校交流センター内に展示されていることは、あまり知られていません。

 

 かつて八百叟の家の隣で海産物商を営んでいたというお宅のご子孫が大切に所蔵している八百叟60歳のときの蟹画を見せていただきました。11匹の蟹がイキイキと楽しそうに描かれています。また、八百叟の描いた蟹画は、桜馬場天満宮の天井絵にも残されています。





 

 サワガニにしても、ワタリガニにしても、甲羅からかわいく突き出た目、1対のハサミ、そして4対の脚で横歩きするその姿は、子ども心をくすぐります。八百叟は、そんな童心を生涯持ち続けたのかもしれません。大正6年(191784才で亡くなった八百叟。ちょうど没100年にあたります。大音寺後山(長崎市鍛冶屋町)にある墓碑には、雅号を連ね「玉椿軒八百叟蔬香之墓」と刻まれていました。



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