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  • 第39回 長崎料理ここに始まる。(十一)

    一、はじめに▲有田焼小鉢(越中文庫) 前回に引き続き長崎県下の特色ある食文化を取りあげ書かせて戴くことにした。 県内各地の食文化は、先輩方の論考のようにそれぞれの食文化の変遷と地方史の変遷は大いに関係がある。大村地方を支配してきた大村市の歴史とともに考えねばならない。 大村氏初代の大村直澄が伊予国大洲より大村寺島に上陸したのは正暦五年(九九四)と言われているが、この説については、大村史談会の九田松和則先生の著書「大村史」には次のように記してある。 この起源説は永く継承されながらも疑問ある説と言われてきた。 九田松先生は次に東妙寺文書、川上神社文書を引かれて大村七郎太郎の名が一二三七年(嘉禎三)頃より記されていると言われている。 次に長崎が開港された元亀二年(一五七二)頃の長崎地方の領主は長崎甚左衛門で大村純忠(一五三三~一五八七)の支配下にあり、甚左衛門の室は純忠の娘トラであった。 また、大村純忠(十八代)は大村純前(十七代)の実子ではなく、島原有馬氏より養子として大村氏を継承している。 この事は長崎開港の最初の街づくりにも大きな影響があった。純忠が最初、長崎の街を造ったとき純忠は、実家の有馬氏に援助を仰いでいる。 その事は長崎初期六町の中に島原町、大村町があり、島原町の代表が長崎の町の代表であった。 其の故に長崎の街には、大村地方の食文化、島原地方の食文化、そして更に当時の長崎には南蛮船の入港・キリシタンの布教もあったので、南蛮食文化の影響もあったと考えている。二、大村すしを考える すしの語源は酢(酸)である。奈良時代すでに、酢、酢滓、糟交酢、市酢などの文字があり、「酢の文字は中国の文字である。昔は倉(ソウ)、また作醋」。和名は須(す)(和名抄)、また「カラサケ」とも言い、「米二石八斗五升より酢二斛五斗六升五合を造る」と記してある。(関根眞隆先生著・奈良朝食生活の研究)和漢三才図会には酢の和名は須之(すし)とある。 其の故に「すし」の語は和名であり、和名抄一六には「酢につけた魚肉・魚肉を飯と共に圧し酸味をつけたもの」と記し「すし」は魚の保存のため考えられたもので、「飯」が加えられたのは保存用の麹を早く繁殖させるものである。この酢(すし)の型を今に残している物に「大津の鮒鮨(ふなずし)」がある。 「大村すし」の由来について山中鶴氏は「長崎県大百科事典(長崎新聞社刊)」に次のように記しておられる。文明十二年(一四八〇)十六代大村純伊(すみこれ)が念願の領地を奪回し、再び大村の地に帰ってきたので領民は喜びの食事の用意をしたが急な事であり取り合えず「もろぶた」にご飯を広げその上に魚の切り身・野菜の味つけの物を出した。将兵は脇差しで角切りにした手づかみで食べたので別名「魚ずし」とも言われた。 大村純伊が文明六年(一四七四)十二月有馬軍と合戦した中岡合戦の事については、前記九田松先生「大村史・中岡合戦」を読まれとよい。この合戦に敗れた純伊は加唐島(佐賀県)に走り、再び大村の地に復帰したのは永正四年(一五〇七)と記してある。三、十六世紀頃のすし▲出島に輸入されたオランダ焼(越中文庫) 大村純伊に領民が用意した頃の「大村すし」の文献は一六〇三年長崎にあったイエズス会本部で、神父達の布教用の教材として編纂されたポルトガル語の辞書Vocabvlario da Lingoa de Japan(日葡辞書・土井忠生他訳・岩波書店刊)に「スシ」の言葉が収録されている。 Suxi 長もちするように、そして其のまま生で食べるように飯や塩を加えて調理した魚。 Suxio 他の物につけてたべる汁(ソース)又はそれに類したもの Suxi uo Zara ある種の酢づけの汁(Escabeche-Nuta)を入れる小皿 Nuta Nutanamasu(ヌタマナス)、Nutaaye(ヌタアエ)、Namasu(ナマス)等の言葉も収録されている。 領民が純忠のために用意した「すし」は酢漬の魚であったので、脇差しで切って食べたのでありましょう。 其の故に現在でも家庭で「すし」を用意する時には「すしをつける」と言っている。四、 現在の大村すし 私が昭和三十年頃、長崎県下の文化財の調査に参加させて戴き西海町面高(おもだか・現西海市)の日蓮宗の遠照院をお訪ねしたとき馳走になったのが大村(西海)ずしであった。それは私達のために、遠照院婦人会の皆様が「西海ずし(大村すし)」作りの名人・横瀬浦の橋本幹吉さん、河内の高橋幸仲さんの指導をうけながら、前夜から用意して下さっていたそうである。 そのすし作りの第一の秘伝は、先ずご飯を炊く水と火の加減、其のご飯のさまし具合を良くみて、酢と砂糖を加え、之に少し味をつけたコボウ、季節によってはフキなどの具を刻み込んで、混ぜ合わせ大きなすし箱に先ず一段を詰め、其の上に酢でころした魚の身を入れ、二段・三段と魚と飯を重ね、すし箱の蓋の上に人が乗ってギシギシと重みを加えるのだそうである。 スシ用の魚はアカムツ、アジ、黒イオ、チヌ等がおいしいそうである。 このスシを切るのが仲々難しく、家には家伝のすし切り包丁があり、女子供には任せず家の主人が腕を披露して切るのだそうである。「各家庭にはそれぞれ自慢の味があり、工夫されていますよ」と同町の帰命寺の古川御住職が私に話して下さった事がある。第39回 長崎料理ここに始まる。(十一) おわり※長崎開港物語は、越中哲也氏よりみろくや通信販売カタログ『味彩』に寄稿されたものです。

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  • 第541号【古き良き極彩色の異国情緒】

     磯に春の訪れを告げるアオサ。有明海産のものが手に入り味噌汁を作りました。新鮮な磯の香りにほっとします。一年中手に入る乾燥アオサもいいですが、やはりこの時期の摘みたてがおいしい。全国の海岸で見かけるこの海藻は、日本人には馴染み深い食材です。きっと今頃、各地の海端の家々の食卓に上がっているのでしょう。  それにしても今年の冬は寒かったですね。九州・長崎ではようやく10度を超える日が続くようになりましたが、北陸や東北、北海道の天気図にはまだ「雪」のマークが見えます。これから「三寒四温」で本格的な春に向かうわけですが、今年は寒暖の差が激しい。長崎の人も厚手のコートをしまうのは、もう少し待ったほうがいいかもしれません。  さて、長崎はいま、2月中旬からはじまった「長崎ランタンフェスティバル」が、後半の賑わいをみせています(3月4日まで)。長崎港にはアジア各国のお客様を乗せた大型クルーズ船が連日のように入港。船が停泊する「松が枝」に近い長崎新地中華街や唐人屋敷跡、孔子廟などは、クルーズ船から降り立った人々が大勢繰り出し、ランタンを見上げながら歩いていました。人々の弾けるような笑顔とともに飛び交っていたのは、いろいろな国々の言葉。そんな光景がまったく違和感がないのは、やはり歴史的に中国をはじめとするアジアの国々の影響をたくさん受けてきたこのまちならではの風土なのでしょう。  なかでも「長崎ランタンフェステイバル」は長崎と長くて深い交流のある中国の影響をくっきりと浮かび上がらせます。たとえば、唐人屋敷跡。いま、土神堂や観音堂といった朱色の建物がランタンに彩られとてもきれいです。  唐人屋敷は、貿易でやってくる中国人を居住させるため元禄2年(1689)に造られました。当初の敷地は約8,015坪(のちに約9373坪まで拡大)。唐人屋敷が造られた理由は、密貿易を防止するためでした。幕府は、出島に貿易相手のオランダ人を住まわせたように、中国人もまた限られた場所に集めて貿易の統制を図ったのです。  市中の一角にあった唐人屋敷は、練塀と竹矢来(たけやらい)で二重に囲まれてはいたものの、長崎の人々にとっては海に囲まれた出島よりは身近な存在。敷地内には二階建ての長屋が20棟もあったそうで、2千から3千人を収容可能だったといいます。唐人屋敷内には、役人や遊女など限られた人しか出入りできませんでしたが、いろいろな機会を通じて中国の人々と市中の人々の間で交流があったことは想像に難くありません。いまも長崎の年中行事として継承されているハタ揚げ、ペーロン、精霊流し、長崎くんちは、その頃に伝わった中国文化の影響が色濃く残っています。   唐人屋敷跡から徒歩約15分。長崎市大浦町にある孔子廟は、明治期に設けられました。中国の宮廷を彷彿させる極彩色の建物は、いかにも長崎の中の異国といった感じです。このまちのあちらこちらで目にする極彩色の異国情緒は、古き良き長崎らしさでもありました。

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  • 第540号【春は、もうすぐ!】

     相次ぐ大雪や寒波でたいへんな思いをしている方が多い、この冬。とにかく早く春が来てほしいものです。ここ九州・長崎も先月からたびたび強い寒気に見舞われました。前号でご紹介した西山神社(長崎市西山町)の緋寒桜は、三週間前と比べほんの少し開花したくらいで、まだ三分咲き。今年の冬がいかに寒くて長いかということを物語っています。満開を楽しみに来た参拝の方々は、ちょっぴり残念そうでした。  寒いといいながらも、日差しが少しずつ明るくなっているのを感じます。自然界はすでに春に向かって動き出しているようで、活発に餌を求める小鳥の姿を見かけます。中島川ではカワセミ、ハクセキレイ、キセキレイ、ジョウビタキ。そして、鳴滝の山林では、日本で越冬するというシロハラの姿が今年もありました。ジョウビタキ、シロハラは、春になると大陸へ渡るそう。旅立ちを前に、しっかり餌を食べて体力をつけているところなのでしょう。  小さな春の気配を感じるなか、いよいよあさって、2月16日から「長崎ランタンフェスティバル」がはじまります。今年は3月4日(日)までの17日間開催。「春節」(旧暦の元旦)を祝うこの催しは、すっかり長崎の冬の風物詩。もともとは長崎新地中華街で行われていた行事を、1994年(平成6)から規模を大きくし長崎市の中心部一帯で行うようになりました。それから早くも干支が二回り。20年くらい前の写真と見比べると、規模や内容の充実ぶりがはっきりわかります。  中国ランタンや中国の故事にちなんださまざまなオブジェがまち中に飾られ、幻想的な雰囲気をつくりだす「長崎ランタンフェスティバル」。どんなに寒くても、毎年、県内外、国内外から、大勢の方々が来て楽しんでくれます。特に旧正月を大切な節目とするアジア圏の方々にとっては、自国と似ているけど、ちょっと違う長崎らしい雰囲気のなかで新年を祝えるのがうれしいようです。  連日行われる催しも当初に比べるととても充実しました。徒歩圏内でつながる7つの会場(新地中華街会場、中央公園会場、唐人屋敷会場、興福寺、鍛冶市会場、浜んまち会場、孔子廟会場)では、中国獅子舞、龍踊り、中国雑技、中国変面ショー、そして、二胡や胡弓の演奏など中国ゆかりの華やかな催しが展開(※会場によって催しの内容・スケジュールは変わります)。なかでも、新地中華街会場、中央公園会場、孔子廟会場では、期間中は毎日欠かさず多彩なショーが行われているので、ぜひ、足を運んでみてください、   眼鏡橋がかかる中島川では、目にも温かな黄色いランタンがお出迎え。この風景もすっかり「長崎ランタンフェスティバル」の定番となりましたが、当初はありませんでした。それにしても、約2週間の期間中、風雪に耐えて美しい光を灯し続けるランタンやオブジェの装飾の丈夫さには感心します。いろいろな人々が「長崎ランタンフェスティバル」を支え、創り出しているのです。そうした人々の熱い思いが「長崎ランタンフェスティバル」の魅力となって、多くの来場者に感動を与えているのでしょう。

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  • 第38回 長崎料理ここに始まる。(十)

    一、はじめに▲ポルトガルの民芸(越中文庫) 前回より私は、本誌に主として特色ある長崎の食文化を取りあげ書かせて戴くことにした。 先ず第一に長崎県の特色は地理的な理由と海流との関係もあって、古代より韓国・中国・南方諸国との交流に深くかかわりがあったので、県下の食文化発展の上には其の交流市場に深く影響されるところが多く、更に其の異国の食文化が全国的に次第に普及し、現在の我が国食文化の起点となっているものが多いと言われている。 前回取りあげた対馬の食文化にしても、我が国の古代米のルーツとして知られている赤米について、今尚、対馬厳原町豆酸には国選択無形民族文化財に指定されている「亀トの習俗」と共に稲の原種とされている「赤米」の神事が伝承されている。これによって現在我が国の主食となっている米は対馬方面より伝えられたものであろうという論考も多い。二、五島方面と食文化 五島の食文化も、深く大陸文化との交流によって発展している。長崎古代史によると古事記・風土記ともに五島の事を値嘉(ちか)島と記し、其の島は大別して大近と小近があると記してある。 其の地名の由来については「景行天皇(一四七〇~)・平戸志々伎宮ノ浦の行宮に在りし時」近くに見えた島々に大近・小近と名付けられたと記してある。小近は現在の小値賀(おじか)島であり、大近は福江島方面であるとされている。次いで天武天皇六年(六八四)には韓国より五島に漂着者の記録があり、光仁天皇宝亀七年(七七六)以来は遣唐使船が度々五島の港に来航した事が記してある。十四世紀の和寇時代以後には唐船も度々入港しており、一五六〇年代になるとポルトガル船も来航し、一六〇四年には五島領主玄雅も朱印船を柬埔寨(カンボジア)方面に出している。 次いで一六一三年には平戸イギリス商館長はイギリス船を五島公の城下町福江に入港させ、我が国初の唐藷(さつま藷)の種芋を五島と平戸に伝えたとされている。 唐藷については享保四年(一七一九)長崎の人・西川如見が甘藷のことについて彼の著書の中に次のように記している。 長崎には薩摩より伝えて今は九州に流布す 唐人は酒にも造り、又は粉を取て餅にしたるは上品の物なり(長崎夜話草)長崎では唐藷の事を「ジュキイモ」と親達は言っていた。この呼び名は多分「琉球方面より持ち渡って来た芋」という意味であったと考えている。 又、諫早方面では唐藷の事を「ハッチャン」とよんでいるし、五島方面では「コッパ藷(いも)」ともよび、島原方面に行くと唐藷の煎(デンプン)で作った麺を「ロクベエ」とよんでいる。 この語源について、長崎県は稲作のできる耕地が少なく、段々畑の多い処であり、甘藷は稲作に代わる重要な食料で、保存食として種々工夫したものがつくられていたことを物語っている。 「ハッチャン」と言うのは生(なま)芋を削り(はつる・けずるの語)天日に干して保存するとの意であり、「コッパ」とはこの天日に干した型が「木を削った時にできる木屑(木っ端・こっぱ)」に似ている意であり、「ロクベエ」というのは「コッパ」を轆轤(ろくろ)で粉にひき麺につくったものだと先輩方より教えられた事がある。三、スペイン風イカ料理▲SEVILLAの色皿(越中文庫) 私が二十六聖人記念館長のパチェコ神父(日本名・結城了悟)にお供してスペインのセビリアに行った時、神父様が「この地方には名物のおいしい料理Calamares en Sutintaがあるから御馳走してあげよう」と食堂に連れて行って下さった。料理の意味は「鳥賊の墨料理」という意味にあると教えられた。料理はチーズの中に鳥賊の墨を入れ肉と野菜を煮込んだ料理でスペインのワイン料理には良く合う料理で、実においしかった。如何にも此の地に来なければ味わえぬ風味ある料理であったが、食べ終えた後は口の中が真黒になっていた。 神父さんから「美味しいからと言って、あまり食べ過ぎてはいけない」と言われたのに、私はあまりの美味しさに隣の人の分まで食べ、食べ過ぎ飲み過ぎで翌日は神父様に大変迷惑をかけた思い出がある。 其の後、小値賀島に行った時、私は其のイカの墨料理に出合ったのである。其れは小値賀の小さな「お寿司屋さん」で、そこの前菜に出された和え物にイカの墨がかかっていた。「このあたりではイカの墨を食べるのですが」と言うと、お寿司屋さんが私に「あなた食べないのですか」と言われた。 一体に、小値賀島は同じ五島といっても平戸松浦藩に所属しこの島の歴史書によれば平戸松浦家は最初、志佐方面より之の小値賀島に上陸、元徳年間(一三二九)平戸に渡ったと記してある。 その故に小値賀には、沖の神島の遺跡や長崎県指定の文化財も多く、最近では明版一切経や元亀元年(一五七〇)銘の名号石等が発見されている。 其の後、私は知人のお世話で土地の古老島田トメさんの家を訪ねて次のような「イカの墨入り和え物」の話をお聞きしてきた。 その調理法は、この島で取れたばかりのイカからスミ袋をこわさにように上手に取り出し、湯をわかしユデておくのです。この墨を「ミソあえ」に入れるのです。ミソは勿論自家製です。味噌をすり鉢に取り砂糖・酒を加えて味をつけ 其れに先ほどユデておいた「イカの墨」を入れて良く摺っておきます。その味噌の中に別鍋でイカの身、白菜、大根、ホウレン草等を茹でて頃あいをみてあげて刻み、よく水をきっておき、それを先ほどの「墨入りミソ」と混ぜ合わせると出来上がりです。 一体この墨料理は誰が教えたのでしょうか。せっかくの料理を墨で真黒にしてしまう訳ですが、イカの墨には捨てがたい味と香りがあるのです。然し、舌つづみを打った後は口の中は真っ黒になっています。第38回 長崎料理ここに始まる。(十) おわり※長崎開港物語は、越中哲也氏よりみろくや通信販売カタログ『味彩』に寄稿されたものです。

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  • 第539号【天文学者 盧 草拙と西山神社】

     西山神社(長崎市西山町)の寒桜がそろそろ見頃だと思い、出かけましたが、咲いていたのはほんの数輪。神社の方によると、例年通り12月中旬には花が開らきはじめたものの、1月に入ってから気温の低い日が続き開花が進まなかったそうです。今月末には満開になるでしょうとのことでした。  諏訪神社から北へ徒歩10数分。斜面地の高台にある西山神社(長崎市西山町)。この神社は、江戸時代の長崎の天文学者、盧 草拙(ろ そうせつ:1675-1729)ゆかりの神社です。草拙は若いころから、北極星・北斗七星を神格化した妙見菩薩を信仰していて、それを祀るために、長崎奉行に願い出て、自らが所有する土地に妙見社(のちの西山神社)を建てたと伝えられています。  地元では「西山妙見社」、「妙見さま」などと呼ばれ親しまれている西山神社。本殿前の鳥居の額束には、めずらしい円形の額が掲げられていますが、これは、星や天体を表しているといわれています。また、本殿の屋根などに施された社紋の九曜紋(星紋のひとつ)など、星にちなんだあれこれが、星好きな人の心をくすぐります。  社殿を建てた草拙は、『長崎先民伝』(1819年刊)を息子の千里とともに著したことで知られています。この本は、近世前期に長崎の地に生き活躍した人物や長崎を訪れた学者や文人など、総勢147人について漢文体で記したものです。記述が長いものもあれば、短いものもあり、また名前のみあげられたものなどいろいろですが、多様なジャンルの人物のさまざまな逸話が記されていて当時を知る貴重な史料のひとつとして利用されています。ちなみに一昨年、この本にわかりやすい解説を加えた『長崎先民伝 注解 〜近世長崎の文苑と学芸〜』(若木太一・高橋昌彦・川平敏文 編/勉誠出版)が出ています。漢文が苦手な人も、注釈付きの書き下し文で内容を理解することができます。  同著によれば、長崎に生まれ育った渡来人三世の草拙は、両親を早くに失い、祖母のもとで育てられたとのこと。体が弱く、病気がち。読書を好み、独学で博識を広げ、苦労のなか、若いうちに多くの弟子をとって生計をたてたそうです。その後、長崎聖堂の学頭も勤めており、天文学者としては江戸へも参上して褒美をもらうなどしています。  仕事柄、草拙は、幾度となく長崎の星空を見上げたに違いありません。この時期だったら、オリオン座も眺めたことでしょう。もちろん、江戸時代ですから、「オリオン座」ではなく、和名の「鼓星(つつみほし)」として見ていたかも。星々をつなぐと和楽器の鼓(つつみ)に似ていることから来た名称です。今夜も晴れたら、南の空に見える「鼓星」。江戸時代の人も同じ星を見上げたかもと思うと、不思議な感じがします。   西山神社からの帰路、中島川ではイソシギを初めて見かけました。お腹の真っ白な毛がきれいで、つぶらな目がかわいい。イソシギは全国各地の水辺で見られる野鳥ですが、越冬のため、より暖かな九州へ渡ってきた可能性もあります。とはいえ、九州もまだまだ寒い日が続きます。みなさん、体調に気をつけてお過ごしくださいね。

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  • 第538号【睦月長崎ネイチャー歳時記】

     長崎の三箇日は天候にめぐまれ、神社仏閣は初詣での人々でにぎわいました。大晦日から元旦にかけての夜空には、新年を寿ぐような丸いお月さま。神社の境内で行列をなす人々を月光がやさしく包んでいました。この日が満月かと思いきや、実際は、翌日の2日。しかも、2018年の満月のなかで、もっとも大きく見えるというスーパームーンでした。  空気が乾燥する(大気をかすませる水蒸気が少ない)冬は、月がいちだんと美しく見えます。星の観察にもおすすめの季節です。この時期、南の空に輝く「冬の大三角」が確認できたら、すぐそばに冬の星座を代表するオリオン座が見えるはず。ところで、いま環境省は大気汚染や環境保全への関心を高めてもらおうと、冬の星空観察を推進しているそうです。凍てつく夜空の星の瞬きは格別ですが、寒さが厳しい時期でもあります。しっかり防寒対策をしてお楽しみください。  寒さが極まるなか、長崎市野母崎からこころ弾む花の便りです。「のもざき水仙まつり」が1月7日からはじまっています(平成30年1月28日まで)。野母崎は長崎市中心部から南にのびた長崎半島の先端に位置する地域。水仙は、沖合に軍艦島をのぞむ小高い丘に咲き誇っていました(長崎市野母崎総合運動公園内)。  約1000万本の水仙を楽しめる「のもざき水仙まつり」。潮風が吹き抜けると、いっせいに揺れて、あたりにさわやかな香りを漂わせます。潮風とまじりあうその独特の香りは、環境省の「かおり風景100選の地」にも選ばれています。水仙の種類は、クリーム色の花弁の真ん中に黄色を配したベーシックな姿のニホンスイセン。もともとこの地区に群生していたものを地元の方が大切に手入れをし、増やしたと聞いています。  ここの水仙は、1本の茎にたくさんの花をつけるのが特長だそうで、園内のあちらこちらで数を確認してみると、6つくらいが多く、少なくて3つ、多いものだと8つの花をつけたものもありました。園内数カ所の展望台をめぐりながら、水仙の丘をゆっくりのぼりくだりすると、海側では潮騒の音が聞こえてきます。ジョウビタキ、ヤマガラ、メジロなど野鳥たちのさえずりも心地よく、年末年始のいそがしさを忘れ、ほんとうにのんびりできました。  水仙の花々の合間には、同じく開花の時期を迎えた椿もいろいろな種類が見られました。野母崎町には、もともとたくさんのヤブツバキが自生していますが、そのなかに、同町内の権現山で発見された「陽の岬(ひのみさき)」という貴重な一種があります。  権現山は、標高198メートル。日本最西南端に位置し、その展望台からは、東に天草灘、西に五島灘、南に東シナ海を一望することができます。緑豊かな山にはヤブツバキが1万数千本も自生。そのなかから、わずか1本だけ「陽の岬」の原木が見つかったそうです。小ぶりの白い花を咲かせるという「陽の岬」。今回は見る機会はありませんでしたが、椿の季節(1〜3月)のうちにあらためて野母崎町・権現山へ出かけてみようと思いました。   本年も、どうぞ、よろしくお願い申し上げます。

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  • 第37回 長崎料理ここに始まる。(九)

    一、はじめに▲安南染付け皿(越中文庫) 私がみろくや前社長の山下泰一郎氏に始めてお逢いしたのは平成三年頃であった。其の時、社長から「みろくや通信・味彩というのを社で出版しているが、『長崎の食の文化』を大いに宣伝したいので、何か標題を決め寄稿して下さい。」とのご依頼があった。 私は早速、寄稿させて戴き、平成四年十一月発刊の「味彩七号」に「長崎開港物語・長崎料理ここに始まる」の標題で西洋料理編(一)を掲載していただいた。以来、今回で三十七編となる。 私はここで少し方向を変えて、今回より私が昭和二十四年より長崎県下を各種文化財調査のため歩き回った中より「食の文化」に付いて、之も西日本新聞社長崎支局長のご要望も会って、昭和五十五年四月十一日より同年十一月十九日まで四十二回にわたって「長崎味覚歳時記」を掲載させて戴いた。中より思い出の深い地方色豊かな食文化を取り上げてみたいと考えている。 長崎味覚歳時記の第一号は「雑煮あれこれ」を取り上げ、長崎雑煮に始まり、対馬、島原、五島等と各地の雑煮話を記し、次は壱岐の雲丹めし、五島のキビのズーシ、小値賀のイカの黒みあえ、と続いている。今回は、私の初期の食文化の旅より「対馬の雉子ソバ」の話題を提供させて戴くことにした。二、対馬の雉子ソバ 私は在学中、学徒動員令によって初年兵として大村四十六連帯に入隊したのは昭和十八年十二月一日の寒い朝であった。確か岡本少尉殿の第二小隊の兵舎だった。 当時は全てが不安で、気が落ち着かぬ少年兵であった事を今も覚えている。この時、班長殿が「心配するな」と声をかけて下さったのが中島上等兵殿だった。 上等兵殿は対馬出身で私にはよく声をかけて下さった。おかげで私は無事初年兵三ヶ月の訓練期間を終え鹿児島の積部隊に配属された。この別れの時、中島上等兵殿が、私に「キジそば」の話をして下さった。「お前もし対馬に行く事があったら、おれの所にこいよ・・・」と言われた。中島上等兵殿は対馬ヌカダケの御出身と聞いていた。 戦後、私は老人大学講師として県内各地を巡回し対馬豊玉町の会場に行った時、その最前列に中島上等兵がおられるではないか。 中島さんは私の名前を覚えていて下さって、わざわざ遠くから来て下さったそうである。私は嬉しかった。私は中島さんのお宅にお伺いした。 「キジそば、覚えているね」と言われる。「今はね、禁猟期でキジ撃ちに行かれんが、家にキジを飼っているから食べてゆきなさい」と言われる。庭に出たら、其のキジが中島さんの足音を聞くと餌が貰えると思って寄ってきて、くっくっと鳴いた。 私は何故か、この時キジを食べる気持ちがなくなってしまった。結局、私はキジをいただかなかった。中島さんは笑っておられた。 中島さんの家の前は入江になっていた。中島さんは若いときから酒を口にしない謹厳な人であった。鳥たちが寄ってくるはずである。その中島さんが私に酒を進められたのです。庭ではキジがしきりに鳴いていました。 帰る時、中島さんが私に「カゴに入れてあげるから、君が今回食べなかったキジを土産に持っていかないか」と言われる。私は、其のキジを辞退した。何か中島さんとキジの別れが私には寂しかったのです。対馬のキジは対馬に残しておきたかったのです。三、私が食べた対馬ソバとセン団子▲江戸宴会図(料理通)(越中文庫) 其の後、私は厳原で弘化年間(一八四四~)以来、対馬ソバ伝統の味を残しておられるお店を訪れ、其処でまた、対馬の小松勝助先生から対馬名物の「センダンゴ」のお話をお聞きした。 セン団子とは、葛芋を薄く切って天日に乾かし、カンコロを造り、これを臼でついて粉にし、其の粉を桶に入れ水にさらし、それより良質のデンプンを取り、手で固め、日陰干したものがセン団子の原材料だそうである。 その原材料の粉(せん)(デンプン)をぬるま湯でやわらかに練り、団子に仕上げる。其の団子を、ツガニをつぶした出し汁で食べるのが一番うまいそうですが、今では、其のツガニを取ってくるのが大変だそうである。 又、セン団子は「よせ鉢」に入れると美味しいと言われる。よせ鉢と言うのは、対馬では新鮮な魚に野菜を入れて煮込んだ鍋物です、と言われた。 又、セン団子に付いては、江戸時代になるとサツマイモが普及すると、葛芋よりサツマイモよりセン(デンプン)を取る事も多くなったし、其の昔は、彼岸花の球根を水にさらし、それよりセンをとっていた事もあったそうですよと、対馬の古老の人達に教えられた。 現在でも厳原でいただく「対馬ソバ」は、長崎県下で一番おいしい「そば」ですよと、先日も、知人が私にそっと教えて下さった。第37回 長崎料理ここに始まる。(九) おわり※長崎開港物語は、越中哲也氏よりみろくや通信販売カタログ『味彩』に寄稿されたものです。

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  • 第537号【歴史的な〝いま〟をご一緒に】

     ふりかえれば、あの頃が時代の転換期だった、と誰もが思う、それが、たぶんいまなのでしょう。世界も、日本も、そして長崎という小さなまちも、大きな時代のうねりの真っ只中。そんなときだからこそ、日々のささやかな暮らしを楽しみ、身近な人々と笑顔を分かち合いたいものです。というわけで、「お昼をうちに食べに来ない?」と女ともだちを誘い、皿うどんをちゃちゃっと作ってテーブルに出せば、みんな<^▽^>こんな顔になって、おしゃべりも弾みます。最近、我が家の皿うどんは、「皿うどんサラダ」の麺を使っているのですが、「サクサクして食べやすい」と、女性や高齢の方に好評です。どうぞ、お試しください。  いまが時代の変わり目。長崎にとってその象徴的な出来事のひとつが「長崎県庁舎」の移転です。新庁舎は、この秋、長崎駅近くに完成(長崎市尾上町)。そこは、かつて長崎魚市があったところで、長崎港にそそぐ浦上川の河口の一角。同敷地内に建設された長崎県警察本部新庁舎とともに、港湾や市街地の景観になじむ端正な佇まいをみせています。ここで働く人たちの移転も順次進められていて、多くの部署の業務が年明けから新庁舎ではじまるそうです。  移転前の県庁舎(江戸町)の場所は、1571年に長崎が開港して以来、長崎にとって常に時代を象徴する建物があった特別なスポットでした。南蛮貿易時代にはイエズス会本部もかねた岬の教会、江戸時代には長崎奉行所西役所、幕末には海軍伝習所、医学伝習所、そして明治時代に県庁舎が建てられました。その後、県庁舎は台風や原爆などで倒壊・消失を経験して何度か建て替えられ、現在、建っているのは戦後1953年(昭和28)に完成したものです。  開港によってまちが整備される前、県庁舎(江戸町)の場所は、樹木におおわれた岬の突端でした。その頃の長崎のまちは、岬より奥まった所(現在の長崎市桜馬場)にあり、岬の先端をふくむ海側の土地は、領主・長崎氏の支配の手も薄かったのではないかともいわれています。そんな折、長崎氏を配下とした大村純忠の決断で、ポルトガル船が入港することになったとき、この岬の丘からくだった海岸に小さな波止場が設けられました。ポルトガル船や唐船の荷揚げのほか、天正少年使節の出港・帰港、さらには、のちのキリスト教の禁教令で高山右近らが国外に追放されたのも、この波止場からでありました。  名もなき寒村であった長崎を、間もなく国際貿易都市として国内外に知らしめ、発展させる転機であった岬の小さな波止場。江戸町「県庁前」のバス停そばには、その歴史を記した、「南蛮船来航の波止場跡」の碑が建っています。  さて、開港以来、シンボリックな建物があった岬の突端ですが、実は約半世紀ほどの空白の時間があります。それは、江戸幕府のキリスト教の禁教令で1614年に岬の教会が破壊されてから、1663年に長崎奉行所が置かれる(移転)までのことです。その間に岬の目の前に出島が築造され、あらたにヨーロッパとの貿易がはじまるなど時代は大きく変わりましたが、そうした動きをよそに、この場所だけ教会の破壊という嵐のあとの静けさが続いていたのでしょうか。そして、いま約350年ぶりに空白の時間がはじまろうとしている岬の突端。時代はどんな答えを出すのでしょうか。  遠くから、近くから、歴史を眺めてみると、思いがけないことに気付かされてハッとすることもあります。「もしかして、いまって、ターニングポイント?」「それにしても、この一年もあっという間だったわね」などと、皿うどんをほおばりながら、うなずき合う私たち。激動の時代にあって、何はともあれ、おいしいものを自由に食べられるしあわせに感謝した師走の皿うどん女子会でありました。   本年もご愛読いただき、誠にありがとうございました。

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  • 第536号【滋養たっぷりの汁もので温まろう】

     ナンキンハゼの落ち葉をサクサクと踏みながら歩く長崎のまち。前回、ご紹介した光永寺(長崎市桶屋町)のイチョウもすっかり葉を落としましたが、幹と枝だけの姿も古木の風格が漂って美しい。今年は紅葉にとってちょうどいい気温が続いたのか、いつもより美しく、長く楽しめたような気がします。先週には、例年より11日、昨年より1カ月以上も早い初雪。日に日に寒さが本格的になっていき、師走らしくなってきました。  そんななか、今年も五島の知人からかんころもちが届きました。かんころもちは、サツマイモを薄くスライスし、茹でたものを寒風で乾燥させた「かんころ(干しイモ)」が主原料。つきたてのかんころもちは、そのままでもおいいしいのですが、我が家では、1〜2センチくらいの厚さにスライスして冷凍庫に保存。トースターでチンしていただいています。  さて、寒さが身にしみるこの季節、あたたかい汁ものが恋しいですよね。おいしい汁ものといえば、やはり、ちゃんぽん。豚骨と鶏ガラ、そして魚介の旨味とコクが渾然一体となったちゃんぽんスープは、具材の野菜や麺の味も溶け込んで滋養もたっぷり。寒さでかじかんだ心と身体をほぐしじんわりと温めてくれます。  来週は冬至ですが、冬至に食べる風習がある「カボチャ」を使ったおすすめの汁ものといえば、京都府の伝統料理「いとこ汁」でしょうか。小豆とカボチャが入ったみそ汁(白みそ)で、お祭りのときに供される精進料理です。小豆は、デトックス作用があり疲労回復や便秘、二日酔いなどにいいといわれています。カボチャは、カロテンを豊富に含み粘膜を丈夫にするので風邪の予防にもつながります。  冬至は「一陽来復」の日。江戸時代の長崎の商家では、座敷に設けた壇に、関羽、張飛などの絵を飾り、野菜やお菓子、そして善財餅(「ぜんざい」のこと)を供えたそうです。そして出島では、「阿蘭陀冬至」と呼ばれた祝宴が開かれました。キリスト教が禁じられていた当時の日本。キリストの降誕を祝うクリスマスが、冬至の日に近いことから、出島のオランダ人たちは、「冬至を祝う」という名目で祝っていたそうです。  このときの祝宴ではどんな汁ものが出されたのでしょう。冬至の節の11日目に催された「阿蘭陀正月」の祝宴のメニューをみると、牛肉を油で揚げたものやソーセージ、チーズなどの洋食にまじり、みそ汁や魚を煮たものなどの和食らしきものもみられます。当時のオランダ人たちは、みそ汁をどんな気持ちで味わっていたのでしょうか。   ところで、長崎の郷土料理には、出島時代の前の南蛮貿易時代に伝わったとされる「ヒカド」という汁ものがあります。ブリ、鶏肉、そしてダイコン、ニンジン、サツマイモをさいの目に切って煮込んだもので、調味料は塩と薄口しょうゆだけのあっさりとしたもの。仕上げにサツマイモをすってとろみを出します。「ヒカド」の名はポルトガル語で、「細かく切る」を意味する「picado」に由来。見た目はシチューのようでもあり、ちゃんぽんと並んで、真冬にもうれしい長崎の汁ものであります。

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  • 第36回 長崎料理ここに始まる。(八)

    特集・坂本龍馬と長崎料理・かすてら(其の四) 一、はじめに▲江戸卓袱料理図(料理通)越中文庫先日、NHK「龍馬の旅」取材班陸田幸枝女史の一行が私の事務所に来られて龍馬当時の長崎シッポクや砂糖菓子・カステラ等の事を尋ねられた。女史は私が若い頃書いた「長崎卓袱料理」や「長崎の西洋料理」を参考に持ってこられていた。 私は先ず、龍馬が最初・長崎に来た元治元年より長崎を最後に出発された慶応年間(一八六四~六七)頃には既にシッポク料理は江戸・大阪方面にも流行していた事を説明し、其の証明として文政五年(一八二二)蜀山人太田南畝の序文のある「江戸流行料理通」の中に「魚類・精進 江戸卓袱料理」の献立が記してあるのを御見せした。当然・龍馬もシッポク料理が長崎にもある事は知っていたはずである。 次いで砂糖菓子の事については前述の拙書「長崎の西洋料理・・・南蛮菓子」76ページに記しておいたし、カステラの事も其の中に書いておいたので御参考にして下さいと申し上げた。二、龍馬当時の長崎シッポク▲亀山焼鯉染付卓袱用丼 龍馬が来崎した当時の我が国は、安政六年五月(一八五九)幕府が長崎・神奈川・函館の三港を開港し露、佛、英、蘭、米の五カ国に自由貿易を許可した以後の事であり、長崎大浦地区には万延元年(一八六〇)すでに外国人居留地が完成し、踏み絵の事も廃止され翌々文久三年(一八六二)には同居留地内にグラバー邸が建設され次いでフランス領事館も造られていた。 更に同地区には日本最初の聖公会礼拝堂が居留外国人の為としてウイリアム神父の手によって建設されている。 翌慶応元年五月(一八六五)龍馬は再び薩摩藩士小松帯刀と共に長崎に来て亀山社中の基礎を作っている。 亀山の地名は土地の人達は最初垣根山と呼んでいたが、文化元年頃(一八〇四)より長崎八幡町の人・大神甚五平等がオランダ船購入の輸出品として水瓶をつくる窯を築いた事より亀山焼と呼ぶようになっていた。 その後、亀山焼は種々の事情により慶応元年正月(一八六三)廃止となり空家となっていた。 其の空家を前述の小曽根家の斡旋もあって亀山焼細工人小屋一棟を借りて社中の者は住んでいた。この社中の一行が来崎した慶応元年一月には南山手グラバー邸下に現在国宝建造物に指定されている大浦天主堂が完成し、長崎の人達もこの天主堂を「フランス寺」とよび多くの人達が見物に出かけていた。 龍馬はしばしばグラバー氏の所に出かけていたというので、其の帰り道にグラバー邸のすぐ下にある天主堂に立ち寄り堂内を見学して帰ったのではないだろうか。 さて、其の当時・龍馬が馳走になったシッポク料理はどのようなものであったであろうか。 長崎のシッポク料理には、現在でも家庭用のシッポク料理と料理屋で用意されるシッポクの二種類がある。 「家庭用のシッポク」については明治時代の地方史研究家足立正枝翁は次のように記しておられる。 親しき知人などが集まり家庭で用意するシッポクは幾つかの小菜と丼物が用意される。 料理屋のシッポクは、小菜五皿乃至七皿、大鉢一、中鉢一、丼物三(味噌・吸い物・煮物)他に長崎らしき料理として、南蛮漬・そぼろ煮・鶏の水たき・ヒカド・岡部鮨・ケンチン・胡麻豆ふ・更紗汁あり。 現在のようにシッポク鰭椀が用意されるようになったのは、明治時代より料理屋の趣向として用意されたもので龍馬時代のシッポクにはまだ鰭椀は用意されなかったとお聞きした事がある三、龍馬時代のカステラ カステラの製法について記した初期の資料としては東北大学狩野文庫の「阿蘭陀菓子製法」は有名である。 先輩方は此の書名に『阿蘭陀菓子』とあるがカステラの語源はポルトガル語のCastellaであるので此の本の書名は『阿蘭陀菓子製法』と改むべし」と言われた事がある。 平戸にはカステラより古いカスドウスという菓子もあるし、正保元年(一六四四)の名古屋松平藩の資料によると同年上野阿波守接待用菓子として「カステラ二本」を用意したと記してある。当時既にカステラの製法は全国に広まっていたのである。 前記「阿蘭陀菓子製法」は一六四五年頃書写されたものであり同書の「カステラ製法」の項には次のように記してある。一、かすて不ら路の事たまご二十こに砂糖百六十目、麦のこ二百六拾匁、此三色こねて鍋に紙をしき、こ越ふり其の上に入れ鍋の上したに火を置いて屋き申候、口伝あり龍馬時代のカステラ製法の資料としては嘉永五年(一八五二)京都三條尚書堂堺屋より出版された「鼎左秘録」がある。同書には次のように記してある。カステラ鶏卵 六ツ 砂糖 拾匁、うどん粉 拾匁 右三品を鉢にて良くすりまぜ、鍋の内に厚紙をしき其の中にドロリと流し込み、蓋をして上に強き火 下には弱気火を置き焼く・・・ 私は先年 此の文章に従ってカステラを焼いて戴いた。味は淡泊であった。然し翌朝食べたらボロボロになっていた。現在のカステラには其の後、水飴が加えられているので美味しくボロボロになりませんよと言われた。 先年 ポルトガルに行った時、カステラという菓子はなかったが「パンドラ」という菓子があった。長崎のカステラの原型ですよと言われたがあまり美味しくはなかった。第36回 長崎料理ここに始まる。(八) おわり※長崎開港物語は、越中哲也氏よりみろくや通信販売カタログ『味彩』に寄稿されたものです。

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  • 第535号【黄金色に染まる晩秋】

     北国では早くも積雪。西日本の各地からは初雪のニュースが次々に聞かれるようになりました。長崎の初雪は平年だと12月中旬。しかし、このところの急な冷え込みからすると、今年の初雪はもっと早くなりそう…。晩秋がかけ足で過ぎて行こうとしています。眼鏡橋の上流にある光永寺(長崎市桶屋町)へ足を運ぶと、境内の真ん中にあるイチョウの木がきれいに色づいていました。茶色の山門からのぞく黄金色のイチョウの葉。その美しさに、お寺の前を通りがかる人たちもつい足を止めます。  光永寺は、福沢諭吉ゆかりのお寺です。福沢は19歳のとき蘭学を学ぶため長崎へ来ていますが、最初にこのお寺を頼って来ており、一時居候。福沢が自らの人生を語った「福翁自伝」にもそのときのことが記されています。山門前には、「福沢先生留学趾」と記された碑がありました。  光永寺のそばにかかる古町橋のたもとに目をやると、「松壽軒(しょうじゅけん)跡」と記された碑が建っています。松壽軒は、虚無僧寺。時代劇などで、顔を隠すように笠を深くかぶり、尺八を吹いて歩く僧侶の姿を見たことがあると思いますが、それは、虚無僧と呼ばれる人たちで、江戸時代の普化宗の僧侶です。彼らは、尺八を吹いて全国を行脚修行していました。ちなみに長崎は、幕末に関西を中心に活躍した尺八奏者・近藤宗悦の出身地であり、宗悦は松壽軒と関わりがあったといわれています。  長崎と尺八。出島がらみで語られがちな当時の長崎のまた違った一面が見えてきました。虚無僧らが尺八を吹きながら往来したであろう古町橋を渡り、寺町通りの一角にある大音寺(長崎市鍛冶屋町)へ。ここには、樹齢300年を超える大イチョウがあって市の天然記念物になっています。樹高は20メートルほど。すっかり黄金に色づいたイチョウの葉が枝ごと風に揺れる姿はどこか野性的。大音寺の後山でひときわ目立っていました。  黄金といえば、先日、「特別展 新・桃山展 大航海時代の日本美術」を開催中の九州国立博物館へ行った際、豊臣秀吉が造らせたという「黄金の茶室(復元)」が出入り口付近に公開展示されていました。移動可能な組み立て式のコンパクトな茶室は壁や天井、柱、そして障子の腰にも金が張られ、茶道具もみな金色。畳の表は赤い毛織物で、障子紙の部分も赤。侘び寂びの対局にあるような秀吉の発想に驚かされました。   この特別展では、信長・秀吉・家康の時代、ヨーロッパやアジア諸国の影響を受けた日本の美術品が多数展示され、長崎ゆかりの品々も少なくありませんでした。群雄割拠の戦国の世に、南蛮貿易港として開港した当時の長崎は異彩を放つ存在。しかし、よくよく歴史を見てみると、長崎を開港させた大村純忠には、周囲の豪族から領地を守りたいといった、戦国時代ならではの胸のうちがあったよう。歴史には見とれるほど光り輝く面がある一方で、あまり表沙汰にはならない影の部分も同じだけある。そんなことを思わせる秋の黄金色でありました。

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  • 第534号【現代と江戸時代をつなぐ出島表門橋】

     秋の行楽シーズンたけなわ。路面電車が走る長崎のまちでは、観光客の方々や修学旅行生が笑顔で行き交う姿が目立ちます。そんな賑わいから少し離れて、山里の風情が残る鳴滝へ足を運ぶと、木立ダリアが長い茎の先にうすむらさきの花をつけ、ススキとセイタカアワダチソウが競うように生い茂っていました。  こんな秋らしい風景に出会うと思い出すのが、向井去来の「君が手もまじるなるべし花すすき」という句です。元禄2年(1689)一時帰郷した去来が長崎を離れる際、日見峠で詠んだもの。見送りに来た親戚の人はよほど別れがたかったのでしょう。長崎街道をいく旅人は、長崎市中にほど近い蛍茶屋で見送られるのが通常でしたが、そこからもう少し離れた山あいの峠まで付き添いました。  いよいよお別れとなったとき、去来が振り返るたびに、すすきの合間から手を振り続ける親戚の姿があり、しだいに見えなくなっていく、そんな情景が浮かびます。句には長崎滞在中、皆によくしてもらったという去来の感謝の念も込められているのでしょう。時代は変わっても、二度と会えないかもしれない別れの心情はきっと同じ。ちょっとせつなくなります。  日見峠の別れのシーンから、再び賑わう街中へ。この秋、長崎を代表する観光スポット、「出島」がいつも以上に注目を浴びています。というのも出島と対岸の江戸町をつなぐ出島表門橋が架けられ、平成29年11月25日(土)から、江戸時代のように橋を渡って出島に入れるようになるのです。以前かかっていた石橋が取り払われてから約130年ぶりの架橋。洗練されたデザインで、ひとつ下流のたまえ橋から見ると、周囲になじんでしまってわかりづらいのですが、現代の橋の技術を駆使しながらも、さりげない表情がいいなあと思います。  鎖国時代、唯一ヨーロッパに開かれた窓口だった出島。かつて出島と長崎市中を結んだ一本の橋は、さまざまな人や貿易品が行き交った歴史的ルートともいえます。現在、出島内ではヘトル部屋、料理部屋、乙名部屋、銅蔵など全部で16棟の建物が復元されており、出島表門橋の上にたたずめば、往時の様子がよりリアルに感じられるかもしれません。出島表門橋は、夜間にはライトアップされ、ひとつ上流にかかる出島橋(明治時代に架けられた日本最古の現役の鉄製道路橋)とともに、美しい夜景を楽しめるそうです。  出島表門橋のたもとから後ろを振り返れば、そこは県庁裏門。そばには紅毛外科楢林流の始祖、楢林鎮山(ならばやしちんざん/1648〜1711)宅跡の碑があります。オランダ通詞だった鎮山は、職務のかたわらオランダ商館医に付いて医学を学んだそうです。出島の目と鼻の先に自宅があったという点で、さまざまな人の出入りがあり、史料には残されていないこぼれ話がたくさんあるのだろうと想像されます。   長崎県庁裏門も、長崎駅近くの新しい県庁舎がこの秋完成し、その後の移転が済めば撤去されることになるのでしょう。表玄関とくらべ地味な存在でしたが、この界隈を知る人にとっては、なじみのある風景。いまのうちに目に焼き付けておきたいと思いました。

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  • 第35回 長崎料理ここに始まる。(七)

    特集・坂本龍馬と長崎料理・かすてら(其の三) 一、はじめに▲亀山焼染付芯切(越中文庫) 長崎はいま坂本龍馬で沸き返っている。 先日、本誌の編輯子より「今回は龍馬と長崎料理を特集して下さい」との連絡があった。 そう言われてみると私は戦後昭和二十九年七月三日・毎日新聞長崎地方版に同年七月より連載させて戴いた「巷説長崎風土記」の一章に「亀山の白バカマ」と龍馬と亀山社中のことを書いていた。之が始めて戦後、龍馬と長崎のことを書いた文章であったと言われる。 次いで昭和三十三年春、司馬遼太郎先生が龍馬の資料収集のため来崎され、次いで親和銀行頭取北村徳太郎先生がわざわざ亀山社中の一人・二宮又兵衛の墓を訪ねて私の処にこられた事を思いだしている。 そして此れ等のご縁で私が平成十二年新人物往来社特集「検証・坂本龍馬」には「長崎時代の坂本龍馬」を書かせて戴いた事を編輯子は知っておられたそうである。二、龍馬はじめて長崎に 龍馬の研究では、先年亡くなられた宮地作一郎先生編輯の「坂本龍馬全集」に先ず目を通さなければならないし、最近は前述の新人物往来社より十数冊の龍馬関係資料が出版されている。 此れ等の資料を参考にして、龍馬が何時、最初に長崎へ足を踏み入れたか、其の当時の事より考えてみる事にした。 元治元年二月二十二日(一八六四)軍艦奉行に任命された勝海舟は長州藩とアメリカ等四カ国連合国との問題解決の為、一行二十名と共に熊本・島原・神代経由で愛津村(現在愛野)に着き其の夜は同村庄屋宅に一泊、翌二十三日船に乗り千々岩灘(橘湾)を渡り長崎に到着している。 この一行の中に龍馬・近藤長次郎もいたのである。当時、龍馬は文久二年三月(一八六二)土佐藩を脱藩し江戸に行き勝海舟の門下生となり、翌年、海舟が神戸に開いた私塾「海軍塾」に入塾し、塾頭となり操海技術・洋学などを学んでいたので、海舟の長崎行きには塾生として同行を認められたのである。 この時の海舟と各国との交渉は不調に終わり、四月四日には海舟の一行は長崎を出発し前路を逆に長崎より舟で愛津に渡り神代・島原経由熊本に渡っている。 この結果もあって、七月十九日長州藩は京都蛤御門の変で幕府軍と争い敗れ、更に其の翌八月五日には英米仏蘭連合艦隊の長州藩下関砲台の砲撃に合い大いなる衝撃を受けている。 この間のことを龍馬はどう見ていたのであろうか。三、長崎滞在中の海舟と龍馬▲長崎菓子屋の図(鼎左秘録) 海舟と龍馬の長崎における宿舎は下筑後町の唐寺福濟寺と記してある。福濟寺は由緒ある黄檗宗の唐寺で有名な大雄宝殿・青蓮堂があり、其の二堂の間には大きな書院もあったし、近くには永聖院・興徳庵・霊鷲庵等の末庵もあったので従者の人達もゆっくりと分宿できたと考える。また海舟にとっては前回来崎の時にもうけた一子梅太郎も寺のすぐ近くの西坂の実家に元気に育っていた。 海舟は前回の長崎滞在のとき当時の素封家で松平春嶽・貿易商グラバー等とも親しく交わり、且つ文人としても有名であった小曽根乾堂(けんどう)(一八二八~八五)に多大の援助をうけ且つ親交があったと記してある。乾堂は当時、福濟寺よりあまり遠くない本博多町(現万歳町)の坂上天満宮の隣に居を構えていた。 今回も当然、海舟は乾堂と逢い親交を重ねたに違いない。そして其の座席で海舟は塾頭である龍馬を将来のある人物として紹介したはずである。それは其の翌年慶応元年四月(一八六五)龍馬を援助する薩摩藩士小松帯刀と共に再び船で長崎に来た時、長崎における援助者が乾堂であった事でも知られる。乾堂は龍馬を志ある大いなる人物として認められていたのであろう。 龍馬は再び鹿児島に引返し翌慶応二年(一八六六)六月三日、亀山社中所有のワイル・ウエフ号が五島有川町江ノ浜塩谷崎沖で転覆した事もあって新妻お竜を連れて長崎に急ぎ、お竜は小曽根邸に預け自分は亀山社中の同誌を連れて五島に渡り江ノ浜の墓地に慰霊碑を建てている。(その慰霊碑は江ノ浜の墓地内に現存している) この間、龍馬が鹿児島に行き長崎不在中に亀山社中の同志で龍馬の代役として活躍していた近藤(上杉)長次郎がユニオン号を六万ドルでグラバー商会より購入、その代金は長州藩より支出、所属は薩摩藩とし使用は薩長共用、航海運用の実務については亀山社中という協定書の事より種々と問題が起こり、更に其の文章に無断で龍馬の名を長次郎が記した事より慶応二年一月十四日本博多町小曽根邸の庭園内の茶室で自殺するという事件が起きていた。龍馬はこの知らせを聞いたが急ぎ長崎にも行けず、前述の六月長崎を訪れた時、長次郎の墓碑に「梅花書屋氏墓」を記し供養したと伝えられている。(墓碑は現在、長崎寺町皓台寺後山小曽根家墓域内にある)。四、龍馬と西洋料理龍馬はブーツを履き、ピストルを持ち、当時としては珍重された写真にまで映像を残しキー付の懐中時計を持っていたと言うほどハイカラ好みの人物であった。 その故に編輯子は「新しい知識に興味を持ち続けている龍馬は、西洋料理を食べ、南蛮菓子のカステラも必ず食べたはず」と言われる。 そう言われてみると、亀山社中があった旧長崎村伊良林郷字垣根山のすぐ近くには我が国最初の西洋料理専門店「良林亭」が亀山社中が結成された頃には大いに繁昌し、亀山社中のいた慶應年中には旧位置より稍下の次石の地に「自遊亭」と店名を改め営業しているし、その下の伊良林本直には、其処にも和洋食料理で有名な料亭「藤屋」があり、其処に龍馬が行った事は土佐藩士佐々木小四郎宛書簡に「時に藤屋に出かけた」と記してある。たぶんに龍馬も洋食を堪能したでありましょう。(以下次号)第35回 長崎料理ここに始まる。(七) おわり※長崎開港物語は、越中哲也氏よりみろくや通信販売カタログ『味彩』に寄稿されたものです。

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  • 第533号【茶処・東彼杵町のおいしいもの】

     超大型台風21号の被害に合われた方々に心よりお見舞い申し上げます。  暦を見ると、2週間後は立冬。刻々と深まる季節のなか、体は冬ごもりの準備がはじまっているのか、食欲は増すばかり。所用で出かけた東彼杵町(ひがしそのぎ・ちょう)で、おいしい出会いを満喫してきました。  JR長崎駅から、快速シーサイドライナーで彼杵駅(東彼杵町)まで約1時間。東彼杵町は、長崎県一のお茶の生産量をほこる茶処で、蒸し製玉緑茶の「そのぎ茶」の産地として知られています。「そのぎ茶」は、隣接する嬉野市を中心に生産される「嬉野茶」として出荷されていた経緯がありますが、近年、「そのぎ茶」のおいしさとともに、ブランド名も広く知られるようになってきました。今年9月に開催されたお茶の日本一を決める「全国茶品評会」では、「蒸し製玉緑茶」の部門で、産地賞(1位)を受賞。さらに、個人でも「そのぎ茶」の茶農家の方が農林水産大臣賞を受賞し、「そのぎ茶」のおいしさを改めて全国に知らしめました。  山あいに広がる茶畑の景色は、東彼杵町の原風景です。この時期のお茶の樹はツバキに似た白い花をつけるのですが、手入れが行き届いた茶園では、おいしい茶葉を育むため、つぼみのうちに摘んでしまうそうです。お茶の花は小ぶりでふっくらとして、うつむき加減に咲くきれいな花です。茶畑のそばを通りがかると、摘みそびれたお茶の花が数輪、秋雨に濡れていました。  東彼杵町へ出かけたとき、必ず立ち寄るのが国道205号沿いにある道の駅「彼杵の荘(そのぎのしょう)」です。食事処では、定番の鯨肉入りの団子汁と炊込みご飯のセット(680円)をいただきました。波静かな大村湾に面した東彼杵町は、江戸時代、近海でとれた鯨の集積地として発展した歴史があります。鯨肉を使った食文化がいまも息づく土地柄なのです。道の駅では、鯨肉も売られていました。  自然が豊かで農業が盛んな東彼杵。道の駅の商品は、おまんじゅうやもなかをはじめ、ソフトクリームや焼酎など、地元産の緑茶を使ったお菓子や飲料が目立ちます。また農業が盛んなまちとあって、季節の農作物も豊富。そのなかで、最近ではめずらしい「小栗(ささぐり)」を見つけました。小さな栗の実で、「柴栗(しばぐり)」と呼ぶ地域もあります。70歳前後の方たちが、口を揃えて、「小さい頃、食べてたわ」「山によく採りに行ってたのよ」と懐かしがります。店頭で「小栗」を買おうか悩んでいると、「通常の栗より、私は小栗のほうがおいしかと思うよ」と高齢の女性がすすめてくれました。湯がき終わりの頃に塩を入れるのが、おいしくなるコツだそうです。   くいしんぼうな現代人を満足させる道の駅「彼杵の荘」。そのすぐ隣には、5世紀につくられたという前方後円墳の「ひさご塚古墳」があります。「ひさご」とは「ひょうたん」のことで、古墳は文字通りひょうたんを思わせる形をしています。ほかにも一万年以上も前の旧石器時代の遺跡も見つかるなど、東彼杵町は太古の昔から人間が暮らしやすい土地であったことを物語ります。そんな自然豊かな土地で育まれた飾らない町の雰囲気、人の優しさが、秋の心にしみる東彼杵町でありました。

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  • 第532号【秋、大切なものを探して】

     10月の長崎は華やかでうれしい催しが続いています。新地中華街で行われた「中秋節」(9月30日〜10月4日)では今年も黄色の灯ろうが飾られ、龍踊りや中国獅子舞などでにぎわいました。「中秋節」はアットホームな雰囲気を楽しめる催しです。家族や友人たちとそぞろ歩く人々は、お月さまを見上げたり、二胡の演奏に聴き入ったりしながら、秋の夜長をのんびりと過ごしていました。 10月3日は、約380年の伝統がある「長崎くんち」(国指定重要無形民俗文化財)の「庭見せ」でした。「庭見せ」とは、奉納踊を担当する踊町が、本番で使用する傘ぼこや衣装、小道具、そして贈られたお祝いの品々などを飾ってお披露目するもの。踊町が点在する長崎市中心部は、庭見せがはじまる夕方から夜10時頃まで、観光客や家族連れ、仕事帰りの人々で大にぎわい。くんち本番への期待感が高まった夜でした。  10月5日夜、カズオ・イシグロ氏のノーベル文学賞受賞のニュース速報は、長崎の人々にとってうれしい驚きでした。長崎ゆかりの小説家であるイシグロ氏は、『日の名残り』や『わたしを離さないで』などで知られる世界的なベストセラー作家ですが、今回メディア関係者が予想した受賞者の上位には入ってなかったそうです。  イシグロ氏は、1954年長崎生まれ。長崎市新中川町に暮らしていました。長崎海洋気象台(現・長崎地方気象台)に勤務していた父親の仕事の関係で、5歳のとき渡英。以来、英国に暮らし、その後、英国籍を取得されたそうです。イシグロ氏が幼き日を過ごした長崎は、ちょうど戦後復興の最中で、原爆投下の記憶もまだ生々しく残る時代です。彼のなかに残る日本・長崎の記憶とはどのようなものだったでしょうか。デビュー作の『遠い山なみの光』には、イシグロ氏の生い立ちとどこか重なる女性が登場。遠い日の長崎の記憶が想像を交えながら描き出されています。  10月7・8・9日は、待ちに待った長崎くんちの本番。秋晴れのなか、諏訪神社での奉納踊や、「庭先回り」(まちをめぐって演し物を披露すること)が行われました。毎年くんち見物に出るという80代の男性は、「やっぱり、くんちは良かよ。シャギリの音が聞こえたらソワソワするけんね」と、笑顔でおっしゃっていました。  今年の踊町は5カ町で、馬町の本踊以外は、八坂町の川船、築町の御座船・本踊、東濵町の竜宮船、銅座町の南蛮船と、それぞれ個性的で異国情緒あふれる勇壮な引きものでした。どの踊町も子供から大人まで協力し合い、猛烈に暑かった夏の練習をのりこえてこの日に挑みました。踊り場では観客たちを感動の渦に巻き込み、「もってこーい」の歓声が響いていました。   世代や時代を超えて人と人との絆を生む伝統のお祭り。こうした催しには、さまざまな人と心意気、熱意、思いやり、優しさといった心情を分かち合う機会があります。イシグロ氏が2015年に来日したときの新聞のインタビュー記事のなかに、「人生は思うより短いもの。そのなかで、本当に大切なものは何なのかを考えてほしい」といった内容のコメントをふと思い出しました。

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