第42回 長崎料理ここに始まる。(十四)

前回にも記しましたが、私は昭和五十五年一月十一日より同年末の十二月十九日まで四十二回にわたり、西日本新聞に「長崎味覚歳時記」という長崎県下の食の文化史を書かせて戴いた。以来、私は長崎県下の食文化の楽しさとその歴史を勉強させて戴いた事を今しみじみと思い出し、これ迄に各方面よりお寄せ戴いたご支援に感謝申し上げている。

本冊子には前回迄に平戸、大村、五島方面の事を記したので今回は島原方面の食の文化を訪ねる事にした。


一、原山支石墓群の籾痕土器と稲作文化



▲蘭染付小花瓶(伊万里焼)


 我が国に最初に稲作が始まった事について戦前は弥生時代とされていたが、戦後の考古学の研究によりその稲作発祥の時期に新説が取り上げられている。この新説についての第一歩を踏み出されたのが島原市在住の古田正隆先生の発見から始まると言っても過言ではない。


 私が古田先生の許を訪ねたのは戦後の昭和二十四・五年頃であった。

古田先生はたしか朝鮮より引き上げられ島原港地区で奥様が旅館を経営され、ご本人は考古学の研究に専念されておられたとお聞きした。


 戦後当時の長崎には長崎大学内に文学部がない事もあり考古学専攻の先生方がおられなくて、私は長大医学部法医学教室で考古学的人骨も研究しておられた内藤先生をお訪ねし色々とご教示を戴いた思い出がある。其の時、内藤先生から「島原の古田氏を訪ねてみなさい」と言われた。


 当時、島原と言えば宮崎康平先生が有名であられた。先生は時々長崎上筑後町の勧善寺に滞在されておられたので、私は宮崎先生の許に出かけ「ヤマダイ国」のお話をお聞きし、其の時、古田先生をご紹介していただいた思い出がある。


 古田先生の功績は今考えると日本の考古学上によせられた大いなるものがある。其れは我が国における稲作は弥生時代からであるとされていた事に対して古田先生が北有馬町原山(現南島原市)の梶木遺跡の発掘によって縄文時代晩期(二四〇〇年前)の「山ノ寺式土器」を現在認定されている土器に籾の庄痕を発見された事によって、稲の渡米には水稲とは別に大陸より陸稲が既に渡米していた事を論考されている。そしてその遺跡には支石墳も発見され現在は国指定史跡に認定されている。


 私は原山の史跡地を訪ねた事がある。其地は島原市より雲仙に登る国道の最上段にありすぐ近くに雲仙があった。こんな山の上に古代人は住み、我が国で最古の稲作をしていたのである。いったいこの稲作の籾は何処より運ばれたのであろうか、支石墓文化と関係があるのであろうか等と考えてみた。県下の支石墓文化遺跡としては北松の鹿町(現佐世保市)にも国指定史跡大野台支石墓群があるし、北松田平町の里田原史跡(県文化財史跡)にも支石墓や水田の跡もあり、この地と共に県下稲作文化の遺跡が発見されている。


 我が国の食文化の伝来発祥については、稲作の文化は第一に考えねばならぬ事である。其の第一歩の発見が島原の古田先生にあった事は島原の稲作を中心にした食文化研究には意義深いものがあると私は考えている。



二、須川ソーメン


昭和五十九年、発刊の長崎県大百科辞典(長崎新聞社編集)には「本県を代表する食品工業として、島原半島の手延素麺が挙げられ、全国生産の五分の一を占め、兵庫県に次ぐ大産地である事は意外と知られていない。島原半島では西有家町の須川地区を中心に産地形成が進み須川ソーメンとして知られている」と記してある。


 一体に我が国に於けるソーメンの歴史は古い。勿論初期のソーメンは「手のべソーメン」であり現在のように多産の製麺機、ヨリ機、掛機が発明導入されたのは明治末年から大正期にかけてからである。(一九八八年長崎県高技研究会編輯・長崎県の自然と生活)



▲陶製桃置物(中国無錫)


 須川地区を中心に須川ソーメン業が大いに発展した理由として同書には三つの事をあげている。


 第一は奈良の三輪のソーメン業者より昭和三十年頃より下請け加工産地として出荷量が急増した事。第二は他県での製品は二回工程であるのに須川での工程は一回。次いで島原方面は気温が高く強力粉の比重が高い。第三には他産地より労働力が安かったからである。


 須川ソーメンは昭和五十五年頃より韓国ソーメンの輸入や冷夏や製造者名の事などにより現在は生産をやや「手控え」ているとの事である。然し県下では「須川ソーメン」の名は有名である。


 ソーメンの歴史を記してあるものとしては、江戸時代の医学者寺島良安が三十有余年かけて大成した「和漢三才図絵」百五巻に詳しい。


 ソーメンの事は其の巻第百五に次のように記してある。 


 索餅(そうめん・ソンビン)和名は牟岐奈。「語林」に魏の文帝が何晏に熱湯餅を与えたとあるは、索餅のことであり、ソーメンの始めは漢と魏の間に始められたと考える。・・・・・・索餅とは俗にいう素麺の事である。・・・・・・我が国にては七月七日(たなばた)に之を贈る。備前の三原、奥州の三春の産は細く白くして良いもの也。予州・阿州のも劣らない。和州の三輪のものは昔から有名であるが佳くない。大阪で最も多く造って四方で発送する。


 ソーメンは明治時代以前は全てが「手のべソーメン」であり全国各地でつくられていた。長崎のソーメン資料としては一六〇二年長崎のイエズス会で編纂された「日本ポルトガル辞書」(原本ポルトガル語)に次のように記してある。


Somen.ZoRo.(ソーメンの婦人語)

Somenya(ソーメンを売る店、又は造る家)

Vdon 小麦粉をこねて非常に細く薄く作ったものでソーメンのようなものでQuirimugi(切麦)のような食物の一種


 これによると長崎・島原地方でもキリシタン時代すでにソーメンが作られていた事がわかる。参考資料としては長大教授西川源一先生著「須川船の研究」を一読しておかれるとよい。


(以下次号)


第42回 長崎料理ここに始まる。(十四) おわり


※長崎開港物語は、越中哲也氏よりみろくや通信販売カタログ『味彩』に寄稿されたものです。

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