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  • 第566号【桃の花咲く桃溪橋へ】

     「春に三日の晴れなし」とはよく言ったもの。変わりやすい春の空の下、卒業式や転勤といった人生の節目を迎える方も多いはず。「大事な日には晴れるといいね」、「この時期の雨は菜種梅雨って言うそうよ」などと、とりとめもないおしゃべりをしていた友人から、「お裾分けです」と兵庫県の郷土料理・イカナゴのくぎ煮をいただきました。「毎年、神戸の知人が送ってくれるの。瀬戸内に面したその地域では、イカナゴを煮炊きする香りが春先の風物詩になっているそうよ」と友人。醤油と砂糖で甘辛く煮たイカナゴのくぎ煮。ご飯がすすむおいしさでした。  地元長崎の海も春めいて、マダイやチヌなど季節の魚が採れているようです。知り合いから鰆(サワラ)をいただき、野菜入りの揚げかまぼこを作りました。鰆は春に産卵のため沿岸にやってくることから、春を告げる魚ということで「鰆」という字になったとか。秋・冬が美味と言われていますが、早春もまだまだおいしい。鰆は白身魚でクセのない上品な味わいです。照り焼きや西京焼にしていただくことが多いよう。かまぼこにしたのはちょっと贅沢だったかもしれません。  早春の晴れ間に中島川沿いを歩けば、眼鏡橋の上流にかかる桃溪橋(ももたにばし)のたもとでは、1本の桃の古木が満開を迎えていました。ちなみに今週初めの3月11日は、72節気の「第8候・桃始笑」(桃の花が咲き始めるという意味)でした。桃溪橋の桃の花はこれから1週間は楽しめそう。そして、来週後半には、桜の季節がやってきます。  中島川の石橋群のひとつ桃溪橋は、中島川の2つの支流が合流するところに架かっています。1679年(延宝7)、卜意(ぼくい)という僧侶が募った財で架設されました。橋の名は、当時、その川のほとりに多くの桃の木があり、桃の花の名所だったことにちなんだものとか。桃溪橋は丈夫な橋でしたが、昭和57年の長崎大水害で半壊。その3年後にもとの形にもどされました。橋の幅は3.5メートル。昔ながらの風情をたたえながら、いまも車両が通るタフな石橋として活躍しています。  桃溪橋のすぐそばの川沿いに「出来大工町不動堂」が建っています。江戸時代、この近くにあった「青光寺」(しょうこうじ)(1645年開創)という真言宗のお寺ゆかりのお堂です。1696年(元禄9)、青光寺の和尚が、門前にあった中島川沿いに不動明王の石像と、お堂を建立。その後、火災でお堂は消失しますが、再建・修理を重ね、現在の「出来大工町不動堂」へとつながりました。その間、青光寺は、明治政府による神仏分離令によって廃寺になりました。  不動明王を真ん中に、聖徳太子、弘法大師を祀る「出来大工町不動堂」。この小さなお堂が、いろいろな時代を乗り越えられたのは、霊験あらかたで地元の人々に敬われ親しまれてきたからだと伝えられています。  「出来大工町不動堂」のそばには「不動明王常夜灯」と刻まれた、「唐船安全祈願塔」が建っています。川を挟んだ向かい側にも同じようなものがあります。これらの塔は、江戸時代、長崎港に停泊する唐船の荷物を、小舟に積んで中島川上流の桃溪橋付近まで運んでいたことをいまに伝えています。  「出来大工町不動堂」や「唐船安全祈願塔」など江戸時代の記憶や風情が残る桃溪橋界隈。うららかな春の日に散歩に出てみませんか。

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  • 第565号【ツバキの季節】

     庭の手入れをしていたご近所の方から「よかったら、どうぞ」と、ヤブツバキをいただきました。ツバキは、コップにひと枝挿すだけで、簡素、静けさといった雰囲気を醸してくれます。わび・さびに通じるその姿は、もともと日本に自生する花木だからでしょうか。早咲きのタイプは花の少ない晩秋・冬には咲きはじめるので、「冬の薔薇」とも称されるツバキ。最近では品種改良がすすんでいるのか、花の色や形、大きさも多彩なっているようです。  ツバキの名所として全国的に知られているのは、長崎県の五島列島や静岡県の伊豆大島など。ちなみに長崎県の花は「ツバキ」です。五島列島はもちろん、県下各地の山あいでツバキの群生が見られ、街路樹や庭木としてもよく見かけます。そのなかで、とくに愛好家たちに注目されたものに、五島列島の福江島で戦後発見された「玉之浦」(ヤブツバキの突然変異種で赤い花弁の縁が白い)や長崎市野母崎町の権現山で近年発見された「陽の岬」(白ツバキの一種)などがあります。  常緑広葉樹のツバキ。葉に艶があることから、古く「艶葉木(ツバキ)」と書き記されたこともあります。ツバキの葉で、ちょっと変わった形をしたものが、長崎港そばの街路樹にありました。葉の先が割れ金魚の尾のような形をした葉です。これは、見た目通りに「金魚葉」とよばれる種類で、ヤブツバキの突然変異だそうです。  中国南部にも自生するというツバキ。長崎駅からほど近い玉園町にある聖福寺には、中国の「唐椿」にちなんだエピソードが残されています。聖福寺は、延宝5年(1677)、黄檗宗を日本に伝えた隠元の孫弟子にあたる鉄心禅師によって創立されました。鉄心は、お寺の創建時に「唐椿」を植樹し、とても可愛がったそうです。亡くなる直前には、自力で動けなくなった体を椿の近くまで運ばせて鑑賞。その後、沐浴し、その水を唐椿にやるよう命じて間もなく亡くなられたと伝えられています。  そのツバキは、「鉄心椿」と称され、いまもお寺の一角にあるとか。ひと目見たくて聖福寺へ足を運ぶと、参道や境内に数本のツバキが植えられていました。残念ながらどれが「鉄心椿」なのかはわからないままお寺を後にしましたが、たくさんの花をつけたツバキは唐寺になじみ、静かで美しい景色を生み出していました。  ところで、ツバキとよく混同される花木に、同じツバキ属のサザンカがあります。区別するときに分かりやすいのは、花の散り方かもしれません。花ごと落ちるのはツバキ、木のたもとに花びらが散らすのはサザンカです。   サザンカというと、江戸時代、出島にオランダ商館医としてやってきたツュンベリーが思い起こされます。ツュンベリーは、スウェーデンの植物学者リンネの高弟で、1775年から1年半ほど出島に滞在し、精力的に日本の植物を採集しました。帰国後、それらの植物に学名をつけ「日本植物誌」を著します。そのなかに和名をそのまま種名や属名に用いたものもあり、そのひとつにサザンカがありました。長崎市立山にあるツュンベリー記念碑の背後には、晩秋に白い花を咲かせるサザンカが植えられています。

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  • 第564号【福を招くチョコとランタンオブジェ】

     今年の「長崎ランタンフェスティバル」は、気のせいか、いつも以上にカップルの姿が目立ちます。開催期間半ばの明日、バレンタインデーを迎えるからでしょうか。そんなホットな賑わいのなか、巷ではチョコレート商戦も花盛り。店頭に並ぶチョコレートは目移りするほど多彩です。好きな人に贈るためだけでなく、話のタネになりそうなチョコレートを選んで、家族や友だちとコーヒータイムを過ごすという方も多いのではないでしょうか。  長崎にちなんだ話のタネになるのが、「皿うどんチョコレート」です。皿うどんの細麺と上質チョコレートというユニークな組み合わせから生まれたスイーツで、細麺の新たな可能性を引き出したサクサクのおいしさです。味にこだわりのある人もきっと満足できるはず。バレンタインデーの贈り物としてはもちろん、ちょっと印象づけたい手土産にもおすすめです。  さて、チョコレートといえば、材料となるカカオ豆に含まれるカカオポリフェノールが、健康や美容に効果があるということで近年あらためて注目されていますね。チョコレートは、その甘い香りをかぐだけでもリラックス効果があり、また記憶力や集中力も高めてもくれるそうです。そんなチョコレートが日本へ伝えられたのは江戸時代の寛政年間(1789〜1801)の頃。外国から長崎に運ばれたのが最初といわれています。  江戸時代、長崎の花街のひとつだった寄合町。当時の「寄合町諸事書上控帳」には、長崎・丸山の遊女が出島の阿蘭陀人からもらい受けたものとして、硝子瓶や紅毛キセルなどとともに「しょくらあと」(チョコレート)が記載されています。これが、日本の史料に記された最初のチョコレートだそうです。当時、出島に出入りした日本人(地役人や遊女など)は、すでにチョコレートの味や香りを知っていたのかもしれませんね。  チョコレートとともにひと息つくときに欠かせないコーヒーも、長崎・出島に伝えられたのが日本で最初といわれています。ちなみにオランダ船が運んできたコーヒーの銘柄はモカだったそう。当時、出島で飲まれた酸味の強いコーヒーについて、長崎奉行所に赴任していた大田南畝(狂歌師・蜀山人)は、「焦げ臭くて味わうに堪えず」という感想を残しています。  さて、友人と「皿うどんチョコレート」でひと息つきながらの話題は、チョコレートやコーヒーの伝来のことから、やがて「長崎ランタンフェスティバル」で飾られているランタンオブジェへと移りました。「どれも、きれいで縁起のいいものばかり」なのです。たとえば、中島川沿いに設置されている金魚のオブジェ。中国では古来、金魚は豊かさと幸運を招くシンボルのひとつなのだそう。また、出島表門橋公園に設けられた「大象寶物」というオブジェは、正装した象が九つの宝物を背に乗せ運ぶ姿をしています。これは、「遠くに住む人々みんながよろこび、象が福を運んでくる」という意味があるそうです。ランタンオブジェには、それぞれ説明がついています。縁起のいいことが書かれているので、読み歩くだけでも、いいことがありそうな気になってきます。  今年の「長崎ランタンフェスティバル」は、来週2月19日(火)までです。

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  • 第563号【もうすぐ長崎ランタンフェスティバル】

     北陸から北の日本海側は厳しい寒さが続いていますが、西日本は暖冬傾向。九州・長崎は、大寒の時季にしては比較的あたたかく、日中の日差しには早くも春の気配さえ感じられます。眼鏡橋がかかる中島川では、カワセミ、ハクセキレイ、キセキレイなどの野鳥たちが活発に餌をとる姿が見られ、庭先では早春の花として知られる沈丁花も甘い香りを漂わせはじめました。  二十四節気で大寒の次にくるのが、立春です。今年は新暦で2月4日にあたります。旧暦では、立春にもっとも近い新月の日が新年のはじまりとされ、今年は立春の翌日の2月5日が旧暦の元旦になります。中国ではこの日を「春節」として祝いますが、この行事にちなんだ祭りが、「長崎ランタンフェスティバル」です。  毎年、春節から元宵節(旧暦1月15日)まで開催される「長崎ランタンフェスティバル」(今年は新暦2月5日から2月19日まで)。長崎市中心部で行われるこのお祭りは、年々、装飾や催しなどが充実。いまでは国内外から大勢の人々が集う一大フェスティバルとして知られるようになりました。まちじゅうを埋め尽くすように飾られているのは、中国ランタンや、干支のオブジェ、中国の伝説や歴史にゆかりのある動物や人物のオブジェなどで、夕刻になると目にもあたたかな色とりどりのあかりが灯り、まちは幻想的な雰囲気に包まれます。  朱色のランタンの下でお買い物や食事を楽しめる長崎新地中華街や浜んまち、お月さまのような黄色いランタンがロマンティックな中島川、川面に映る桃色のランタンがきれいな銅座川など、どこを切り取ってもインスタ映えする景色ばかり。ランタンを見上げながら笑顔で行き交う人々から聞こえてくるのは、多国籍の言葉です。それは、異国情緒を謳う長崎らしさを象徴するかのような光景です。年々来場者も増加している「長崎ランタンフェスティバル」は、アジアのお正月を祝う国際的な催しになろうとしているのかもしれません。  「長崎ランタンフェスティバル」は、新地中華街会場をはじめ中央公園会場、唐人屋敷会場、孔子廟会場などまちなかに8カ所の会場を設け、中国雑技や龍踊り、二胡演奏など中国ゆかりの催しを連日行っています。なかでも孔子廟会場では、人気を集めた中国伝統の変面ショーが、今年も毎日披露される予定です(孔子廟会場は、夕方17時以降は入場料無料)。   さて、「長崎ランタンフェスティバル」の最終日となる元宵節(旧暦1月15日)には、中国では「元宵団子」を食べる風習があります。長崎の料理家に教えてもらった元宵団子は、白玉団子を作る要領と同じ。中にこしあんが入っていて、レモン風味のシロップをそそいでいただきます。中国では、新年最初の満月の夜、幸せを願いながら家族揃って食べるとか。そんなことから「元宵(ユワンシャオ)」は「一家団欒」を意味する言葉としても使われているそうです。

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  • 第562号【亥年スタート】

     どんなお正月を過ごされましたか。長崎の三が日は穏やかな天候に恵まれ、初詣に出向く人々の姿で賑わいました。北国では強い寒波や大雪に見舞われていますが、大事のないことを祈るばかりです。暦はすでに寒入り。九州もこれから厳しい寒さを迎えます。風邪やインフルエンザに気を付けて、この冬を元気に過ごしたいですね。  おとといの正月7日は、七草粥の日でした。食べると一年間の病気を防ぐといわれ、江戸時代には将軍様も七草粥を召し上がるという公式の行事があったそうです。神社やお寺などではいまでも七草粥の行事をするところがあります。長崎の諏訪神社では、今年もおよそ千人分を大釜で炊き上げ、参拝客にアツアツの七草粥を振る舞っていました。  白粥に入れる七草とは、セリ、ナズナ、ゴギョウ、ハコベラ、ホトケノザ、スズナ、スズシロといった春の野草。食欲をそそる香りを放つセリ、解熱や止血などの効果があるナズナ、消化を促進するスズナなど、それぞれの野草には身体にうれしい効果があります。ほっこりする湯気の香りとともに、胃腸にやさしい七草粥。七草がそろわなくても、小松菜やホウレン草などの青菜を刻んで入れれば、冬場をしのぐ養生粥になりますね。  七草粥を食べながら、干支のイノシシにちなんだものが長崎のまちにあるかなあと思いを巡らしてみました。竜なら、まちのあちらこちらで見かけるのですが…。そうそう、春徳寺(長崎市夫婦川町)にありました。山門をくぐると右手にある小さなお堂、「摩利支天堂(まりしてんどう)」のイノシシの彫刻です。  「摩利支天堂」の摩利支天(マリシテン)とは、日月の光や陽炎を神格化した神様のことです。お堂のそばに掲げた説明によれば、マリシテンは、梵天さまの子で、開運、愛情、得財、勝利にご利益があるとのこと。戦国時代には武士たちの守護神として祀られることも多かったようです。また、亥年生まれの守護神でもあるとか。それで、お堂の梁の上にイノシシ像が彫られていたのです。  春徳寺の「摩利支天堂」は、寛永年間(1624-1642)に京都の禅居庵の分霊を祀ったもので、この地にいらして400年近い歴史がありますが、地元でもその存在を知る人は、案外少ないかもしれません。そもそも春徳寺は、長崎で最初に建てられたキリスト教の教会「トードス・オス・サントス跡」(県指定史跡)の地として知られ、また、唐通事・東海氏の中国風の墓(県指定有形文化財)があることでも有名です。さらには、幕末の16代住職、鉄翁禅師が、木下逸雲、三浦梧門とともに長崎南画三筆として知られるなど、長崎の歴史に関わるさまざまなエピソードを持つお寺なのです。そんな由緒ある春徳寺のふだんの様子は、思いのほか静かで、手入れの行き届いた境内には澄んだ空気が漂い参拝がてらのんびりとしたひとときを楽しめる場所でもあります。   「摩利支天堂」のそばにあった春徳寺の掲示板には、「猛進三昧」という干支にちなんだ新春の言葉が掲げてありました。心のままに勢い良く前進せよということでしょうか。皆様にとって良い年でありますように。本年もよろしくお願い申し上げます。

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  • 第561号【和やかに心豊かに楽しむ年末年始】

     今年もあと数日。気分があわただしくなる一方で、お正月休みを楽しみにしている方も多いことでしょう。我が家でのんびり過ごしたり、帰省したり、年が明ければ家族や友人たちと初詣に出向いたり…。短い冬の休暇をみんな笑顔で過ごせたらいいですね。  この年末年始、美しいものを観て心豊かなひとときを過ごしたい、そんな方におすすめなのが長崎歴史文化博物館(長崎市立山)で開催されている「ジャパン・ビューティー」展です(平成31年1月20日迄)。「美人画」の名手として知られる上村松園(1875〜1949)、竹久夢二(1884〜1934)、伊東深水(1898〜1972)など、総出品数は130点ほどにもおよびたいへん見応えがあります。  「ジャパン・ビューティー」展は、5年前の東京会場を皮切りにいくつかの県を巡ってきた巡回展です。今回の長崎会場では、長崎出身の女性画家・栗原玉葉(くりはらぎょくよう:1883〜1922)の作品が展示され、注目を浴びています。玉葉は、日本画家として東京を拠点に活躍。「西の上村松園、東の栗原玉葉」といわしめるほどの実力を誇り、多くの門弟を集めました。しかし、39才の若さで亡くなったこともあってか、当時の名声は現代にまで十分に届くことはなく、知る人ぞ知る存在となっていました。  これまで、玉葉の作品を地元・長崎で見る機会はありましたが展示作品数が少ないのが実情でした。しかし、今回は初公開作品をはじめ関係史料など計60点ほどが展示され、玉葉の生涯も見渡せる内容になっていました。玉葉のまろやかでこまやかな描写にひそむ思いとは、どのようなものであったのでしょう。 そこには、現代の女性にも通じるものがあるかもしれません。  さて、長崎の冬のお楽しみは夜も続きます。クリスマスは過ぎましたが、長崎市街地は美しくライトアップされ、心温まる景色を楽しむことができます。おすすめのスポットのひとつが、今年7月、ユネスコの世界文化遺産に登録された「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」の登録資産のひとつである「大浦天主堂」(1864年建造)です。夜になると南山手の教会前は、スマホなどで記念撮影をする観光客の姿が絶えないようでした。  大浦天主堂から長崎港へくだり港湾の景色を眺めながら歩くと長崎県美術館(長崎市出島町)があります。建物の中央を流れる運河沿いに施されたイルミネーションがとてもきれいです。ここから徒歩数分の場所には出島(国指定史跡 出島和蘭商館跡)があり、昨年11月に開通した出島表門橋が、出島橋(1890年建造)とともにライトアップされていました。出島と対岸を結ぶ出島表門橋は、往時の石橋とはまた違った現代的なスマートな外観です。今年、国内外のたくさんの人々を出島へ迎え入れ、新たな橋の歴史を刻みはじめたことを思うと感慨深いものがあります。   長崎のきらめく冬の夜を散策する際は、風邪をひかないように夕食にちゃんぽんを食べて身も心も温かくして、お出かけくださいね。今年もご愛読くださり、誠にありがとうございました。どうぞ、佳い年をお迎えください。

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  • 第560号【柑橘の香りで冬を元気に】

     北日本では積雪。九州・長崎もいっきに真冬になりました。この寒さに、ようやく師走らしさを感じた方もいらっしゃるかもしれません。長崎の諏訪神社ではこの時期、恒例の大門の大注連縄作りが氏子さんたちによって行われました。師走も半ば近くになり、あちらこちらで新年を迎える準備がはじまっています。  これからますます寒さが厳しくなって、身も心も縮こまってしまいがちです。そんなとき、甘くさわやかな香りや味で、気分を明るくしたり、体調を整える助けになったりするのが柑橘類です。  この時期の柑橘類といえば、やっぱり、みかん。こたつの上にみかんのある風景は、いまもほのぼのとした日本の冬の暮らしのワンシーンです。みかん(温州みかん)は、風邪を予防するビタミンCが豊富で、疲労回復に役立つクエン酸が含まれていることはよく知られていましたが、近年ではガン予防の効果があるβクリプトキサンチンが含まれていることがわかり、あらためて注目されました。温暖な気候に恵まれた長崎は、全国でも屈指のおいしいみかんの産地です。現在、「長崎みかん」のブランドで各地に出荷されています。  香酸柑橘のれもんやゆず、かぼす、シークワーサーなどもいまが旬です。香酸柑橘の豊かな香りと酸味は、いろいろな料理にギュッとひと絞りするだけで、おいしさを引き立ててくれます。こちらも、ビタミンCやクエン酸が豊富で低カロリー。酸味の主成分であるクエン酸は、血流改善、美肌作用などうれしい効能も期待できます。  来週12月22日は冬至ですが、この日にゆず湯に入ると、「1年中、風邪をひかない」といわれます。ゆずの果肉や皮には、ビタミンCがたっぷり含まれていて、その成分がしみ出したお湯につかると乾燥肌の予防になるとか。また、香りにはリラックス効果もあり、かじかんだ心と体をやさしくほぐしてくれます。  長崎には「ゆうこう」という伝統的な香酸柑橘があります。長崎市の外海地区と土井首(どいのくび)地区の限られた地域で自生樹が確認されています。姿は、ゆずに似た明るい黄色。酸味はそれよりまろやかで、香りも控えめです。以前、「ゆうこう」が自生する地域で育った方から、「子どもの頃、遊んでいてノドが乾いたら、枝からもいで果汁を飲んでいたよ」という話を聞いたことがあります。身近にあった柑橘が、「まさか、長崎にしか自生しないものだなんて思ってもみなかった」とおっしゃっていました。  ザボンも旬を迎えています。長崎では庭木として植えているお宅もあって、大きな実が枝をしならせています。中国原産のザボンは、江戸時代に長崎に入港する唐船の船長が、ジャワ(インドネシア)からその種子を長崎に運んできて、西山神社(長崎市西山本町)に植えたのが最初といわれています。ザボンは酸味がやわらかく、甘さや香りも上品な感じ。厚い皮の白い部分は、砂糖で煮て「ザボン漬」にします。このさわやかな香りのする甘いお菓子は、長崎の郷土の味のひとつとして昔から親しまれています。   さあ、冬の食卓にお好みの柑橘類を。皿うどんにも、れもんの果汁をたっぷり絞ってどうぞ。柑橘類のさわやかな香りとすっぱいパワーで、年末年始を元気にお過ごしください。

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  • 第559号【国境のしま、対馬の魅力 〜後編〜】

     旅先では、地元の人々が普段利用しているスーパーや直売所を訪ねます。その地では当たり前のように売られている食品が、ほかの地ではめずらしい品であることもしばしば。土地柄が垣間見えて面白いのです。対馬の直売所の鮮魚コーナーには、イトヨリ、アラカブ、マダイなど長崎県ではおなじみの魚をはじめ、バリ(アイゴ)、キコリ(タカノハダイ)、メブト(カンパチ)など方言で呼ばれる魚たちが手頃な価格でズラリと並んでいました。この時期、とくにおすすめなのが、秋から冬が旬のバリ。刺身がおいしいそうです。  直売所の農産加工物のコーナーには、対馬の伝統的な保存食「せんだんご」がありました。灰色でピンポン玉くらいの大きさ。秋に収穫したサツマイモをくだき、水につけて澱粉を沈殿させ、それをふるいで漉し、天日で発酵・乾燥させるという作業を数回繰り返して作ります。手間がかかるその作業は、年明けまで続くとか。最終的には、手のひらで丸めたものを親指、人差し指、中指で軽く押え、独特の形を作り、かちかちに乾燥させて出来上がりです。その姿から「鼻高だんご」とも呼ばれています。  「せんだんご」の昔ながらのシンプルな食べ方は、白玉粉の要領で水を吸わせてこね、だんごにして茹で砂糖をまぶしていただくというもの。また、「ろくべえ」と呼ばれる麺料理や「せんちまき」、「せんだんごぜんざい」などのお菓子にもして地元で食べ継がれています。「せんだんご」の原料であるサツマイモは、やせた土地にも育ち、古くから対馬の人々の食生活を支えてきました。そんなことから地元では「サツマイモ」のことを、「孝行イモ」と呼ぶのだそうです。  観光バスで対馬の山あいを走る道すがら、たびたび見かけたのが「蜂洞(はちどう)」でした。主に丸太を切り抜いて作られる蜂(ニホンミツバチ)の巣箱です。養蜂が根付いているこの島の人々にとって、山林などに点々と設けられた蜂洞は日常の風景です。対馬の養蜂の歴史は古く1500年ほど前にさかのぼるとか。江戸時代には将軍や諸大名への贈り物として使われていたそうです。長い間、養蜂ができる環境が維持されてきた対馬。今後もその豊かな自然が続きますように。  そば畑も各所で目にしました。そろそろ収穫時期に入る頃でどこも白い花が満開でした。対馬の名物「対州そば」。そばの実は小粒で、日本そばの故郷ともいわれています。今回はじめて「対州そば」を地元でいただきましたが、そばの風味が豊かでとてもおいしかったです。余談ですが、対州そばと一緒に地元のお米で作った塩むすびのおにぎりをいただきました。平地の少ない島ですが豊かな自然のなかで、良いお米が育つよう。対馬産米のおいしさを現地で初めて知りました。  お米といえば、豆酘(つつ)地区には稲の原生種といわれる赤米を祀り、栽培するという神事が受け継がれています。一年を通じて行われるさまざまな行事は、頭仲間と呼ばれる地元の集団によって大切に受け継がれているそうです。静かな山間を背景にある赤米神田。訪れたときは稲刈りの後、三角形の石碑が田んぼの中に建てられていました。   稲刈り後の田んぼでタゲリを見かけました。タゲリは冬に大陸から飛来する鳥。大型のチドリで後頭にある長い冠羽が特徴です。実は、今回の対馬ツアー中、ミサゴ、ジョウビタキなどの野鳥をたびたび見かけました。街なかではあまり見ない野鳥とも容易に出会える対馬。ヒレンジャクやオオワシなど越冬や繁殖のため大陸と日本の間を行き来する旅鳥たちが羽根を休める場所としても知られています。次回は野鳥観察で訪れたいと思います。

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  • 第558号【国境のしま、対馬の魅力 〜前編〜】

     この秋、対馬へ行ってきました。かねてより史跡めぐりをしたいと思っていた国境の島です。長崎空港から小型飛行機に乗り込んで35分。機上から見えたのは、濃紺の海を背景に、こまかく連なる緑の山々。そのふもとは繊細に入り組んだ海岸線で、平地はとても少ない。津々浦々には、小さな集落が点在していました。  九州本土と韓国の間の対馬海峡に浮かぶ対馬。福岡空港からは30分。また、博多港からは、フェリーや高速船の定期便があります。対馬は長崎県の島でありながら県内からの定期航路はなく、島民の生活圏も福岡寄りなのが実情です。  南北82キロ、東西18キロ、面積708㎢の対馬。地理的に朝鮮半島に近いため、古くから交流が盛んに行われてきました。対馬では、縄文人が小舟で九州と朝鮮半島を往来していたとも考えられていて、対馬の人々が古来より対馬海峡の荒波をよみとき、海上をたくみに行き交っていたことがうかがえます。『魏志倭人伝』(3世紀)には、対馬は「対馬国」として「一支国」(壱岐)とともに記されていて、日本と大陸を結ぶ交通の要衝であったことがわかります。  対馬は、大きく北部の上島(かみじま)、南部の下島(しもじま)に分かれています。浅茅湾(あそうわん)の奥にある万関瀬戸(まんぜきせと)が上下島の境界線だそうです。今回のツアーでは浅茅湾周辺と、下島(しもじま)を中心にめぐりました。  複雑な入り江で知られる浅茅湾。美津島町(みつしままち)の長板浦港で市営渡海船「うみさちひこ」に乗り込み、快適なクルーズを楽しみました。無人の島々や岩層を露わにした岸壁など、はるか昔に島が海底から隆起して生まれたことがリアルに想像できる美しくてダイナミックな景観を楽しみました。対馬の霊峰・白嶽(しらたけ)も見えます。海上ではマグロの養殖も盛んなよう。渡海船が内海ならではの穏やかな波をいくなかで、外海に開けた場所を通るときだけは、風が強くなり白波がたちました。水平線の向こうは韓国です。  渡海船の上から和多都美神社(わたつみじんじゃ)を参拝しました。本殿につながる5つの鳥居のうちの2つは、海中に立っています。背後の豊かな緑とともに神秘的な雰囲気を漂わせていました。和多都美神社は、竜宮伝説が残る古社。彦火火出見尊(ヒコホホデミノミコト)と豊玉姫命(トヨタマヒメノミコト)を祀っています。豊玉姫命は、海神の娘で、「古事記」の海幸山幸伝承に登場します。地元では、航海守護・安産などの神様として親しまれています。  和多都美神社は、平安時代に編纂された「延喜式神名帳」(927年)に記された「式内社」(しきないしゃ)のひとつです。それは、当時の朝廷に認められた官社であっことを意味します。式内社は九州で98社107座あり、そのうち対馬は、九州で最多の29社を擁しています。次に多いのが壱岐で24社。この2つの島で九州の半分以上を占めているのです。神道とのゆかりの深さ、朝廷との強いつながりがうかがえます。   たいへん古くて奥深い対馬の歴史は、簡単には語りつくせません。次回は、対馬の衣食住を切り口にご紹介します。

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  • 第557号【高島秋帆のこと】

     さわやかな秋の陽気が続くなか、国指定史跡の「高島秋帆旧宅」(所在地:長崎市東小島)へ出かけました。高島秋帆(1798-1866)は、江戸時代後期の砲術家。諱(いみな)は「茂敦」、通称は「四郎太夫」。「秋帆」は号。家は代々町年寄を勤めた裕福な家庭で、秋帆も後を継ぎ、長崎奉行の支配下で貿易都市・長崎の運営にあたりました。  「高島秋帆旧宅」は、長崎の歓楽街として知られる思案橋・丸山にもほど近い、小高い丘の上にあります。玉すだれが咲く石段を上ると、旧宅の門が出迎えます。敷地には秋帆が暮らした家屋敷はすでになく(原爆で大破)、庭園跡、砲術練習場跡、一棟の石倉、石塀が静かに秋の陽光にさらされていました。  この家は、町年寄りだった秋帆の父、高島四郎兵衞茂紀(たかしましろうべえしげのり)が、文化3年(1806)に別宅として建てたもの。本宅は長崎奉行所西役所(長崎市江戸町)に近い大村町(現在の万才町)にありましたが、天保9年(1838)の大火で類焼し、以後、別宅が使われるようになったそうです。  秋帆が砲術家となったのは、長崎警備の必要性から父とともに、荻野流砲術を学んだことがきっかけです。その後、シーボルトから直に伝授されたともいわれる西洋式砲術を取り入れ、「高島流砲術」を創始しました。「高島流砲術」のベースには蘭学研究があったといわれ、秋帆が若い頃から蘭学に親しんでいたことが伺えます。「高島流砲術」は、まもなく佐賀(武雄)・肥後・薩摩藩など九州諸藩をはじめ全国に広まっていきました。  ところで、秋帆といえば、東京都板橋区「高島平」の地名の由来となった人物であることがよく知られています。天保11年(1840)、武蔵国の徳丸ケ原で、秋帆とその門人らによって行われた西洋式大砲を用いての西洋式調練。それは日本で初めてのことで、のちに地名となるほどの大きなインパクトを与えたのでした。  順風満帆の人生に思われた秋帆ですが、徳丸ケ原の調練から、わずか1年あまりで「謀叛の疑いあり」で逮捕されます。これは、秋帆の存在が面白くない人物が、罪を偽装したといわれています。長崎から江戸に護送・投獄された秋帆は、数年後に中追放となり、岡部藩(埼玉県深谷市)預かりの身に。岡部藩では丁重に扱われ、藩士に兵学を教えたそうです。その後、秋帆は嘉永6年(1853)のペリー来航の年、門人の願により赦免。心機一転から、通称の「四郎太夫」を「喜平」と改めています。  岡部藩に幽閉されていた頃に秋帆が出した書簡が、シーボルト記念館(長崎市鳴滝)でこの秋、開催中の「秋帆がゆく〜高島秋帆とその時代〜」(平成30年11月11日まで)に展示されていました。書簡には、長い文面の最後に、夏の暑さにたえかねて裸ん坊で縁側に寝そべり読書をしている自画像が描かれていました。うちわや茶箱、読みかけと思われる数冊の書など、状況がリアルに伝わる描写は、どこか開き直ったようでもあり、おかしみさえ感じられます。この書簡は、秋帆の人柄が垣間見える数少ない史料のひとつかもしれません。   また、秋帆の人柄を知るためのヒントとなりそうなのが、「秋帆」という号。若い頃から使っていたそうですが、その由来はわかっていません。想像するに、長崎で秋の帆といえば、日本からの輸出品を満載して出航するオランダ船のこと。オランダ船が無事に長崎を離れることは、貿易業務にあたる町年寄にとって、ほっとするときでもあったはずです。実際のところ、秋帆はどんな思いから、この名を使うようになったのでしょうか。とても気になります。

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  • 第556号【長崎くんちと傘鉾】

     今年の「長崎くんち」が終わり、しゃぎりの音色と根曳衆の勇壮な掛け声に包まれた中心市街地は、その熱をおびたまま静かな日常をとりもどしはじめています。1634年(寛永11)にはじまる「長崎くんち」。384年目となった今年は、平成最後の節目ということで、踊町はもちろん見物客たちの感慨もひとしお。秋晴れに恵まれた三日間(10/7・8・9)絢爛豪華な奉納踊が繰り広げられました。  長崎くんち本番前の10月3日に行われた庭見世(にわみせ)も賑わいました。庭見世とは、今年の踊町が、傘鉾や衣装、道具、お祝いの品などを披露するもので、本番への期待感が高まる催しです。中心市街地に点在する今年の踊町、小川町・大黒町・椛島町・出島町・東古川町・本古川町・紺屋町の全7カ町(※小川町・紺屋町・本古川町は旧町名)は、それぞれ飾り方、見せ方を工夫し準備万端。庭見世がはじまる夕刻になると、家族連れや観光客、そして仕事帰りの人たちなど大勢が繰り出して賑わいました。今回、町内に出島を擁する出島町は、庭見世を出島で行い、昨年11月に完成したばかりの出島表門橋から出島の外側にかけて見物客の長い行列が続いていました。  庭見世で目を引くのは、やはり傘鉾です。各踊町の町印として、行列や奉納踊の際、常に先頭に立ちます。くんち前日(まえび)の御神輿お下りの際に行われた「傘鉾パレード」では踊町の傘鉾が一堂に会し、圧巻でした。重い傘鉾をバランス良く持って小刻みに歩き、ときに回してみせるのは、「傘鉾持ち」と呼ばれる専門の男衆です。その演舞は、傘鉾の美しさをいっそう際立たせます。  傘鉾の「垂れ」や「飾(だし)」と呼ばれる上部の飾りには、その町の歴史や故事などにちなんだものが施されています。それぞれが長崎の町の歴史を物語っており、興味をそそります。たとえば、本古川町の傘鉾。垂れには、楓や紅葉を散らした秋の風情を背景に、楽太鼓や笙など雅楽で用いられる楽器が描かれています。また、飾には、能楽で使われる〆太鼓や能管、小鼓などが施されています。この傘鉾は、かつて本古川町には多くの楽師が居住し、いろいろな楽器の音曲が流れる賑やかな町であったことを表現しているとのことでした。  大黒町の傘鉾は、大黒様の持ち物である金色の打ち出の小槌が目を引きます。江戸時代からある大黒町の町名が、七福神の大黒様にちなんでつけられたことを表しています。そして、コッコデショ(太鼓山)で知られる椛島町の傘鉾は、江戸時代、同町の乙名であった若杉家が、猿田彦のお面を諏訪神社に奉納したという故事にちなんだもの。飾には諏訪神社を表す金の御幣を置き、前後に猿田彦の赤面、青面が添えられていました。  「傘鉾持ち」が独特の足取りで傘鉾を回すと、重厚な垂れがひらりと舞ってとても美しい。ダイナミックな曳き物や、華麗な本踊とはまた違った味わいで、見物客を魅了します。あまり知られていませんが、傘鉾の垂れが、前日と後日(あとび)で変わる踊町もあります(今年は、本古川町、大黒町、紺屋町)。   ときに修理、新調されながら、時代を超えて使われ続ける傘鉾。踊町の魂がこもった大切な存在に、今後も注目していきたいと思います。

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  • 第555号【めくるめく長崎の秋の行事】

     きょう9月26日は彼岸明け。連休を利用してお墓まいりに行かれた方も多いことでしょう。お彼岸のお供えものといえば、一般的にはおはぎですが、我が家では「ふくれまんじゅう」をよく作ります。薄力粉、砂糖、卵、生イーストをこねた生地に、粒あんを包んだ素朴なまんじゅうです。生地をふくらませるのに甘酒を使った「酒まんじゅう」、炭酸ソーダを用いた「ソーダまんじゅう」のときもあります。こうした手作りのまんじゅうは、いろいろなお菓子が気軽に手に入る時代になっても、根強く人々に求められる力があるよう。長崎県下の津々浦々で、郷土の味のひとつとして食べ継がれています。  郷土料理といえば、最近、ユニークな名前の料理を食べる機会がありました。長崎県の東彼地区(大村湾の北部に面した地域)に伝わる「もみじゃ」という料理です。名前の印象から変わった料理かと思いきや、実際はおふくろの味ともいえる昔ながらの酢の物でありました。キュウリ、ナス、シソの葉などの野菜を塩もみして水気を切り、あれば塩と酢でしめた小アジを加え、甘酢、または酢味噌で和えて出来上がりです。「もみじゃ」の「もみ」は、「揉む」、「じゃ」は「おかず」の意味だとか。夏の疲れが残る身体にうれしい酢の物でした。  さて、お彼岸の期間中に長崎新地中華街では、中国の三大節句のひとつ「中秋節」がはじまりました(9月24日(月)〜30日(日)迄)。「中秋の名月」の日(旧暦8月15日)にはじまる中秋節は、日本でいうお月見の行事のこと。期間中は澄んだ秋空に浮かぶお月さまを楽しめます。新地中華街では、月明かりのもと、満月を模した1000個の灯籠を眺めながら、家族や友人と和やかに歩く姿があちらこちらで見られました。  中秋節が終わり、10月に入ると間もなく秋の大祭、長崎くんち(10月7・8・9日)が行われます。この季節を待っていたかのように、ご近所の庭木のザクロはたわわに実らせました。ザクロは豊穣の象徴や子宝に恵まれるとされる吉木。「ザクロなます」は、昔から伝わる長崎くんち料理のひとつです。「庭見せ」(10月3日に行われるくんち行事のひとつ。本番で使う衣装や道具を踊町がお披露目。祝いの品などが並ぶ)ではお祝いの品のひとつとして並びます。  全7カ町となる今年の踊町(演し物)は、小川町(唐子獅子踊)・大黒町(唐人船)・椛島町(太鼓山)・出島町(阿蘭陀船)・本古川町(御座船)・紺屋町(本踊)。国内外のさまざまな文化が融合する後床絢爛の演し物は、長崎ならでは。例年にない猛暑が続いたこの夏も、各踊町は稽古にはげみました。子供から高齢の方まで、本番に向けて一丸となって汗を流す姿は、胸が熱くなる光景でした。   さあ、この秋も、多彩な催しが続く長崎。日本で育くまれた異国情緒がここにあります。何度もこの町を訪れながら、少しずつ親しんでもらえたら幸いです。

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  • 第554号【冥界へつながる炎、崇福寺の中国盆】

     このたびの北海道地震で被災された方々に心よりお見舞い申し上げます。地震活動の収束を願い、皆様の安全と、一日も早い暮らしとまちの復興をお祈りいたします。  連日30度を超えた日中の暑さもようやくおさまってきました。今回は、夏もそろそろ終わりという時季に行われる崇福寺(長崎市鍛冶屋町)の中国盆をご紹介します。中国盆は旧暦の7月26日から3日間行われる伝統行事です。今年は新暦9月5〜7日にあたり、全国各地から華僑の方々が集い賑わいました。  江戸時代にはじまる崇福寺の中国盆は、380年以上の歴史があるそうです。ご先祖さまの霊だけでなく、動物、植物、昆虫といったすべての生物が供養の対象になるそう。期間中の崇福寺は、日本のお盆とはまた違った唐寺ならでは風情を色濃く映し出します。  3日間の中国盆のなかで、もっとも盛り上がりを見せるのは、やはり最終日に、金山・銀山を燃やして全世界の霊を冥界へ送り出すひとときです。というわけで、最終日の夕方、崇福寺へ向かいました。  山門をくぐり、国宝の第一峰門へつながる石段をのぼっていくと、竹線香の細い煙と匂いが鼻先をかすめました。足元を見ると1本の竹線香が地面に刺さっています。振り返ると、一定の間隔で竹線香が立てられていました。「精霊が迷わずお寺にたどりつくための道しるべですよ」と県外から来たという華僑の男性が教えてくれました。  第一峰門のたもとに設けられた祭壇には、今年も七爺(チーチャ)、八爺(パーチャ)の神像が祀られていました。ふたりは、道教の神さまに仕える身。背が高く色白の七爺は、右手に「見我生財」と書かれた軍配を持っています。「私を見ると財産が生まれるよ」という意味です。八爺は、背が低く黒い肌で大きな丸い目をしています。左手に持った軍配には「善悪終有報」の文字。「善も悪も最後にはそれぞれの報いがあるからね」と、愛嬌のある表情で諭すのでした。  国宝の大雄宝殿(本殿)の前に行くと、各所に設置された祭壇をめぐりながら竹線香をあげて祈る華僑の姿がありました。白いお皿に盛られズラリと並べられたお供えものは、シイタケ、キクラゲ、ナツメ、寒天など、薬膳でもよく使われる食材ばかりで興味をそそります。   夕刻からはじまった長いお経のあと、奉献された金山・銀山、そして衣山が石畳の境内に集められました。金山・銀山は、冥界で使うお金で、衣山は服や帽子、履物などを意味します。それらを燃やすことで故人の霊とともに冥界へ送り出すのです。点火されると間もなく数メートルの炎があがりました。盛大な炎のゆらぎに見惚れる檀家さんや見物人たち。小さな火の粉も消えるまでしっかり見守られたあとは、地元の消防局の出番です。大雄宝殿をはじめ敷地内の建物に念入りに放水。じっくり濡れた崇福寺は、スコールのあとのようなさわやかな空気に包まれました。

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  • 第553号【ご当地の魅力を映すマンホール蓋】

     これまでにない酷暑が続いている平成最後の夏。それでも、お盆を過ぎた頃から、朝晩に秋めいた空気を感じるようになりました。とにかく、元気にこの夏をのりこえて涼しい秋を迎えたいですね。  さて、この夏休み中に親子でダムを訪問し、ダムカード(※当コラム549号をご覧ください)を集めた方もいらっしゃることでしょう。そんなダムカードのように、集めて楽しいのがマンホールカードです。それは、各地のシンボルマークや名所、キャラクターなどがデザインされたマンホール蓋の写真と、デザインの由来や位置座標などが記されたカードで、その目的は、マンホール蓋を通じて下水道の役割を知ってもらおうというものだそう。ちなみにマンホールカードを企画・監修しているのは「下水道広報プラットホーム(GKP)」(事務局:(公社)日本下水道協会)。2年前に30種類のカードを発行・配布して以来、次々に新しい仲間が加わって、現在、全418種類のマンホールカードがあるそうです。(※カードの配布先は各自治体など。GKPのホームページでご確認ください。)  長崎県内のマンホールカードは、現在、5種類(長崎市、諫早市、大村市、佐世保市、大村湾南部流域下水道)。長崎市は、市花「あじさい」がモチーフになったもので、現物は、2ヶ月前、世界遺産になった「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」の構成資産のひとつ、大浦天主堂のすぐそばにあります。  マンホールカードにはなっていませんが、出島をモチーフにしたマンホール蓋もあります。1690〜1692年に来日したオランダ商館医ケンペルが描いた出島のイラストがモチーフになったもの。まさか300年以上も前のイラストがこんな形で後世に蘇るとは、ケンペル自身も驚くにちがいありません。  この8月に配布されたばかりの大村湾南部流域下水道のマンホールカードは、長崎県の花木として指定されている「つばき」がモチーフになっていました。背景には波静かな大村湾の美しい海をイメージさせるデザインが施されています。先日、このマンホールカードをもらうために(1人1枚)配布先の大村湾南部浄化センター(諫早市)へ行ったら、関東方面から来た人もいて、マンホールカードの人気ぶりがうかがえました。大村湾南部浄化センターの玄関には、マンホールカードとして発行された「つばき」と「諫早眼鏡橋と諫早菖蒲」の現物が展示されていました。  マンホールカードにはなっていませんが、諫早市には長崎県をホームタウンとするプロサッカーチーム「V.ファーレン長崎」のマスコットキャラクターを描いた「ヴィヴィくんのマンホール蓋」があります。諫早駅からトランスコスモススタジアム長崎(長崎県立総合運動公園)までのV.ファーレンロードに4つ設置されています。   長崎県内でも個性が光るデザインが目白押しのマンホール蓋。全国各地で観光振興にもつながっているようです。マンホール蓋への注目が、その蓋の下にある下水道の大切な役割を知るきっかけになるといいですね。

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  • 第552号【長崎風ゴブサラダ】

     連日30度を超える猛暑のなか、きのう立秋を迎えました。夜風に涼しさが感じられ、鈴虫の声も聞こえるように。季節が次へ向かっているのを感じてホッとしますね。とはいえ、日中の暑さはとても厳しい。日々の食事作りも、「暑さで台所に立つのがおっくうなのよ」という声をよく耳にします。そこで、夏の食事作りが楽しくなる「皿うどんサラダ」を使った一品をご紹介します。火や電気の使用は最小限度におさえ、猛暑をのりきるための栄養もしっかりとれる「長崎風ゴブサラダ」です。  「ゴブサラダ」は、ハリウッド発祥といわれるサラダです。ゴブさんという人が、冷蔵庫に残っていた有り合わせの食材で作ったのがきっかけだとか。鶏肉、アボガド、トマト、レタス、チーズ、ベーコン、ゆで卵などを一口大にカットし、トレイにストライプ状に並べるのが本場アメリカでの定番スタイルだそうです。ゴブサラダの具材にこれといった決まりはないそうですが、アボガドは欠かせません。森のバターとも呼ばれるほど栄養価が高いアボガドは、ビタミンやミネラルをバランス良く備えていて、夏場の疲労回復にもいいといわれています。  「長崎風ゴブサラダ」は、サクサクと口当たり軽やかな「みろくやの皿うどんサラダ」(中華麺)とアスパラガス、ジャガイモ、トマト、ゴーヤなど長崎産の新鮮な野菜をたっぷり使いました。野菜をさっとゆでたり、ベーコンを焼く程度の調理はありますが、食材をカットして彩りよく盛るのが主な作業です。「皿うどんサラダ」に付属の白胡麻ドレッシングをかけていただきます。  今回使った長崎産の野菜は、歴史的にも長崎にゆかりがあります。アスパラガスは江戸時代にオランダ船で運ばれてきたのが最初といわれています。当初は観賞用で、日本にもともと自生していたキジカクシという植物に似ていたことから、「オランダキジカクシ」と呼ばれたそうです。現在、長崎県のアスパラガスは全国で4位の生産量。長崎では春と夏の2回収穫期があり、冬場に養分をためる春アスパラガスは緑色が濃く甘みが強い。いま出回っている夏アスパラガスは、淡い緑色で根元までやわらかくみずみずしいのが特長です。薬膳の世界では、ほてりや喉の乾き、食欲不振などに効果があるといわれています。  夏野菜を代表するトマトの原産地は南米。17世紀末にオランダ船が長崎に運んできたのが最初といわれています。見た目から「赤なす」と呼ばれ、こちらも当初は観賞用であったとか。そして、健康野菜として知られるゴーヤは、トマトのような歴史的なゆかりはありませんが、近年では長崎県内の農作地帯として知られる島原半島を代表する農産物のひとつになるほど、品質に定評があります。  ジャガイモは、北海道に次ぐ第2位の生産量を誇ります。島原半島が主な産地で、皮がうすくて煮崩れしにくく、本当ににおいしい。長崎とジャガイモの出会いは、400年ほど昔の南蛮貿易時代。ポルトガル船がジャガトラ(現在のジャカルタ)から運んできたのが最初といわれています。   カラフルな食材を並べていく作業も楽しい長崎風ゴブサラダ。ふるさとゆかりのエピソードを語りながら、子供たちと作ってみませんか。

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