第590号【はじまりの春、龍馬を想う(後編)】
新型コロナウィルスの影響で、不要不急の外出を控えている人が多いよう。いつもより静かに感じる長崎のまちを歩いていたら、頭上をスーッと何かが横切りました。ツバメです。長崎地方気象台がツバメ初見日を発表したのは、翌日の3月5日。平年の初見日は3月20日なので、2週間ほど早い到来だったようです。
前回に引き続き、龍馬の長崎でのゆかりの地を訪ねます。今回は、長崎駅前に位置する筑後町の「本蓮寺(ほんれんじ)」から。ここは、勝海舟が海軍伝習所の伝習生頭取として長崎に派遣されたときに宿泊したところです。寺の境内にあった大乗院に4年ほど(1855-1858))滞在したと伝えられています。海舟は、異国文化の香りを胸いっぱいに吸い込みながら、航海術をはじめ海軍に関する技術や知識をおおいに得て、視野を広げました。このとき培ったものが、のちの神戸海軍操練所の開設につながり、数年後に出会う龍馬へ大きな影響を及ぼすことになります。
海舟と龍馬が初めて出会ったのは、文久2年(1862)の暮れ。同年春に土佐藩を脱藩したばかりだった龍馬は、海舟の考えに魅了されすぐに弟子入り。神戸海軍操練所を経て、元治元年(1864)、幕命で長崎へ行くことになった海舟に同行して初めてこの地へやって来て、長崎奉行所立山役所を訪れたと伝えられています。
その後、龍馬は断続的に長崎を訪れながら、翌年の慶応元年(1865)には日本初の貿易商社といわれる「亀山社中」(のちの海援隊)を結成。薩長同盟の締結や「船中八策」の起草など、時代を動かす大仕事を成し遂げていきました。
ところで、長崎奉行所立山役所跡(現・長崎歴史文化博物館)から、玉園町、筑後町と続く通りを抜けた先に、前述の「本蓮寺」があります。この寺の墓域には、龍馬とともに脱藩し海援隊のメンバーでもあった沢村惣之丞が眠るお墓があります。いまも、龍馬ゆかりの地を訪ねる人たちが墓参りに訪れているようです。
筑後町・玉園町界隈には、龍馬ゆかりのスポットがまだまだあります。唐寺「聖福寺」(長崎市筑後町)もそのひとつ。ここは、「いろは丸事件」の正式な談判が行われた場所です。事件は、海援隊が大洲藩から借りていた船「いろは丸」が、紀州藩の船と衝突し沈没したというもの。龍馬は相手船に責任があるとして、損害賠償交渉を行います。このとき、龍馬は世論を味方につける歌をまちに流行らせるなど、したたかな交渉術をみせました。
龍馬もくぐった「聖福寺」の山門を出ると、江戸時代創業の料亭「迎陽亭」跡があります。この料亭では当時、卓袱料理が出されていたとか。もしかしたら、龍馬も円卓に座し、和洋折衷の料理に舌鼓を打ったかもしれません。
同界隈から徒歩圏内に、後藤象二郎邸跡(長崎市金屋町)、小曽根邸跡(長崎市万才町)、土佐商会跡(長崎市浜町)や薩摩藩蔵屋敷跡(長崎市銅座町)など龍馬ゆかりのスポットがあります。さらに、丸山や大浦の居留地まで含めれば、当時の長崎まちの主な通りを、龍馬はくまなく通っていたことがわかります。ブーツを履いて長崎のまちを縦横無尽に闊歩する龍馬。世の中をいい方向へ動かすぞ、という胸のうちまで聞こえてくるようです。