第582号【ローマ法王と浦上 】
さわやかな秋晴れのもと眼鏡橋がかかる中島川沿いを歩いていたら、「チッ、チッ」と鳴き声が。見上げると電線にジョウビタキ(オス)がとまっていました。この鳥は積雪のない地域で冬を越す渡り鳥。季節の深まりを感じて長崎へ渡ってきたようです。
さまざまな行事や催しが目白押しの季節ですが、長崎ではもうすぐ、国内外から注目される大きな行事が控えています。11月23〜26日のローマ・カトリック教会フランシスコ法皇の日本訪問(東京・広島・長崎)です。フランシスコ法王は24日に長崎へ来られ、長崎爆心地公園や日本二十六聖人殉教の地(西坂公園)などを訪れたあと、長崎県営野球場でミサを行う予定です。爆心地に近いこの野球場は、38年前の冬、当時のローマ法王、ヨハネ・パウロ二世が大雪のなかでミサを行った場所として知られています。
長崎爆心地公園や長崎県営野球場がある浦上地区は、原爆投下の受難とは別に、宗教弾圧という受難も経験した土地です。それは、江戸時代から明治初期までのキリスト教弾圧の時代のこと。この地には、密かに信仰を守り続けた人々が暮らしていました。長い時を経て、この秋、フランシスコ法王が浦上地区を訪問されることに大きな意義を感じている方も多いことでしょう。
浦上地区には、当時の弾圧の厳しさや信仰の様子を物語る史跡がいくつも残されています。たとえば、県営野球場近くの浦上川沿い(国道206号線の陸橋を渡ったところ)にある「サンタ・クララ教会跡」(長崎市大橋町)。1603年(慶長8)に、ポルトガル船の船員たちの寄付によって建てられた大きな教会だったと伝えられています。当時、この教会は浦上地区で唯一の教会でしたが、幕府のキリシタン禁教令によって1619年(元和5)に破壊されました。神父様がいなくなったなか村人の信仰を守っていくために、教会で働いていた孫右衛門が中心となって、帳面(ちょうかた)、水方(みずかた)、聞役(ききやく)といった潜伏キリシタンの地下組織をつくります。これが、その後、約250年におよぶ浦上地区の潜伏キリシタンの歴史のはじまりでした。
「サンタ・クララ教会跡」から徒歩3分。かつての浦上街道沿いの一角に「ベアトスさまの墓」(長崎市橋口町)と称される碑が建っています。ここは、キリシタン弾圧が激しさを増してきた三代将軍徳川家光の時代に、村人から尊敬と信頼を集め信仰心も強かった親子3人が殉教した地です。弾圧する側には、この親子を棄教させれば、村人たちも改宗するだろうという思惑があったようです。しかし、親子は水責めなどに合いながらも信仰を守り、最後は火刑されたと伝えられています。いつ訪れても清掃の行き届いた碑のそばには、「聖母マリアのバラ」を意味する「ローズマリー」が植えられています。
そして、浦上地区のキリスト教信仰の中心的な存在である「浦上天主堂」。この教会が建つ場所は、江戸時代には村人たちをとりまとめる庄屋があったところです。当時、ここではお正月の恒例行事として村人たちがキリシタンでないことを証明する「踏み絵」が行われていました。銅板に刻まれたキリストを踏むという行為。そのようなことをさせる時代があったことを振り返ることは、けして同じことを繰り返さない、よりよい未来を築くために必要なことなのかもしれません。