第584号【初冬・中島川の石橋めぐり】

 眼鏡橋などの石橋群で知られる中島川沿いでは、街路樹のナンキンハゼが葉を落とし、クリスマスリースの飾りなどに利用される枝と白い実があらわになっていました。美しい紅葉で知られるナンキンハゼは中国原産。江戸時代に長崎に持ち込まれたのが日本で最初だったことから、長崎市の木に指定されており、市内各所に植えられています。



 

 川辺に目をやれば、すすきの群生が風にゆれ、近くでは越冬のため日本に渡ってきたジョウビタキの姿がありました。石橋群のひとつ「一覧橋」を渡って光永寺へいくと、境内の大イチョウが樹の下に黄金の絨毯を敷きつめ、行き交う人々の足を止めていました。暖冬傾向にある九州の師走は、まだ秋の気配が残り、ゆっくり季節をすすめています。


 




 光永寺から下流へと足をすすめ、「すすきはら橋」へ。この橋は、長崎市中央公民館横のイチョウ並木のある道路へ続く橋。車両がひんぱんに行き交う道路橋なので、歴史ある中島川の石橋群のひとつだとは気付かずに通っている人が多いかもしれません。



 

 現在の「すすきはら橋」は、鉄筋コンクリートで築かれていて、欄干や橋の側面にほどこされた石橋風のデザインに、その歴史をとどめています。同じ場所にあった初代の橋は、石造りのアーチ橋で延宝9(1681)に架けられました。その後、川の氾濫などによる流出と再建を幾度か繰り返し、昭和57年(1982)の長崎大水害で崩壊した後、現在の姿になりました。ちなみに、「すすきはら橋」の名称は、明治時代に付けられたもので、この橋一帯に、すすきなどの草が生い茂っていたことに由来しているそうです。江戸時代はこの辺りは「今紺屋町(いまこうやまち)」だったので、「今紺屋町橋」などと地元の人は呼んだと伝えられています。



 

 「すすきはら橋」からひとつ下流にある「東新橋(ひがししんばし)」へ。この橋も昭和57年(1982)の長崎大水害で流失した後、昭和の石橋として現在の姿になりました。石造りアーチ橋として最初に築かれたのは、「すすきはら橋」よりもやや早く、寛文13年(1673)のことでした。現在の東新橋は、アーチがとても高い位置になっていて、橋を渡るときは10数段の階段をのぼります。その分、橋の中央に立つと視界が変わります。上流側を眺めると、手前に「すすきはら橋」、その向こうに「一覧橋」が見えます。



 

 「東新橋」から数十メートル下流の「魚市橋」へ。「魚市橋」もはじめは石橋だったものが、大正時代に現在の鉄筋コンクリートの橋になりました。この橋から下流をのぞめば、2つのアーチを描く「眼鏡橋」の姿がきれいに見えます。「魚市橋」と「眼鏡橋」の間の護岸の石積みに埋め込まれたハートストーンは、いつの間にかすっかり名所となって、写真を撮る観光客がたえません。いまは、クリスマスシーズンが近いからか、カップルの姿が目立つようです。





 

 見渡せば、あなたのまちにも、長崎のまちにも、美しく、ほほえましい初冬の景色があちらこちらに。いそがしいときこそ、そういう景色で気分を変えて、師走を元気に過ごしたいものですね。

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