第585号【現在・過去・未来を思う年末年始】

 イルミネーションに彩られ、ロマンチックな装いの長崎駅。隣接する「かもめ広場」では、美しくきらめく大きなツリーが、急ぎ足で行き交う人々の足をとめています。終着駅の哀愁漂うこぢんまりとした改札口がある長崎駅。この風景のあるクリスマスは、今年で見納めです。というのも、来年3 28日に新しい長崎駅が開業予定で、新駅舎は現在地から西側(稲佐山側)に150メートルほど移動。高架になる本線にあわせて、ホームは2階に(改札と窓口は1階)設けられるそうです。



 

 長崎駅を中心とした周辺エリアは、新しい整備事業のもと、大きな変化の真っ只中にあります。すでに、長崎県庁舎、長崎県警察本部庁舎は近隣に移転。これから3年のうちに、九州新幹線長崎ルートの開業(2022年予定)にともない長崎市交流拠点施設(MICE施設)をはじめ新しいホテルや商業施設などが生まれる予定。うれしい未来がすぐそこまで来ています。

 

 時代とともに変貌をとげる長崎のまち。この年末、そんなことに思いを馳せる催しが、もうひとつありました。発掘調査が行われていた長崎県庁舎跡地(長崎市江戸町)の現地見学会(1222)です。今年、前県庁舎が解体され、10月中旬から発掘調査がはじまりました。見学会では、その状況を広く一般に知らしめるため、現地を部分解放。発掘された品々も公開されました。




 長崎県庁舎跡地は、長崎のまちだけでなく、日本の近世・近代の歴史にとって、たいへん重要な場所です。現在は、周囲が埋め立てられて分からなくなっていますが、その昔、この場所は長い岬の突端にあたり、長崎開港以前はうっそうと緑が生い茂るなかに、森崎権現社の小さな祠が置かれていただけであったと伝えられています。





 

 元亀2 年(1571)、長崎にポルトガル船が初めて入港すると、この岬の突端を中心にまちづくりがはじまり、長崎は南蛮貿易港として急速に発展しました。以来、この場所には長崎の歴史の変遷を物語る重要な施設が入れ替わり立ち替わり置かれました。南蛮貿易時代には、「岬の教会」、「イエズス会本部」。江戸時代には、「被昇天の聖母教会堂」、「五ヶ所糸割符宿老会所」(のちに長崎会所に至る貿易機関)、「長崎奉行所西役所」、幕末には「海軍伝習所」、「医学伝習所」。そして、明治以降は「長崎県庁舎(初代〜4代目)」が長く所在しました。

 

 見学会では、そうした時代背景をベースに、計画的に掘り下げられたポイントを見ることができました。埋められた古い石垣や歴代県庁舎の遺構などを確認。江戸時代のものと思われる瓦片や漆喰片をはじめ石灯篭、花十字紋瓦、コンプラ瓶、有田焼のタイルなどの発掘物も展示されていました。多くの人が期待しているのは、やはり、南蛮貿易時代の教会に関連する遺構の出土。当時の様子がうかがえるものが見つかるといいのですが。







 

 ところで、発掘されたものの中で今回いちばん印象に残ったのは、小ぶりの牛乳瓶でした。瓶には『油屋町 吉田ミルクプラント』と文字があり、知り合いの女性から聞いた戦前の話を思い出しました。長崎の中心部に生まれ育ったその方は、子どもの頃、「吉田ミルクプラント」こと「吉田牧場」の牛乳を、毎日家に届けてもらっていたそうです。当時の牛乳は、現在とは別の方法の高温殺菌だったらしく、「届けられた牛乳は、いつも熱々だったのよ」とおっしゃっていました。「吉田牧場」は、明治から戦前にかけて小島川が流れる長崎市の愛宕界隈にありました。「牧場で、牛と牛の間を駆け抜ける遊びをしたことがあるんだけど、怖かった〜(笑)」。戦前の長崎のまちっ子ののびのびとした様子が伝わるエピソードでした。



 

◎本年もご愛読いただき、誠にありがとうございました。

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