第589号【はじまりの春、龍馬を想う(前編)】
九州はいつもの年よりも早く、春めいています。大陸から飛来する黄砂で景色がかすむのは、だいたい3月くらいからですが、今年は2月に入ってから、何度も黄砂現象が見られました。
多くの人が人生の大切な節目を迎える春。進級や進学、就職の際の期待と不安が入り混じる気分は、大人になってからも蘇ることがあります。そんなとき、励ましや参考になるのが、先人たちの生き方です。なかでも、坂本龍馬は、新しい時代にいち早く目覚め、前例にこだわらない行動力で、会いたい人に会い、やりたいことには躊躇なく自ら足を運び、混沌とした時代を動かしました。その人柄や生き方は、時代を超えていまも多くの人を惹きつけてやみません。
慶応元年(1865)に龍馬が長崎で設立した貿易商社「亀山社中」(長崎市伊良林)の跡へ足を運びました。風頭山の中腹にある「亀山社中」へは、山裾の寺町通りから石段を登って行きます。社中のメンバーが往来したと伝えられるこの石段は現在、「龍馬通り」と名付けられています。急で長い石段なので、皆、「ふーふー」いいながら登り降り。それでも龍馬目当ての人たちの往来は絶えません。
「亀山社中」は日本初のカンパニーといわれ、のちに貿易や海運業を行いながら政治集団、「海援隊」に発展します。「亀山社中」の跡は、現在「長崎市亀山社中記念館」として公開されています。幕末の長崎や龍馬らの活動の様子がうかがえる写真や資料が展示されています。
血気盛んな志士たちが集った「亀山社中」のメンバーには、長岡謙吉、近藤長次郎、陸奥陽之助、沢村惣之丞などがいました。この界隈には、当時の彼らの姿を彷彿させるスポットがあちらこちらに。記念撮影をするなら、「亀山社中」の跡のすぐそばにある「龍馬のぶーつ像」で。日本で最初に「ぶーつ」を履いたとされる龍馬にちなんで造られた像です。
「亀山社中」の跡から狭い路地を数分行くと、若宮稲荷神社があります。社中の面々が折々に参拝したと伝えられています。境内の一角には、龍馬像も建立されています。若宮稲荷神社の参道を下ると、龍馬や土佐藩の重臣・佐々木三四郎、英国の貿易商トーマス・グラバーなどがよく利用したという料亭・藤屋跡があります。
そこからさらに数分足を伸ばし中島川のほとりに出ると、龍馬にもゆかりのある幕末の商業写真家、「上野彦馬宅跡」があります。中島川には眼鏡橋をはじめいくつもの石橋がかかっていますが、この石橋群も龍馬をはじめとする幕末の志士たちが闊歩したに違いありません。
寺町通りの一角にある、「晧台寺(こうたいじ)」。風頭山の斜面にある墓域には、「龍馬の片腕」と呼ばれた近藤長次郎のお墓が、後援者であった小曾根家の墓地内に設けられていました。墓石に刻まれた「梅花書屋氏墓」は龍馬の筆と伝えられています。「梅花書屋」とは、悲運の最後を遂げた小曾根家の離れの屋敷名だそうです。
長崎市中を見渡せば、あちらこちらに幕末の息吹をまとった亀山社中の志士たちの姿が見えてきます。それにしても、なぜ、龍馬は長崎へやって来たのでしょうか。次回へ続きます。