第41回 長崎料理ここに始まる。(十三)

私が本稿を「みろく屋」前社長山下泰一郎氏の御依頼を受け第一輯を掲載したのは平成四年十一月であり、それより今年は二十年となった。

 私は昭和二十四年頃より自分の興味もあり、長崎県下の各種文化の調査のため歩き回り、その中には「食の文化」関係も多くあった。その資料の中より本輯の三十七号に対馬、三十八号に小値賀、三十九号に西彼杵、四十号に福江方面の事を記したので今回は諫早方面のことを記す事にした。


一、はじめに



▲岩田義實氏作品(佐賀の陶芸家)


 我が国の歴史研究基礎資料として第一に取り上げねばならぬのは「風土記」であるとされている。風土記の編輯は和銅六年(七一三)に始まるという。現存する風土記は出雲・播磨・常陸・豊後の五風土記のみであるが、完本は出雲風土記のみで、他は多く文章が失われている。肥前風土記もその大半が失われている。


 肥前風土記は肥前地方すなわち現在の長崎・佐賀両県の地方史である。天平五年(七三三)頃の編纂とされ、其の内高来郡内には郷九所。里二十一。駅四所。烽五所。と記してある。 現存する「肥前風土記」内には「土歯池」と「峯湯泉」の二つの記事のみが残っている。峯湯泉の説明文の中に湯は「出南高来峯西南の峰」とあるので当時より「高来の郡」は南高来・北高来と分かれ、その南北高来の交点が愛(相)野であったという。


 高来を古くは「タク」と読み、次いで「多加久」と呼んだとある。意味は高い山がある処という。そして、南北に高い山がある処となれば南に雲仙、北に多良岳という事になる。現在のように長崎県南高来郡・北高来郡となったのは明治十一年からである。



二、諫早の事


 承平年間(九三一~)編纂された和名抄に高来郡新居(ニイ)郷とあり、之の新居郷が現在の諫早駅付近であるとされ、更にニイの語は転じて西郷になったと説明されている。(諫早市史)次に諫早小野地区には古代の条里遺構や古墳も多く残っている。その故に諫早の農耕の歴史は古く豊な農地が多かった。


 延長五年(九二七)編の「延喜式」には「船越駅」の名があり、鎌倉時代の建久八年(二九七)には「伊佐早村 田畠五十丁ばかり」と記してある。(宇佐八幡宮御神領大鐃)この事より当時諫早地方には大分県の宇佐八幡の所領地があった事がうかがえる。



三、食の文化



▲伊万里焼小盃(越中文庫)


 前述のように諫早地区は古代より開拓された豊な土地であったので多くの戦乱もあった。天正十八年(一五九〇)龍造寺政家は豊臣秀吉より諫早地区に二万二千五百石を受領している。更に江戸時代の記録をみると、本明川を中心とした大洪水の記録が九回もあり大きな災害にあっている。


 然し諫早の人達はこの全ての災害にもめげず復興している。豊な農地と藩政の協力があったからである。


 諫早藩では毎年正月七日前後、藩内各村日割りを決め定められた場所で農家の人達を招いて「フンミャア」があった。フンミャアと言うのは「振舞」という言葉の方言であり、この時に用意された料理は次のようであった。


 大魚 一切。鯨(鱠)一切。大根 二切。盛切飯 三枚とも竹へぎ也。酒 京焼茶碗。尤 飯は精米一升に餅米三合さし(諫江百話)


 次に諫早の食文化と言えば、諫早おこしに、鰻の蒲焼である。共に贅沢なお持てなしである。


 現在のような諫早の鰻料理には何時頃より始まったのであろうか。「嬉遊笑覧」をみると「元禄頃にはかばやきなかにしや」と記し、安永頃(一七七二)より江戸前うなぎが売り出されたと記してあるので其の後、柳川・諫早方面にも伝わってきたと考えている。但し正徳二十二年(一七一二)発刊の和漢三才図会には次のように記してある。


 馥焼(かばやき)中ぐらいの鰻をさいて腸を取り去り、四切れか五切れにし、串に貫いて正油あるいは味噌をつけて、あぶり食べる。味は甘香(かんばし)くて美(よろ)し、あるいはナデ醋(す)にひたして食べることもあり。多く食べると、頬悶して死ぬることあり。之は酸を得て鰻肉が腹中で膨張する故なり。


 オコシは平安時代に我が国に伝えられた興米仁に由来すると嬉遊笑覧は記している。諫早のオコシは鎖国時代・唐船により伝えられた中国の麹と黒砂糖を巧みに利用し生産された銘菓であるとお聞きしている。



四、おわりに


 私は昭和三十年頃、諫早小野地区の歴史に興味を持ち同地区代表の小川充弘氏に大変お世話になった。


 小川さんが諫早ではドウキンが一番うまいので食べに来なさいと言われる。ドウキンは諫早の魚屋には売っていないので潟スキーに乗って獲りに行くので私にも一緒に来ないかと言う。私は潟スキーには乗れないので、小川さんの家で待っていた。ドウキン料理は頭を落とし肝は別の皿に入れ、魚の身は塩でもんで良く洗い、鍋に先ず魚の肝を入れて炒りやきにする。そしてその油が出たところで魚の身を入れ、ミソで味をつけ、煮汁で干大根を煮付ける。美味である。


 数日後、再び小野の高橋義久先生より電話あり、潟スキーで獲れたアゲマキを食べにこないかと言われる。「アゲマキの天ぷらは諫早で一番うまいぞ」と言われる。然し私が一番舌鼓を打ったのは高橋先生の奥様が「最後におのみになって下さいね」と言われて出された貝の煮汁でした。私は今でも其の味は頭に残っている。


(以下次号)


第41回 長崎料理ここに始まる。(十三) おわり


※長崎開港物語は、越中哲也氏よりみろくや通信販売カタログ『味彩』に寄稿されたものです。

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