第43回 長崎料理ここに始まる。(十五-一)
はじめに
私が初めて「食の文化史」らしき論考を書くようになったのは、昭和三十年二月(一九九三)国際文化都市建設法の施行により長崎市平野町に長崎国際文化会館が新設され其の三・四階に新たに長崎市立博物館が再開、私が同館の研究員として勤務する事になったときより始まっている。同館には先輩として有名な林源吉、島内八郎の両先生がおられた。
当時、私は復員後、公務の傍ら県立図書館の永島正一先生を中心に古賀十二郎、渡辺庫輔両先生を指導者に集まっておられた地方史研究会に参加させて戴いていた。
其の頃、渡辺先生が国の「調理師法施行」により「地方における料理史教育担当者」という事で料理に関する小冊子の執筆と監修のお仕事があり、其の助手として私に「手伝わせてあげよう」と言われた事が私の長崎料理史研究の発端となっている。
次いで昭和五十年の初め頃、当時の諸谷長崎市長より観光長崎宣伝の上には「食の文化―其の地の名物料理」が必要であるから横浜に負けないで「西洋料理発祥の地・長崎」という事を大いに宣伝して下さいとの依頼があった。
この事は長崎司厨士会(柴田周義会長)にも伝えられ「西洋料理発祥の碑」の建立と其れを証明する「記念誌」を発刊する事になった。この発刊誌の原稿を依頼されたのが私であった。
其の本の発刊は昭和五十七年四月、本の題名は「長崎の西洋料理―洋食のあけぼの」と名付け、東京の第一法規社より出版していただいた。そしてこの本は大変好評であった。
▲中国白磁染付小壷(越中文庫)
次いで、長崎の日本料理関係の方々が「長崎名物・シッポク料理」の本も出版してほしいとの依頼があり、「長崎卓袱料理」をナガサキ・イン・カラー社より出版した。
丁度其の頃、みろくや前社長山下泰一郎氏が長崎異国趣味の食品としてラーメン料理各種を製作、大いに評判となっておられた。
私と山下前社長とは同期の桜で、或る時私に「社報の『味彩』に何か書きなさいよ」と言われた。其のときは酒の宴席でもあり、私は簡単に引き受けてしまったのが「長崎料理ここに始まる」である。
其の第一号は平成四年十一月の発刊で題名は「西洋料理編(一)」とある。
一、長崎食文化概論
食文化の原点は其の土地の地形(位置)・地質・気温の影響により形成されると言われている。更に其の地形における各国異文化との交流によっても変化してゆく事も忘れてはならない。
我が国の食文化、特に長崎県においては其の地理的位置によって異国との交流が多く全ての文化が形成されている事に気付かされるであろう。
次に長崎県下の食文化の変遷については、年間の降水量・気温の変化・潮流の変化等の事についても考えておかねばならぬそうである。
私に是れら戦後に於ける新しい食文化研究を指導して下さったのは大阪の地に新設された国立民族博物館石毛直道館長、熊倉功夫教授であり、又長崎純心大学(当時短大)が「長崎地方史研究室」を新設して下さった事により研究を継続することができた。
長崎県下に於ける新しい食文化の始は「縄文時代末・対馬に朝鮮半島より伝えられた稲作文化に始まる」と先輩方よりお聞きした事がある。
次いで奈良時代の食文化については『肥前風土記』に次の記述がある。
「島々には多くの白水郎(あま)あり、鮑(あわび)・螺(さざえ)・海藻(め)・海松(みる)あり」。また高来の郡(こおり)・土歯(ひじわ)の池(※現在の雲仙市千々石町)には「荷(はす)・菱(ひし)・多く生いたり」
次いで『続日本紀』光仁天皇・宝亀七年(七七六)の記録には遣唐使船が順風を待って五島合蚕・田の浦に「留る事数回」とある。「五島編年史」の著者中島功先生によると「五島の遣唐使船は南路と言い、文武天皇(六九七年)以後の通路であったようである」と記してあり、桓武天皇延歴二三年(八〇三)には弘法大師空海も渡唐の時、五島の田の浦・久賀島に寄泊したと記してある。
▲中国色絵付双魚瓶(越中文庫)
このように古代より五島・平戸方面が遣唐使船の宿泊地であってみれば其処には多大の珍しい異国の食文化が移入されていた事であろう。 更に之の長崎県下の海の通路は時代とともに大いに発展し、やがて野母崎・脇岬方面にも寄港地が開かれいる。
鎌倉時代になると更に多くの知識人が之の交路を利用し宋朝の文化を移入し、我が国の食文化の上にも多いに変化を齎(もたら)している。そこには亦、禅僧を中心にした新しい大陸文化の移入があった。
そして、其の頃の交易文化の中心地は博多であったので文永十一年(一二七四)、弘化四年(一二八一)元軍は博多の街を攻撃している。然し暦応四年(一三三八)足利尊氏が征夷大将軍に任命されて以来は対外政策に変化があり、暦応三年(一三四一)足利幕府は天龍寺創立のため元に貿易船を派遣している。次いで一三六〇年代になると倭寇が高麗侵略の記事があり其の倭寇の根拠地は平戸・伊萬里方面(松浦黨)であったと記してある。
この倭寇の航路は次の時代の唐船(明末・清初の貿易船)南蛮船の来航ルートに繋がっている。
一五五〇年(天文十九)春、長崎県下に初めて来航してきた南蛮船(ポルトガル船)は平戸の港に入港している。当時の平戸には朝鮮や中国の船も入港し貿易が行われ、街は賑わっていた。其の翌年一五五一年にはザビエルも来航し我が国初期のキリシタン布教が開始されている。この南蛮船の来航は我が国食文化の上に大きな変化をもたらしている。
一五六〇年のフェルナンデス神父の書簡には次のように記してある。
平戸の町にはポルトガルと同じ食物があるが其の量は少い。僧侶のみは牛肉を食べない。
(以下次号)
第43回 長崎料理ここに始まる。(十五) おわり
※長崎開港物語は、越中哲也氏よりみろくや通信販売カタログ『味彩』に寄稿されたものです。