第537号【歴史的な〝いま〟をご一緒に】

 ふりかえれば、あの頃が時代の転換期だった、と誰もが思う、それが、たぶんいまなのでしょう。世界も、日本も、そして長崎という小さなまちも、大きな時代のうねりの真っ只中。そんなときだからこそ、日々のささやかな暮らしを楽しみ、身近な人々と笑顔を分かち合いたいものです。というわけで、「お昼をうちに食べに来ない?」と女ともだちを誘い、皿うどんをちゃちゃっと作ってテーブルに出せば、みんな<^▽^>こんな顔になって、おしゃべりも弾みます。最近、我が家の皿うどんは、「皿うどんサラダ」の麺を使っているのですが、「サクサクして食べやすい」と、女性や高齢の方に好評です。どうぞ、お試しください。





 

 いまが時代の変わり目。長崎にとってその象徴的な出来事のひとつが「長崎県庁舎」の移転です。新庁舎は、この秋、長崎駅近くに完成(長崎市尾上町)。そこは、かつて長崎魚市があったところで、長崎港にそそぐ浦上川の河口の一角。同敷地内に建設された長崎県警察本部新庁舎とともに、港湾や市街地の景観になじむ端正な佇まいをみせています。ここで働く人たちの移転も順次進められていて、多くの部署の業務が年明けから新庁舎ではじまるそうです。





 

 移転前の県庁舎(江戸町)の場所は、1571年に長崎が開港して以来、長崎にとって常に時代を象徴する建物があった特別なスポットでした。南蛮貿易時代にはイエズス会本部もかねた岬の教会、江戸時代には長崎奉行所西役所、幕末には海軍伝習所、医学伝習所、そして明治時代に県庁舎が建てられました。その後、県庁舎は台風や原爆などで倒壊・消失を経験して何度か建て替えられ、現在、建っているのは戦後1953年(昭和28)に完成したものです。



 

 開港によってまちが整備される前、県庁舎(江戸町)の場所は、樹木におおわれた岬の突端でした。その頃の長崎のまちは、岬より奥まった所(現在の長崎市桜馬場)にあり、岬の先端をふくむ海側の土地は、領主・長崎氏の支配の手も薄かったのではないかともいわれています。そんな折、長崎氏を配下とした大村純忠の決断で、ポルトガル船が入港することになったとき、この岬の丘からくだった海岸に小さな波止場が設けられました。ポルトガル船や唐船の荷揚げのほか、天正少年使節の出港・帰港、さらには、のちのキリスト教の禁教令で高山右近らが国外に追放されたのも、この波止場からでありました。

 

 名もなき寒村であった長崎を、間もなく国際貿易都市として国内外に知らしめ、発展させる転機であった岬の小さな波止場。江戸町「県庁前」のバス停そばには、その歴史を記した、「南蛮船来航の波止場跡」の碑が建っています。



 

 さて、開港以来、シンボリックな建物があった岬の突端ですが、実は約半世紀ほどの空白の時間があります。それは、江戸幕府のキリスト教の禁教令で1614年に岬の教会が破壊されてから、1663年に長崎奉行所が置かれる(移転)までのことです。その間に岬の目の前に出島が築造され、あらたにヨーロッパとの貿易がはじまるなど時代は大きく変わりましたが、そうした動きをよそに、この場所だけ教会の破壊という嵐のあとの静けさが続いていたのでしょうか。そして、いま約350年ぶりに空白の時間がはじまろうとしている岬の突端。時代はどんな答えを出すのでしょうか。

 

 遠くから、近くから、歴史を眺めてみると、思いがけないことに気付かされてハッとすることもあります。「もしかして、いまって、ターニングポイント?」「それにしても、この一年もあっという間だったわね」などと、皿うどんをほおばりながら、うなずき合う私たち。激動の時代にあって、何はともあれ、おいしいものを自由に食べられるしあわせに感謝した師走の皿うどん女子会でありました。

 

 本年もご愛読いただき、誠にありがとうございました。









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