第36回 長崎料理ここに始まる。(八)

特集・坂本龍馬と長崎料理・かすてら(其の四) 

一、はじめに



▲江戸卓袱料理図(料理通)越中文庫


先日、NHK「龍馬の旅」取材班陸田幸枝女史の一行が私の事務所に来られて龍馬当時の長崎シッポクや砂糖菓子・カステラ等の事を尋ねられた。女史は私が若い頃書いた「長崎卓袱料理」や「長崎の西洋料理」を参考に持ってこられていた。


 私は先ず、龍馬が最初・長崎に来た元治元年より長崎を最後に出発された慶応年間(一八六四~六七)頃には既にシッポク料理は江戸・大阪方面にも流行していた事を説明し、其の証明として文政五年(一八二二)蜀山人太田南畝の序文のある「江戸流行料理通」の中に「魚類・精進 江戸卓袱料理」の献立が記してあるのを御見せした。当然・龍馬もシッポク料理が長崎にもある事は知っていたはずである。


 次いで砂糖菓子の事については前述の拙書「長崎の西洋料理・・・南蛮菓子」76ページに記しておいたし、カステラの事も其の中に書いておいたので御参考にして下さいと申し上げた。



二、龍馬当時の長崎シッポク



▲亀山焼鯉染付卓袱用丼


 龍馬が来崎した当時の我が国は、安政六年五月(一八五九)幕府が長崎・神奈川・函館の三港を開港し露、佛、英、蘭、米の五カ国に自由貿易を許可した以後の事であり、長崎大浦地区には万延元年(一八六〇)すでに外国人居留地が完成し、踏み絵の事も廃止され翌々文久三年(一八六二)には同居留地内にグラバー邸が建設され次いでフランス領事館も造られていた。


 更に同地区には日本最初の聖公会礼拝堂が居留外国人の為としてウイリアム神父の手によって建設されている。

 翌慶応元年五月(一八六五)龍馬は再び薩摩藩士小松帯刀と共に長崎に来て亀山社中の基礎を作っている。


 亀山の地名は土地の人達は最初垣根山と呼んでいたが、文化元年頃(一八〇四)より長崎八幡町の人・大神甚五平等がオランダ船購入の輸出品として水瓶をつくる窯を築いた事より亀山焼と呼ぶようになっていた。


 その後、亀山焼は種々の事情により慶応元年正月(一八六三)廃止となり空家となっていた。

 其の空家を前述の小曽根家の斡旋もあって亀山焼細工人小屋一棟を借りて社中の者は住んでいた。この社中の一行が来崎した慶応元年一月には南山手グラバー邸下に現在国宝建造物に指定されている大浦天主堂が完成し、長崎の人達もこの天主堂を「フランス寺」とよび多くの人達が見物に出かけていた。


 龍馬はしばしばグラバー氏の所に出かけていたというので、其の帰り道にグラバー邸のすぐ下にある天主堂に立ち寄り堂内を見学して帰ったのではないだろうか。


 さて、其の当時・龍馬が馳走になったシッポク料理はどのようなものであったであろうか。


 長崎のシッポク料理には、現在でも家庭用のシッポク料理と料理屋で用意されるシッポクの二種類がある。

 「家庭用のシッポク」については明治時代の地方史研究家足立正枝翁は次のように記しておられる。


 親しき知人などが集まり家庭で用意するシッポクは幾つかの小菜と丼物が用意される。

 料理屋のシッポクは、小菜五皿乃至七皿、大鉢一、中鉢一、丼物三(味噌・吸い物・煮物)他に長崎らしき料理として、南蛮漬・そぼろ煮・鶏の水たき・ヒカド・岡部鮨・ケンチン・胡麻豆ふ・更紗汁あり。


 現在のようにシッポク鰭椀が用意されるようになったのは、明治時代より料理屋の趣向として用意されたもので龍馬時代のシッポクにはまだ鰭椀は用意されなかったとお聞きした事がある



三、龍馬時代のカステラ


 カステラの製法について記した初期の資料としては東北大学狩野文庫の「阿蘭陀菓子製法」は有名である。


 先輩方は此の書名に『阿蘭陀菓子』とあるがカステラの語源はポルトガル語のCastellaであるので此の本の書名は『阿蘭陀菓子製法』と改むべし」と言われた事がある。


 平戸にはカステラより古いカスドウスという菓子もあるし、正保元年(一六四四)の名古屋松平藩の資料によると同年上野阿波守接待用菓子として「カステラ二本」を用意したと記してある。当時既にカステラの製法は全国に広まっていたのである。


 前記「阿蘭陀菓子製法」は一六四五年頃書写されたものであり同書の「カステラ製法」の項には次のように記してある。


一、かすて不ら路の事

たまご二十こに砂糖百六十目、麦のこ二百六拾匁、此三色こねて鍋に紙をしき、こ越ふり其の上に入れ鍋の上したに火を置いて屋き申候、口伝あり


龍馬時代のカステラ製法の資料としては嘉永五年(一八五二)京都三條尚書堂堺屋より出版された「鼎左秘録」がある。同書には次のように記してある。


カステラ

鶏卵 六ツ 砂糖 拾匁、うどん粉 拾匁 右三品を鉢にて良くすりまぜ、鍋の内に厚紙をしき其の中にドロリと流し込み、蓋をして上に強き火 下には弱気火を置き焼く・・・


 私は先年 此の文章に従ってカステラを焼いて戴いた。味は淡泊であった。然し翌朝食べたらボロボロになっていた。現在のカステラには其の後、水飴が加えられているので美味しくボロボロになりませんよと言われた。


 先年 ポルトガルに行った時、カステラという菓子はなかったが「パンドラ」という菓子があった。長崎のカステラの原型ですよと言われたがあまり美味しくはなかった。


第36回 長崎料理ここに始まる。(八) おわり


※長崎開港物語は、越中哲也氏よりみろくや通信販売カタログ『味彩』に寄稿されたものです。

検索