第28回 出島オランダ屋敷の復原と西洋料理
一、出島オランダ屋敷復原の歩み
▲出島 カピタン部屋2階大広間 阿蘭陀冬至料理再現
大正11年10月、国は史跡名勝天然記念物保存法により長崎県下では平戸オランダ商館跡、出島オランダ商館跡、シーボルト宅跡、高島秋帆旧宅の4件を史跡地に指定している。この当時の模様を長崎県は昭和3年、次のように報告している。
この地(出島)は、もと扇型の小島であったが明治19年以来・周囲の大修築により現在の出島の地はまったく陸地となり、唯その名を存するのみで公有地は出島周辺とその内にある県市道のみで他は全て民有地である。
ただ出島1番地より26番地の間は、公益上必要止むを得ざる場合の他、現状の変更は之を許可せざる方針である。指定史跡地において旧の偲びを止めるものとしては、史跡地内を縦貫せる二筋の道および地番石標のみが残っている。
二、出島復原の第一歩
昭和26年8月20日、長崎市教育委員会に国の文化財保護調査委員会より「出島問題について指示したい事があるので至急東京に出て来て下さい」との連絡があった。
長崎市教育委員会では早速、田川務市長と相談し市教育委員会より当時文化財担当を兼ねておられた築瀬義一社会教育課長(後の市会議員)を文化財保護委員会総務部長富士川金也氏の所に派遣している。
▲出島 カピタン部屋外観
先ず文化財教育委員会は「どこからどこまでが昔の出島であるか確認して下さい」と言うことであったと、記録が残っている。
然し出島全体が私有地であってみれば、発掘調査がすぐに出来るわけでないので「先ず旧出島の一部を公有地として買いあげ、其処を拠点として出島復興の第一歩とします」と言うことになったと言う。
文化財保護委員会より間もなく記念物課史跡地担当の黒板昌夫先生がおみえになった。黒板先生のお父様は波佐見町出身で有名な歴史学者黒板勝巳先生であり、私達には本当によく指導して戴いた思い出がある。
次に出島に関する基礎資料の収集を黒板先生は指導して下さった。
旧出島内の土地購入については、幸いなことに出島の中心地の一部にあたる処に旧川南造船所所有の石倉と其の隣接地300坪があり、之を購入する事が決定した。価格は坪1万円であったが原爆により傷んでいるので其の整備修復費を加算すると900万円はかかるとの事であった。
この整備事業については国も其の大分を援助して下さると言うことになり、結果としては450万円の補助を国から戴いた。
復興事業の技官としては後に工学博士となられた山口光臣先生が赴任してこられた。これによって出島復興の第一歩が踏み出されたのである。
三、出島整備の完成
其の後、出島全域の完全公有化を達成したのは確か4年前のことであったと思うので、その間約半世紀と言う事になる。其の間、長崎新聞社の皆様、朝永、海江田、両病院ならびに日野様はじめ出島地区居住の皆様方に大変お世話になった事が今更ながら思い出される。
昭和57年10月本島市長の時、本格出島の基礎研究をせよと言うことになり「出島史跡整備審議委員会」が発足。その成果として昭和62年3月長崎市より「出島一その景観と変遷」の大冊を発刊している。
その本の発刊によってオランダ関係の原本資料をはじめ、国内外の出島関係資料を収集することができたので、之に基づいての発掘調査が進められ、現在の出島遺構復原の完成となっている。
四、出島内部の展示
出島遺構の復原と共にその内部に何を展示するかという事も考えられた。
私には出島内料理の展示を考えるようにと言われた。今回復元された建物は、寛政10年3月6日(1798)夜の出島大火後再建された出島の建物を原型として復元されているので、展示資料もそれにあわせて1800年初期の出島料理にして戴き、その料理模型はカピタン部屋の2階とし、有名なオランダ正月の料理を考えてくれないかと言われた。
当時の資料としては、1800年頃編纂された「長崎名勝図絵」。次いで私が昭和57年発刊した「長崎西洋料理」(第一法規出版)内に編集しておいた浦里豊氏蔵の「異国食用図」、長崎版画の各種、川原慶賀筆「唐蘭館絵巻」、石崎融思筆「蘭館図」等があった。オランダ正月の料理には次のようなものがある。
○ 子豚。型のごとくにして内臓を取り去る。ボートルを引き(註:ボートルとはバター)。直火にてあぶる。口に橙をくわえさせる。尾には帛(きれ)をつけて飾る。背かに金箔をふる。この料理オランダ語にてスペイトと言う。
○ パステイ。内に鶏の切身、エンス(燕巣)の類、椎茸、木茸、ネギ、胡椒、肉ずうく、にて合わせ蒸す。ボートルに卵を潰し入れて味を加減す。次に麦粉とボートルを加味して焼く、食用となす。
○ ラーグ 鶏たたき丸めて椎茸、ねぎ、すましあんばい。
○ スペーナン 菜みじんにたたく、ボートルにてサット揚て皿に盛り、玉子・四ツわりにして盛り合わせ。
○ カステイラブロト 花かすていら、紙焼のかすていら、紅毛紙を箱に折、かすていらの種を焼鍋の中にならべ焼たるなり。
○ パン オランダ本国は米なし。故に小麦を以て常食とす。
▲出島を一望
出島にはカピタン部屋の右裏1棟に「阿蘭陀台所」がありオランダ料理人にまじって日本人料理人3人が勤めていた。
オランダ商館の医官ツンベリは其の日本人料理人について次のように記している。
日本人料理人は出島にいます。
オランダ風の料理を上手に作るのに慣れていた。
この出島の日本人料理はオランダ人が江戸参府の時には必ず3人のうち2人が江戸までテーブルと椅子を持参し、同行している。そして2人の料理人の1人は必ず1日前に出発し、オランダ人が宿所につく前に食事を用意していたと記している。
出島では、日本産の牛は食べる事を禁じられていたので、毎年春にバタビヤより入港してくるオランダ船には食用となる牛が積まれていた。司馬江漢も天明8年(1788)長崎に来遊したとき、此の出島の牛を見て、其の模様を「西遊日記」に綴っている。
今回復原された出島オランダ屋敷は全国的に評判となり、毎日参観される人が多く来られ、出島内にはボランティアの案内者も多数おられるとの事でした。
第28回 出島オランダ屋敷の復原と西洋料理 おわり
※長崎開港物語は、越中哲也氏よりみろくや通信販売カタログ『味彩』に寄稿されたものです。