第18回 長崎食文化の夜明け

1.長崎食文化の夜明け

長崎人が最初に口にした南蛮の味は、ホスチヤ(初期のパン)と葡萄酒。



▲荷揚げ 山下南風作(純心博物館蔵)


我が国ではポルトガル、スペインより来航する船を南蛮船といい、オランダ、イギリスより来航する船を紅毛船又はオランダ船といった。


ヨーロッパより最初に我が国に来航した船は南蛮船である。それは1543年初めてポルトガル人が種子ヶ島に来航してより間もなくの事であったという。南蛮船は鹿児島、坊ノ津、豊後、博多などに寄港し、1549年には平戸、1571年には長崎の港に入港している。


以来、本格的な我が国とヨーロッパとの通商が開始され、今年はその南蛮船が長崎に初めて入港して430年という記念の年である。

この南蛮船の長崎入港には、長崎地方の領主大村純忠が熱心なキリシタンであった事とイエズス会の神父達の協力によるものがあった。

その南蛮船が長崎に初めて入港して430年という記念の年である。


住民は全てキリシタンの信者であり、そして此の町には神社もお寺も一つも建っていなかった。

ポルトガルの人達は長崎の街中を自由に歩くことができたし、日本人女性と家庭をもっていたポルトガル人の人達も多く住んでいた。

その故に長崎の町ではポルトガル風の南蛮料理や南蛮菓子がつくられ、ポルトガル語の会話もできた。


私はその当時の長崎南蛮食の文化史を『第1回 西洋料理編(一)』に記しておいたので今回は其の続編として稿を続けることにした。

長崎の人達が、最初に口にした南蛮の味はパンと葡萄酒であったに違いない。


それはキリシタンの人達は必ず教会に行き洗礼をうけ、パンと葡萄酒を戴くことから始まるからである。

パンはポルトガル語のpaoを語源としているのでポルトガル人が最初にこの言葉を我が国に伝えたものである事がわかる。パンは小麦粉さえあれば比較的容易にできるのであるが、我が国にはパンを焼く釜「オーブン」はなかったので日本では鍋を改良してパンを焼いたにしても一応の指導をポルトガル人にうける必要があったに違いない。




▲ポルトガルの皿(越中文庫)


我が国初期のパンは主として教会で作られていたのである。

1599年10月28日付マニラ発・メスキタ神父のパンについて次のような報告書がある。


京都でつくられた金箔のホスチヤの箱を去年おくりました。

その中には日本の小麦でつくったホスチヤを入れておくりました。


ホスチヤ(ポルトガル語hostia)については1600年(慶長5)6月長崎で発刊された「ドチリナキリシタン」を読むと次のように記してある。


パンの上に、キリストの教え玉う言葉(聖書の言葉)をとなえ玉えば、それまでのパンは、即時にキリスト様のお身体の一部と変じホスチヤとなり玉う・・・・これ不思議のことなり。


要約すると、同じパンであっても聖書の言葉を上からとなえると信仰的なものとして崇められるものになると言うのである。


先日、長崎西坂町にある二十六聖人記念館を訪ねたら多くのキリシタン遺品の中に17世紀初期につくられたホスチヤがあった。そしてこのホスチヤこそ我が国に現存している唯一の初期のパンであろうという。



2.我が国の食文化に大きな影響を与えた砂糖考

南蛮船による砂糖輸入に始まる、調理用としての砂糖使用。



▲ポ南蛮船の積荷 


一般に我が国で砂糖を調理用として使用するようになったのは南蛮船による砂糖輸入に始まるとされている。


1563年来航し1597年長崎で歿し日本についての種々の記録を残しているイエズス会のフロイス神父は日本人の食に関しても次のように記してある。


1. 吾れ吾れ(ヨーロッパ人)は甘い味を好むが日本人は塩辛いのを喜ぶ。

1. 吾れ吾れは砂糖、卵をつかって麺類を食べるが日本人は芥子や唐辛子をつかう。

1.日本人の汁は塩からい。日本人は吾れ吾れのスープを塩気がないという。


然し1600年を過ぎる頃には南蛮船が長崎に毎年運んでくる砂糖の味を日本人は楽しみ次第に次のような砂糖菓子がつくられているとポルトガルの文献に記してある。


Sato Mochi(訳文) 砂糖を中に入れ餅。

Mochi 米で作った円いBollo(菓子)。

Yocan 豆と黒砂糖をまぜて作る菓子。

Sato インド、アフリカで作る甘味。


1600年以降の南蛮船の積荷を調べると次第に砂糖の積荷が増えている。そしてポルトガルの貿易記録には

「白砂糖は仕入値が百斤につき15匁であるのに長崎では百斤30~45匁で売れ、黒砂糖は日本人が好むので仕入値百斤4~6匁に対して40匁~60匁に売れる」と記してある。


そして1655年頃になると我が国の人達も黒砂糖より白砂糖を好むようになり1700年頃(元禄時代)の記録には「白砂糖二百五十万斤、氷砂糖三十万斤、黒砂糖七・八十万斤」を輸入したと記してある。


我が国で使用される砂糖は全て長崎に毎年入港してくる唐蘭船によって大いに繁昌していたと言っても過言ではない。

その故にか、今でも長崎料理の味は他所の味付けに比べて「甘い」と言われている。


第18回 長崎食文化の夜明け おわり


※長崎開港物語は、越中哲也氏よりみろくや通信販売カタログ『味彩』に寄稿されたものです。

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