第451号【もっと知りたい、オランダ通詞のこと】

 江戸時代、出島でオランダ語の通訳や貿易業務などに従事したオランダ通詞。基本的に世襲で職務が継承されていく長崎の地役人のひとつで、オランダ通詞の家は幕末までに30数家あったとか。主な家として、西、吉雄、石橋、楢林、中山、本木などが知られています。



 

 年に一度、長崎港にオランダ船が入ったときに商品の荷揚げに立ち合い、通商の書類をつくるなどの貿易事務と、その船に乗ってきた新しい商館長や船長から提出される世界情勢を記した「風説書」の和解(翻訳)がオランダ通詞の重要な職務でした。1820年に川原慶賀が描いたとされる「長崎出島の図」を見ると、西側の荷揚げ場近くに「通詞部屋」があります。オランダ通詞たちは出島の最前線にいて、西洋の文物を受け入れる仕事をしていたのです。




 大音寺(長崎市寺町)の後山にあるオランダ通詞・中山家の墓地をたずねました。樹木に囲まれたその墓地は、とても静かで眺望もよく、お墓でこんなにくつろいでいいのかと思うほど、気持ちの良いところでありました。



 

 中山氏は江戸時代、8代に渡ってオランダ通詞を勤めた家です。6代目の作三郎武徳は、御用和蘭字書翻訳認掛を命じられ、当時のオランダ商館長ヘンドリック・ドゥーフの指導により蘭日対訳辞典『ドゥーフ・ハルマ』の編纂に携わりました。幕末期にもっとも使用されたといわれる『ドゥーフ・ハルマ』。明治期に活躍する人物を多く輩出した大坂の緒方洪庵の塾では、「ドゥーフ部屋」を設けてこの辞書を置き、塾生らの蘭学の勉強におおいに役立てたといわれています。


 ところで、オランダ語に秀でた作三郎武徳の門弟には、シーボルトの鳴滝塾の初代塾頭として知られる美馬順三がいました。鳴滝塾でシーボルトに学ぶために集まった各地の俊才たちは、同時にオランダ通詞らにも学んだといわれ、美馬も作三郎武徳に学びながら、シーボルトへ提出するレポートを仕上げたりしていたのでしょう。そうした師弟の縁があってか、25基の墓碑が並ぶ中山家の墓地の端には、31歳で亡くなった美馬のお墓もありました。



 

 江戸時代を通じて、もっとも著名なオランダ通詞をあげるならば、やはり吉雄耕牛(1724-1800)でしょう。53年間もオランダ通詞を勤めた大御所で、門人は1000人に及び、また『解体新書』の序文を寄せたことでも知られています。屋敷は、出島や長崎奉行所西役所にほど近い平戸町(現・万才町)にありました。その2階には望遠鏡や天球儀など西洋の文物が豪華に置かれた「オランダ座敷」があり、三浦梅園をはじめ各地の長崎遊学者らが大勢たずねたといわれています。



 

 吉雄耕牛の息子の権之助もまた優秀なオランダ通詞でした。父そして「鎖国」という言葉(訳語)を生んだ志筑忠雄(天文学者/わずかな期間だが、オランダ通詞だった時期もある)に学び、開国うんぬんで揺れ動く幕末に活躍しています。中山作三郎武徳が携わった『ドゥーフ・ハルマ』の編纂においては、この権之助が中心的存在でした。 


 吉雄家の墓地は、禅林寺(長崎市寺町)にあります。訪れる人が意外に少ないようで、お墓は雑草に覆われていました。江戸で活躍した蘭学者たちが後世に名を残す一方で、彼らの知の源となったオランダ通詞たちのことは、あまり知られていません。あらためてオランダ通詞の活躍を見直す必要があるように思われます。



 

◎参考にした本/『長崎通詞ものがたり』(杉本つとむ)、若木太一監修『長崎東西文化交渉史の舞台』「長崎遊学者その後」(本馬貞夫)、『貿易都市長崎の研究』(本馬貞夫)、『長崎百科事典』(長崎新聞社)、『長崎地役人総覧』(先好紀)

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