第472号【土地の記憶をたどる(風頭山~伊良林界隈)】
九州では先週、満開を迎えた頃、東北では開花宣言が出たとたん、春の嵐に見舞われましたが、あなたのまちの桜の様子はいかがですか?この時季、あちらこちらで聞こえてくる桜談義。転勤で各地の桜を見て来た知人たちによると、同じソメイヨシノでも、九州と北陸や東北地方などの寒い地方とでは、印象がかなり違うとか。温暖な九州のものは、おだやかでやさしい表情。一方厳しい冬をくぐり抜けたソメイヨシノは、どこか凛とした美しさで、満開を見上げたときの感動もひとしおなのだそうです。
嵐の翌日、長崎の中心市街地の桜の名所のひとつ「風頭山(かざがしらやま)」へ様子を見に行くと、案の定、花びらをあたり一面に散らしていました。花曇りのなかを行き交うのは花見客や観光客。風頭山の山頂から徒歩で10分ほど下ったところには、慶応元年(1865)に坂本龍馬が結成した亀山社中跡があり、ゆかりの地ということでこの山頂にも、長崎港沖を望む坂本龍馬像が建立されていることから一年を通して観光客が絶えません。
坂本龍馬が率いた亀山社中は貿易商社。ちなみになぜ亀山社中と呼ばれたかというと、近くに亀山焼と呼ばれる窯があったからです。亀山焼は19世紀はじめ頃に、オランダ船に売るための水瓶を製造するために開かれた窯。水瓶の「カメ」が、「亀」に転じて亀山焼と呼ばれるようになったそうです。しかし水瓶の販売は不振で、途中から白磁の陶器に切り替えました。絵付けには、中国から輸入した花呉須(はなごす)という発色のいい藍色の顔料を用い、長崎の三画人と呼ばれた、鉄翁祖門、木下逸雲、三浦梧門などが描いたといわれています。そうして上質の染め付けを製造していたようですが、残念なことに開業から約60年で廃窯に。奇しくもその年に亀山社中が誕生したのでした。たしか龍馬も亀山焼のご飯茶碗を持っていたはずです。
風頭山の北東側の斜面に位置する亀山社中跡や亀山焼窯跡がある一帯は、伊良林(いらばやし)とよばれる地域です。坂段が縦横に入り組むようにしてあり(長崎はそういうところが多い)、すれ違う観光客たちはみなフウフウ言いながら上り下りしています。それでも同じ道を、亀山社中の若者たちも歩いたのかと思うと、感慨深いものがあります。亀山社中のメンバーは、大里長次郎(近藤長次郎)、陸奥陽之助(陸奥宗光)など数人の正式な隊員ほか総勢20人ほどだったそうです。
同界隈で育った大正生まれのある方が、子どもの頃に聞いた話によると、「亀山社中のもんは荒らくれものが多くて、あんまり好かれとらんやったらしい」とのこと。若くて、血気盛んな彼らのこと。何をしでかすのか怖くて、遠巻きに見ていた地元の人もいたのでしょう。いまとなっては、ほほえましくもあるそんなエピソード。見えない土地の記憶としてこの界隈に刻まれています。