第4回 西洋料理編(二)

1.横浜の西洋料理

横浜初、洋風建築の西洋料理店。それは、長崎人によって始められた。



▲明治初期のビードロ用具


 横浜沿革誌を読むと次のように記してある。


 明治二年八月、横浜姿見町三丁目に谷蔵なるものが西洋割烹を開業。当時は外国人の供養を目的とし 本邦人は之を嗜むものなし


 この横浜で最初に西洋料理を創業したとされる谷蔵は長崎県出身の人であったという。その谷蔵のことについて「明治車物起原」には次のように記してある。


 横浜西洋料理の祖、長崎県の人大野谷蔵は初め姿見町三丁目に開業、後に今の相生町五丁目に移り開業・・・・


 次に明治五年三月二十三日発刊の横浜毎日新聞には、「西洋料理店崎陽亭」開業の広告が次のように掲載されている。


 西洋料理御一人前、金二分より従来馬車道似て渡世士候ところ、類焼後、尾上町二丁目に開業まかり在り御ひいきを蒙り候ところ、今般西洋風家作造営、来る二十五日より開店、風味第一、且つ下直に差上候間、不相度ににぎにぎ敷ご入来、沢山御用仰付られ候よう 願上げ奉り候   崎陽亭利兵衛


 この崎陽という言葉は長崎の別称であるので営業主の利兵衛は前記の大野谷蔵と同様長崎の出身者であり谷蔵と利兵衛は同一人物であるという人もいる。そして利兵衛の店は洋風建築であったっと紹介している。これは恐らく横浜における洋風建築の西洋料理店としては最初の物であったと考える。


 私はここに、横浜における本格的西洋料理は全て長崎の人達の手によって始められていることに注目している。

  これより少し前の文久元年(一八六一)横浜に滞在していたシーボルト父子は横浜における食事のことについて次のように述べている。


 私達の横浜での食事はアカリーという黒人ボーイのレストランで過しました・・・・・其の後、私達は今度フランス教会で改宗した上手な料理人を雇うことができましたので大変愉快な食事となりました。


 このフランス教会で改宗した人というのは、当時はまだキリスト教禁教時代であったので日本人ではなかったと考えている。



2.長崎の西洋料理屋

出島のオランダ人に料理見習い。長崎生まれの西洋料理人、草野丈吉。



▲自由亭(明治11年建、グラバー園内)


 長崎の町で一番早く西洋料理の専門店を開業したのは草野丈吉であったといわれている。


 草野丈吉のことについては小冊子の伝記が出版されている。それによると丈吉は天保十年(一八三九)上長崎村伊良林郷次石、若宮神社前で生まれ、少年の頃、出島のコンプラ商人の一人増永文治の使用人として雇われている。このことが丈吉を西洋料理に向かわせる遠因となっている。


 丈吉は幼少の頃より働きものでまじめで人と争はず、実に利発な少年であったという。この少年を信頼していた増永氏は、当時としては給料もよく高給とりとしてエリートの職業であった出島に居住していたオランダ人の使用人に丈吉を推挙している。


 その出島での丈吉の働きぶりには大いにみとめられ、やがて在オランダ公使のゼネラル・デヴィットの使用人となった。公使デヴィットは丈吉がオランダ料理を研究したいという目的を知って、当時長崎に入港していたオランダ船セロット号の調理師見習いとして推挙している。ここでも丈吉は彼が真面目が大いに認められ、オランダ語を身につけ、横浜、函館と各地を廻り、めきめきと西洋料理の腕を上げ、外人はみな丈吉の料理を称賛したという。


 これに自信をえた丈吉はデヴィット公使の許可で知人となった五代友厚に西洋料理専門店開業のことを相談している。友厚は丈吉に「これからの時代はきっと西洋料理を注文するものがふえてくるであろう」と言って開店開業のことを進めたと草野丈吉伝は記している。


 五代は後に明治初年を代表する大実業家となった人物であるが当時は長崎海軍伝習所に学び薩摩藩を代表する一員として活躍していた。


 この五代と丈吉の出会いは、後に五代が外国事務局判事・大阪府判事となったことにより丈吉の西洋料理の大阪進出への端緒となっている。



.草野丈吉の開業。

グランド将軍や内外の賓客が訪れた、本格的洋風接待所「自由亭」。



▲西洋料理発祥の碑(グラバー園内)


文久三年(一八六三)丈吉は前述の伊良林若宮神社前の自宅に少しばかり手を加え、屋号を土地の名に因んで良林亭とよんだという。然し渡辺庫輔先生の「幕末長崎料理屋名寄」には東組の中に「伊良林郷 草野屋丈吉」とあり、慶応三年(一八六七)の名寄には「伊良林 自遊亭丈吉」とある。

  草野屋(良林亭)時代には店の前に次のような張り紙がだしてあったという。


料理代 御一人前金参朱

 御用の方は前日に御沙汰願上げます。

 但し六人以上の御方様はお断り申し上候。


 部屋は六畳一間で椅子がなかったので酒樽を使用し、洋食器も六人以上は不備であり、使用人もなく、丈吉はコックとボーイ役を兼ねて一人で走り回っていた。


 料理代三朱といえば、一両の3/16である。一両を現在の七万円とすれば三朱は一万三千円位となる。しかも店は伊良林若宮神社前という山の中腹にあって人力車も行かず、電話のない時代に前日より予約して御来店下さいというのであるから、西洋料理一皿を食べるのも大変であったと考える。然し、それでも丈吉の店は繁昌していたのである。

  これは丈吉が外国人接待用のターフル料理を、要望に応じて其の処に出むいて調達していたからである。翌々年丈吉は店を自宅の下方でより便利なところに移し、店も広め料理代も一朱としている。今も土地の人達はこの場所をジュテイとよんでいる。


 明治十一年丈吉は長崎市馬町諏訪神社前に進出、立派な洋風建築を新築し店名を自由亭と改称、長崎を訪問する各国賓客の本格的洋風接待所として活用している。その故に自由亭はアメリカ大統領グランド将軍をはじめイタリヤ、ギリシャ、ロシヤの賓客が次々と訪れた記録が残されている。


 さて、丈吉が用意した料理の献立については殆ど記したものをみないが他の資料より考えて料理名をあげると、

 牛のソウパ(スープ)、パスティ(肉入りパイ)、フルカデル(肉饅頭)、牛のロース煮、ハム、ビフテキ、ゴウレン(魚の油揚)、豚料理、鶏料理、サラダ、パン、コーヒーなどにカステラ、カスドースなどの洋菓子がつけられていた。


 丈吉は商業都市大阪への進出を契機として、前述の五代友厚後からの力をかりて明治二年大阪川口梅本町に外人止宿所(ホテル)を完成、翌三年にはこれを自由亭と改称、丈吉は大阪府料理御用達を命ぜられている。


 明治九年、京都で博覧会が開催されている。丈吉は、このとき祇園二軒茶屋にあった藤屋が廃業したので早速その跡地を買収、ホテルと西洋料理専門店を開業、屋号はそのまま藤屋といっている。


 当時の料理の代金は「上等五十銭、中等二十七銭五厘、下等は二十五銭」であった。


第4回 西洋料理編(二) おわり


※長崎開港物語は、越中哲也氏よりみろくや通信販売カタログ『味彩』に寄稿されたものです。

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