第445号【長崎でやんちゃした?若き日の西園寺公望】

 長崎奉行所立山役所跡(現・長崎歴史文化博物館)から、長崎駅方面へ通じる「玉園町通り」に入っところで、春を告げる甘い香りが漂ってきました。それは紫紅色をした沈丁花の香り。「西園寺公望仮寓居跡(さいおんじきんもちかぐうあと)」の碑のたもとで、はやくも満開のときを迎えていました。





 

 明治から昭和にかけて活躍した貴族政治家で、2度の首相をつとめた西園寺公望(1849-1940)。長崎にやってきたのは明治3年(1870)、目的は仏語を学ぶためでした。このとき20代初めの若者でしたが、すでに戊辰戦争や会津征討で要職に就いて従軍した経験を持ち、その後も官職にありました。しかし、「自分はまだ若く、もっと勉強する必要がある」という思いから仕事を辞し、いっかいの書生という立場で長崎に下ってきたと伝えられています。

 

 幕末~明治期にかけての長崎は、時代の要請もあって語学教育が充実していました。公望が学んだのは、「広運館(こううんかん)」という語学学校で、現在の長崎県庁の地にありました。ここは少し前までは、長崎奉行所西役所だったところ。仮住まいがあった玉園町通りから、徒歩20分ほどの距離です。

 

 ちなみに玉園町通りは、「永昌寺(えいしょうじ)」、「聖福寺(しょうふくじ)」、「福済寺(ふくさいじ)」など由緒あるお寺が点在する通りで、当時からほとんど変わらない道幅は、車一台が通るくらい。江戸時代には奉行所をはじめ役所関連の屋敷や各藩の蔵屋敷などが近隣にあり、諸藩の武士や地役人らがおおいに行き交った界隈です。



 

 全国から有志が集った「広運館」には、国学科、漢学科、英語科、仏語科、算術科、露語科などがありました。公望が学んだ1870年の学生数は349人で、その内もっとも人数が多かったのは英語科の111人、公望が所属した仏語科は48人だったそうです。

 

 「広運館」のはじまりは、安政51858)に長崎奉行所立山役所に隣接する岩原屋敷内に設けられた「英語伝習所」にさかのぼります。その後、英語稽古所(片淵)、英語所(片淵)、語学所(万才町)、洋学所(江戸町)、済美館(興善町)と名称と所在地をめまぐるしく変え、明治元年(1868)に広運館として移設されました。その間、外国語の教科を増やしたり、内容を充実させたりなどしたようですが、どんどん変化する開港前後の国際情勢に対応しようとする様子が垣間見えます。

 


 



 「西園寺公望仮寓居跡」の説明板には、上野彦馬の撮影局で撮った写真が載っていました。公家の公望が刀を差し、浪人のような姿で写っています。その表情たるや颯爽として、ソチオリンピックのスノーボード男子ハーフパイプでメダルを獲得した10代のコンビからも感じられた、どこかやんちゃで飄々としながらも、やるときにはやる、そんな頼もしさが感じられます。写真から察するに、京都と官職を離れ、のびのびとした日々をおくったようにも思えます。



 

 公望が長崎で学んだのはわずか7カ月。仏留学の辞令が下り、その年の12月にフランスに向けて出発。10年近くの留学を経て帰国すると、首相そして最後の元老をつとめるなど重責を果たしたのでした。

 

◎参考にした本/「長崎百科事典」(長崎新聞社)、明治百年~長崎県の歩み~(毎日新聞社)

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