第444号【中国と長崎の縁を紡いだ唐通事】

2014長崎ランタンフェスティバル(春節祭)」もいよいよ明後日(2/14)まで。今年も大勢の人で賑わうなか、春節を祝う風習の残るアジア各地からの観光客の姿もけっこう見受けられました。年々、規模も内容も充実している長崎の春節祭は、国を超えて注目されはじめているようです。



 

「長崎ランタンフェスティバル」は、中国と長崎のゆかりの深さを象徴する催しのひとつです。では、そもそもいつ頃から中国との交流がはじまったのでしょうか。江戸時代、中国語の通訳や唐船との通商事務などを担当した「唐通事」(とうつうじ)に注目して、たどってみました。



 

 長崎港に唐船が姿を現しはじめたのは、長崎がポルトガルとの貿易港として開港した元亀(15701573)の頃であったと言われています。開港前の長崎は九州の一寒村に過ぎず、商売のために外国の船が入ることなどなかったのです。当時、唐船は自由に日本各地の港に入り商売をしていて、九州では薩摩沿岸や平戸などで交易を行っていました。商魂たくましい彼らは長崎の開港を耳にして、すかさずやって来たと考えられます。また当時、明の時代だった中国は内乱が絶えず、清との政権交代も近い不安定な時期でした。その戦乱から逃れて来た人もいたようです。

 

 1603年(慶長8)、江戸幕府が開かれ、長崎奉行が設置されました。初代長崎奉行の小笠原一菴は、唐通事の必要性を強く感じたのか、任命された年に長崎に居住していた山西省出身の馮六(ほう ろく)という人物をその人柄や能力を見込んで初代唐通事(大通事)に抜擢。馮六は二年後には退職したようですが、その子孫は日本人だった母方の「平野」姓を名乗り、代々唐通事を勤めました。



 

 概ね唐通事は、江戸時代初め頃までに在留・帰化した唐人と、その子孫が起用されており、その家系は70ほどあったそうです。なかでも代表的な家系は、潁川(えがわ)、彭城(さかき)、官梅(かんばい)、神代(くましろ)、東海(とうかい)、鉅鹿(おおが)など。これらの姓は日本名で、陳氏は「潁川」姓、劉氏は「彭城」姓、魏氏は、「鉅鹿」姓と、それぞれ中国の出身地名を日本名にしたり、妻が日本人の場合はその姓を名乗ることもありました。

 

 諏訪神社から徒歩15分。長崎市西山本町の小高い斜面地に、鉅鹿家の始祖、魏之(ぎ しえん)とその兄が眠る中国式墳墓の形式でつくられたお墓があります。福建省出身の魏之は、明朝に仕えた楽人で、貿易商に転じたのち寛文年間(16611672)に長崎に居住。日本に明清楽を伝えました。当時の長崎奉行牛込忠左衛門に気に入られたのか、その懇命により帰化し「鉅鹿」の日本名を賜ります。鉅鹿家は五代目のときに唐通事となり幕末・維新まで勤めたそうです。



 

 崇福寺(長崎市鍛冶屋町)に多大な援助をし、檀越(だんおつ)のひとりでもあった魏之の住まいは、酒屋町(現・長崎市栄町)にあり、たいへん裕福であったと伝えられています。私財を投じて中島川に本紺屋町橋(現在の常磐橋付近にあった石橋)を寄進するなど、地域にもその財を還元しました。魏之のように寄進をする唐通事や唐商人は少なくなかったようで、彼らは長崎の町づくりにもおおいに貢献したのでした。





 

 

◎参考にした本/「長崎唐人の研究」(李 獻璋)、「長崎 東西文化交渉史の舞台」(若木太一 編)、長崎事典~風俗文化編~(長崎文献社)

検索