第421号【フェートン号と松平図書頭康平】
長崎市民の総鎮守、諏訪神社。多くの市民が訪れる拝殿から、裏手に回り登ったところに、いくつかの祠(ほこら)があります。そのひとつは、先祖の神霊を祀った「祖霊社(それいしゃ)」と呼ばれるもの。文化5年(1808)の「フェートン号事件」に深く関わったある人物も祀られています。
歴史の教科書にも載る「フェートン号事件」。当時、オランダ船と唐船とだけ交易を行っていた長崎に、イギリス船フェートン号が、オランダ船と偽って侵入。食料や薪水などを要求し奪い取って行ったという出来事です。
通常、交易を行うオランダ船は夏に長崎へ入港。2カ月ほど滞在して秋に出航しました。フェートン号は時期外れの10月(新暦)にやって来て長崎港の沖合に停泊。入港手続きのために近付いたオランダ商館員を人質にするや、船上のオランダ国旗を降ろし、イギリス国旗を掲げ、食料などを要求したのです。
まさに不敵ともいえるフェートン号側の態度。その背景には、フランス革命が起きた当時のヨーロッパ情勢がありました。オランダ本国は、フランス軍の侵入を受けて支配されており、イギリスとは敵対する関係にあったのです。その頃のイギリスは、アジア各地に進出し勢いを強めており、ときにオランダ船を襲うこともあったとか。フェートン号も、日本へ通商を求めるために来たのではなく、オランダ船の捕獲が目的だったと言われています。
フェートン号が長崎に現れてから、出航するまでわずか3日。その間、長崎のまちはたいへんな騒ぎだったことでしょう。ましてや、この騒動をおさめなければならない長崎奉行の松平図書頭康平(まつだいらづしょのかみやすひら)、そして人質をとられたオランダ商館長ドゥーフの動揺は計り知れません。
このとき松平図書頭康平は、フェートン号を焼き討ちにしたいと考えたようです。しかし、このとき長崎警備の当番だった佐賀鍋島藩の兵たちは、オランダ船は来ないと判断して7月のうちに引き上げていたのです。兵力不足のうえ、人質の身の安全のこともあり、結果的には相手の要求を全て飲むかたちとなりました。
フェートン号が長崎を去ったその日。松平図書頭康平は、いつものように夕食をとると、月見の酒宴をひととき催しました。その後、みんなを帰したあと、ひとり武士としての責任をとり自刃。41才でした。遺書には、人質をとられたことなどで国を辱めたことを謝り、佐賀鍋島藩の兵がいなかったことが無念だったことなど、ことの顛末と思いがしたためられていたそうです。
松平図書頭康平のお墓は大音寺(長崎市寺町)に設けられました。一方、長崎の人々は、人柄の良い長崎奉行の死を深く悲しみ、翌年、諏訪神社に図書明神霊社(康平社)を勧請。長谷川権六郎(江戸初期の長崎奉行)や氏子先霊とも合祀され、その後、「祖霊社」と改称して現在に至っています。
◎参考にした本/長崎事典~歴史編~(長崎文献社 刊)、出島(片桐一男 著/集英社新書)