第418号【長崎よもやま話でコーヒーブレーク】
皆さま、よい新年を迎えられたことと思います。七草がゆでお腹を休めたら、次はコーヒーブレーク。長崎にまつわるよもやま話にお付き合いください。
コーヒーといえば、日本では長崎・出島に伝わったのが最初と言われています。出島のオランダ商館員らは日常的に飲んでいて、彼らと接する機会のあった阿蘭陀通詞や出島に出入りする遊女などもその味を知っていたようです。前号でご紹介した大田南畝(1749-1823)は、長崎滞在中(1804-1805)のことをまとめた『瓊浦又綴』にコーヒーについても記しています。勘定方の仕事でオランダ船に乗り込んだとき「カウヒイ」を勧められたけれど、焦げくさくて味わえなかったとか。南畝は、コーヒーを飲んだ経験を初めて記した日本人でもあるようです。
お江戸の文化人・南畝の交友関係のひとりに平賀源内(1729-1779)がいます。風変わりな奇才として知られる源内は、長崎を2度訪れました。最初は1752年、高松藩の薬園掛足軽だった頃に遊学。このとき阿蘭陀大通詞の吉雄耕牛のもとでオランダ語と本草学を学んだそうです。2回目は16年後の1768年。幕府からオランダ語の翻訳御用を命じられて来ました。このとき手に入れた摩擦起電器を復原したものが、あの「エレキテル」です。源内は長崎で出会った新しい知識や技術に、独自の発想と工夫を加え、多方面でその才能を発揮したのでした。
南畝が幕府の命で長崎へ来たのは、源内が亡くなってから5年後のことです。(源内は誤って人を殺傷し獄中で亡くなった)。南畝より30~50年も前に源内は長崎を訪れているのですが、それぞれの足跡をたどると、二人に通じるものがありました。唐通事の彭城(さかき)家です。彭城家は長崎の鳴滝に別宅がありました。当時の鳴滝は、川が流れる田園で風光明媚な地でありました。源内は彭城家別宅の食客、つまり居候の身であったとも伝えられています。
一方、南畝も彭城家と交友があったようで、別宅を訪れ、酒を飲んだと思われる漢詩を残しています。詠まれた内容は、残暑厳しいなか、鳴滝で涼しげな水音を聞き、彦山の上にある月に見送られながら、酒に酔い帰路に着いたというようなもの。南畝にとって20才も年上であった源内は、師でもありました。ほろ酔いの鳴滝からの帰り道、時代の先を見つめながらも不遇の死をとげた師に思いを馳せることもあったのではないでしょうか。
さて、コーヒーに話をもどすと、日本で初めてのコーヒーに関する記述は、蘭学者の志筑忠雄が1786年に著した訳書『萬国管窺』のなかにあり、「阿蘭陀の常に服するコッヒィというものは、形豆の如くなれども、実は木の実なり」と書かれているそうです。その後、コーヒーには薬効があるなどと記した書物も出ましたが、江戸時代は日本人の嗜好品として広まることはありませんでした。
1823年に来日したオランダ商館医シーボルトは、のちに長寿をもたらす良薬であるとして日本人にコーヒー勧める一文を書いています。彼は、長きに渡ってオランダ人と交流がありながら、まだ日本にコーヒーを飲む習慣がないことに驚いていたそうです。そういえば、長崎市鳴滝にある「シーボルト記念館」の常設展示品のなかにはシーボルトが愛用したというコーヒカップがありました。シーボルトはコーヒー好きだったのかもしれませんね。
◎参考/大田南畝(浜田義一郎/吉川弘文館)、江戸時代館(小学館)
UCCホームページ「コーヒーの歴史」