第417号【狂歌師大田南畝と長崎】

 『長崎の山からいづる月はよか こんげん月はえっとなかばい』。江戸後期の狂歌師、蜀山人(しょくさんじん)こと大田南畝(1749-1823)が作ったと伝えられている狂歌です。長崎の方言をたくみに操ったこの歌、現代語訳だと「長崎の山から出る月は本当に美しい。このような月にはなかなかお目にかかれないものだ」といった感じでしょうか。冒頭の「長崎の山」が「彦山の上」に変わったものがあるなど変形したタイプの歌もいくつかあり、いまも長崎市民に親しまれています。





 

 幕臣として働く一方で、狂歌や漢詩文、洒落本などで才能を発揮し、お江戸の粋な文化人として知られる大田南畝。本名は覃(ふかし)。通称は直次郎。大田南畝というのは号で、別号の四方赤良、四方山人、蜀山人などでも全国的に名を馳せた人物です。

 

 生まれは江戸の牛込。父は幕臣で、将軍の乗り物の周囲を警護したりする御徒(おかち)という役目だったそうです。南畝は子供の頃から知識欲が旺盛で、たいへんな記憶力の持ち主であったとか。文人としては10代半ば過ぎから頭角あらわし、19才のときの狂詩集「寝惚先生文集」が評判に。江戸文壇の中心人物のひとりになっていきました。

 

 しかし、幕臣であった南畝が多いにその文才を発揮したのは田沼時代(17671786)まで。松平定信が寛政の改革を行う頃になると文壇とは縁を切り、幕臣として再起をはかるために猛勉強します。そして、40代半ばで人材登用試験を受け首席合格。ちなみに、この試験をあの遠山の金さんの父、遠山金四郎景晋も受けていました。彼も優秀で目見得(将軍に直接お目通りが許される身分。旗本)以上での首席合格者だったそうです。(南畝は目見得以下の身分の中での首席)。

 

 試験合格後、勘定所の役人として出世した南畝。数年後の文化元年(1804)、56才のとき長崎へ支配勘定として赴任を命じられます。当時、長崎は輸出入に関連して何かと懐が暖まる機会が多く、誰もが赴任したがったとか。それなのに南畝は、自分はけしてそんな小器用なマネはしない、といった心構えを歌に詠むほどバカ正直な面がありました。滑稽で、気の利いた言葉を使った狂歌などからは、のんきな人、風変わりな人と思われがちですが、実は常識人で、身分を超えて交流を持てる円満な人柄であったとも伝えられています。



 

 長崎滞在は9月から翌年の10月までの約1年間。勤務先となる長崎奉行所立山役所そばにある岩原屋敷に宿泊しました。主な仕事は長崎会所の監察です。オランダ屋敷、唐人屋敷、倉庫などの巡視、積み荷の検査立ち会いなど、仕事内容は激務だったとか。南畝は勤勉な役人として職務にあたったようです。折しも南畝が長崎に来た頃にロシア使節も来航。長崎奉行らとともにレザーノフにも会っています。余談ですが、このとき遠山金四郎景晋も応接係目付として長崎に送り込まれています(景晋はのちに長崎奉行として再来訪)。



 

 長崎で多くの珍しい人やモノと出会った南畝。狂歌師としての名声はむろん長崎にも届いていて、地元の文化人らとも交流を深めたようです。当時、親しく交流のあった中村李囿が建てたと伝えられる南畝の漢詩を刻んだ石碑が、現在も烽火山山頂付近と鳴滝(李囿の意志を継いだ有志が建立か?)に残されています。





 

 南畝が江戸へ帰るとき、長崎土産として買い求めたのは主に中国の書物で、身内には反物類を選んだとか。『故郷へ飾る錦は一とせをヘルヘトワンの羽織一枚』。この歌は、帰路に着くときを詠んだもの。ヘルヘトワンとは当時の舶来織物の一種。南畝は異国が香る羽織にどんな思いを託したのでしょう。それから8年後、60代半ばになった南畝は中村李囿宛ての手紙に、「よい時分に在勤いたし」と長崎での日々について記したそうです。

 

本年もご愛読いただき、誠にありがとうございます。どうぞ、良い年をお迎えください。

 

◎参考にした本/大田南畝(浜田義一郎/吉川弘文館)、長崎の文学(長崎県高校国語部会編)、江戸時代館(小学館)

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