第365号【幕末に活躍した人物のお墓めぐり】
10月初旬の新聞に、NHK大河ドラマ「龍馬伝」の収録が全て終わったという記事が出ていました。ドラマはいよいよ佳境に入り、それと同調するように長崎の龍馬ゆかりのスポットもさらに熱を帯びて、多くの人々で賑わっています。
龍馬が活躍した幕末は、いわずと知れた激動の時代。当時、「新しい知」の発信地であった長崎の街には龍馬をはじめ、さまざまな分野の人々が往来し、それぞれの思いを実現すべく日々を過ごしていました。今回は、龍馬と志を共にした者、芸術家、通訳などのお墓をめぐり、当時の彼らの活躍に思いを馳せます。
長崎駅の近くにある本蓮寺(ほんれんじ)。ここは、勝海舟が長崎海軍伝習所の伝習生頭役として航海術を学んでいた頃に住んでいたお寺として知られています。実は海舟や龍馬とつながりのある人物が、このお寺の墓地に眠っていることは、まだそれほど知られていません。それは、龍馬とともに土佐藩を脱藩し、海舟の門下生として学んだ沢村惣之丞です。
日本初の貿易商社、亀山社中(のちの海援隊)のメンバーとして活躍した惣之丞。当時、亀山社中の元気な若者たちは長崎の人々から「亀山ん(の)白袴」と呼ばれていましたが、惣之丞もそのひとりとして、血気盛んに過ごしていたに違いありません。そんな惣之丞が亡くなったのは、龍馬暗殺から2ヶ月後のことでした。慶応4年(1868)1月14日夜、海援隊が長崎奉行所を占領していたとき、惣之丞は誤って薩摩藩士を射殺。その責任をとって自決したのです。辞世の歌は『生きて世に残るとしても生きて世に有らん限りの齢なるらめ』。
惣之丞のお墓は、長崎市街地や港を一望する高台にありました。墓石の正面に刻まれているのは「村木氏他 土佐住民諸氏之墓」。実は長い間、惣之丞のお墓は確認できずにいたそうで、それが判明したのは平成2年のこと。墓石の側面にある「関雄之助延世」という名が惣之丞のことだそうです。
さて、惣之丞のお墓のすぐそばには、三浦梧門(1808-1860:みうらごもん)という画家のお墓があります。梧門は、鉄翁、木下逸雲と並ぶ長崎三大南画家のひとり。おだやかな人柄でお酒が大好きな先生だったそうです。
長崎ではどこでも見られる長くて、狭くて、とっても急な墓地内の階段をさらに下ると、代々オランダ通詞を務めたの森山家のお墓がありました。森山家は、幕末、プチャーチン来航やペリー来航の際、通訳として活躍した森山多吉郎(1820-1871)の実家です。実は多吉郎自身は明治4年に東京で亡くなっていて、巣鴨の本妙寺にお墓があります。余談ですが、本妙寺には長崎奉行も務めた遠山金四郎のお父さん、遠山左衛門尉景元のお墓もあります。
さて、ラストは本蓮寺から東へ車で10分。風頭山の山頂へ。ここには長崎港沖を見つめる龍馬像が建っています。その像のすぐそばには上野彦馬のお墓があります。彦馬は、日本の写真技術の始祖で、報道カメラマンの草分けともいわれる人物で、龍馬をはじめ当時の多くの著名人を撮影しています。風頭山では、龍馬の像を仰いだあと彦馬のお墓を参る人も少なくありません。この日、カメラマンをめざしているという若者が、墓前で手を合わせている姿に出会いました。