第368号【浦上の信徒弾圧と外交問題と龍馬の策略】

 赤いポインセチアや美しく飾られたツリーを街のあちらこちらで見かけるようになりました。クリスマスの雰囲気って不思議なもので、ふと家族や友達の顔を思い浮かべて、あたたかい気持ちになったりします。クリスマス自体は、キリストの生誕にちなむものですが、いまでは宗教を問わず、多くの人がこの時期をホットに楽しむシーズンイベントとしてすっかり定着しています。




 一方で世界には、紛争で人権が侵害されたり、宗教の違いからくる争いごとが絶えない地域もあって、クリスマスどころではない人々もたくさんいます。平和な国に暮らす私たち日本人にとって普段、基本的な人権が尊重されていることや、宗教の自由が約束されていることを意識することはなく、それが当たり前のこととして存在します。しかし、最初からそうした社会だったわけではありません。


 ときは、幕末。キリシタン禁制の世にあって、1867年(慶応3)長崎・浦上では、「浦上4番崩れ」というキリシタンの迫害が起こりました。迫害を受けたのは、約250年に渡って密かにキリスト教の信仰を続けてきた浦上の農民たちです。その2年前、大浦の居留地に住む外国人のために建立されたカトリックの教会に、浦上の信徒が先祖代々、信仰を続けていたことをフランス人神父に告げた、「信徒発見」という出来事がありました。その話はヨーロッパに感動を持って報じられましたが、幕府は禁教政策をとりやめることはなく、信徒の取り締まりは続いていたのです。




 そうした幕府の態度は、諸外国からの批判の対象となっていました。幕末、長崎に断続的に訪れていた坂本龍馬は、こうした状況を知っていたようです。その頃、進めていた大政奉還の運動がうまくいかなければ、キリスト教迫害の状況を使って、倒幕に結びつける、といった話をしたことが、同じ土佐藩の佐々木高行という人物の日記に残っているそうです。




 しかし、間もなく龍馬は暗殺され、江戸幕府も倒れて、明治政府が誕生。キリシタン禁制は新政府にも引き継がれることになります。その後、明治政府は、浦上一村総流罪を決定。浦上村の全農民ともいわれる約3400人が各地に流配されました。流配先での信徒たちの扱いは、藩によって違いはあったものの、多くは改宗を迫られ、さまざまな拷問を受けたと伝えられています。



 1871年(明治4)、岩倉具視をはじめとする明治政府の要人たちがメンバーとなった外交使節団は、アメリカに向かい幕末に結んだ通商条約の改正を求める交渉を行いましたが失敗に終わります。敗因は、「浦上四番崩れ」で政府が国民の信仰を迫害したことにあり、アメリカはそういう国を近代国家として認めないというものでした。同使節団は、ヨーロッパに渡っても各国から信仰弾圧を止めるよう求められます。そして、ついに、1873年(明治6)、明治政府はキリシタン禁制を廃止したのです。




 あとから振り返れば、「浦上4番崩れ」は、時代が変わろうとする勢いの中で、起こるべくして起きた事件だったのかもしれません。現在の信仰の自由、ひいては人権を尊重する社会を築く大きなきっかけのひとつとして、浦上の信徒たちの多大な犠牲があったことを忘れてはいけないと思うのでした。



◎参考にした本/浦上キリシタン流配事件(家近良樹)

検索