第357号【江戸時代・時を告げる鐘】

 「今年も半分過ぎようとしているなあ…」そんなことを思いながら今月のカレンダーを眺めていると、「時の記念日」の文字に目が止まりました。時間を大切にし、生活の改善をはかりましょう、ということで1920年(大正9年)に制定されたこの記念日。日本で初めて時計が使われたという671年4月25日を、太陽暦に直すと6月10日だったことから、この日になったとか。当時の時計は、漏刻(ろうこく)と呼ばれる水時計だったそうです。


 1日24時間。現代人は、時計やケータイに表示される時刻を目安に日々を過ごしています。では、一般の家庭に時計がなかった江戸時代の人々は、どうやって時間を知ったのでしょうか。日の出とともに起き、日没とともに寝るという自然のサイクルに合わせた暮らしをしていたという当時の人々。時間のとらえ方も、現代人のそれとは違うはずです。


 江戸時代の一日は、十二刻に分けられていました。これは、日の出から日没までを「昼」、日没から日の出までを「夜」として、「昼」と「夜」をそれぞれ六等分したものです。一刻は2時間くらいのようですが、現在の時刻のように1分1秒と正確に刻まれたものではありません。太陽が出ている時間が長い夏と、短い冬では一刻の長さはかなり違っていたそうです。当時の人々は、季節に応じた変化をおおらかに受け止めていたのですね。


 一方で、市中には「報時所」というものがありました。「報時所」は「時の鐘」、「時鐘(じしょう)」とも呼ばれ、決まった刻に鐘を撞いて人々に時刻を知らせます。現在の長崎市役所(桜町)のそばには、「報時所跡」があります。そこは江戸時代、町年寄などの屋敷があった長崎の中心部の一角。案内板に付いた写真から、「報時所」は高さのある細長い木造やぐらだったことがわかりました。その説明書きによると、「報時所」は長崎奉行所の管轄。はじめは、長崎開港のとき最初に建てられた6町のうちのひとつの島原町(現・万才町)に1665年に設けられ、のちに今籠町(現・鍛冶屋町)、さらには豊後町(長崎市役所そば)に移転したとあります。






 朝と夕方、長崎の市中に鐘の音を響かせたのは、撞役(つきやく)と呼ばれるお役人でした。島原町に設けられた年に、松尾伊右衛門という人がその役を任じられて以来、代々同家がこの役を受け継いだそうです。ところで、「時の鐘」は当然ながら、長崎だけでなくその他の地域にもあった施設です。鐘を鳴らす時刻を計ったのは、「常香盤(じょうこうばん)」という線香の燃えるスピードで計る方法のほか、当時、すでに輸入されていた機械時計を使ったともいわれています。


 江戸時代の長崎には、西洋の文物を受け入れた土地柄から、優れた時計職人がいたと伝えられています。当時の長崎土産を記した「長崎夜話草(第5巻)」には、眼鏡細工やビードロなどと並んで、「士圭細工(ごけいざいく)」と記されています。「士圭」とは「時計」のこと。こうした文献からも時計職人たちの活躍が垣間見えるようです。長崎の撞役が時刻を計った方法は定かではありませんが、きっと機械時計ではなかったかと想像も膨らみます。


 江戸時代の時計に関してさらに知りたい方は、出島へお出かけください。当時つくられた和時計のレプリカなどが展示されています。出島内で時を知らせた「時鐘」も復元されています。また長崎市内には、明治36年から昭和16年まで、正午の合図として空砲を撃っていた午砲台が、長崎港を一望する東山手の高台に残されています。そこは、空砲の音から、いまも「ドンの山」と呼ばれています。 








◎参考にした本/日本大歳時記(講談社)、長崎叢書・上(長崎市役所編)、江戸の庶民の朝から晩まで(河出書房新社)

検索