第329号【400年前、もうひとつの教会群】

 新緑がまぶしい季節、いかがお過ごしですか。長崎では陽射しも風もすっかり初夏の装い。不況のことはさておき、爽やかなこの季節を楽しみたいものですね。


 ゴールデンウィークには、長崎観光に訪れる方も多いことでしょう。ここ数年、特に増えてる気がするのが長崎の教会めぐりを楽しむ人々です。いま長崎県では、「長崎の教会群とキリスト教関連遺産」の「世界遺産」の登録をめざしていることもあり、多くの人々に注目されているようです。この遺産を構成する五島列島周辺や長崎市内などに点在する明治初期から昭和初期にかけて建造された教会群などは、たいへん見応えがあります。ぜひ、お出かけください。


 ところで「世界遺産」をめざす現存する教会群とは別に、長崎には約400年前にわずかな期間で取り壊されてしまったもうひとつの教会群があったことは、あまり知られていないようです。その場所は中心市街地の一角で、長崎県庁(長崎市江戸町)から長崎市役所(長崎市桜町)を結ぶ高台を中心とした一帯です。




 このあたりはその昔、長崎港に突き出た緑豊かな岬でした。1570年(元亀1)南蛮貿易港として長崎が開港したとき、この岬に新しく6つの町が造られ、町は発展していきます。つまり、この一帯は長崎が歴史の表舞台に登場することとなった最初の重要なエリアなのです。ちなみにそれ以前の長崎の中心地は、この岬から北東に2キロメートルほど離れたところ(いまの桜馬場、夫婦川町)にあり、人口1500人ほどで、素朴な城下町を形成していたそうです。




 長崎開港の翌年、岬の突端には「岬の教会」とも称されたサン・パウロ教会が建立されました。この教会はのちに、当時の長崎で一番大きい「被昇天の聖母教会」に建て直され、イエズス会本部も置かれました。ここにはコレジオ(教育機関)もあり、ラテン語、水彩画、油絵、銅版画、声楽、オルガンなどを教えていたそうです。そうして長崎の町は日本におけるキリスト教の本拠地としても発展していったのです。




  岬に新しく生まれた6つの町は、1580年(天正8)にキリシタン大名大村純忠によってイエズス会に寄進され、1588年に豊臣秀吉が長崎を公領とするまでの間、

教会の領地でした。それは10年に満たない期間でしたが、全国からキリシタンが集まり、宣教師をはじめとするポルトガル人も市中に住み、毎日、定刻に教会の鐘が鳴り響き、街角ではパンを焼く匂いが漂い、ときにはキリスト教の祭礼らしき行列が行われるなど、「日本における小ローマ」の様子を呈していたと伝えられています。


  しかし、この岬の町が自由で平穏な空気に満ちていたのはほんのわずかで、しだいにキリスト教弾圧の時代へ突入。1597年(慶長1)には西坂の丘で26聖人が殉

教します。そのような中でも、この岬の一帯には、新しい教会や教会の福祉施設などが建てられ(サン・アウグスチノ教会、サン・ティアゴ病院附属教会、サン・フランシスコ教会などその数は10いくつともいわれる)、人口も江戸時代初めには5万人にふくれあがっていたそうです。








 弾圧はさらに強まり、それらの教会は、1614年(慶長19)のキリシタン禁教令によってほとんど破壊されました。そんな姿なき教会群の歴史をひもときながら、この界隈を歩くと当時の教会跡の碑があちらこちらに点在していることに気付きます。しかし、小ローマの雰囲気はどこにも残っておらず、本や美術館で見る「南蛮屏風」から当時を想像するしかなかったのでした。


◎ 参考にした本/近世長崎のあけぼの(長崎県立美術博物館/昭和62発行)、長崎県の歴史(外山幹夫/河出書房新社)


検索