第325号【幕末の志士らの足跡をたどる~勝海舟編~】

 ご近所の庭では、早春を告げるミモザが満開。これから三寒四温を経て、本格的な春へと向かいますが、暖かい日が続くと、つい厚手のコートやセーターを1枚2枚とタンスの奥に仕舞い込んだり、クリーニングに出すなどして、あとで後悔することも。季節の変わり目です。体調と衣服の管理にはどうぞ、お気をつけください。




 さて、実はいま長崎では、NHK大河ドラマ「龍馬伝」の2010年の放映が決まり、その舞台のひとつになるとあって、幕末ゆかりの人物や場所などがにわかに注目を浴びています。また、幕末といえば、坂本龍馬や勝海舟をはじめ吉田松陰、福沢諭吉、榎本武揚、伊藤博文、高杉晋作、大隈重信など、多くの著名人が遊学の志に燃え、長崎を訪れた時代です。あれから130年ほどが経ち、新たな時代の転換期を迎えようとしている現代にあって、彼らの志や思いに触れることは、何か意味があるのかもしれません。




 江戸から明治へ、大きく時代を動かした男たちの中のひとり、勝海舟(1823~1899)。幕府側代表として西郷隆盛と話し合い、江戸城の明渡しの任を果たしたエピソードはあまりにも有名です。


 勝海舟が幕府の命を受け、長崎にやって来たのは33才のとき。ペリー来航から2年後の安政2年(1855)のことで、長崎奉行所西役所に設けられた海軍伝習所の伝習生頭役として4年間学びました。当時、海舟の宿泊先となったのが、現在、長崎駅前の筑後通りの一角にある本蓮寺(ほんれんじ)です。海舟は、この寺の境内にあった大乗院に寝泊まりしたそうです。




 海舟は、長崎でお久さん(本名:梶クマ)という女性と恋に落ち、一男一女をもうけています。本蓮寺のすぐ隣にある聖無動寺(しょうむどうじ)の梶家墓地内には、お久さんのお墓があります。聖無動寺の方によると、いまもときおり、勝海舟の足跡をたどって、お久さんのお墓をたずねてくる方がいらっしゃるとか。お久さんが静かに眠るその墓地は、長崎の街や港を見渡す高台にあります。お墓に手を合わせ、そこからの景色を眺めていると、海舟とお久さんの恋が確かにこの街で育まれたことを強く感じるのでした。



 

 ところで、聖無動寺は、出島のオランダ人とは非常に関わりのあるお寺で、オランダ船の航海安全の祈祷をしたり、江戸参府の際には、一行のために海陸の安全を祈願した守り札を贈るなどしていました。また、出島の火災時には、オランダ人の避難場所でもありました。のちに原爆で大きな被害を受けており、当時の面影は参道の階段、そして安全祈願の石灯篭などに残されているようです。




 海舟は、万延1年(1860)に、咸臨丸艦長としてアメリカに渡りました。そして、万治1年(1864)には、四国(イギリス、アメリカ、フランス、オランダ)連合艦隊による砲撃を阻止するために、各国公使との談判の命を帯びて、再び長崎を訪れています。このとき、海舟に同行した門下生の中に坂本龍馬がいたのです。このときの宿泊先は海舟の日記によると福済寺。聖無動寺のお隣の寺です。どうやら筑後通り界隈は、海舟にとてもご縁のある通りのようです。




◎取材協力/聖無動寺(長崎市筑後町)

検索