第324号【幕末の志士らの足跡をたどる~龍馬編~】
日中の気温が15度(3月中旬並)を超える日もあるなど、にわかに春めいてきた長崎。日本気象協会の予想によると今年は全国的に暖かな春で、桜の開花も早まるのだとか。長崎の市街地に近い桜の名所の山々を眺めると、樹皮の下で開花の準備が着々と進んでいるのか、桜の幹や枝がほのかに赤く染まって見えます。
そんな長崎の桜の名所のひとつに風頭山(かざがしらやま)があります。長崎の街や港を見下ろすその山には、坂本龍馬(1835~1867)の像があることでも知られています。日本の洋々たる未来へ思いを馳せるかのように外洋を見つめるその姿は、等身大の龍馬を彷佛させ、幕末の風雲児の底知れぬ魅力も伝わってくるようです。今回は、この像を出発点にして、龍馬の長崎での足跡をたどってみたいと思います。
龍馬が初めて長崎にやって来たのは、天保6年(1864)のこと。勝海舟(当時、幕府軍艦奉行並)の長崎出張の同行で、1カ月ちょっと滞在したと伝えられています。このときは長崎奉行所、長崎製鉄所、大浦の居留地にあった外国領事館などを訪ねたそうです。龍馬にとって初めての長崎は、相当なインパクトを与えたはず。このとき、近代日本の未来像を明確に頭の中に描いたのかもしれません。その後、はからずも晩年となった約4年の間に、龍馬は断続的に長崎を訪れ、特異な足跡を残すことになるのです。
風頭山を少し下ると伊良林(いらばやし)という地区に出ます。ここには、土佐藩を脱藩した龍馬とその同志らが設立した日本初の商社「亀山社中」(のちの海援隊)の跡があります。ここで海運・貿易を行いながら、倒幕運動にも参画。龍馬は維新の原動力としての大役を果たし、近代日本のはじまりに貢献していくのでした。
「亀山社中」跡から寺町通りへ下る階段は、社中のメンバーが往来したということで、「龍馬通り」と称され、親しまれています。その傾斜も急な長い坂段の途中には、「龍馬の片腕」といわれた近藤長次郎をはじめ陸奥宗光、沢村惣之丞、長岡譲吉、中島信之など亀山社中、海援隊で行動を共にした男たちに関する説明版が掲げられてます。幕末当時、同じ坂段を彼らはどんな思いで登り降りしたのでしょう。
「龍馬通り」のある寺町の近所には、幕末当時、龍馬をはじめ長崎を訪れた著名人らを撮影した上野彦馬(日本初の商業写真家)の撮影局跡もあります。場所は、中島川上流の阿弥陀橋にほど近いところ。ということは、この中島川界隈も龍馬をはじめ長崎を訪れた幕末の志士たちが闊歩したエリアであると想像できます。
長崎駅からほど近い五島町は、江戸時代、各藩の蔵屋敷が軒を連ねたエリアです。そのエリアにほど近いところに土佐藩士で藩政に関与していた後藤象二郎の仮住まいの跡があります。後藤象二郎は、慶応3年(1867)龍馬と長崎で会談。意見が一致し海援隊が組織され、土佐藩を倒幕派へと導きました。
長崎を歩けば、近代日本の夜明けに奔走した男たちの姿があちらこちらに見えかくれするから面白い。次回は、勝海舟を中心とした史跡をご紹介します。