第328号【♪さくら、さくら♪】
桜前線は東北あたりを北上中。今年は桜の開花が全国的に早まったとはいえ、さすがに青森以北の開花はまだちょっと先。中部、関東、東北の一部では見頃を楽しんでいる地域も多いことでしょう。日本の西端に位置する長崎の桜は、平年より4日早い3月21日に開花、3月の終わり頃に満開の時期を迎えました。開花後は、気温の低い日が続いたため花もちが良く、長崎市街地にほど近い立山公園、風頭公園といった花見の名所では、今日、明日あたりまで桜祭りが行われているようです。
満開の桜の下で、ごちそうを詰めた重箱を広げ、お酒にほろ酔い、春のひとときを楽しむ。「花見」は多くの日本人が毎年楽しみにしている行事ですね。もともと日本人には、暖かな春を迎えると、野や山、海辺に出て終日遊ぶ、いわゆる野遊びの習わしが古くからあり、いまの「花見」は現代まで残った野遊びのひとつなのだそうです。長い年月の中で日本人のDNAに刻まれた風習ならば、毎年、桜の開花日を今か、今かと待ちわびる理由に納得がいくような気がします。
「花見」と称して庶民の間で広く行われるようになったのは、江戸時代とも言われています。長崎の郷土史家によると、江戸時代の長崎には清水寺、興福寺、日見など各所に花見処があったとか。そもそも長崎のお花見は、お江戸で行われていたその習わしが伝えられたのであろうということでした。
江戸時代の長崎の名所をはじめ風俗や行事、外国人を挿し絵風に描いたものをまとめた「長崎古今集覧名勝図絵」という本があります。描いたのは、江戸末期の唐絵目利きで、長崎派洋風画家の石崎融思(1767~1846)です。その本の中にも花見の様子を描いたものがありました。「日見櫻」と題した絵で、中国人と地役人らしき日本人が、当時の長崎の桜の名所ひとつ、「日見櫻」(日見峠を越えた先にあったという)の下で酒を酌み交わしている光景です。
この本の注解を著した越中哲也先生の記述によると、融思がこの絵を描いた頃には、すでに日見櫻は何らかの理由でなくなっていたそうで、中国人と日本人を一緒に描いた「日見櫻」の絵は融思の創作であろうとのこと。しかし、こうした光景が、全くありえなかったともいえないと思わせる話を別途、越中先生からうかがいました。
当時、長崎にいた中国人は「唐人屋敷」、オランダ商館の外国人は「出島」での居住が定められ、許可なく市中へ出ることは禁止されていました。しかし、「いつも同じところに居ては息が詰まるでしょう。ですから、中国人もオランダ商館の外国人も、航海安全などの祈願を目的とした社寺へのお参りなどを口実に、ときどき外出していたようです」とのこと。実際、当時の中国人は、日見の先にあった社寺へ航海安全祈願のために出かけていたそうです。それが桜の季節ならば、「日見櫻」を、付き添いの日本の役人らとともに愛でたことがあったかもしれません。
花を愛でる気持は世界共通。遠い江戸時代の長崎の春に、外出先でのわずかな時間とはいえ、中国人と日本人、もしくはオランダ人、ドイツ人、インドネシア人などと一緒に美しい桜を眺めたことがあったかもしれない…。実際のところはわかりませんが、いかにも長崎らしい想像であります。
◎取材協力/長崎歴史文化協会 越中哲也氏
◎ 参考にした本/日本大歳時記~春~(講談社)、「長崎古今集覧名勝図絵」(長崎文献社)