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  • 第83号【桜と歴史の城下町・大村】

     長崎空港に降り立つと、ほとんどの人が空港からリムジンバスに乗り込み、長崎や佐世保、諫早といったそれぞれの目的地へ向かいます。ですからバスに乗る人にとって空港のある街・大村市がどんな所なのか知らない人が多いのではないでしょうか。 大村市の人口は約8万7千人。波静かな大村湾に面し、背後をなだらかな山々に囲まれたのどかな土地で、江戸時代は代々大村氏を藩主に栄えた城下町でした。歴史の教科書にもある日本初のキリシタン大名・大村純忠はこの大村家の18代目の当主です。(・_・)/純忠ニツイテハ別ノ機会ニ… 大村の名所を訪ねてみました。まずは長崎県内でも屈指の桜の名所といわれる「大村公園」へ。例年ならこれから満開という時期でしたが今年は早くも散りはじめていました。でも園内は春休みとあって花見客でいっぱいです。大村公園には国指定の天然記念物「オオムラザクラ」をはじめ約2000本の桜の木があるそうです。▲約2000本の桜がある大村公園 この公園は第19代大村家当主で、初代の大村藩主になった大村喜前(よしあき)が1599年築城した玖島城(くしまじょう)跡を中心に作られていて、現在、城は残っていませんが、城を囲む石垣はほとんど往時のまま残されています。桜の花びらが舞う中を年期の入った石垣を眺めながら歩くと、今にもお侍さんが出てきそうです。玖島城は幕末までの270年間も大村氏の居城でした。公園となった今では、春から初夏にかけてサクラ、ツツジ、ハナショウブ、サツキ、アジサイなどが咲き誇る花の名所として、市民の憩いの場になっています。(^_^)/ツツジは長崎県ノ県花デス。 お城のあった大村公園から20分ほど歩いたところに旧武家屋敷街があります。閑静な雰囲気が漂うこの一帯には、石垣が続く通りや当時の家老の屋敷跡などが残され往時が偲ばれます。緑も多くのんびり散歩するのにちょうどいい街並です。その武家屋敷の一角にある旧楠本正隆邸へ行ってみました。楠本正隆は幕末の大村藩士の一人で、明治維新後、東京府知事や衆議院議長を務めた人物です。▲旧楠本正隆屋敷 その正隆が明治3年に建てた屋敷は、近世武家住宅の系譜を引くものだそうで、母屋と渡り廊下で結ばれた離れ家、そして石垣や庭園も含めた屋敷全体がそのまま残されています。その佇まいは一見、簡素なのですが、柱などはたいそう良いものが使用されているそうです。建築の際『華美な装飾はしないで』という大村家の意向もあったためか、いかにも質実剛健な武家らしいしつらえが印象的でした。(○○)楠本正隆、ゴ存ジデシタカ? ところで大村の名物料理といえば「大村寿司」です。これは、ほどよい甘さの寿司飯とたっぷりのった錦糸卵が特徴の押し寿司で、今から500年ほど前の戦国時代から伝わる料理だそうです。当時は外国から輸入され、貴重品だった砂糖を使ったこの料理が途絶えなかった理由は、大村が長崎街道筋の宿のひとつだったため、長崎に入った砂糖を手に入れやすかったからだという話を聞いたことがあります。貿易港・長崎の影響はこんなところにもあったんですね。(^〇^)▲500年の歴史、大村寿司

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  • 第82号【長崎の伝統工芸・べっ甲細工の行方】

     おばあちゃんのかんざし、母のブローチやネックレス、居間に飾られた置き物。これが我が家にあるべっ甲細工です。べっ甲はちょっと高価な印象がありますが、長崎に生まれ育った私にとっては、普段の暮しの中にあるとても身近な存在です。江戸時代に唐より伝わり、以来長崎の伝統工芸品として現代に受け継がれているべっ甲細工。三百年もの伝統を誇る長崎のこの業界に、今から約10年ほど前、たいへんなことが起こりました。(・・▲美しいべっ甲細工の髪飾り(長崎市立博物館蔵) ご存じの方も多いと思いますが、べっ甲細工の原料となるタイマイの輸入が野生生物の保護と資源確保の問題からワシントン条約によって1993年以降全面的に禁止になってしまったのです。 タイマイは小型のウミガメで、主に熱帯・亜熱帯に生息しています。このタイマイの甲羅が、べっ甲細工の原料となるのですが、今、タイマイを含むウミガメの仲間は海の汚染や産卵場所となる海岸の開発による破壊、さらに甲羅や卵を目的とする捕獲などで、その数が激減。中でもタイマイは絶滅のおそれが高いといわれているそうです。( ̄□ ̄;)ナント! べっ甲細工の産地・長崎では原料は輸入でまかなっていたため非常に困った状況に追い込まれました。輸入が絶えた後は、在庫のタイマイを原料に何とか伝統工芸の灯を絶やさないよう努力が続けられています。また卵や子ガメの保護で増殖を図ろうという声もあるなど、存続のためにいろいろと試行錯誤しているようです。▲創業290年、べっ甲の老舗江崎べっ甲店さん さてここでべっ甲細工の歴史を見てみると、長崎でそれがはじまったのは元禄年間(17世紀後半)と伝えられています。唐船が運んで来た原料と細工の技術を、長崎人が習得。そして工芸品として売られるようになりました。当時、作られていたクシ、カンザシなどの髪飾りはべっ甲独特の美しいあめ色と華麗なデザインが女性の心をとらえ、高価だったにも関わらずちょっとしたブームになったといわれています。また遊廓のあった丸山あたりには、きれいどころたちが買ってくれるからでしょうか、べっ甲職人が多く住んでいたという話です。(∩_∩;)昔モ今モ女性ハアクセサリニ弱イ!? ところで私は以前、老舗のべっ甲店で作業場を見学したことがあります。職人さんが昔ながらの素朴な道具で、べっ甲を削ったりしている様子はとても新鮮でした。べっ甲細工は接着剤を使わず熱と圧力を加えて加工。そこに伝統の技能が活かされているのだそうです。▲作業場での真剣な眼差しが印象的でした。(江崎べっ甲店) もともと美しいタイマイの甲羅。それに惹かれた人間はもっと美しく魅力的なものにしようと、工夫をし、技を磨いて、甲羅に新たな生命を吹き込みました。自然の美しさと人の技の素晴らしさを伝えるべっ甲細工。今後、タイマイの保護とべっ甲細工の伝統の継続という相反する両者が、それぞれ上手くいくことを願ってやみません。(-_-)難シイ問題ダ……

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  • 第81号【めがね細工のはじまり】

     今年は全国的に桜の開花が早いですね。長崎も例年より1週間ほど早く咲きました。観光客の方もこの温かさには驚いているようで、皆、上着を脱いで観光巡りを楽しんでいるようです。(^▽^)/長崎ハ今、春ノ観光シーズン! さて今回は眼鏡細工のお話です。江戸時代の長崎を知る貴重な資料のひとつに当時書かれた「長崎夜話草」という書物があります。その中には出島貿易で賑わう長崎の代表的な土産物が全39種類紹介されています。天文道具、外科道具、南蛮菓子などいかにも日本で唯一の西洋の情報発信地らしい品々が記載されているのですが、その中のひとつに眼鏡細工という記述があり、さらに、長崎の浜田弥兵衛という人が東南アジアの国へ渡った際、眼鏡づくりを習い、帰国後、生島藤七という人物に教えて作らせたというような記述もあります。浜田弥兵衛とは朱印船の船長で、台湾やフィリピンなどへ渡り交易を行っていた人です。▲水面に映る2つのアーチが一体に見え、美しい眼鏡橋 この「長崎夜話草」の記述は江戸時代初期には、眼鏡細工が長崎で行われていたことを示すもので、日本での眼鏡づくりの始まりといわれています。また当時はビードロやギヤマンといったガラス細工の店が商品のひとつとして眼鏡を扱うのが普通だったそうで、眼鏡の種類は、鼻眼鏡、遠眼鏡、虫眼鏡、数眼鏡(玩具の一種?)、磯眼鏡(水中メガネ?)、透間眼鏡(??)、近視眼鏡等、結構いろいろあったようです。 じつは眼鏡づくりの始まりについては前述の浜田弥兵衛の話とは別に、中島川の眼鏡橋を築いた唐僧・黙子如定(もくしにょじょう)が職人を連れて来て、眼鏡を作らせたという説もあります。また、眼鏡自体の伝来は、1551年にイエズス会の宣教師、フランシスコ・ザビエルが周防(山口県)の殿さま大内義隆へ贈ったものが最初だといわれいます。耳かけがなく手で持つメガネだったそうです。(O-O)▲ひも付き眼鏡もなかなかお洒落!? いずれにしても江戸時代に長崎で眼鏡づくりが発達したのは、眼鏡の縁に使用されるべっ甲細工の技術が長崎にあったこと、また貿易の相手であるオランダがヨーロッパでも有名な眼鏡の産地だったこともあり、優れた技術が長崎に入って来たからであろうと考えられているそうです。とにかく眼鏡細工の技術が入って間もない1661年には眼鏡専門店が長崎にはあったということですから、たいしたものですよね。(◎◎)熱心ナ職人サンガイタ!? ところで時代劇などで、丸いレンズのヒモ付タイプの眼鏡をかけた人物を見かけることがありますが、当時の眼鏡は大変な貴重品で、よほど偉い人物でない限り持っていなかったそうです。またそのヒモ付眼鏡は鼻の低い日本人がかけると顔にくっつくため、眼鏡の中央部分に鼻あてを付ける工夫がされました。今では当たり前の鼻あて(パッド)ですが、まさか日本人が発明したとは、ちょっと驚きですよね。 (^<^)鼻高々ナオ話デス※参考本/「ながさきことはじめ」(発行/長崎文献社)「眼鏡の社会史」白山晰也 著(発行/ダイヤモンド社)

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  • 第80号【医学伝習所とポンペの功績】

     先週ご紹介した「長崎海軍伝習所」は、海軍だけでなく造船、重機械工業など、幕末の技術推進の中核として幅広い分野に影響を与えました。今回ご紹介する「医学伝習所」も「長崎海軍伝習所」がらみで生まれたものです。近代医学の発展に大きな功績を残したといわれる「医学伝習所」とはどんなところで、その初代医官として活躍したポンペとはどんな人だったのでしょう。▲ポンペのレリーフ(長崎大学医学部内) 幕府は長崎海軍伝習所のためにオランダ海軍に軍医の派遣を要請しました。そして1857年、軍医ポンペ・ファン・メーデルフォールトが来日します。ポンペはオランダのユトレヒト大学で医学を学んだ若干28才の若者。卒業と同時にオランダ海軍の軍医となった彼はオランダ領東インドを経て日本の海軍伝習所へ。それから5年間を長崎で過ごしています。 「医学伝習所」は海軍伝習所があった長崎奉行所内に設けられ、そこで西洋医学の講義が行われました。実はこの医学伝習所こそ長崎大学医学部の前身で、ポンペは我が国における「近代西洋医学教育の父」と呼ばれることになります。ちなみに長崎大学医学部では、ポンペが最初の講議を行った11月12日を創立記念日にしています。 ( ̄▽ ̄;) 偉大ナ人ナンダ…。▲医学伝習所跡(長崎市万才町)本木昌造宅跡が隣にありました。 ポンペ来日の翌年、コレラが流行り多数の死者が出ました。この時ポンペは大勢の患者の治療にあたる中で、民衆の為の病院設立を熱望するようになります。そして1861年、長崎港を見下ろす小島(現:長崎市西小島)の丘に日本初の近代的な病院といわれる「小島養生所」さらに翌年にはその隣に「医学所」が新設されました。ポンペは医学所でも引き続き内科・外科の講義を行ったそうです。その後、この医学所は何度かの名称変更を経て、浦上地区へ移設。現在の長崎大学医学部・付属病院へと発展していくことになります。▲小島養生所跡(現:長崎市立佐古小学校) 余談ですが、ポンペは日本初の営業写真家で知られる上野彦馬とも交流がありました。彦馬は医学伝習所の生徒としてポンペに化学を教わっていたのです。ある日、彦馬は蘭書で見た「フォトガラヒー」という言葉の意味についてポンペに質問します。その事がきっかけで彦馬は写真への道を歩みはじめたのだそうです。(°◇°)ポンペハ彦馬ノ先生ダッタ! 貧しい人は無料で診察し、身分や国籍による差別もなかったといわれるポンペ。その医療に対する真摯な姿勢を垣間見る言葉が残されています。『医師は自らの天職をよく承知していなければならぬ。ひとたびこの職務を選んだ以上、もはや医師は自分自身のものではなく病める人のものである。もしそれを好まぬなら、他の職業を選ぶがよい』。(・▽・)感動的ナ教エデスネ

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  • 第79号【造船の町のきっかけをつくった「長崎海軍伝習所」】

     ほんの数十年前、長崎は造船の町として大いに栄えた時期がありました。現在、昔のような勢いはないものの、造船業が長崎の大切な産業のひとつであることに変わりはありません。観光で訪れた人々はグラバー園から見渡す港の景色の一角に造船所の大きなドッグを見て、ここが造船の町だということを再認識する方も多いのではないでしょうか。(・〇・)大キナ造船所ダナア▲グラバー園から臨む長崎港 ところで長崎が造船の町となったきっかけは何だったのでしょう。その理由をたどっていくと「長崎海軍伝習所」という幕末に生まれた組織の存在がありました。「長崎海軍伝習所」は、幕府が洋式海軍の創立や軍艦の購入、そして人材を養成するために1855年(安政2)に設立したものです。これはアメリカのペリーが浦賀に来航した2年後のことでした。 ペリー来航で黒船の威力にあわてた幕府は新たな防衛策のため、オランダ商館長に軍艦についての相談をもちかけ、いきなり7~8隻の軍艦を注文したといいます。しかし、すぐには無理だということで、蒸気艦「スンビン号」(のちの観光丸)を一隻幕府へ寄贈、しかもオランダ海軍から、教官約20名も一緒に派遣してくれたのでした。(¨)長イ付キ合イダモンネ。 こうして「長崎海軍伝習所」は長崎奉行所内(場所は現在の長崎県庁)に教室が設けられました。伝習生たちは幕臣を中心に、長崎の地役人をはじめ佐賀、福岡、鹿児島の各藩から送り込まれ、総勢100人を超えたそうです。そしてこの中には艦長要員として幕府から派遣されていた勝麟太郎(かつりんたろう/のちの勝海舟)もいたのでした。(^^)勝サン32歳頃デス▲長崎県庁。ここに海軍伝習所はあった。 伝習所の授業は日曜日を除き毎朝8時~12時、午後は1時~4時迄びっしり。内容は航海・機関・砲術・数学などで、先生はオランダ人ですから、通訳を介して行われました。生徒らでオランダ語ができるのはわずか。しかも講義中の筆記は許されなかったので、相当な集中力を持って挑まなければならなかったようです。余談ですが、勝はオランダ語がよく出来たので、通訳代わりを努めることもあったそうです。周囲からは「カツリン(勝麟)さん」と呼ばれ親しまれていたとか。 さて、開所から2年後(安政4年)、オランダに発注していた軍艦ヤパン号(のちの咸臨丸)が新たな教官たちを乗せてやって来ます。さらに、軍艦の修理を行うため、造船所「長崎熔鉄所」(のちの長崎製鉄所)の建設も長崎港で始まり、伝習所は順調に基盤を固めつつありました。しかし安政6年(1859)、幕府の方針変更があり、伝習所は突如、閉鎖されてしまいます。( ̄□ ̄;)ガーン!▲飽の浦町にある長崎製鉄所跡の碑 とてもあっけない長崎海軍伝習所の幕切れでしたが、その2年前から建設中だった長崎熔鉄所の建設は継続され、文久元年(1861)に落成しました。後に民間に払い下げられますが、この造船所こそが日本の重工業の起源で、造船の町・長崎のスタートだったのです。長崎海軍伝習所はわずか数年で閉鎖されましたが、地元にとても大きな産業を残したのでした。

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  • 第78号【忠臣蔵・長崎版 「長崎喧嘩騒動」】

     ランタンフェスティバルも終え、春も間近。暖かな日差しが待ち遠しいですね。さて今回は『忠臣蔵』で有名な赤穂浪士の討ち入りにも影響を与えたといわれる、長崎でのあだ討ち話をご紹介します。「長崎喧嘩騒動」、「深掘騒動」などといわれるこの事件が起きたのは、1700年12月。浅野内匠頭が松の廊下で吉良上野介に刃傷に及ぶわずか3ヶ月前のことです。忠臣蔵とは異なり町人と武家の間で起きた「長崎喧嘩騒動」は、士農工商の厳しい時代にありながら、長崎の町人らがいかに力を持っていたかを伺わせる話です。( ̄^ ̄)エッヘン 「長崎喧嘩騒動」の詳細はこうです。大雪だったその日、諏訪神社で用事を済ませて帰路についた熟年の藩士2名の姿がありました。滑りやすい雪解けの道に1人は69才の高齢だったこともあり竹の杖をついています。2人は長崎近郊に領土を構える深掘氏の家臣。深掘氏は当時は佐賀藩に属しその家老を務める由緒正しい武家で、長崎の五島町(長崎港近く)にも屋敷を構えていました。この藩士らはその屋敷へもどる途中だったのです。 2人が五島町の屋敷に近い「天満坂」と呼ばれる石段(現:興善町)を下った時でした。杖をついていた藩士がつまずいて倒れ、その時はねあがた泥が、たまたま通りかかった長崎の町年寄り・高木彦右衛門貞親(たかぎひこえもんさだちか)の使用人にかかってしまいました。(><)アチャー▲長崎喧嘩騒動の発端となった石段「天満坂」(興善町) 高木彦右衛門貞親とは唐蘭貿易において幕府直轄の役人を命ぜられ、「権勢並ぶものなし」とまで言われた有力町人。泥をはねられた使用人風情の男は、主人の威光を笠に藩士らに文句をつけ出します。藩士らは丁寧に頭を下げ、その場は収めたのですが、なんとその日の夕方、泥をかけられた者をはじめとする高木家の使用人ら約20名が五島町の深掘屋敷に押しかけ、乱暴・狼藉の上、石段で出会った2人の藩士の刀を奪い去ったのでした。(゛)エエッ、町人ガ武士ニ!!▲近づいて見ると確かにつまづきそうですね。 刀は武士の魂。大きな恥辱を受けた2人は、話を聞き集まった深掘の仲間ら19名と共に翌早朝、高木邸に討ち入りします。討ち入りはご法度、死を覚悟してのことでした。高木家の多くの使用人の中には腕自慢の強者もいたと思いますが、2人は見事に本懐を遂げ、その誇りを胸にそれぞれ別の場所で切腹して果てたそうです。 事件はすぐに通報され、長崎奉行所は幕府にも伺いをたてました。結局、両者とも死罪、追放、島流しなどの重い処分を受けます。しかし、高木氏を優遇していた幕府は事件後はなぜか終始、武士である深掘氏側に好意的だったそうです。また町民らは前々から高木氏の使用人らの横柄な態度に反感を持っていたので同情する者はいなかったそうです。▲石段を登ると裁判所があって何だか因縁めいている? 赤穂浪士らが討ち入りの参考にしたとも言われている「長崎喧嘩騒動」。あなたはどう思われましたか? ( ̄~ ̄;)ウーン……

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  • 第77号【湯どころ、小浜(おばま)めぐり。】

     “お寒いですね、温まりたいですね“というわけで行ってまいりました、温泉へ。場所は、湯どころ・島原半島の小浜。長崎駅から車で70分と気軽に行ける小浜は雲仙岳のふもと、橘湾に面した海辺の温泉地です。海岸沿いには旅館やホテルがズラリと軒を連ね、あちこちの道端からは湯煙がモクモク出ています。ここは江戸時代から続く歴史ある温泉街。街を歩けば、ちょっとひなびた古き良き風情が漂っていて、いかにも温泉に来たぞーって感じになります。o(^-^)oワクワク▲いかにも温泉街という風情が漂う「小浜温泉」 安くて料理もおいしいと評判の国民宿舎に着くと、露天風呂へ直行。屋外ならではの開放感と、とろけるような湯触りに極楽気分。小浜温泉の泉温は80~100度と高温で泉質は食塩泉。なめるとちょっとしょっぱい。でも海水のようなベタベタ感はなく、ホントにいいお湯でした。婦人病や神経痛、リューマチに効能があるそうですよ。(※^^※)湯アガリ、ホカホカ。 ところで小浜温泉は橘湾に沈む夕日の美しさでも有名なところで、昔から多くの著名人が温泉と夕日を堪能しに訪れています。歌人・斉藤茂吉もそのひとりで『ここに来て落日(いりひ)を見るを 常とせり 海の落日も 忘れざるべし』という歌を残しています。今回は曇天だったので夕日は楽しめませんでしたが、いつか露天風呂につかりながら夕日を眺めるという絵に描いたようなシーンを経験したいなと思っています。 ( -_-)誰ト? (〃∇〃) ヒミツ☆ さていつもなら温泉に入って、食べて、飲んで、帰るところですが今回は観光名所をいくつか訪ねてみました。まずは温泉街から少し離れた小さな海辺の人里にある「金浜眼鏡橋」へ。この橋は長崎の石橋群とよく似たアーチ橋で、1846年にかけられもの。それ以前は木橋を何度もかけては流されていたそうですが、石橋になってから150年あまり、今も現役です。(“)サスガ、メガネ橋▲丈夫で長持ち「金浜眼鏡橋」 次に大正時代から昭和初期にかけて愛野~小浜間を走っていた『小浜鉄道』の跡へ行ってみました。バスとの競争に負けて廃線になったという線路跡は、今では海辺を走る絶好のドライブコースになっています。途中には「緑のトンネル」と呼ばれる、切り通された道路上に木々が覆いかぶさりトンネルのようになった所があります。150mほど続くこの通りは、新緑の季節はたいそう美しいそうですが、今はちょうど冬枯れの季節。それでもなかなか素敵なトンネルでした。▲新緑が楽しみな「緑のトンネル」 最後は『小浜町歴史資料館』へ。ここでは江戸時代から代々、小浜温泉の管理を引き継いだ「本多湯太夫(ほんだゆたゆう)」の紹介をはじめ、昔懐かしい温泉グッズなどを展示。小浜の歴史やそれを支えてきた人達の努力が良く分かり、私たちが今こうして温泉を楽しめるのも、この地を愛した人々のおかげなんだなぁと、しみじみ込み上げて来たのでした。(\∪∪/)資料館ノ方、オ世話ニナリマシタ。

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  • 第76号【長崎ランタンフェスティバル2002、好評開催中!】

     「ああ、きれかねー」。日が暮れると同時に街へ繰り出した人々がにこやかな表情でランタンを見上げながら歩いています。ランタンフェスティバルが始まって間もなかったその日は平日だったせいか、観光客や家族連れの姿よりも会社帰りの人たちが目立ちました。それでもけっこうな人出で、みな龍踊りや中国雑技などのイベントを見にメイン会場の湊公園へ向かっている様子。C= C=┌(;・_・)┘トコトコ▲興福寺から続くランタン それにしてもここ浜町から新地中華街、そして湊公園までびっしりと飾り付けられたランタンの美しさといったらありません。全部で12,000個と言われていますが、冬の寒さの中に灯るその優しい光は、気分をホットにロマンチックに盛り上げてくれます。 ☆.。.:*・°(゜. ゜* ウットリ 街中を灯しているこのランタンは、日本のちょうちんのような形をはじめ、色も形も様々なタイプが見られます。今回はその中から中国の言い伝えに由来する不思議な動物や歴史上の人物などをかたどった、ユニークなランタンオブジェをご紹介します。 まずひとつめは、中国の子供がオレンジ色の大きな鯉を抱いて座っている、高さ1m位のランタンです。これは中国の人々の間で受け継がれて来た図柄で「童子抱魚」というタイトル。新年を迎える時、豊かで良い運に恵まれますようにという意味が込められているそうです。ちなみに中国では魚は富みと良き未来を表す縁起ものとされ、何かにつけて魚の装飾が用いられるそうですよ。▲童子抱魚 三国志もありました。物語の主要人物である劉備(りゅうび)、関羽(かんう)、張飛(ちょうひ)が並んで立っています。それぞれ2m以上はあるでしょうか。いずれも個性的な顔だちとなのですが、残念ながら私にはどれが誰か見分けがつきませんでした。(・◇・)1800年も前の中国の古典です▲三国志を題材にしたオブジェ写っているのが劉備? 蛇と亀が合体したような姿のオブジェもありました。これは「玄武(げんぶ)」という伝説の神獣。未来を予知し、天界の北を守護し、水をつかさどるという言い伝えがあるそうです。それからレンゲ(中国のスプーン)やひしゃく、お椀など、磁器類だけで組み立てられた珍しいランタンもありました。これは中国独特の技だそうで、伝説の生き物、龍と鳳凰をかたどった非常に美しいものでした。▲玄武▲鳳凰 この他、麒麟(きりん)や飛馬(天馬)、竜魚(らいぎょ/頭が龍で体が鯉)など、不思議な姿のランタンが優しく輝く様子はまさにファンタジーワールド! ランタンのひとつひとつに長い中国の歴史が感じられるようでしたよ。今年の開催期間は2月24日(日)までです。ぜひ、実物をご覧下さい。▲迫力ある美しさの麒麟(きりん)▲飛馬(天馬)

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  • 第75号【オランダ通詞、免職事件簿!!】

     今回は江戸時代に起きたオランダ通詞の免職事件についてのお話です。これはオランダ通詞らが、幕府の意向を故意に誤訳してオランダ側へ伝えた疑いで免職になったという事件です。オランダ通詞といえば主に出島で通訳と翻訳の仕事をし、オランダとの貿易に関する事務・雑務を行っていた役人です。いわゆる外交の事務方的存在で、今でいう外務省のような仕事をしていたといえるのかもしれません。(□_□)エリート官僚? オランダ通詞らは上の階級から大通詞、小通詞、小通詞助、そして稽古通詞など細かく分けられた組織が形成されていました。そして、この事件で罰を受けたのは、いわゆる組織のトップクラス、大通詞ら数人を含む多くの通詞たちでした。その中には蘭学の分野で名を馳せた、前野良沢、杉田玄白、平賀源内などを門下とし、「解体新書」の序文まで寄せた大ベテラン通詞、吉雄耕牛がいました。▲通詞界の大御所吉雄耕牛(長崎市立博物館蔵) 誤訳事件の経緯はこうです。まず寛政2年(1790)11月に樟脳(しょうのう)貿易の不手際で、耕牛は他の大通詞2人と共に30日の押込(おしこめ/監禁)の刑に処せられました。そして直後の同年12月に誤訳事件が発覚します。これは日本の主な輸出品であった銅の減少を理由に、オランダ船の入港を2隻から1隻とし取引量を約半分に減らす、という幕府の方針を、正確にオランダ側へ伝えなかったという事件です。これにより耕牛ら数名は取放(とりはなち/免職)となり5年間の蟄居(ちっきょ/謹慎)を命じられたのでした。(><)キビシー ではなぜ彼等は故意に誤訳をしたのでしょう。その真相ははっきりせず、あくまでも憶測ですが、オランダ側と最前線でつきあう通詞らは相手国の事情を詳しく知る立場にありました。これまでのつきあいの流れもある中で幕府側の言い分をそのまま伝えたのでは都合の悪い事もあったのでしょう、現場での臨機応変な対応ということで誤訳したのではないかと言われています。そしてそういう事は、それまでも行われていたようです。▲吉雄耕牛宅跡の石碑は長崎県警前にあります。 今回の発覚では処罰の鉾先が周囲の通詞にも向けられ、連座してオランダ通詞幹部を含むたくさんの仲間が巻き込まれました。その背景にはこの頃に起こった外国を排除し鎖国を主張するいわゆる「攘夷論(じょういろん)」の推進が大きな影響を与えたと言われています。幕府は外国語を知り、その文化を伝える通詞は危険な存在だと思っていたようです。(--;耕牛サンハ罠ニハマッタ? しかし間もなく幕府は諸外国の使節の対応に頭を悩ます時が来て、通詞の必要性を痛感することになります。時代は外国を排除する運動に専念している場合ではなかったのです。耕牛らは5年後に罪を免じられ復職しています。もともと世襲制の職業で人材が限られた通詞職。時代の波は開かれた海へ目を向けていた人の味方だったようです。(^^ 黒船来航ヨリ60年程前ノオ話デシタ。※参考資料/◎長崎文献社 発行「長崎事典・歴史編」、「長崎町人誌・第一巻」◎長崎市 発行「出島生活」

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  • 第74号【長崎のチャイナタウン、新地】

     いよいよ来週12日から「長崎ランタンフェスティバル」が始まります。今や長崎の冬の風物詩として全国的にも知れ渡るようになったこのお祭り。昨年もコラムに取り上げたので、読者の方々はよくご存じのことと思います。実際に出かけ、楽しまれた方も多いのではないでしょうか?(^〇^)イカガデシタカ? 今回は中国由来のこの祭にちなんで「新地」の歴史についてご紹介します。ここは言わずと知れた横浜、神戸と並ぶ日本三大チャイナタウンのひとつで、「新地中華街」と呼ばれ親しまれています。この中華街は明治初期の埋め立てによって造られたものですが、それ以前の江戸時代は中国からの荷物を収納する倉庫地として使われていて、もともとは出島と同じく長崎港の一部を埋め立てて造った人工島だったのです。▲朱塗りの鮮やかな新地中華門 元禄15年(1702)に造成された人工島「新地」は、その名の通り新しくできた土地を意味します。当時の地図には扇形をした出島の近くに、明らかに人工のものと思われる長方形に突き出した土地を見ることができます。総坪数は約3500坪。唐船が運んで来た貨物を入れる土蔵が当初12棟60戸も設けられたそうです。オランダとの貿易が行われていた出島のすぐ近くで、中国との貿易も盛んに行われていたのですね。(・・ )フム、新地ハ中国版出島!? その新地が造られたきっかけは、元禄11年春に起きた長崎での大火でした。この火事は長崎港周辺にあった約22の町々を延焼し、人家2044戸、土蔵33棟を焼失するという大きな被害をもたらしました。中でも中国からの荷物を収納していた土蔵の被害はひどく、唐船約20隻分の荷物を焼きつくしたといいます。そこで火災とさらに盗難や密貿易を防ぐために、唐人屋敷にもほど近い現在の場所に新地が造成されたのでした。 以来、中国からの船が入港すると新地沖に停泊。はしけで新地へ荷物が運び込まれました。中国人らも必ず新地に上陸し、手回り品だけを持って寝泊まりする唐人屋敷へ移動したそうです。新地のそういった歴史的経緯の名残りとして現在、新地中華街のちょうど真ん中あたりに「新地蔵跡」という石碑が建てられています。(・・;)当時ノ名残リハコレダケ?…。▲新地蔵跡の石碑 鎖国が解かれた明治以降、唐人屋敷を出た中国人らは新地に居住し商売を始めるようになります。そうして今の中華街へと発展していったのです。ところで中国の船が盛んに来航し長崎の市中に中国人が増えはじめたのは、元亀元年(1570)の長崎開港以来だそうで、長崎は日本で最初に華僑社会が形成されたところといわれています。つまりその発端をたどれば400年以上も前にさかのぼり日本最古の歴史を誇るチャイナタウンともいえるわけですね。 知人に「日本で中国大陸との心情的な近さや歴史的なつながりの濃さを最も感じるのは長崎だ」という人がいました。確かに長崎を見てみると町には建造物や祭りなど、いろんな中国が当たり前の顔をしてたくさん混在しています。私などは、もしかして新地中華街はチャイナタウンのほんの一部で実は長崎全体がチャイナタウンじゃないのかなという気もしたりしています。【``】ペーロンモ龍踊リモ中国発。▲祭りの準備が進む中華街※参考資料/原田博ニ著「図説・長崎歴史散歩」、外山幹夫著「図説・長崎県の歴史」

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  • 第73号【中の茶屋まで、ぶうらぶら】

     みぞれまじりの雨にしっとり濡れた丸山界隈。「中の茶屋」へ行くために、久しぶりに歩いた「長崎ぶらぶら節」の町は、相変わらず古めかしく、庶民的で、懐かしい空気が漂っていました。江戸時代中期に築かれた庭園で市指定史跡にもなっている「中の茶屋」が広く市民に利用される施設としてオープンしたのは去年11月のこと。「長崎ぶらぶら節」の一節にも「♪遊びに行くなら♪花月か中の茶屋♪梅園裏門たたいて♪丸山ぶうらぶら♪」とあるくらい名を馳せたこの茶屋の常時公開は、ぶらぶら節ファンをたいへん喜ばせたようです。\(^^)映画、ゴ覧ニナラレマシタ?▲常時公開となった中の茶屋 中の茶屋へ行く途中、丸山の本通り脇にある狭い路地(梅園通り)に入りました。通りの先にある「梅園身代わり天満宮」では、境内に白い初梅が咲き、そこだけ早春の気配です。ここは元禄13年(1700)に建てられて以来、丸山町の氏神様として親しまれている神社です。(⌒▽⌒)風情あるイイ神社▲愛八さんも参拝していた梅園身代わり天満宮 「身代わり~」のいわれは、1693年、このお社を建てた近所の安田次右衛門という人が、暴漢に襲われて自宅に担ぎ込まれた際、あったはずの傷が無く、その代わり庭にあった天神様が血を流して倒れていた事がきっかけだそうです。その時の天神様が「身代わり天神」と呼ばれ、こうして祭られているのです。昔から心や身体の悩みまで身代わりになってくれると言われていて、丸山の芸者、あの愛八さんもよく参拝していたそうですよ。(^∧^;)私はダイエット祈願 その「梅園身代わり天満宮」からちょいと上に行ったところに「中の茶屋」はありました。門をくぐると手入れの行き届いた庭園が広がり、その中に2階建ての日本家屋が建っています。「中の茶屋」は、江戸時代に「中の筑後屋」という丸山(寄合町)の遊女屋が茶屋として設けたもの。当時、丸山を代表する花月楼と並ぶほど、文人墨客や唐人たちに好まれた場所だったそうです。分かりやすくいうなら「ワンランク上の遊廓」だったそうで、それを教えて下さったのは、火曜と金曜の週二回、中の茶屋で案内役を担当されている兼松茂さん。▲和室(中の茶屋内)は隣の音に配慮し畳一枚分の間があった 地元の自治会長もされていたという兼松さんは昭和2年生まれ。とにかく長崎のいろんな事をご存じで、1階の和室でついつい長話。江戸時代中期に築かれたという中の茶屋の庭園に植えられている「さつき」は、樹齢300年位で、5月には真っ赤な花が咲いて、たいへん美しいという話や、長崎の芸者さんや遊廓の事など、興味深いお話をたくさん教えていただきました。<(__)>兼松さんアリガトウゴザイマシタ! ところで中の茶屋の家屋の1階は、長崎市出身の漫画家で「かっぱシリーズ」で有名な清水崑さんの展示館になっています。閑静な庭園を眺めながら、素敵な人と出会い(兼松さん)、長崎の歴史に触れたり、懐かしい清水崑さんの絵を見たり…。中の茶屋はゆったり豊かなひとときを過ごせるいいところでした。(・w・)/カッパッパー、ルンパッパー黄~桜ァ

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  • 第72号【金平糖のヒミツ】

     先日、加賀百万石の基礎を築いた夫婦の物語を描いたNHKの大河ドラマ、『利家とまつ』を見ていたら、まつの宝物としてビードロ瓶に入った金平糖が出てきました。それは利家からのプレゼントで、利家が主君・信長に仕官を願い出た際にもらったもの。ドラマでは金平糖はめでたい時に蒔くものとされ、まつと利家が結婚を誓いあった時、空に向かって蒔かれるシーンがありました。☆・:*゜★,。 ・:*:・゜\(^^(‐^っ▲メルヘンチックな金平糖 織田信長が南蛮文化に傾倒していたのは有名な話です。信長は1569年に宣教師のルイス・フロイスから金平糖を献上されました。そのことはフロイスの報告書『耶蘇会士日本通信』に記されていて、これが日本で初めて金平糖の名が記されたものになるのだそうです。当時、砂糖は一般の人々には手の届かない貴重なものでしたから、砂糖の固まりである金平糖がめでたいお菓子として使われたというのは想像に難くありませんね。 金平糖はカステラ、ボーロ、有平糖(あるへいとう)、ビスケットなどと同じく16世紀にポルトガル人によって長崎に伝来した南蛮菓子のひとつです。その語源はポルトガル語のConfeito(コンフェイト/砂糖で包まれた菓子の意)から来ています。方々にツノのあるユニークな形をした珍しいこのお菓子を日本で初めて作ったのはやはり長崎で、当時の菓子職人らはその製法をあみだすのに相当苦労したようです。江戸時代の浮世絵草子の作者として知られる井原西鶴の『日本永代蔵』によると、「~外国の人もよきことは秘すとみえたり。」と金平糖の作り方をなかなか教えてくれなかったということや、やがて苦心して金平糖の作り方をあみだした長崎の町人が大儲けしたことなどが記されています。 L(@^▽^@)」 金平糖成金?▲日本永代蔵(井原西鶴作) ところで金平糖のあの形は、どうやって作られるかご存じですか? 調べてみると、江戸時代には、芯にケシの実やゴマなどを使いそれに煮詰めておいた砂糖を少しずつかけては掻き回すという作業を何度も繰り返して、ツノのある形を作っていったそうです。機械化が進んだ現代でも作り方の原形ほとんど変わらず、芯には白ザラメを用い、グラニュー糖の液を1週間ほど回しかける作業を続けて、ようやく商品として出せる大きさになるのだそうです。けっこう手間ひまのかかるものだったんですね。しかもあのツノは、火加減や砂糖のかけ方、鍋の傾斜角度などの微妙な加減で生まれるそうなのですが、なぜツノができるのかよく解明されていないそうです。意外ですよね。(;-_-;) ムム、奥深シ、金平糖! スーパーやコンビニで見る現代のお菓子の世界は、種類が豊富でひんぱんに新製品が生まれては消えています。そんな中で、今なお店頭に並べられロングセラーのひとつとして人々に親しまれている金平糖。その息の長さのヒミツはどこにあるのでしょうか。よく見れば星のような夢のある形をしていること。素材がザラメやグラニュー糖などの砂糖だけで味わいがシンプルなこと。その単純で素朴なところがますます郷愁を誘うこと、などが挙げられるのではないでしょうか。皆さんはどう思われますか? (⌒┐⌒)可愛イクテオイシイネ※参考資料/長崎文献社発行「ながさきことはじめ」、岩波書店発行「日本永代蔵」

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  • 第71号【松森神社の職人尽絵】

     先週も登場した「諏訪神社」の近くには、学問の神様として名高い菅原道真公を祭る松森神社(まつのもりじんじゃ/上西山町)があります。諏訪神社ほどメジャーではありませんが、ここは長崎を代表する神社のひとつ。大きなクスの木が繁る境内を訪れると、近くの高校に通う男子生徒の姿がちらほら。そういえば受験シーズンでしたね。 ☆\\(^^ )合格祈願▲松森神社正門 さて今回ご紹介するのは松森神社の「職人尽絵(しょくにんづくしえ)」です。江戸時代、またはそれ以前のさまざまな職人とその周辺の様子を板に彫り、絵画のように彩色を施したものです。[碁盤製造の図]、[菓子製造の図]、[鍛冶屋の図]、[瓦製造の図]、[医者・製薬人の図]など、計30枚に及ぶその板は当時の風俗を知る重要な史料として、県指定有形文化財にもなっています。 (・_・)/1枚のサイズは1.72m(横)×29cm(縦)▲職人尽絵がはめこまれた本殿 この「職人尽絵」は松森神社が1714年に社殿改修を行った際に奉納されたもの。制作は、下絵を当時の長崎奉行所の御用絵師だった小原慶山(おはらけいざん)、彫刻は御用指物師(ごようさしものし)の吉兵衛、藤右衛門という人たちだといわれています。さらにそれから百十数年を経た1832年には修繕を兼ねて彩色が施されていて、それを担当したのが当時の長崎画壇を代表する唐絵目利・石崎融思(からえめきき・いしざきゆうし)でした。江戸時代の腕利きの職人らの手によって作られた「職人尽絵」。当時からその細かな彫りと美しい彩色は有名だったようです。 こんなに貴重な代物だから、神社のどこかに大切に保存されていると思いきや、神社の本殿を囲む瑞垣(みずがき)の欄間(らんま)に、当初のままグルリとはめ込まれていました。参拝がてら誰でも気軽に見られるのはいいのですが、長年の野ざらし状態ですっかり色褪せてしまい、肉眼だとちょっと見ずらくなっていました。( ’_’)ジーーックリ見テネ 目を凝らし、1枚1枚じっくり見ていくと、これがなかなか面白いのです。たとえば[菓子製造の図]では、菓子師が作ったものを売っている様子、子供連れの女性が玩具を買っている様子、烏帽子をかぶった人が竹カゴにお菓子を入れて天秤棒で担ごうとしている様子、牛を連れた旅人らしき人が、お菓子を買おうとしている様子など、1枚の板に当時のお菓子作りにまつわるさまざまなシーンが描き出されています。こんな風にどの板も各仕事関連の複数のシーンが描かれていて、当時の社会風俗を垣間見る事ができます。(^^;)ゞ 解説文ガ付クト嬉シイ…▲菓子製造の図 神社の売店にいた方によると、以前は彩色が落ちないようにガラス板をはめていたそうですが、かえって虫食いが起きやすくなるため、はずしたそうです。しかしそうすると天日や雨風にさらされてしまう。どちらにしても痛みは避けられないということでした。特別な手入れをするにしても文化財なので下手にいじれず、費用も相当かかります。きちんと手入れをして後世に残したいのは山々だけれど…といった状態のようです。ホントに何かいい方法はないものでしょうかね。 α~ (ー.ー") ンーー・・・※参考資料/畑田信雄著「長崎の職人尽彫りもの絵」、長崎文献社発行「長崎事典」

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  • 第70号【明けまして阿蘭陀正月でございます】

     明けましておめでとうございます。<(__)> 皆さんはどんなお正月を過ごされましたか? 長崎の元旦は夜明け前から風雨で大荒れのお天気。私は朝7時頃、大きな雷の音に起こされてしまいました。この天気じゃ、初詣では無理かなと思いきや、午後には晴れ間が広がり、さっそく長崎市民の総鎮守・諏訪神社へお参りに行って来ましたよ。▲お天気のせいか着物姿が少なかった、元旦の諏訪神社 何でも日本でもっとも初詣の参拝客が多いのは東京・明治神宮で、長崎県ではこの諏訪神社が一番なんだそうです。参道の近くまで行くと、お天気の回復を待っていた人々が大勢やって来ていました。近くの電停では満員の電車からこぼれるように人が降りて来ます。参道の階段を埋め尽くす人々は、ゾロゾロ、ゆっくりお諏訪さんを目指し登っています。みんな新しい年に希望を託し、幸せや平和を願いに来ているのだ思うと、何だか胸がキュンとして思わず「神様、ひとり残らず、よろしくね」なんてお賽銭をはずんじゃったのでした。( ^^)//"" パンパン さて2002年最初のコラムは長崎の歴史もの「阿蘭陀正月」についてお届けします。ときは江戸時代、とある冬の朝。出島に続く石橋を使用人や町人らが続々と渡って行きます。日頃、出入りを許されている彼等ですが、いつになくこざっぱりとした身なりで、表情もどこかあらたまった雰囲気が漂っています。それもそのはず、この日は太陽暦の元旦で、オランダ人らの新春のお祝の日だったのです。当時、旧暦(太陰暦)で一年を送っていた日本人にとっては、自分たちのお正月はそれより少し後。でも長崎の人々らは西洋の暦を知っていて、これを「阿蘭陀正月」と呼び関係者は祝っていたのです。( -○_○)/日本ガ太陽暦ニナッタノハ明治5年ノコト▲阿蘭陀正月を楽しむ様子(作者不詳/長崎市立博物館蔵) 「慎んで貴国の新年をお祝い申し上げます」とカピタン(オランダ商館長)へ祝いの言葉を述べる日本人たち。この日、カピタンはお正月の習わしとして、お年玉を使用人へあげたりしています。そうして新年の祝賀ムードが高まる中で、今度は午後からの宴に招待された、カミシモ姿(江戸時代の武士の礼装)の奉行所の役人や阿蘭陀通詞らが次々にやって来ました。新年吉例・阿蘭陀正月の大パーティーの会場はカピタン部屋です。畳み敷きにテーブルとイスが置かれたエキゾチックな空間。テーブルの上には白いナプキンが置かれた皿、そしてフォーク、ナイフ、スプーン、パンがセッティングされています。 ('-'。)(。'-')。ワクワク 客人らが席に着いたらいよいよ宴のはじまりです。まずはワインで乾杯。テーブルにはスープ、牛や豚の油揚げ、野菜のバター煮など珍しい西洋料理が次々に運ばれて来ます。愉快なのは招待された日本人たち。この日の料理の豪華さを知っていて、こっそり料理を包んだり、中には前もって出島の橋の近くに家人を待たせておき、料理を持ち帰らせる者までいたそうです。でもそういうことがきっかけで、市中の人々に西洋料理が広まっていったのでしょうね。 さて、一通りオランダのメニューでもてなされた後は、日本料理と日本酒が出されました。丸山遊女らのお酌を受けながらラッパや太鼓の演奏を楽しむオランダ人や日本人。阿蘭陀正月の宴はなかなか贅沢なものだったようです。(@^¬^)o∀☆∀\(●~▽~●)У Happy New Year!

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  • 第69号【江戸時代のボーナス、かまど銀】

     あと数日でお正月。我が家では毎年この時期、お正月用の餅つきを行います。昔はどこの家でもやっていたらしいのですが、今ではけっこう珍しいようです。子供の頃は餅米を炊いた時に出る蒸気の匂いをかぐと、ああ、もうすぐお正月だとウキウキしたものです。餅をつくのも杵と臼を使っています。一時は家庭用の餅つき器を使っていたのですが、気分が出ないということで復活したのです。狭い玄関先でペッタンペッタンやっていると、ご近所の方がニコニコしながら通りすぎます。どうも我が家の餅つきはご近所では暮れの風物詩になっているようです。 モチ肌だね( ・_・)―――C<―_-)アイタァ さて暮れの風物詩といえば“ボーナス”というものもあります。今回は江戸時代、長崎の町民らがボーナスをもらっていたという話です。当時の長崎には「かしょ(箇所)銀・かまど(竈)銀」といって、外国貿易での利益を庶民に配分する珍しい制度がありました。配分された時期は7月と12月の年に2回。まさに現代のボーナスのようなものだったのです。(゜◇゜江戸時代にボーナス!?▲江戸時代にボーナス!? なぜそのようなシステムが生まれたかというと、17世紀末に長崎の貿易が幕府直営になったことがきっかけでした。それ以前は長崎港では自由貿易が行われており、この時はルールがないので一部の者だけに利潤が傾いたり、銀貨が流出し物価沸騰を招いたり等、さまざまな弊害が起こっていました。かねてより幕府は長崎貿易の利益に目をつけていたので、それらの弊害を理由に長崎貿易を幕府直営にし、大切な財源のひとつにしたのでした。(`_´)シメシメ 幕府直営システムの大元締めとなったのが「長崎会所」です。今でいう貿易会社とお役所の機能がひとつになったようなところで、長崎貿易の利潤は全てここに集まるようになっていました。その利益から、まず幕府への運上金(税金のようなもの)が吸い上げられ、さらに長崎会所の積立や地役人らの給与が差し引かれます。そして残りの中の一部が「かしょ銀」として町内の地主さんたちへ。「かまど銀」として同じく借家人たちへと配分されたのでした。▲長崎会所跡地(長崎市上町) 「かしょ銀・かまど銀」が具体的にどれほど町民の懐を温めたかは詳しくはわかっていませんが、身分制度が厳しい封建社会の中で町民へ利益配分するとは、長崎以外の地域から見ると相当うらやましい話だったようです。(^^)人(^^)モラッテウレシイ、カマド銀 長崎だけがなぜ?と思うでしょうが、それにはちゃんと理由がありました。長崎の町民らはオランダ船や中国船の出入港時に必要な船の提供や、輸入品や幕府への献上品の運搬、そして長崎奉行の交代時などにかかる人夫や馬の費用も前もって決められた町が全額支払うようになっていました。さらに天領だった長崎の町民は「将軍様の民」でもあるので、お互いを傷つけるような喧嘩もろくにできませんでした。そういった長崎独特の閉息感は人々をたいへん窮屈にさせていたと推測できます。そんな中で貿易利益を配分するシステムの「かしょ銀・かまど銀」はみんなを納得させるいい制度だったようです。幕府もなかなか考えたものですね。 さて今回のコラムは今年の最終便です。いつもご愛読いただいてホントにありがとうございます。来年もどうぞよろしくお願いいたします。皆さん、どうぞよいお年を!(●^▽^●)ノ※参考文献/「長崎事典」「長崎町人誌・第一巻」(両書とも長崎文献社発行)

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