第86号【日時計と林子平】
GW真っ只中、いかがお過ごしですか? 今回は出島にある日時計にまつわるお話です。太陽の動きと共に変化する陰の位置で時間を計る日時計。私達が小学生の時に習ったそのシンプルな仕組は、人類が手にした最古の科学装置といわれているそうで、歴史は紀元前1500年までさかのぼるのだそうです。(‘○‘)相当、古イナア
現在、復元工事が進められている出島内には、すでに復元を終え、史料館として利用されている石倉があります。そこには江戸時代の貿易の様々な資料や遺物が展示されていますが、その中に漬け物石にでもなりそうなほどドッシリとした長方形の石が展示されています。これは我が国初といわれる石造りの日時計で、18世紀、出島内の庭園にオランダ商館長が作らせたものです。
▲出島にあった日時計
唐蘭館絵巻(川原慶賀筆)より
(長崎市立博物館蔵)
まるで大きな碁盤を想わせる出島の日時計。その表面をよーく見ると、放射状の線が何本も刻まれてあり、時を知らせる日陰棒を立てる穴も空いています。
この日時計を作らせた商館長は1766年に出島に赴任したヘルマン・ クリスチャン・カステンスという人ですが、なぜ作らせたのかは分かっていません。この頃、商館長などは機械仕掛けの時計をすでに持っていましたので、庭で作業をする使用人に時を知らせるため?とか、出島の庭を知的に装飾するため?などいろいろ想像がふくらみます。> ┐(゛)┌時間ニ厳シイ人ダッタ?
▲日時計がおかれた出島の庭
日本初の出島の日時計。実はそれを模写して作られたものが長崎から遠く離れた宮城県塩竈市の塩竈神社の境内にあります。模写したのは江戸時代の思想家、林子平(はやし しへい/1738~1793)です。子平はもともとは江戸生まれですが、縁あって仙台藩へ仕えました。割合、自由の身であった彼は、たびたび江戸や長崎に遊学。長崎では蘭学者らと親交を持ち、旺盛な知識欲が赴くままに世界地図や地理書を写したそうです。そういう中で子平は出島の庭に設けられた日時計を知り、興味をもったのかもしれません。子平はそれを模写し、仙台へ持ち帰って作ります。そしてそれは後に塩竈神社へ奉納されたのでした。
▲日本初の日時計が展示されて
いる石倉(出島史料館分館)
子平は長崎遊学で得た知識をなどをもとに「海国兵談(かいこくへいだん)」という日本全体の国防を説いた著書を出しますが、鎖国中の当時としては世を惑わす思想ととらえられ、幕府に弾圧を受けます。その後、不遇の内に56才で病死しますが、亡くなる直前まで海外へ目を開かぬ幕府に対し、悔しい思いを募らせていたといいます。子平の警告は、まもなく現実となり、幕府は開国を迫る諸外国との交渉に頭を悩ます日々が続くことになります。(・・)ペリーによる開港は1854年のこと
かの塩竈神社は学問の府として知られる神社です。子平が模写した日時計は、海外から広く知識を求めた彼の形見であると同時に、大切な事は時を越えて語り継がれていくものであることを教えてくれるようです。