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  • 第68号【日本最古の大浦天主堂】

     長崎の観光ポスターによく登場するのが教会のステンドグラス。いかにも西洋チックなその美しさは「異国情緒・長崎」を演出するのにぴったりです。もちろん、その背景に長崎とキリスト教の歴史上の深い関わりがあることはいうまでもありませんが。 \(^-^(*^^* )ゝキレイダネ 現在、日本には戦前に建築された教会が108棟残っていて、そのうち約半分の56棟が長崎県にあるそうです。それらのほとんどは豊臣秀吉のキリシタン禁教令(1587)以来、県下各地で密かに信仰を続けた人々が、明治6年(1873)に信仰の自由を手にしてから建てたものです。その教会の数の多さからからみても、なんとなく近代日本における最初のカトリック教会は長崎にありそうなのですが、実際は禁教がとける少し前の1862年に造られた横浜天主堂が最初だそうです。(ノ_・。)横浜天主堂ハ関東大震災デ焼失シテイマス。 今回、行って来た大浦天主堂(長崎市南山手)は、横浜天主堂の3年後(1865)に完成。現存する日本最古の天主堂で、国宝に指定されています。建設はパリ外国宣教会の神父の指導の下で、日本の大工棟梁が手がけました。ちなみに棟梁の名は小山秀。天草出身で、グラバー邸やオルト邸も施工したといわれている腕利きの職人です。▲ゴシック造りが美しい大浦天主堂(南山手町) 長崎に在住していたフランス人のために建てられたことから当初「フランス寺」とも呼ばれた大浦天主堂。実はその名は正式なものではありません。この天主堂は豊臣秀吉の禁教によって捕縛され長崎の西坂の丘で処刑された日本人20人と外国人6人の殉教者たちに捧げられたもので、落成時に「日本26聖殉教者天主堂」と命名されています。なのに「大浦天主堂」と呼ばれているのは、日本では地名をつけて呼ぶ習慣があったからだそうです。(←_→) フランス“寺“トハ禁教ノ影響? 大浦天主堂の天井はコウモリが羽を広げたような形がいくつも連なっていて、窓はステンドグラスがはめ込まれ上部が尖ったアーチ型をしています。これはいわゆる「ゴシック建築」といわれるものの特徴で、ヨーロッパでは12世紀から16世紀に都市部で建てられた聖堂の様式だそうです。▲堂内を外からパチリ“撮影禁止”の室内に入ると、信者さんたちがお祈りをする長椅子が整然と並べられていて、その脇にクリスマスが近いからでしょう、質素なツリーとキリストが生誕した時の馬小屋の様子を再現した小さなコーナーが設けられていました。チョットハヤイケド(*^^)/ Merry X'mas.。.:*・°☆ さて天主堂完成後間もなくの話です。まだ禁教下にあったにもかかわらず、長崎の浦上地区の信者が大浦天主堂を訪れ、神父に自分がキリシタン信者であることを告げました。250年以上もの間、厳しい禁教下にありながら、この国で信仰の灯火が消えていなかったことに当時のヨーロッパは驚き、そしてたいへん喜びました。なかでも宣教師を派遣していたフランスは祝いのしるしにと、聖母像を贈り届けたほどです。現在、その聖母像は天主堂の入り口で、訪れる人々を静かに見守っています。▲この角度の写真は珍しい?結構、奥行きがあります。

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  • 第67号【野口彌太郎記念美術館(旧長崎英国領事館)】

     長崎市大浦町の海岸通りで、ひときわ異国の風情を醸す建物があります。古いレンガ造り2階建。英国領事館として1908年(明治41)に造られたものです。国の重要文化財になっている現在では「長崎市野口彌太郎記念美術館」として使用されています。m(^o^)ノ 近クニ米・仏ナド各国ノ領事館モアッタラシイ▲長崎市野口彌太郎記念美術館(旧長崎英国領事館) 上海の英国技師エイリアム・コーワンの設計に基づいて、地元長崎の後藤亀太郎という人物が施工にあたったこの建物は、正面から見ると2階部分の両端にまるで目のような造形の丸窓があります。ベランダには2本対の柱が3組あるなど、ちょっと珍しい造りが見られます。この建築はイオニア様式といわれギリシヤ美術上重要な様式なのだそうです。 (“)個性的ナ洋風建築ダヨ 「長崎市野口彌太郎記念美術館」として使用されるようになったのは平成5年から。野口彌太郎の作品(油彩・水彩・パステルなど300点以上)が長崎市に寄贈されたのがきっかけです。▲所蔵品より60点ほどの作品を展示替えを行いながら展示 画家・野口彌太郎(1899~1976)は東京・本郷生まれ。30才でヨーロッパに渡り4年間過ごします。帰国後はヨーロッパで学んだ事をもとに戦後の日本洋画壇を代表する作家として活躍しました。大胆な線と豊かな色彩でのびやかに描かれた彌太郎の絵は、描いているものの本質を的確にとらえ生き生きとしています。その表現方法にはヨーロッパで受けた野獣派(フォービズム)といわれる強烈で赤裸々な精神を尊重しようとする考え方の影響があったようです。(@_@;)生命力ヲ感ジル絵デス! 画伯の父は長崎県諫早市出身で、画伯自身も子供の頃に半年ほど父の郷里で暮らしています。その後、異国情緒あふれる長崎の風景と、素朴で親しみやすい長崎の人々をこよなく愛するようになった画伯は、たびたび訪れその風景を描き、数々の名作を残しました。『長崎のよさは、のんびりした土地とのんびりした気質だと思う。これはいつも長崎駅に降り立った時に風のように感じることである。長崎が特に画材に適している理由は、古い木造洋館が自然と調和した風景美を持っているからである』と画伯は語っています。(⌒▽⌒)大切ニシナキャ▲アトリエを再現した部屋 昭和34年に描かれた「長崎の港」という作品では、茜色の空と港の景色が大胆に描かれていて、今の長崎とはちょっと違う、のんびりとした街の気配が感じられ、懐かしい気分がこみあげてきました。(・◇・)コノ絵ハ館内デ展示中 今、美術館では企画展【21世紀から見た野口芸術~野口彌太郎日本の旅】が行われています(~2002年3月31日迄)。北海道、和歌山、鹿児島、沖縄など日本各地の人や風景がエネルギッシュにたくましく描き出されていて何だか元気が出て来る絵画展ですよ。 さてここで大切なお知らせです。旧英国領事館、「長崎市野口彌太郎記念美術館」の建物は、老朽化で痛みが目立ってきたため来年秋頃には一旦閉館し、改修のための調査・工事が行われる予定です。改修期間は数年かかるそうなので、ぜひその前にお出かけなって、ゆっくり野口芸術と明治後期の洋風建築をご堪能下さい。

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  • 第66号【ボタニカルライフを楽しもう、長崎県亜熱帯植物園】

     日本でかねてよりブームのガーデニング。その本場といえば英国です。でも英国の街や家の庭を飾る植物のほとんどは外来種だということを皆さんはご存じですか?もともと自生植物の少なかったこの国は、18世紀の大航海時代以来、国家的プロジェクトとして植物ハンターといわれる冒険者たちを世界中に派遣し、珍しい植物を集めています。当時、食料や薬、香辛料として利用された植物は、今でいう石油のような戦略物資として重要視されていたのです。(そういえばシーボルトをはじめとする出島商館医師らも日本の植物採集に熱心でした。彼等も植物ハンターといえるかもしれませんね。) 英国ではそうした植物を集めてロンドンに「王立キュー植物園」をつくります。ここは現在も世界最大の植物コレクションとして知られ世界中から植物好きの人々が訪れているのだそうです。(^▽^)行ッテミタ~イ! さて前置きが長くなりましたが、世界中のボタニカル(植物)ファンのためにキュー植物園があるように、長崎には「長崎県亜熱帯植物園(サザンパーク野母崎)」という素敵な場所があります。場所は長崎県の南に位置する長崎半島のさらに南端部ある野母崎町。西に五島灘、東に天草や島原半島を望む橘湾と美しい海に囲まれ、そこを流れる対馬暖流により1年を通して温暖な気候で、熱帯や亜熱帯の植物が育つ環境の町です。(@ ̄∇ ̄@)┌自然ガ豊カナ町デス▲長崎県亜熱帯植物園(サザンパーク野母崎) 「長崎県亜熱帯植物園」は山と海の両方を所有する広い敷地を持っていて、その中に、中南米・アフリカ・オーストラリア・東南アジアなど、熱帯・亜熱帯地方の植物が、約2千種3万本も植えられています。園内の路地にはヤシの木やブーゲンビリアなどが植えられていて、南国の雰囲気がたっぷりです。園の中心的建物となる「ビジターセンター」には昆虫や植物、熱帯雨林など自然科学についてわかりやすく説明した展示物コーナーをはじめ海を一望できる展望テラスレストランやショップなどがあり、くつろいで植物について学べる施設になっています。 全面ガラス張の大きな建物「大温室」に入るとそこはまさに密林。小笠原諸島に群生していて、足がタコのように何本もある「タコノキ」とか、アフリカ原産でずんぐりとした容姿が特徴の「バオバブ」、マダガスカル原産で葉っぱが人間2人くらいを包めそうなくらい巨大な「タビビトノキ」など、近所の野山ではけして見られない珍しくて驚きいっぱいの樹木が次々に現れ、気分はもうアマゾンを行く冒険者といった感じ。( ̄ー ̄;) ちょっとオーバー?▲密林のような大きな温室に小さな冒険者発見!? 園内にはさらにランやベゴニアが一年中楽しめる「フラワーガーデン温室」、バナナやコーヒー、パパイヤなど南国の実がなる「果樹温室」など、まだまだいろんな植物がいっぱい。内容も量も植物好きの人にとってはきっと一日では足りないくらいのボリュームです。▲常春のフラワーガーデン温室 敷地内には子供たちが自然を満喫しながらのびのび遊べる施設もあり、親子連れにも好評。また番外編ではありますが、敷地内の海岸は知る人ぞ知る釣りポイントで、わざわざ入園料を払って海岸へ下り、釣りをする人もいるとか。とにかくここは自然大好きという人には見逃せない場所です。 ワ~~イ ~~~(/ ̄▽)/ ~ф"" ""ф~※長崎県亜熱帯植物園(サザンパーク野母崎)は2017年閉園いたしました

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  • 第65号【悠久の時にひたる崇福寺】

     もうすぐ師走。家庭でも仕事場でもだんだん気忙しくなっていくのは、皆、心のどこかで残り少ない今年を精一杯過ごさなきゃ!と思うからでしょうか。それにしても昔の人は「師も走り回るほどの忙しさ(=師走)」だなんて、うまいことをいいますよね。 ε=ε=ε=ε=┏( ; ̄▽ ̄)┛ハシレ~ さて今回は長崎観光名所のひとつ「崇福寺(そうふくじ)」へ行って来ました。地元では建物が朱色に塗られていることから「赤寺(あかでら)」とも呼ばれています。場所は以前(11号)ご紹介した寺町界隈の一角にあります。このお寺は、1629年(寛永6年)、長崎在住の中国人らが故郷・福州から僧侶・超然(ちょうねん)を迎え入れて建立したのが始まりです。明の末期~清の初期(17世紀)頃の建築様式は日本では他に類例がないとか。寺の各所に国宝や国の重要文化財があり、見応えたっぷりです。o(^-^)o オタカラ、オタカラ! 崇福寺の目印になっている入り口の赤い三門(山門)は、国の重要文化財。三ケ所の入り口があるので三門と書きます。正面にかかる扁額「聖壽山(しょうじゅさん)」は黄ばく宗の祖・隠元(55号参照)の書です。この門はその華麗な姿から竜宮門とも呼ばれているのですが、たしかに昔、絵本で見た竜宮城によく似た形をしています。▲朱塗りの崇福寺三門(国指定重要文化財) 三門をくぐると、いつもと違う静寂の世界。浦島太郎になったような気分で石段を登ると国宝の「第一峰門(だいいっぽうもん)」が目の前に現れました。赤いその門の軒下をのぞくと複雑かつ美しく木が組まれ、きれいな極彩色の模様が施されています。この門は1696年頃、中国の寧波(ニンポー)で切り組みしたものを唐船で運んで来て建てたといわれています。その独特の建築様式は中国の華南地方にあるもので、日本では唯一、ここでしか見られません。建築には素人の私でも思わずため息がでるほど見事な木組み。さすが国宝!です。(≧∇≦)bオミゴト▲崇福寺第一峰門(国宝) さらに進むとこのお寺の本堂、「大雄宝殿(だいゆうほうでん)」(国宝)があります。お釈迦様を祀ったこの仏殿は1646年に建築されたもの。長崎市内に現存する建造物の中で最も古いのものになります。 崇福寺の中には海上安全を祈願して海の女神・媽姐(まそ)を祀った「媽姐堂」もあります。当時の唐船は、航海の際は媽姐像を奉じ、長崎に着くとその像を唐寺に預けていたそうです。媽姐堂の天井は優しい桃色で線を描いた格子天井。いかにも女神を祀るにふさわしい色合いです。 この唐寺にはちょっとユニークなものも置かれています。直径2mもありそうな大きな釜です。17世紀終わり頃、飢饉に苦しむ人々を救うために、二代目住職が地元の職人に作らせ、お粥を炊いて施したそうです。でもこの大きさでは調理するのも、材料を集めるのも、たいへんだったに違いありません。\(◎◇◎)/五右衛門風呂ヨリ大キイ!?▲1tを越える重さの崇福寺大釜(市指定有形文化財)

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  • 第64号【異国の木綿布】

     長崎の街角にある小さな骨董屋さんにはよく古い木綿布や着物が置いてあります。かつて長崎にはインド更紗(さらさ)、オランダ更紗といわれる洒落た絵柄の木綿布がオランダ船によって運び込まれていました。その頃のものがあるのかどうかは分かりませんが、店内に並べられた古裂(こぎれ)を見ていると、ついつい遠い日のこの町に思いを馳せてしまうから不思議です。(¨)コギレパワー? 江戸時代、オランダ船は木綿の原産国であるインドや東南アジアの島々を経由して長崎に入港していました。経由地で手に入れた木綿の織物は鮮やかな赤が用いられ、その文様も個性的でたいへん美しいものでした。当時の日本では木綿は藍色や茶系統にしか染まらないと思われていたこともあり、大きな驚きをもって人々に迎え入れられたのです。I(o_O)i オォォ。。 この舶来織物は出島に輸入されると、取り引きを円滑に行うために、反物目利(たんものめきき)の役人が、それぞれ布の切れ端を「紅毛持渡端物切本帳」と呼ばれた布の見本帳に張り込みました。そこには千種類にも及ぶ織物があったそうです。▲紅毛持渡端物切本帳(長崎市立博物館蔵) その中で人気があったのが、縞(しま)模様の木綿です。一口に縞模様といっても、たとえば「唐桟(とうざん)」と呼ばれた藍や赤などインド渡りの艶やかな縞模様のものや、「甲比丹(かぴたん)」といって縦糸に絹、横糸に木綿を用い、黄・赤・藍・緑の個性的な縞模様をしたものなど、いろいろ種類があったようです。ちなみにこのストライプ柄を意味する「縞(しま)」という言葉は、インド周辺の島々から渡って来た布、いわゆる「嶋渡り(しまわたり)」の反物に筋柄(縞模様)のものが多かっことに由来したもので、つまり「縞」は「嶋」から来ているのだそうです。 ( ̄□ ̄|||)ソウダッタノカ……▲当時、人気のあった縞柄(長崎市立博物館蔵) 縞模様とはまた違った趣きの「更紗(さらさ)」も人気がありました。インド産の「更紗」は柔らかくて丈夫で保温性にも富み、文様も花鳥、人物、幾何学など、異国情緒にあふれ色鮮やか。日本人だけでなく世界の人々に珍重されたといいます。更紗が日本に持ち込まれたのは、室町末期のポルトガルとの南蛮貿易の頃。「更紗」という名はポルトガル語で木綿布を意味する「saraca」に由来するのだそうです。貿易相手がオランダに変わってもなお、輸入は引き続き行われました。それだけ人気があったのでしょう。▲世界でも人気が高かった更紗(長崎市立博物館蔵)この17世紀から18世紀にかけて輸入された更紗は、今では「古渡更紗(こわたりさらさ)」と呼ばれ、古裂ファンを魅了しています。  |||\( ̄∇ ̄ ) イイヨネェ。。 ところで長崎には『♪あっかとばい♪かなきんばい♪おらんださんから♪もーろーたーとばい♪』という古いわらべ歌があるのですが、この歌詞の中の「かなきん」とは「金巾(かなきん)」と呼ばれたインド産の木綿でした。堅くよった糸で目を細かく織ったもので、オランダ人の服装に用いられていたようです。わらべ唄は「オランダ人に赤い木綿をもらったよ、うれしいな」という意味でしょうか。当時の人々の異国の赤い木綿布に対する憧れが感じられ、いかにも長崎らしい唄だなと思うのです。 (〃⌒ー⌒〃)∫アッカトバイ

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  • 第63号【珍獣さん、いらっしゃい】

     朝晩ずいぶん冷え込むようになった長崎。いよいよ冬のはじまり、はじまりといった感じです。これからは気温が下がる一方。あったかいものを食べて、元気に過ごしましょう!!(^〇^)Vネ! さて今回は、江戸時代に長い船旅を経て日本へやって来た珍獣たちの話しです。17~18世紀にかけてオランダ船や唐船は、珍しい動物をたくさん運んで来ました。珍獣といっても当時の人たちにとっては、そうだったということで、現代人にとっては特に珍しくはありません。たとえばゾウ、ラクダ、ダチョウ、オランウータン、オウム、カナリアなど、今ではよく知られている顔ぶればかりです。⊂^j^⊃ぱお~▲ヒトコブラクダ(長崎市立博物館蔵) そういった動物や鳥たちは当時はたいへんな贅沢品でした。日本では将軍家へ献上されたり、金持ちのペットとされていたようです。また当時は全国を巡る「見世物」という娯楽があり、庶民はそういったものを通して舶来の動物を目にする事ができたようです。現代のようにテレビもなく情報が限られた時代。当時の人々が初めての動物に驚く様子は、現代人の目の前にキングコングが現れるよりずっと大きかったのではないかと想像しちゃいます。(;°ロ°) ナンジャコリャ!? 動物といえば、出島での生活の様子を描いた「長崎阿蘭陀出島之図」(作者不詳)には、オランダ商館員らの日常の姿と同時に、オウム、クジャク、サル、シカ、ウシ、ヤギ、ダチョウ、シチメンチョウなど10種類にも及ぶ動物の姿があります。出島の庭先や通りを我が物顔で歩くいろんな動物たち。オランダ人の食用のための動物もいれば、引き取り手がなくそのまま飼われていたものもいたようです。 出島動物園ト評判!(゜ー、゜)☆\ (≧∇≦)チガ~ウ!▲長崎阿蘭陀出島之図(長崎県立美術博物館蔵) 1728年、唐船が雄雌一対のインドゾウを出島へ運んで来ました。将軍吉宗からの注文だったこのゾウは、船旅が身体を衰弱させたのか雌は長崎で病死し、江戸へは雄のみが連れて行かれます。そこでたいへんな評判を呼び、本や歌舞伎の脚本のモデルにもなったそうです。▲楽隊を組んで象のパレード?阿蘭陀人巡見之図(絵葉書)より 1813年にも雌のインドゾウが一匹、出島にやって来ています。運んで来たのは何とオランダから出島を奪い取ろうという魂胆のイギリス船。オランダ船になりすまして入港したのです。この頃、オランダ本国はフランスに併合されていて、オランダの国旗が掲げられているのは世界で唯一出島だけという難しい情勢でした。ニセのオランダ船はゾウを幕府へ献上したいと申し出ます。しかし幕府は運搬する際の費用や飼育の面倒くささを考えて献上を拒否。イラン ( ・_・)ノ ((( ⊂・j・⊃ (+∠+; )ガ~ン イギリスはゾウを使ってうまく幕府へ取り入ろうとでもしたのでしょうが、思惑ははずれゾウは送り返されてしまいます。実はこの時、イギリス船の事実を知っていたのはオランダ商館長ドゥーフと、一部のオランダ通詞だけでした。ドゥーフはイギリスと独自に話し合いを持ち、何とか幕府に報告せずイギリスを追い返えしたのでした。もしばれたら今後のオランダとの関係に大きなヒビが入ったであろうこの事件。庶民達はそんな話は知るよしもなく、ただゾウを見られなかったことを残念がったそうです。ゾウ見タカッタ (ノ_<。)ヽ(^_^;) ヨシヨシ…

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  • 第62号【コンプラ】

     昔から「芸術の秋」、「読書の秋」なんていいますが、今頃の季節は頭が適度に冴える気温(16℃)に恵まれ、身体にとっても過ごしやすい気候なので、頭と心を使うのにちょうどいいのだそうですよ。(^¬^)私はダンゼン食欲ノ秋 さて今回はコンプラ瓶のお話です。白磁の徳利に肩パットをいれたような独特の形をしたコンプラ瓶は、今もコピー品がたくさん出回るほど人気の骨董品です。その瓶に詰まった面白いエピソードをいくつかご紹介しますね。▲染付コンプラ瓶(長崎市教育委員会蔵) コンプラとはポルトガル語で商人や仲買人を意味するコンプラドール(Comprador)から来た言葉です。江戸時代に出島から外出できないオランダ人らを相手に、さまざまな日用品を売る「コンプラ仲間」と呼ばれる日本の商人たちがいました。1652年に記されたオランダ商館の日誌で、「彼等は高利をむさぼる」と記されているところをみると、なかなかちゃっかり屋の商い人だったようです。そんなコンプラ仲間たちはやがて日本の醤油や酒を海外へ輸出するようになります。その際、容器として使用した瓶がコンプラ瓶と呼ばれていたのです。 ♪コンプラ♪フネフネ♪(^O^)☆\(--;)チガウヨ・・・▲商品入札の図(川原慶賀)この中にコンプラ仲間もいた? その瓶は焼物の産地として有名な波佐見地方で大量につくられ、組織のマークとしてコンプラドールの略語「CPD」と、醤油用には「JAPANSCHZOYA」、酒用には「JAPANSCHZAKY」の文字が入っていました。 長崎港でオランダ船に積まれたたくさんのコンプラ瓶は、まず貿易の中継地点となる東南アジアで一部荷降ろされました。その後、船はインド洋を渡り、喜望峰を回って大西洋を北上。一路ヨーロッパへと向かったのでした。実はこの醤油や酒の海外への輸出が一体いつ頃はじまったのか定かではありません。一説によると元禄時代には既に行われていて、その頃のフランス宮廷料理に日本の醤油が使われていたなんていう話もあります。そんな時代にフランスの国王が醤油を味わっていたなんてちょっと驚きですよね。((~^*)トレビア~ン!▲長崎奉行所(立山役所)趾にはたくさんのコンプラ瓶が埋まっていたらしい ところで文人・井伏鱒二(1898~1993)が長崎を訪れた際、知人からもらったコンプラ瓶について書いた随筆が残っています。『コンプラ醤油瓶』というタイトルのその文章には、ロシアの文豪トルストイ(1828~1910)が書斎でコンプラ瓶を一輪挿しとして使っていたらしいという面白い話が記されていました。井伏鱒二は、トルストイは文人仲間のゴンチャロフからコンプラ瓶をもらったのだろうと推察しています。ゴンチャロフはロシア皇帝の使節プチャーチン提督の秘書として、幕末長崎に来航したことのある人物。彼が長崎で手に入れたコンプラ瓶を土産話ついでにトルストイへあげたと考えても不自然ではありません。 輸出用の容器なので実用性が重視され、けして優美な姿とはいいがたいコンプラ瓶をトルストイはなぜ一輪差しにして書斎に置いたのでしょう。もしかしたら見知らぬ東洋の国、日本に憧れがあったのかもしれませんね。(^▽^)ゞロマンを感じたのかもネ

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  • 第61号【富三郎とグラバー図譜】

     今日で10月も終わり。今年もあと2ヶ月だなんて早いですね。さて今回は、トーマス・グラバー(1838~1911)の息子トミーこと「倉場富三郎(くらばとみさぶろう/英名Tohmas Albert Glover)」のお話です。スコットランド生まれの父グラバーは幕末~明治の日本で活躍し、観光名所グラバー邸の主人としても有名ですが、その息子についてはあまり知られていないようです。(¨)息子がイタンダ…▲倉場富三郎(1870~1945) グラバーが生涯の伴侶とした日本人妻ツル。夫婦の間には長女ハナ、長男富三郎の2人の子供がありました。姉のハナより2才年下の富三郎は明治3年(1870)長崎生まれ。グラバーが32才の時の子供です。若き日を不自由なく育った富三郎は、学習院を卒業後、米ペンシルベニアで生物学を学びます。帰国すると、父の会社から独立した貿易商社ホーム・リンガー商会に就職。それから第二次世界大戦が始まるまで、長崎の実業界の中心的存在として活躍しました。 富三郎の偉業を紹介しましょう。富三郎を重役とするホーム・リンガー社は1907年長崎汽船漁業を設立。富三郎はイギリスから日本初となるトロール船を購入し五島沖で操業を開始します。また遠洋捕鯨も初めて操業するなど水産県長崎の近代化に大きな刺激を与えました。そんな中、富三郎はトロール船から水揚げされるさまざまな魚たちを見てあることを思い付きます。日本近海にすむ魚類の分類学的研究を目指し、魚譜を作ろうと決心したのです。ペンシルベニアで魚譜づくりの要領を学んでいたこともあり、さっそく地元の画家を雇い入れ魚譜の制作にかかりました。 くコ:彡 φ(..)コンナカナ…? 「グラバー図譜」と呼ばれる(正式名称は『日本西部及び南部魚類図譜~Fishes of Southern and Western Japan~』)その魚譜は、明治末から昭和の初めにかけ、約25年もの月日をかけて制作されました。内容は558種の魚を写生したものに、貝類と鯨を含む計823枚の図譜から成っていて、描写が美しく、断面図やウロコの拡大図などが添えられているところが大きな特長だそうです。画家とはいえ科学的な描写は素人だった者に、専門的な視点での作図を教え、自らも長崎魚市場へ出かけ新しい種類を探し、ひとつひとつ仕上げていった図譜。その仕上がりはたいへん素晴らしく、今も日本の四大魚譜のひとつに数えられています。(^ー゜)b Good Job!▲詳細に描かれた「いか」(グラバー図譜より) しかし、第二次大戦が始まると、スコットランド出身の父を持つ彼は憲兵のきびしい監視下におかれました。父グラバーが基礎を創った三菱造船所で戦艦「武蔵」を造る際には、対岸から丸見えになるということで、南山手のグラバー邸からの立ち退きを要求されます。戦争の影響で苦悩の日々を送った富三郎は、たいへん残念なことに終戦直後の1945年8月26日、自ら命を絶ってしまいます。(・o・;;)ソンナ… 時代が違えばグラバーの息子として最後迄幸せな人生を送れたかもしれない富三郎。美しく細かな描写のグラバー図譜のように富三郎も繊細な人物だったのです。戦争と軍国主義の犠牲となった彼の人生の終焉は、悲しさとともに同じ事がニ度とあってはならないと教えてくれます。今、富三郎は坂本国際墓地(長崎市)の一角にある両親のお墓の隣で静かに眠っています。(´人`)トミーよ、安らかに。▲倉場家之墓(手前)右側は父グラバーと母ツルの墓

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  • 第60号【奇習、嫁盗み】

     深まる秋、長崎では街路樹の葉っぱが乾燥してカサカサと音をたてはじまめした。もうしばらくすると紅葉や落葉が始まります。北の方に住んでいる人などはずいぶん遅いなあと思われるでしょうね。(^ー^;南国・九州ダモンネ さて今回は江戸時代の長崎にあった風習「嫁盗み(よめごぬすみ)」についてご紹介します。これは読んで字のごとく、息子の嫁にしたい、もしくは自分の嫁さんにしたいという娘さんがいた時、男性側の親族友人などが相談しあって、お目当ての娘を盗み連れて結婚の盃をさせるという庶民の風習です。何だか野蛮な感じですが、奉行所に訴えられたり、喧嘩になったりということはなかったというから驚きです。(・。・;)無茶苦茶ナ風習ダ▲嫁盗みの図(長崎古今集覧名勝図絵) 「嫁盗み」が庶民の風習として根付いたのにはそれなりの訳があったようです。例えば、貧しくて嫁入りの準備ができない場合、双方の親たちが内々に申し合わせて「嫁盗み」をさせ、盗まれたので嫁入りの準備が何ひとつ出来なかったということで、世間への面目を保ったといいます。また娘さん本人やその両親が結婚を承諾しなかった時にも「嫁盗み」が行われたのですが、この場合は後で仲人をたてて相手の家へ相談に行き、話をまとめたそうです。けして盗みっぱなしということではなく、暗黙のルールがあってそれなりに筋は通したのです。それは盗む時の様子でもわかります。(^^;略奪結婚トハチョト違ウ? 「嫁盗み」を行うのは元気の良い町の若いもん数人。お目当ての娘さんが外出したのを見つけると、用意したカゴにむりやり乗せます。そこで若い衆らは大声で、「○○町の△△という娘を盗んだぞ~」と叫びながら、カゴを担いで男性の家へと逃げるのです。何とも大胆不敵な盗みですが、街角で突然沸き起こったこの騒ぎに周りの人の反応はというと、面白がって見る人はいるものの、驚くようなことは無かったといいます。「嫁盗み」は男性側の意志を表現した一種のデモンストレーション。良くあることで別に珍しくもない光景だったのです。(’_ ’)強引なプロポーズってとこ? さて盗んだほうの男性の家では親類知人の女性陣らが嫁さんになるかもしれない娘を大事にもてなしました。それでも娘の気が進まない場合は、夜の闇にまぎれて逃げ出します。残された男性とその親族友人らは逃げた娘を追うようなことはしませんでした。しかし世間にそのことがばれては面目が立たないと、また別の家の娘さんを盗みに行くはめになったようです。(;´д`)トホホ ところで娘を盗まれたと知った家はどうしたのかというと、「取り戻し」といって、町内の古老人ら数人の男たちが口利きとして、すぐに盗んだ方へ押しかけました。しかし取り戻しに行った男たちもそこでお酒を出され、いろいろサービスを受け、買収されるというのがほとんどだったそうです。┐(´ー`)┌ アラアラ 「嫁盗み」に似た風習は、昔は全国の各地にあったそうです。ままならぬことを実現させるために「盗む」という形をとりながらも、世間体や周囲の人々との関係を良好に保とうする姿が垣間見られる、実にユニークな風習ですね。▲長崎の風俗・景勝を記す貴重な史料「長崎古今集覧名勝図絵」

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  • 第59号【こげくさい…!?コーヒー】

     朝、キッチンから漂ってくる入れたてのコーヒーの香り。寝ぼけた頭が気持ちよく目覚めるその香りには、リラクゼーション効果もあるといいます。確かに、何だか幸せな気分になるし、仕事や家事の合間のホッとするひとときにも欠かせない存在です。今回は現代の日本の暮しにしっかり根付いたコーヒーのお話です。(,,)コーヒー豆知識? コーヒーは一体いつ頃から人類の歴史に登場するようになったのでしょうか?10世紀のアラビア人の医師が薬として扱っていた記録が残っているとか。またエチオピア(北東アフリカ)の羊飼いが発見したという説をはじめ、その起源にはいくつかの言い伝えがあるものの、どれが真実なのかはっきりしないそうです。ただコーヒーがエチオピア原産であることは間違いなく、そのエチオピアで飲まれ出したのは千年ほど前だそうです。その後トルコをはじめとするイスラム教の国々を経て、ヨーロッパ諸国、そして日本へも伝えられていきます。(p^-^)p♪むかしアラブのえらいおぼうさんが~▲エチオピア(北東アフリカ)はココ 日本へは17世紀終わり頃、オランダ船を通じて出島に運び込まれたのがはじめだといわれています。その頃、オランダ商館員らが飲んでいたコーヒーを一緒に味わうことができた日本人はオランダ通詞や遊女など出島に出入りできる限られた人々だけでした。ある長崎奉行所の役人は珍しいコーヒーを飲めたのは良かったのですが、その感想を「こげくさくして味わうにたえず」と漏らしたとか。コーヒー独特のほろ苦さは、当時の日本人の嗜好には合わなかったのかな? ちなみに当時、出島に入っていたコーヒーの銘柄は「モカ」だったそうです。「モカ」といえば、強い酸味とコク、香りが特徴の今も人気のコーヒー豆ですよね。(^¬^)ヒキタテノ香リガタマリマセン▲阿蘭陀茶臼(コーヒーミル)(長崎県立美術博物館蔵) さてその後、19世紀はじめにオランダ商館医師として来日したシーボルトはコーヒーを長寿をもたらす良薬として日本人にさかんに勧めたといいます。当時のオランダ船が運び込んだ洋薬のリストにも他の薬草の名と並んでコーヒーが記されています。シーボルト先生が勧めたせいなのか、それともコーヒーの魅惑的な味がクセになってしまったのか、この頃にはコーヒー党の日本人がけっこういたそうです。 江戸時代末期、「長崎土産」(磯野信春著)という書物には『コーヒー日本の大豆に似たり。是を磨し砕き、湯水に入れ煎じ、白糖を加えて常に服す。我国の茶を用うるが如し』と記されています。今も全く同じとらえられ方ですよね。▲赤い実をつけたコーヒーの木 ところで「コーヒー」を漢字で「珈琲」と書いたのをよく見かけますが、これは音で表したときの代表的な当て字で、他にも「古蘭比伊」「可否」「滑比」などの当て字があったそうです。また「コーヒー」を日本訳した場合も「茶豆」「唐茶」「南蛮茶」などいろいろあり、「コーヒー」にぴったりくる日本語訳があれこれ考えられたようです。(・・)昔ハ日本語訳ノ必要ガアッタンダネ。 そのこげくささも今では芳香な香りともてはやされるコーヒー。今、私の目の前にある一杯のコーヒーも、いろんな国のいろんな時代を経て来たのかと思うと、何だか味わいが増したような気がします。U\(⌒o ⌒ )あなたもコーヒーブレイクしない?

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  • 第58号【よいしょ! 「竹ン芸」】

     秋はお祭りの季節。長崎で秋祭りといえば豪華な奉納踊りが繰り広げられる諏訪神社の「くんち」が全国的に有名ですが、地元ではもうひとつ、白狐の妙技がユニークな奉納踊りで知られるものがあります。毎年10月14、15日に行われる若宮稲荷神社(わかみやいなり:長崎市伊良林)の「竹ン芸」(たけんげい/長崎市無形文化財)です。(“)タケンゲェ?▲250年の歴史を持つ「竹ン芸」 地元の氏神様として親しまれている若宮稲荷神社は、商売繁盛のお稲荷様としても知られ、320年余りの歴史を持つ神社です。近くには坂本龍馬らが開いた貿易会社「亀山社中」の跡があり、龍馬をはじめ多くの志士たちもこの神社を参拝したといわれています。( ^_^)//パンパン▲竹ン芸が奉納される若宮稲荷神社(長崎市伊良林) さて「竹ン芸」は約250年前から伝わる郷土芸能で、雄狐(おぎつね)、雌狐(めぎつね)に扮した青年が境内に設えた青竹の上に登って芸をするものです。元々は「くんち」の奉納踊りとして八百屋町(やおやまち)から奉納されたのがはじまりと伝えられていて、明治30年代に入ってから若宮稲荷神社の奉納踊りとなったそうです。 「竹ン芸」はまず子供が扮する子狐が登場します。5m位の青竹に登り、親狐の真似をしていろんな芸を披露します。子狐の可愛い演技の後は、いよいよ親狐の登場。10mほどもある青竹2本を使い演じます。1本は、はしごのように一定の間隔で横木が付けられ、女竹(めだけ)と呼ばれます。もう1本は男竹(おだけ)と呼ばれ、演じる頂上だけに支えの横木が付けられています。 白装束(しろしょうぞく)に身を包んだ2匹の親狐は、女竹の方を軽やかに演じながら登っていきます。そして足だけ、竹にからませて逆さまになったり、竹の真上をお腹にあてて大の字になったりなど、見物客の「よいしょ」のかけ声とともに、見事な技が次々に決められていきます。▲命綱なしで見事な演技が奉納される特に隣あう竹に身を移しながら2匹がじゃれあうところや、ゆさゆさと竹を大きく揺らすところ、そしてクライマックスで雄狐が逆さになったまま男竹を滑り降りるところなどでは、見物客らは息を飲むようなスリルを味わいます。 2匹の狐の捨て身の演技はとても感動的なのですが、これはけっして見世物ではなく、あくまでも市民の幸せを祈る神事。狐に扮した人はまさに命がけで芸を奉納しているのです。\(゜o゜;)/見る方もドキドキ! 中国の羅漢踊(らかんおどり)が原形といわれる「竹ン芸」。唐笛、太鼓、三味線で演奏されるシャギリの音色に中国風が感じられます。さて演技の後半では縁起物のお餅や手ぬぐいがまかれます。見物客らは福をつかもうと両手をいっぱい広げて、右往左往。雄狐はさらにふところから生きたニワトリを取り出して見物客へ放り投げます。これも縁起が良いとあってみな捕まえようと必死。でも捕まえた後、一体どうするのでしょうね。(^¬^) 食ベルor飼ウ? 「竹ン芸」が行われる若宮神社は新大工町の電停から徒歩15分ほど。時間は14日が14時、20時。15日は12時、15時、20時からです。出かけてみませんか?

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  • 第57号【日本に理想郷を見た?!ケンペル】

     新聞の折り込みで、どこそこの秋を堪能しよう!なんていうチラシが目立つ今日この頃。♪知~らない、ま~ちを歩いてみた~い♪なあんて気分に。秋は人を旅情へ誘う不思議な力があるようですね。(^‐^)エトランゼになる季節 さて今回ご紹介するケンペルさんは、1651年ドイツ生まれのお方。ヨーロッパでは今でもバロック時代(17~18世紀)の大旅行家として知られる人物です。日本では江戸時代に出島の商館医師として活躍、このコラムですでに紹介したツュンベリーやシーボルトと並ぶ出島の三学者の一人として名を残しています。▲江戸城で5代将軍綱吉と拝謁中のケンペル(中央) 聡明で探究心にあふれたケンペルは、若い頃から未知の世界へのあこがれが強く、故郷ドイツの大学で学んだ後、ポーランドやスウェーデン、オランダの大学へも通い、医学をはじめ言語学、歴史学、数学、博物学などを学んだそうです。(“)オドロキの知識欲 大学で思う存分学んだ後、スウェーデン国王の使節団のひとりとしてモスクワやイスファハン(ペルシア)を訪れ、それぞれの土地を独自の視点で観察・研究します。自ら「知りたがり」と称するほど好奇心旺盛だったケンペルは、その後、東洋への興味にかられ、安定したこの仕事を捨ててオランダ東インド会社へ入社。アラブやインド、タイなどでの実地研究を経て、1690年、出島のオランダ商館医師として日本へやって来たのでした。(゛)海外経験ガ豊富! 当時の日本は、「好色一代男」の井原西鶴や「奥の細道」の松尾芭蕉などが活躍した元禄の町人文化がまさに華開こうとしていた頃で、庶民は平和と繁栄を享受していました。ケンペルは約2年間、日本(出島)に赴任していたのですが、その間2度、江戸参府に同行し、その頃の日本の景色や庶民の暮しぶりをスケッチしています。厳しい警護の目を盗んでのこの行動。どんな環境の下でも探究心を失わないたくましさが感じられますね。▲江戸参府の行列図(ケンペル画/日本誌より) 2年間の日本滞在の後、帰国したケンペル。彼は、自分が巡った地の話を綴った「廻国奇観(かいこくきかん)」という本を著し、この中に“日本人は他の国と提携しなくとも幸福で満ち足りた生活をしている“と鎖国を肯定する見解を述べています。またもう一冊、日本を正しくヨーロッパに紹介した最初の本となる「日本誌」という本も著します。この本は、江戸参府の際に見かけた様子を描いた挿し絵をふんだんに盛り込んでいて、18、19世紀のヨーロッパにおける日本観に大きな影響を及ぼしました。しばらくしてこの本は日本に輸入され、江戸時代の蘭学者らの間で反響を呼んだとか。さらには、今でも歴史学者の間で貴重な資料として利用されているという話です。▲廻国奇観(かいこくきかん)ケンペル著/長崎市立博物館蔵 江戸での5代将軍綱吉との拝謁の際、将軍様の前でヨーロッパの歌を唄ったり、踊ったりしたというユニークなエピソードを持つケンペル。そんな彼が鎖国を肯定したのには、当時のヨーロッパは国同士の紛争が絶えず、人々の心が荒廃していたという背景がありました。ケンペルは何だか幸せそうな鎖国・日本に理想郷を見たのかもしれません。(“)セツナイナア!

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  • 第56号【長崎くんち、今年の見所!】

     来月10月7・8・9日は、いよいよ秋の大祭、長崎くんちです。江戸時代初期に始まったこの祭は、長崎市民の総鎮守・諏訪神社の神事。奉納される華麗な踊りや、勇ましいだしものの数々は異国情緒にあふれ、豪華で勇壮で感動的です。さすが日本三大祭りのひとつに数えられる?だけのことはあるのです。▲踊り場設営中の公会堂前広場 さて、くんちの奉納は諏訪神社の氏子地域にあたる40余りの町々の中から、毎年5~7つの町が担当します。その町は「踊り町」と呼ばれ7年に1回ずつ順繰りに巡ってくる仕組みです。今年の踊り町は新橋町(しんばしまち)、諏訪町(すわまち)、新大工町(しんだいくまち)、金屋町(かなやまち)、榎津町(えのきづまち)、賑町(にぎわいまち)の6ヶ町。それでは各踊り町とその見所を前日(初日/7日)の奉納順にご紹介しましょう。\(∩o∩)/祭ダ、祭ダ! 新橋町は「オランダ万才」という踊りです。一見するとピエロにも見える派手やかな衣装を身にまとった“異人さん”が登場。ストーリーは日本に漂着した2人の外国人が、生きていくために家々を回って万才をやり門付け(お金)を貰っているうちに、故国を思い感傷にふけるというもの。ちょっと哀愁が漂いながらも、賑やかさと洒落っけもある踊りです。 諏訪町は全国的に有名な「龍踊り(じゃおどり)」を奉納。龍踊りを奉納する町は他にもありますが、この町の龍踊りは個性的で、青龍、白龍の2体が一緒に踊ります。さらに龍方(じゃかた:龍を持ち上げる男衆)が、あっという間に別の龍方に入れ代わる早業も見所です。\(^O^)くんちトイエバ龍踊リ!▲龍踊りの練習を行う諏訪町 新大工町は「曳壇尻(ひきだんじり)と詩舞(しぶ)」を奉納します。曳壇尻とは、おみこしのようなもの。長さ5m、重さ3tもある曳壇尻を「根曳衆(ねびきしゅう)」と呼ばれる数人の男たちが引いていきます。この町は町名からもうかがえるように、その昔大工さんが大勢住んでいました。曳壇尻の屋根の部分は大工の神様を祭っている奈良・春日神社を見立てていて、大工職の趣向を随所に施した美しい飾りつけが見所です。\(^O^)伝統美ヲ堪能! 金屋町はこの町のシンボルである獅子を中心に古典調の「本踊り・秋晴勢獅子諏訪祭日(あきはるるきおいのししのすわのまつりび)」を奉納。2人がそれぞれ前足、後ろ足に入って演じる獅子が登場し、息の合った踊りを披露してくれます。 榎津町は「川船」を奉納します。江戸時代に筑後川(福岡県)に開かれた柳川藩の川港・榎津から、人や物資がこの町に回航していた縁でこの町名が付けられています。長さ6m、重さ3tの川船を18人の根曳衆が力強く引き回し、子供が扮する船頭が網を打ち魚を捕らえるシーンなどが見所です。(”)カワイクモ凛々シイ。 賑町は、長さ5.3m、高さ3.85m、重さ4tもある「恵美須船(えびすせん)」を奉納。その屋台の上を飾る網はビードロ細工でつくられたもので、とても高価なものだそう。この華麗な船を根曳衆が波をかきわけるかのような勇ましいかけ声で引くところや、男の子と女の子それぞれが引く子船が見所です。 くんちの3日間、各踊り町は「庭先回り」といって街を練り歩き、家々や会社などに、だしものを披露します。特に諏訪神社、浜町アーケード、長崎県庁、お旅所(大波止)あたりは要チェックです。ぜひ、長崎・くんち見物へお出かけ下さい。(^o^)/ ▲紋付袴に山高帽のスタイルで庭先回りを先導する町役員

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  • 第55号【インゲン豆をもたらした隠元禅師】

     スーパーの食料品コーナーをのぞくと、木の実や根野菜、きのこ類など旬の食材が満載。ああ収穫の季節だなあと、食いしん坊の喜びに浸りながら大根と柚子そしてサンマを購入。今夜は家族全員のリクエストでサンマの塩焼きデス。<゚)#)))彡 ∧\(^¬^)大根オロシをソエテ さて旬といえば今回の話の中に登場するインゲン豆も夏場から今頃にかけてが収穫の時期。ゴマあえやテンプラにするとおいしいですよね。ところでこのインゲン豆、現代の私たちにとってはたいへん日常的な野菜ですが、もともと日本にあったわけではありません。最初に日本に渡来したのは江戸時代。1654年、明国(中国)福建省の僧侶、隠元(いんげん)が長崎に来た際に持ち込んだのがはじめだそうです。だから名前がインゲン豆なのですね。(“)ワカリヤスイ!▲隠元禅師の木像(興福寺本堂内) 地方によってはササゲ、フジマメとも呼ばれるインゲン豆。現在は北海道が主な産地ですが、南は沖縄まで全国各地で作られているようです。江戸時代、どんな荒れ地にも育ったというこの強い野菜は各種ビタミンやカルシウム、タンパク質など栄養面にも優れ、飢饉の時におおいに役立ったそうです。 「隠元禅師」「隠元さん」「隠元おしょう」。どこかで聞き覚えのある名前だけど、よく知らないなあという方は多いのではないでしょうか?隠元禅師は日本三禅宗のひとつ黄檗宗(おうばくしゅう)の開祖として知られる人物です。明国(中国)で黄檗山・万福寺(まんぷくじ)の住職だった隠元は、禅界の重鎮として活躍。その名声は日本にも伝わっていました。▲興福寺山門に残されている隠元御書「初登宝地」 当時、日本では禅宗が衰退していて、それを案じていた長崎・興福寺の三代目唐僧・逸然(いつねん)や長崎の唐寺の檀家たちは、高名な隠元禅師による新たな禅宗の伝来を願います。そして来日を懇願する書状を数回にわたり送り届けました。長崎の唐寺からの度重なる懇願に心を打たれたのでしょう、この時63才だった隠元は日本への渡海を決心。30名の弟子をはじめ仏師、絵師など職人らも一緒に引き連れて来日しました。 長崎に着くと逸然をはじめとする唐僧たちや長崎奉行、そして檀家らの大歓迎を受け興福寺へ行きます。ここで大勢の聴衆に禅学思想を伝えたそうです。興福寺には隠元の徳を慕う人々が全国から集まり、寺では外堂を建て増して集まった人々を住まわせたほどでした。(^^)大盛況!▲ゆったりとした南方風の興福寺大雄宝殿(本堂) 日本の僧侶の質問に丁寧に答え、座禅の教えを広めた隠元。彼は当初、3年したら帰国するつもりだったといいます。しかし長崎滞在から1年後、江戸に上がったところで四代将軍家綱に日本にとどまるように言われ、この国への永住を決意。そして京都に黄檗宗の総本山として故郷の寺と同じ名の万福寺を開山します。それから81才で亡くなるまで広く人々に慕われ尊敬されたそうです。 日本での隠元は建築や書画など明の文化をもたらし大きな影響を与えました。この他、煎茶や普茶料理(ふちゃりょうり/中国僧の精進料理)を伝えるなど、計り知れない功績を残しています。そんな隠元に歴代の天皇は折にふれ敬意を表して、号を授けています。近年では1972年(昭和47年)に「華光大師」の号が授けられていて、その数は合計6個にも及びます。(@o@)GREAT!

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  • 第54号【長崎の「孔子廟」】

     厳しい残暑が続くとばかり思っていたら、急に涼しくなった長崎。全国的にこういう天候らしいのですが、いきなり訪れた秋についていけず、周囲では体調をくずす人が続出中。あなたは大丈夫ですか? (^o^)寝冷エニ御用心! さて秋といえばイベントや祭の多い季節です。長崎の観光スポットのひとつ孔子廟(こうしびょう/大浦町)でも今月29日に孔子の生誕を祝う「孔子祭」が開催されます。孔子廟とは、中国の思想家・孔子の霊を祭ったところ。長崎の孔子廟は明治23年(1893)中国清朝政府と華僑の人々によって創建された日本で唯一の中国人による本格派の孔子廟なのです。その建物は中国の華南と華北地方の建築様式が合体。独特の曲線を描く屋根には、皇帝の色を表す黄色の瓦、建物全体には魔よけと慶びを表す朱色が用いられるなど、中国本廟のオリエンタルな伝統美が息づいています。(^^)極彩色ガキレイカヨ!▲鮮やかな彩りの孔子廟 孔子祭は中国・明時代(1368~1644)の様式を再現した豪華絢爛の祭で、古式ゆかしい衣装に身を包んだ人々によるパレード、豚・羊などのいけにえを配した立派なおそなえもの、そして獅子舞、龍踊りなど約1時間半にわたって、広くて奥深い中国文化の一端を見ることができます。目の前で繰り広げられる遥か昔の異国の景色はまるで夢の世界のようなんです。この時期、全国各地で孔子の生誕を祝う行事が行われるそうなのですが、本格的なおそなえものをして祝うのは長崎の孔子廟だけなんだそうですよ。またここには「中国歴代博物館」が併設されていて、中国歴史博物館提供の出土文化財や北京故宮博物院提供の宮廷文化財を展示。これも見逃せません。(@@)壮大ナ歴史ガワカル!▲華僑の方による本格的な孔子祭 生誕から今年で2552年目を迎える「孔子」。そう、彼は紀元前のお方なのです。ごく簡単にご紹介すると、紀元前551年、魯の国に生まれた孔子は中国、春秋時代の学者・思想家で、儒学の創始者。「性善説」の孟子(もうし)や「性悪説」の筍子(じゅんし)らを門下として輩出し、キリスト・釈迦・ソクラテスとならぶ世界四聖(しせい)の一人として知られています。(・◇・)ツマリ、大聖人!▲優しそうなお顔の孔子(中国切手より) 孔子の言行や弟子らとの問答などを集録した書「論語」は、孔子が理想とした思想や人格に接することのできる、いわば聖書のようなもので、現代も広く読まれています。孔子廟の入り口ではその中でも有名な「朋(とも)、遠方より来る、亦(また)楽しからずや」という一節が出迎えてくれます。私はこの意味を単に「懐かしい友達が遠くから訪ねて来てくれてうれしい」というふうに思っていたのですが、これは学問の道を述べたもので、「自分の学問が成就すると、同じ道を志す人が、遠くからも訪ねて来て、教えを請うようになる。こうなれば自分の学んだことが広く伝えられ、共に善に帰することができるのだから、楽しいことだ」というような意味があるのだそうです。 現代も色あせず人に教えを説く論語。孔子廟をめぐりながら、いつかじっくり読んでみたいと思ったのでした。(=_=)読破スルノハ大変ダ・・

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