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  • 第98号【平和を願うトンチンカン人形】

     8月9日「長崎原爆の日」まで、あと2週間余り。そこで今回は「平和」への願いを込めて作られた「トンチンカン(頓珍漢)人形」をご紹介します。実は以前にもコラムに登場していて、その際、読者の方々からもっと詳しく知りたいというリクエストがあったものです。(^◇^)/第51号ヲゴ覧下サイ▲ひとつひとつ手作りで個性的な“頓珍漢人形” トンチンカン人形は高さ2~7cmほどの小さな素焼きの人形です。ひとつひとつ手びねりで作られていて、どれも姿形が違います。日本のハニワを思わせる原始的な魅力を持つフォルムは、泥絵の具で彩色され、表情もたいへんユーモラス。かわいいモンスターたちといった感じもしますが、そこには哀感が漂い、見る人の心にしっかりと触れて来ます。(’。’)ナゼナノ? この人形の作者は久保田馨(くぼたかおる)さん(1928~1970)という愛知県出身の方です。彼が長崎にやって来たのは24才の時でした。▲絵や俳句、詩なども展示されています。戦後7年経ったその頃の長崎は被爆の隠れた傷跡が残っていたものの、爆心地付近の浦上は緑が萌え、人家も建ち、人々の表情もいくぶん明るくなっていたそうです。平凡でのどかな雰囲気が漂うこの街に暮らすことになった久保田さんは、間もなく長崎焼の人形に出会い、心を動かされ、自らも人形を作るようになります。 26才で長崎市の愛宕山に設けた工房は「トンチン館」と称し、わずか2坪ほどの広さでした。ここで約30万体の「トンチンカン人形」が作られたそうです。「トンチンカン」の名の由来は人形が焼けた時にする音色だからとか、鍛冶屋が鳴らす「トンチンカン」という音が好きだったから、などと言われているそうですが、平和を強く願った久保田さんが原水爆をつくった人間のおかしさや悲しさを「トンチンカン」という言葉に託したとも言われています。 トンチンカン人形は昭和29年頃から長崎市内の土産物店で1個30~70円で売られ、購入した観光客とともに全国各地へちらばっています。昨年、旧香港上海銀行長崎支店記念館2階にオープンした展示室の「来場者の感想ノート」には、20数年も前から長崎に来るたびに、この人形を探し求めたという人の話がありました。(゜▽゜)エッ、アナタモ買ッタ!? 作者の久保田さんは42才の若さでこの世を去っています。やがて店頭からもその姿は消え、もう買うことはできません。しかし30年以上も経った今に至るまで静かに根強くその魅力と価値は語り継がれ、こうして新しい形で私たちの前に現れました。トンチンカン人形の何かを叫んでいるような不思議な表情。そこに再会の意味が隠されているのかもしれません。v(^-^ )LOVE&PEACE!▲後期(S35~45頃)の作品※参考にした本/「ざくろの空~頓珍漢人形伝~」(渡辺千尋著/河出書房新社)

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  • 第97号【チンチン電車1番系統・赤迫~正覚寺】

     暑中お見舞い申し上げます。お中元の季節ですね。デパートに勤める友人によると、お中元コーナーのピークは今週末の連休(7/20・21)になるだろうということです。お品選びにまだ迷っていらっしゃる方や、出かけるのはちょっとおっくうという方、よろしかったら我が社のホームページからお中元のご注文をなさいませんか? (〃ー〃) 冒頭CMでゴメンナサイ。 さて今回は長崎名物・チンチン電車から「1系統・赤迫(あかさこ)~正覚寺下(しょうかくじした)」をご紹介します。この「1系統」は利用客が最も多いといわれ、長崎市北部の赤迫から住吉、浦上と国道を南下して、長崎駅、大波止、出島、さらに長崎市の中心繁華街の西浜町、思案橋を経て正覚寺下までを結んでいます。全長は7.3km。始発から終点までの所要時間は35分弱。料金はご存じの通り、どこで降りても一律100円です。\(∩∩)アリガタイ、安サデス▲500円で1日乗り放題!!1日乗車券は観光にお薦め 公的機関が集中する市中心部を通る「1系統」は、沿線に住む多くの市民にとっては大切な生活の足。観光客にとっても平和公園、原爆資料館、原爆落下中心地(松山下車)や原爆で片方だけが残った山王神社の一本柱鳥居(大学病院前下車)、日本26聖人殉教の地(長崎駅前下車)など、平和と祈りアピールする観光スポットへ行くのに、たいへん便利な路線として知られています。 またこの「1系統」だけが五島町、大波止、出島という、長崎港そばの電停を通ります。近年この辺りは大型ショッピングセンター「夢彩都」やレストランやショップが港沿いに軒をつらねる「出島ワーフ」(大波止下車)のオープンで電停の利用者数がぐんと増えました。さらに復元が着々と進む「出島」も、走る電車内(築町~出島間)からつぶさに見られるのも魅力です。(`▽´)アッ、オランダ商館ダ!▲電車内から撮った復元中の出島 終点・始発となる「正覚寺下」の電停に停車している車窓から下を見おろすと真下を銅座川が流れています。そういえば次の電停は「思案橋」。その昔、この川の先に思案橋がかかっていました。一方「赤迫」の電停の方はというと、国道上で路線がぷっつり途切れ、終点・始発と思えないようなこぢんまりとした印象です。ここはさらに市北部にある滑石(なめし)方面へ路線を延長する話がずいぶん前からあるようですが、今のところそういう動きは見えませんでした。(¨)延長サレルト、イイナ▲正覚寺電停に止まる電車内から見える銅座川 長崎観光でもし時間が空いたら、ぜひ「1系統」に乗り込んでみませんか?この時期、冷房のきいたチンチン電車は、街中を走る「涼」の場。乗車する街の人々や車窓からの景色など、電車で長崎ウォッチングはけっこう快適で楽しいですよ。※参考にした本/長崎のチンチン電車(田栗優一・宮川浩一 著)

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  • 第96号【梅雨から夏の空もよう】

     梅雨入り後、しばらくは晴天の日が多かった長崎。もしや今年は空梅雨(カラツユ)?と思っていたところ、7月に入ってからはかなりジメジメした雨天日が続くようになりました。どうやら梅雨は最盛期に入ったようです。冷房の効いた部屋から外に出た時の、あのムッとした感触を味わう度に、梅雨がないといわれる北海道が羨ましくなります。(‐ε‐カナリ爽快ラシイ▲シットリ雨の中島川沿い ところでこの季節をなぜ「梅雨」というのか、ご存じですか?その語源にはいくつか説があるようです。ひとつは中国大陸の揚子江流域あたりで梅の実が熟す頃に訪れる季節だったことから言われるようになったという説。又、「黴(カビ)」が生えやすい季節にちなんで昔、中国で「黴雨」(バイウ)と言っていたところ、のちに語感が悪いので“梅雨“という字を当てたという説。いずれにしても日本へは中国から「バイウ」で伝わったそうで、「ツユ」と言うようになったのは江戸時代からだそうです。(□□)/梅雨ハ、東アジア独特ノ気象デス▲長崎市の花「アジサイ」 これから夏にかけてのお天気が気になるので、福岡管区気象台が6月28日に発表した1ヶ月予報を見てみました。九州北部地方(山口県を含む)では、平年同様、曇りや雨が多く、気温は平年並みか高く、降水量や日照時間は平年並みということでした。(“)梅雨明ケハ、ドウナノヨ!? また近年、よく耳にする「エルニーニョ現象」も気になります。これは南米ペルー沿岸から赤道沿いに東太平洋の広い範囲で、海面水温が上昇する現象のことです。それが起きた年は世界的に異常気象が発生するといわれ、日本でも梅雨明けが遅れ、豪雨も起きやすく、冷夏になるといった傾向になるそうです。ちなみに1957年7月の諫早豪雨、1982年7月の長崎豪雨もエルニーニョ現象の起きた年でした。そこで長崎海洋気象台へ問い合わせてみると、現在「エルニーニョ現象」の兆候が見られ、発生の傾向があるということでした。(゛)大雨ニ気ヲツケマショウ。 南山手にある長崎海洋気象台へ寄ってみました。建物の前の広場にはサクラをはじめウメ、アジサイ、ヤマツツジ、シダレヤナギなど、いろいろな種類の観測用植物が植えられていました。これらの開花や発芽によって季節の進み具合や気象状況の推移が見えて来るのだそうです。気象観測はコンピューター化が進んでいると思われますが、このような観測方法も当然ながら残っているのです。満開の時期を過ぎた気象台のアジサイを見ながら、なぜだかホッとしました。(\´。`/)梅雨明ケハ、マダ、分カリマセン▲長崎海洋気象台の百葉箱と港の眺め※参考にした本/改訂版NHK気象ハンドブック(日本放送出版協会発行)

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  • 第95号【伊王島へ泳ぎに行こう!】

     子供時代の夏の思い出といえば、やっぱり海水浴、ですよね。ジリジリと照りつける太陽の下、元気いっぱいに浜辺へ繰り出したあの頃。くちびるが青くなるまで泳ぎまくったものです。海に囲まれた長崎県は良質の海水浴場があちこちに点在しています。今回はその中から長崎港の沖合に浮かぶ小さな島、伊王島(いおうじま)の海水浴場をご紹介します。\(⌒▽⌒)夏ハスグソコ 長崎港から高速船でわずか19分。伊王島町は、伊王島とすぐ隣にある沖之島からなる町で、3つの橋がこの2つの島を結んでいます。町の総面積は2.25平方kmほどで、人口は約1000人。通りを走る車の数も少なく、のんびりとした静かな町です。 港から自転車で5分ほどのところにある海水浴場は2年前に再整備され「コスタ・デル・ソル」(スペイン語で「太陽の海岸」の意味)という名称で新たにオープンしました。充実した設備はもちろん、カヌーの貸出しや子供用プール、そして随所にバリアフリーも施され、安全に快適に海を楽しめます。でも、何と言っても魅力は全長340mの長いビーチと海の美しさ。周囲を山の緑に包まれて、おおいに自然を満喫できます。(^^)/施設利用&カヌーハ有料デス▲伊王島の美しい海水浴場コスタ・デル・ソル 充実した設備で小さなお子さんがいる家族も若いカップルも、安心して海水浴が楽しめそうな伊王島の海水浴場。ちなみに今年の海開きは先月16日だったのですが、長崎市周辺の海水浴場の中ではもっとも早く、夏を待ちきれない子供たちや家族連れが町内外から集まって元気に泳いだそうです。 ところで伊王島を訪れた時、港でまっ先に目に入るのはオレンジ色した屋根の建物の数々です。実はこれらはスポーツリゾート施設だったところで、今年1月に残念ながら閉鎖してしまったのです。そういうこともあって、島民らの間にはちょっと沈んだ空気もあるようですが、しかしこの島にはまだまだ他にはない見どころがあります。 たとえば港から自転車で7~8分のところにある沖之島天主堂。長崎市の大浦天主堂にも似た歴史あるゴシック式聖堂で、夜はライトアップされ印象的な美しさを見せてくれます。そして島の北端にある伊王島灯台も一度は訪れてほしい場所。この灯台は1866年(慶応2)に米・英・仏・蘭の4ヵ国と江戸条約を結んだとき、観音崎・野島崎・潮岬など全国8ケ所に設置されたもので、鉄造りの洋式灯台としては日本初という貴重なものだそうです。岸壁の上に立つこの灯台から見渡す景色も絶景です。(¨)ゞ近クニアル灯台記念館モ見テネ。▲沖之島天主堂▲岸壁に立つ伊王島灯

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  • 第94号【幻の亀山焼】

     今回は「亀山焼」についてご紹介します。「亀山」と聞いて、坂本竜馬が長崎で組織した貿易結社・亀山社中を思い出された人もいるかと思いますが、実はこの二つの亀山は同じ意味です。というのも、亀山は当時そう呼ばれていた地名(現:長崎市伊良林2丁目)からとったもので、亀山社中は亀山焼が製作されていた施設の一部を借用したものではないかといわれているのです。(∞)真偽ハ定カデハアリマセンガ…▲美しい絵柄の皿や碗が作られた 伊良林にある亀山焼の窯跡を訪ねてみました。場所は竹ん芸でも有名な若宮稲荷神社から南へ少し登った高台。亀山社中跡も近くにあります。そこには「伊良林平公民館」が建ち、そばにレンガに似た石が積み上げられていました。「亀山焼窯跡」と記した立て看板の説明によると、それは窯の奥壁部分になるそうです。もとは登り窯だったらしく、その復元想像図を描いた看板もありました。(゜゜)山ノ傾斜ガ登リ窯ニ適シテタ?▲亀山焼登釜の復元想像図(地元自治会がつくったもの) 亀山焼は長崎お金持ちの町人らによって1807年(文化4)に開窯されました。当初は出島のオランダ人たちが必要としていた"水がめ"を作って販売するのが目的だったそうです。しかし、間もなくオランダ船の入港が激減し、水がめの製造は中止、代わって白磁染付を製作するようになります。陶工に大村藩の波佐見焼や長与焼に携わる人たちを招き、陶磁器原料は有名な天草石を、文様を描く顔料の呉須(ごす)は中国産の良質のものを使用。そうして作られた製品の底には"亀山焼"、"崎陽亀山製"、"瓊浦亀山製"などの銘が入れられました。 亀山焼の大きな特徴に、木下逸雲(きのしたいつうん)、鉄翁(てつおう)、三浦梧門(みうらごもん)といった「崎陽三筆」と言われた画人らや、豊後(ぶんご/現:大分県)の田能村竹田(たのむらちくでん)といった有名な文人墨客も絵付けを行った美しい絵柄があげられます。現在も愛好家達を魅了し、「幻の亀山焼」ともいわれているそうです。( ==)/旦 イイ~仕事シテマス。▲亀山焼の窯跡(奥壁部分) そういえば以前、長崎市立博物館で見た亀山焼には白磁に美しい青でラクダが描かれていました。この他オランダ船やオランダ文字などの図柄があるそうです。伊良林平公民館にも発掘された亀山焼の破片が展示されていて、洒落た文様の皿がありました。それも有名な画人によるものかもしれません。 亀山焼は白磁以外にも積極的に商品開発を行い、青磁やひねり細工、中国の土を用いた蘇州土亀山(そしゅうどかめやま)などを製作しましたが、元々何もなかった所に窯場を開いたこともあって設備等の出費が大きく、経営はずっと苦しかったそうです。途中、長崎奉行所の保護も受けますが、1865年(慶応元年)にとうとう閉窯になりました。竜馬が亀山社中を起こしたのはそれから間もなくのことです。( -_-)旦~ 竜馬愛用ノ湯呑モ亀山焼ダッタソウナ■参考文献/「~土と炎の里~長崎のやきもの」下川達彌 著「長崎歴史散歩」原田博ニ 著「長崎事典」長崎文献社 刊

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  • 第93号【日本最古の現役鉄橋・出島橋】

     例年よりやや遅れて梅雨入りした長崎。降り続く雨はうっとうしいものですが、新緑の季節後さらに輝きを増した樹木や、雫にしっとり濡れる紫陽花たちの姿は心を潤すような美しさです。梅雨は自然界だけでなく人間にとっても慈雨(じう)なのかもしれませんね。(^^)/梅干、梅酒作リノ季節デス! 今回は中島川の下流に架かる鉄橋・出島橋をご紹介します。出島橋は出島の北東隅で中島川をまたいで長崎県庁のある江戸町側に架かっています。1890年(明治23)に造られました。以前、日本で最初に造られた鉄橋として「くろがね橋」をご紹介しましたが、出島橋は現役として使用されている鉄橋の中で日本最古のものです。(¨)/橋齢、112才!▲江戸町側からの出島橋 長さは36.2m、幅5.5mという小さなこの橋は、色は淡白いブルーで全体は直線を活かしたすっきりしたデザインです。細部は小さな鉄材が美しく組まれ、明治期のものとは思えないモダンな雰囲気を漂わせています。ユニークなのは両端の上部コーナーにアクセントのように施された唐草模様と、上部中央に付いた黒い銘板です。この銘板はコウモリを思わせるモチーフになっていて「出嶋橋DESHIMA-BASHI」と金色で刻まれています。制作者らの細部へのこだわりが感じられるところです。(^〇^)中国ではコウモリはラッキーシンボル! 実はこの橋はアメリカで制作された後で日本に輸入されています。その辺の経緯はわからなかったのですが、橋の材質は練鉄で、構造は専門的な言葉を使うと『練鉄のピン結合のプラットトラス構造』というものだそうです。随所に小さな部材をレース編みのように細かく組上げているのが見られますが、これは当時、大きな鉄の部材を造る技術が確立されていなかったため、そうすることで大きな鉄の役割を果たしているのだそうです。 ところでこの橋は、完成当初とは架かっている場所も名前も違っています。最初は現在地より下流で出島の北西隅に架かる玉江橋のすぐ近くに架かっていました。名前も「新川口橋」と呼ばれていたそうです。▲玉江橋から見える出島橋現在地へ移転したのは完成から20年後の1910年(明治43)のことです。その時代は近代化を進める国策により出島周辺では港湾改修工事が行われています。出島と江戸町側の間では、中島川のつけ替え(変流工事)が行われ、川幅を広くするため出島は18mも削られました。 現在、出島と江戸町側の間を中島川がゆったり流れていますが、もともとここは海で、陸地との距離は現在の川幅の半分以下もなかったということになります。そしてさらに出島の海側も埋め立てられ、海に浮かんでいた出島はすっかり内陸部になってしまったのです。(><;残シテイテホシカッタ 出島周囲の姿を大きく変えたこの工事は1885年(明治18)から1904年(明治37)まで行われました。ほぼこの時代に重なる時期に完成・移転した出島橋は、埋め立てられていく出島の様子を間近で見ていたのです。そんな遠い時代から今の姿でしかも現役で働いている出島橋。九州の土木遺産として名を連ねる名橋のひとつです。

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  • 第92号【逆さVOCマークの朱印船貿易商・荒木宗太郎】

     感動を呼ぶ華麗なパフォーマンスと日本代表の快進撃! 巷は連日ワールドカップの話題でもちきりですが、これからひととき、サッカーも日常も忘れて長崎時空の旅へご一緒しましょう。時代は豊臣秀吉が天下統一した翌年の1588年(天正16)へ。熊本肥後から長崎へ向かうひとりの武士がいました。この男の名は荒木宗太郎(あらき そうたろう/?~1636)。今回の主人公です。(^^)/ハジマリ、ハジマリ 宗太郎自身の話に入るその前に。皆さんは長崎くんちの演し物で、本石灰町(もとしっくいまち)の御朱印船(ごしゅいんせん)をご覧になられたことはありますか? 朱色の豪華な船で船体や帆、船旗にはオランダ東インド会社のシンボル「VOC」を逆さにしたようなマークが記されています。この「逆さVOCマーク」の御朱印船こそ、荒木宗太郎を今に語り継ぐものなのです。▲長崎駅構内に展示されている御朱印船(三菱重工長崎造船所製)▲逆さVOCはこんな感じ 宗太郎は長崎で出島貿易が始まる直前の時代に朱印船貿易商を営み大成功をおさめた豪商です。長崎の飽之浦(あくのうら)に居宅を構え、長崎惣右衛門と名乗りました。本石灰町はその宗太郎が朱印船貿易でマカオから運んできた漆喰(しっくい)の原料を荷降ろしする場所だったことからこの町の名前が付いたそうです。(□□)/唐では「石灰」をシックイと発音。 ここで朱印船貿易について簡単にご説明します。秀吉はキリシタン禁教政策の一方で海外貿易の魅力を捨てきれず、1592年(文祿1)、許可状をもって認可する政策をとりました。その許可状(朱印が押されていた)を持つ船が御朱印船です。この制度は鎖国体制強化で日本人の海外渡航が禁止された1635年(寛永12)まで続き、その間、約350隻以上の御朱印船が台湾、フィリピン、ジャワ、カンボジア等、東南アジアの19地域に渡り、各地に日本町(日本人居住地)がつくられるほど盛んに交易が行われました。 宗太郎は勇気ある行動派タイプだったようで、他の貿易商と違い自ら船頭になって海を渡り、東南アジア各地と交易で巨万の富を得ました。そんな中で、何度か訪れたトンキン王国(現在のベトナムの一部)の王に見込まれて、なんと王の娘である王加久(ワカク)をお嫁にもらいます。その王女を連れて長崎に入った時の行列は、多くの侍女や召し使いも同行し、たいそう華やかだったそうです。▲飽の浦公園側の荒木邸 それからというもの長崎の人々は華やかな行列を見ると「アニオ様の行列のごたる(ようだ)」といったそうです。アニオとは王后を意味する「阿娘(アニヨン)」という言葉が訛ったものです。宗太郎はアニオ様を大事にし、夫婦は生涯仲むつまじく暮らしたそうです。ちなみに二人は命日も同じです。(^_^)/アニオさんが10年長生きしました さて宗太郎の船が掲げた「逆さVOCマーク」ですが、海賊がオランダ東インド会社と間違えて襲って来ないようにするためと伝えられています。宗太郎の生前はオランダ商館は平戸にありました。東南アジアを駆け巡っていた宗太郎はその頃にわかに東南アジアで力を付けていたオランダの力を見抜き、そのマークの威力を利用することを思い付いたのかもしれません。( “)/長崎食文化、第3回ターフル料理編も併せてご覧下さい。

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  • 第91号【旬の魚、アラカブ、アジ、イサキ】

     長崎を訪れた人に“魚が安くておいしいところですね“と、よく言われます。長崎の近海は五島灘や対馬海流など好漁場に恵まれ、また海岸線も漁に適したリアス式海岸で、昔から漁業が盛んな土地柄です。おかげで私たちは水揚げされたばかりの新鮮な魚を比較的安価に手に入れることができ、刺身や焼き魚、煮つけなどにして、旬のものを一年中いただいています。 イタダキマァス ( ^∇^)y= >°)))彡 ということで今回は、この季節に長崎の食卓を賑わしている魚たちを何匹かご紹介したいと思います。まずひとつめは「アラカブ」です。カサゴ、ガシラとも呼ばれる黒褐色の魚で、小ぶりでちょっとゴツイ顔をしています。淡白でクセのない白身魚なのでいろいろな調理法でいただけますが、近所の魚屋さんでリサーチしたところ、断然人気は思ったとおり「味噌汁」でした。アラカブの出し汁は、ほのかに甘い磯の香と独特の風味がして、たまらないおいしさです。この魚、普段は磯の岩場に棲み、よく動き回っているので身が引き締まっています。火を通すと骨離れが良く食べやすくなるのもいいところです。(⌒┐⌒)スキデスARAKABU!▲ユニークな姿をしたアラカブ▲一番人気はアラカブの味噌汁 「アジ」は、初夏がもっとも脂がのっておいしくなるといわれています。大衆魚ですが、近年では全国的に漁獲量が減少気味で高級魚になっているそうです。長崎県のアジの漁獲量は全国でも有数です。最近では「ゴンアジ」といって五島灘産のアジが長崎ブランドとして全国的に知られるようになりました。これも脂がのり、たいそう美味だそうです。 私はアジの小ぶりのものが手に入ると南蛮漬をよく作ります。長崎ではお正月にベニサシという魚を使った南蛮漬が有名ですが、アジは一年を通して手に入る魚なのでこちらの方がずっとポピュラーではないかと思われます。甘酢にしばらく付け込んで、骨まで柔らかくなったものを豪快に頭からガブリといただきます。現在、南蛮漬は一般の料理メニューのひとつとして全国で作られていますが、もとをたどればポルトガル人が長崎に伝えたのが最初です。長崎は南蛮漬の本場というわけです。 >><(((・> > ̄*)ガブリッ  ※「長崎食文化・西洋料理編(1)」もご参照下さい。 ところでつい数日前、五島列島に住む友人から我が家に「ブリゴ」が届きました。「ブリゴ」とは出世魚として知られる「ブリ」の子供という意味だそうで、地元では「ヤズ」、「ワラサ」、「ネリゴ」など他にもいろんな名称で呼ばれているそうです。「ブリ」といえば冬場の「寒ブリ」が有名ですが、今の時期は、出世コースを泳ぎはじめた成長途中のものが釣れるようです。刺身にしていただきました。もちろん「ウマカー!」です。▲友人から頂いた「ブリゴ」刺身でいただきました。 これから夏にかけて、イサキ、アゴ(トビウオ)、ケンサキイカなどの最盛期がやって来ます。その味を思い浮かべてひとりニンマリ。長崎の海の幸は、人の幸につながってまーす。(⌒∪⌒)yサチオオカレ

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  • 第90号【南山手のユニークな坂】

     ユニークな名前の坂を散策しにグラバー園のある南山手へ行って来ました。長崎は今、修学旅行シーズンなので、学生さんたちの姿が目立ちます。横に広がってゾロゾロ歩く彼等の間をすり抜けながら目的の坂道へ向かっていると、グラバー園の先にある「コンスイ通り」と呼ばれるあたりで、パタリと人の姿が見えなくなりました。どうやら観光の方々は、グラバー園の向こう側まで足をのばす人はいないようです。(゜◇゜)ハッ、誰モ、イナイ!▲コンスイ通りはカップルへお薦め 今回、歩いた南山手界隈は、オランダ坂のある東山手とともに、安政の開国後、外国人居留地として造成された土地です。かつてこの一帯には各国の商館やホテル、銀行、洋風住宅、領事館等が建ち並び、ポルトガルやロシア、ベルギー、イギリスなど各国の人々が往来しました。その華やかな居留地時代のハイカラな雰囲気は今も通りや佇まいに残されています。(¨)港町・神戸ニ似テマス。 さて、くだんの「コンスイ通り」は石畳でレンガづくりの塀が続く洒落た通り。長崎港の眺めも良く、静かな佇まいはカップルにお薦めです。「コンスイ」とはロシア語で領事館を意味するそうで、居留地時代、近くにロシア領事館があったことからそう呼ばれているとか。実はこの通りの先には「コンスイ坂」と呼ばれる坂が待ち伏せています。車道としても利用されているその坂は傾斜がたいへん急で、坂の下に「勾配率20%」の標識が掲げてありましたが、それ以上あるような気がしました。(゛)シンドソウ。 そのコンスイ坂は、下から眺め見るだけにして、さらに南西へ数分のところにある「ドンドン坂」へ行ってみました。そこは石畳の坂道で、数年前のみろくやのCMにも登場したとても雰囲気のある場所です。私の歩測!?では長さが約140m、幅は約170㎝で車は通れません。この坂も勾配率20%の標識があり、下りは歩き出したら止まらない感じです。上まで登りきると港の景色が見えてなかなかいい感じです。▲絵葉書になりそうな雰囲気のどんどん坂 それにしても気になるのはこの名前。地元では「雨のドンドン坂」とも呼ばれているのですが、坂の横にあった看板には『ダラダラ坂→ドロドロ坂→ドンドン坂と移り変わり、雨が降ると流れが急なので“雨のドンドン坂”となったと言われている』と書いてありました。石畳のエキゾチックな風情が、居留地時代のイメージを彷佛させます。 グラバー園下、南山手8番館のそばにも、通称「地獄坂」という、ちょっと怖い名前の坂があります。その急勾配(勾配率20%)に坂の上の住人らが皮肉を込めてそう呼んだのでしょうか? でも石畳で風情ある洒落た表情をしています。幅は約2m20㎝ほどで登りのみ一方通行の車道として利用されていますが、どの車もギューンと音を立て、一生懸命に登っています。ここは車にとっても「地獄坂」のようです。(><)長崎ニハ通称「地獄坂」ガ多イ!?▲登ると実感!? 通称「地獄坂」

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  • 第89号【日本初の鉄橋・くろがね橋】

    先日東京へ出かけた際、隅田川の水上バスに乗りました。 隅田川には勝鬨橋(かちどきばし)、佃大橋(つくだおおはし)、永代橋(えいだいばし)など、 新旧合わせて30余りの橋があります。 大きくて個性的なその橋群の下をくぐりながら思い浮かべたのは、長崎の中島川のことです。 大都会の大きな川と地方都市の小さな川。両極端な存在ですが、違う景色を結び、 人や物の流れを生む「橋」そのものの機能は当然ながら同じで、 橋はその土地柄に応じた表情をするものなんだなとあらためて感じました。 (・・)/水上バスハ、爽快デス! さて話の舞台は長崎・中島川へ。川沿いに民家が軒を連ね和やかな雰囲気が漂っています。 有名な眼鏡橋を中心とした石橋群のあたりは相変わらず観光客の姿が後を絶ちません。 その石橋群からちょっと下った所に今回ご紹介する「くろがね橋」はあります。▲くろがね橋全景 くろがね橋は繁華街・浜町商店街の入り口にあるため、一般市民から観光客までとにかく人通りの多いのが特長です。 今でこそ鉄筋コンクリートの橋ですが、明治元年(1868)に造られた当初は鉄製でした。しかも日本で最初の鉄橋 だったのです。ですから名前も「くろがね=鉄」というわけです。 (^▽^)「テツバシ」トモ呼バレテマス▲当初、橋の両端にあった石柱(現在のくろがね橋のたもと) 鉄でつくられる以前は木の橋がかけられ「大橋」と呼ばれていたそうです。 当時中島川はまとまった雨が降るとよく洪水をおこし、その度にこの「大橋」 を初め多くの橋が流されたといいます。慶応3年(1867)の洪水でまたもや大破 した際に、街の中心部で繁華街に通じるこの「大橋」は堅牢なものにしよう、 ということで鉄橋の建設が決まったのでした。 くろがね橋はオランダ人の技師が設計し、本木昌造らによってかけられまし た。本木昌造といえば「近代印刷の祖」として知られる人物です。なんと当時、 彼は橋の建設にあたった長崎製鉄所の頭取だったのです。そして長崎製鉄所と いえば「軍艦」の修理のため幕末に海軍伝習所がらみで生まれた施設です。こ の長崎製鉄所がなかったら、長崎に日本初の鉄橋は誕生しなかったかもしれま せんね。 ヽ《``》イロイロ、ツナガッテマス▲浜町アーケード入り口から見た「くろがね橋」(向こう側は「築町」) ところで「大橋」から「くろがね橋」にかけかえられた時期は、徳川幕府が 崩壊し、王政復古となった時でした。最後の長崎奉行となった河津伊豆守祐邦 (かわづいずのかみすけくに)は「大橋」が壊れた年(慶応3年)の夏に長崎に 着任し、翌年(明治元年)の正月には江戸へ帰っています。 最後の長崎奉行が去った同年まもなく、新しい時代を象徴するかのように生 まれたくろがね橋。激動の時代を目にした当初の姿から、鉄筋コンクリートに かけかえられたのは昭和6年(1937)のことでした。さらに現在の姿にかけかえ られたのは平成2年(1990)のことです。浜町あたりへ出かけると、必ず渡る 「くろがね橋」。普段は何げに渡っていた橋ですが、歴史を知ってその姿がよ り鮮明に見えてくるようです。(‘’)人ニ歴史アリ、橋ニモ…。※参考にした本/「長崎県文化百選~事始め編~」(長崎新聞社)「長崎事典~歴史編~」(長崎文献社)

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  • 第88号【時代の要請で生まれた英語伝習所】

     最近、英語を勉強している人がますます増えているようです。旅行やインターネットなど国境を越えた交流の機会が増えたからでしょう。ちなみにインターネットの世界で使用されている言語の約80%は英語で、日本語はわずか1%くらいだとか。それにしても日本人はいつから英語を学ぶようになったのでしょう。そのひとつの答えのようなものが長崎にありました。(◎◇◎)Can you speak English? 時代は開国と倒幕の動きに世の中が揺れはじめた幕末。ペリー来航(1853)後、 長崎港にもロシアやイギリスなどの諸外国の船が通商を求めて入港するようになっていました。それまで中国語とオランダ語だけで間に合っていましたが、幕府は英語、フランス語、ロシア語の必要性を感じ、1857年長崎奉行所の西役所(現:長崎県庁)に「語学伝習所」を設けました。特に英語は世界の通用語として重要視され、「語学伝習所」は翌年には奉行支配組頭の永持享次郎宅(現:立山町)に移り「英語伝習所」と改称。これが日本における系統的な英語教育の最初となったのでした。▲英語伝習所碑(立山町:県立美術博物館前) 「英語伝習所」の教師にはオランダ人やイギリス人が雇われ、オランダ通詞や唐通詞、そして地役人の子など一般の有志たちが学びました。当時の授業風景を知る史料は見つけられませんでしたが、きっとチョンマゲ姿の若者たちは英語の文字の上にカナで読み方を入れ、何度も発音しながら学んだに違いありません。(‘▽’)アイ・シンク・ソォ 英語伝習所はその後、「語学所」、「洋学所」、「済美館」など何度も名称変更・移転が行われます。幕末を経て明治に入ると長崎府の管轄となって「広運館(こううんかん)」と改称。後に文部省の管轄となったこの「広運館」は西日本における洋学教育の中心だったそうです。その間、宣教師フルベッキが英語の教鞭に立ち、のちの総理大臣・西園寺公望、大隈重信や副島種臣などもここで学ぶなど、明治維新後活躍する人々が大勢やって来ています。▲西園寺公望が広運館に通った時の仮住まい跡(玉園町) 「広運館」は、さらに改称・移転が続き「長崎外国語学校」となっていた明治19年には「公立長崎商業学校」に合併されました。ちなみにこの商業学校は現在、高校野球の古豪として有名な「長崎市立長崎商業高等学校」の前身です。(^^)みろくやスタッフには同校出身者多数! 「英語伝習所」の、特に幕末から明治期の短い期間に相次いだ改称・移転は、サムライの時代が終わり、世の中が急激に変ぼうしていくスピード感のようなものが感じられます。ところで“伝習所“といえば「海軍伝習所」、「医学伝習所」なども長崎にはありましたが、いずれも幕末に洋学を学ぶための公の機関です。まもなく明治維新を迎え近代教育が始まろうとする時、これらの“伝習所“は日本の近代教育の礎であり、準備期間だったといえるのかもしれません。(・・)ナルホド…。※参考にした本/「長崎県文化百選~事始め編~」(長崎新聞社)「長崎事典~歴史編~」(長崎文献社)

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  • 第87号【唐船が運んで来た、けん玉】

     ゴールデンウイークはいかがでしたか? 前半は晴れ、後半は雨だった長崎ですが、お天気に関わらず観光スポットは様々なイベントが行われ大勢の人出で賑わいました。長崎港での「帆船まつり」や「はさみ陶器まつり」(東彼杵郡波佐見町)などこの時期、恒例のお祭りも大盛況。長崎市民は近場で賢く楽しんでいたようです。(^〇^)! さて今回のテーマ・けん玉は、昔懐かしい玩具の代表的な存在ですが、誰もが一度は手に取って遊んだ記憶があるのではないでしょうか。私の場合は、左右にある大小の皿には何とか玉を乗せられましたが、細いけん先に入れることがどうしても出来ませんでした。玉を自由に操り、得意げになっている男の子をうらやましく思ったものです。▲なつかしいけん玉 ところで、そのけん玉を日本古来の玩具だと思っている方はいませんか? どうやらそれが間違いで、日本のけん玉は1777年(安永6)頃、唐船によって長崎に伝えられたのが最初ではないかといわれています。当時のけん玉は1830年刊の『嬉遊笑覧(きゆうしょうらん)』という本によると、糸でつながったボールを引き上げて、おチョコのようなくぼみに乗せたり、けん先で受けたりして遊ぶもので、うまく出来ない者には酒を飲ませた、というようなことが記されているそうです。(〃∀〃)~● 今でこそけん玉は子供の玩具というイメージがありますが、当初は大人の酒の席のものだったようですね。けん玉が長崎に伝えられたという年は唐船がたくさん入港したそうで、丸山あたりで唐人さんらがお酒を飲む時、けん玉を持ち込んで遊んだことが、全国に広がるきっかけになったのではという説もあるようです。▲復元された唐船飛帆(フェイファン) 日本へ伝わったけん玉。そのルーツをたどるとヨーロッパの「カップアンドボール」という遊びがベースになっていることが分かりました。「カップアンドボール」はコーヒーカップのような「カップ」と、糸をまいて作ったような「ボール」を糸で結んだもので、そのボールをカップに受け入れて遊ぶものです。ヨーロッパでは17世紀初め頃、大流行したそうです。 日本で大人の遊び道具から子供たちのそれへと変わったのは明治になってからでした。「カップアンドボール」は、当時の文部省が翻訳したイギリスの子女教養書「童女筌(どうじょせん)」の中でも「盃及ヒ球」と訳され紹介されているそうです。そして大正初期になると、けんのようなの棒に太鼓型のものを横に刺して十字に組み合わせた、いわゆる私たちが現在けん玉と呼んでいる型が登場します。それは「日月ボール(にちげつぼーる)」の名で売り出され、昭和初期まで子供達の人気を集めたそうです。 現在、スポーツ感覚で楽しまれているけん玉は、技がたくさんあり、奥深い遊技として子供から大人まで愛好家の方も増えているとか。どうやらけん玉は古くて新しい玩具のようです。●~\(“)選手権大会もあるんだって※参考にした本/「長崎県文化百選~事始め編~」(発行/長崎新聞社)

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  • 第86号【日時計と林子平】

     GW真っ只中、いかがお過ごしですか? 今回は出島にある日時計にまつわるお話です。太陽の動きと共に変化する陰の位置で時間を計る日時計。私達が小学生の時に習ったそのシンプルな仕組は、人類が手にした最古の科学装置といわれているそうで、歴史は紀元前1500年までさかのぼるのだそうです。(‘○‘)相当、古イナア 現在、復元工事が進められている出島内には、すでに復元を終え、史料館として利用されている石倉があります。そこには江戸時代の貿易の様々な資料や遺物が展示されていますが、その中に漬け物石にでもなりそうなほどドッシリとした長方形の石が展示されています。これは我が国初といわれる石造りの日時計で、18世紀、出島内の庭園にオランダ商館長が作らせたものです。▲出島にあった日時計唐蘭館絵巻(川原慶賀筆)より(長崎市立博物館蔵) まるで大きな碁盤を想わせる出島の日時計。その表面をよーく見ると、放射状の線が何本も刻まれてあり、時を知らせる日陰棒を立てる穴も空いています。この日時計を作らせた商館長は1766年に出島に赴任したヘルマン・ クリスチャン・カステンスという人ですが、なぜ作らせたのかは分かっていません。この頃、商館長などは機械仕掛けの時計をすでに持っていましたので、庭で作業をする使用人に時を知らせるため?とか、出島の庭を知的に装飾するため?などいろいろ想像がふくらみます。> ┐(゛)┌時間ニ厳シイ人ダッタ?▲日時計がおかれた出島の庭 日本初の出島の日時計。実はそれを模写して作られたものが長崎から遠く離れた宮城県塩竈市の塩竈神社の境内にあります。模写したのは江戸時代の思想家、林子平(はやし しへい/1738~1793)です。子平はもともとは江戸生まれですが、縁あって仙台藩へ仕えました。割合、自由の身であった彼は、たびたび江戸や長崎に遊学。長崎では蘭学者らと親交を持ち、旺盛な知識欲が赴くままに世界地図や地理書を写したそうです。そういう中で子平は出島の庭に設けられた日時計を知り、興味をもったのかもしれません。子平はそれを模写し、仙台へ持ち帰って作ります。そしてそれは後に塩竈神社へ奉納されたのでした。▲日本初の日時計が展示されている石倉(出島史料館分館) 子平は長崎遊学で得た知識をなどをもとに「海国兵談(かいこくへいだん)」という日本全体の国防を説いた著書を出しますが、鎖国中の当時としては世を惑わす思想ととらえられ、幕府に弾圧を受けます。その後、不遇の内に56才で病死しますが、亡くなる直前まで海外へ目を開かぬ幕府に対し、悔しい思いを募らせていたといいます。子平の警告は、まもなく現実となり、幕府は開国を迫る諸外国との交渉に頭を悩ます日々が続くことになります。(・・)ペリーによる開港は1854年のこと かの塩竈神社は学問の府として知られる神社です。子平が模写した日時計は、海外から広く知識を求めた彼の形見であると同時に、大切な事は時を越えて語り継がれていくものであることを教えてくれるようです。

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  • 第85号【初夏の果実・茂木(もぎ)ビワ】

     小さな電球を思わせるやさしいフォルムと、太陽のような色、そしてなによりジューシーなおいしさがたまらない「ビワ」。初夏の味覚として知られるこの果物が長崎で出回るのは、5月中旬から梅雨入り前のわずか3週間ほど。もっともこれは路地ものの場合で、ハウス栽培の早いものでは2月頃から出回っています。▲出荷を待つばかりのビワ ビワといえば子供の頃、近所の庭先に実ったのをこっそり食べ、叱られた事があります。温暖な気候を好むビワを長崎では庭木として育てている家も少なくありません。毎日の食生活にまだ「旬」を楽しむ雰囲気が残っていたその頃、我が家にはビワの木がなかったので、毎年のようにご近所からいただき、「今年もうまかね~」なんて言いながら食したものでした。(^〇^)ビワ、ダイスキ! じつは長崎県はビワの生産量日本一で、とくに「茂木ビワ」は全国的にも有名です。この「茂木ビワ」は江戸時代末期、唐船が長崎にもたらしたといわれています。▲橘湾を臨む茂木の山々当時、長崎の代官の家に奉公していた茂木村の三浦シオという女性が、唐通詞からその種をもらいうけ、自宅の庭に蒔き、成長したものが現在の「茂木ビワ」の原木なのだそうです。このビワは現在「茂木」という品種名がつけられ、全国各地で栽培されています。 その茂木ビワ発祥の地は、長崎駅から車で30分ほどのところにあります。美しい橘湾を見おろす海沿いにあるこの地域は、陽光がまんべんなく当たる山の斜面のほとんどがビワ畑になっています。ビワの木は、実を雨風から守るために袋がけが施され、ちょっと遠めだとそれは白いモクレンの花にも見えます。(“)キレイデス▲袋がけが施されたビワの木々 ビワ畑の続くせまい道路で小さなトラックに出会いました。ハウス栽培で収穫したビワを積んでいたのですが、歩いた方が速いくらいノロノロ運転。聞けば、ビワはとてもデリケートなので、輸送の振動で痛めないためにそうしていたのでした。美しい自然の中、減農薬で手間ひまかけて栽培されているビワ。収穫・出荷も大切に扱われて店頭へ並びます。他の果物に比べて値段がちょっと高い理由はその辺にあるのかもしれません。 価格のこともあってか一般的にビワは、ちょっと高級な果物というイメージがあります。実際、お客様用とか、贈答品、お見舞品などとして購入する人が多いそうです。長崎もそういう傾向は確かにありますが、旬ともなれば外観はちょっとぶこつでも安くておいしいものがけっこう出回ります。ご近所からいただいたり、差し上げたりすることが少なくなったこの頃では、もっぱら“ふぞろいのビワたち“を求めて近所の果物屋さんをこまめにのぞくことになります。これはこれでけっこう楽しいものです。(^^)ゞハイ

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  • 第84号【長崎ことはじめ(チューリップ&クローバー)】

     例年より早く訪れた春に、県下各地の入学式では満開の桜は既になく、まだ芽吹いたばかりのさわやかな新緑が新入生たちを出迎えてくれました。日増しに温かくなるこの時期、アスファルトやコンクリートが施されていない狭い路地や石垣、そして空き地などは、小さな草花たちの初々しい姿でいっぱいです。そんな素朴でありふれた“草ボウボウ“の風景も、自然のたくましさや美しさが感じられ、気持ちのいいものですよね。((o(^◇^)o))元気ガデル感ジ! そんな春から夏にかけての雑草の風景の中に必ずあるのがクローバー(Clover)です。クローバーといえば小学生の頃、幸運のシンボルといわれる「四葉」を必死になって探した経験があります。やっと見つけたのにいつの間にか忘れ、何年も経ってから辞書の間から出て来た、なんて経験のある方も多いのではないでしょうか。▲四つ葉は探せませんでした。クローバー(和名/白詰草) 以前、このコラムでクローバーはオランダ船がガラス製品を長崎港に運ぶ際、輸送時の衝撃から守るためクッション代わりに使ったという話をしたことがあります。だから和名が「シロツメクサ(白詰草)」というのだと。江戸時代にはるばる日本に渡って来たクローバーの原産はヨーロッパで、そこでは四葉は新郎新婦の祝福に使われ、三葉はキリスト教の三位一体の象徴とされるなど、とても神聖なものとされているようです。日本人の私たちにとってクローバーはとても身近な植物だけに渡来種という事実は意外ですよね。 さて今が盛りの花、チューリップ(Tulip)も、クローバーと同じくオランダ船で長崎に運び込まれたのが日本での最初だといわれています。原産は地中海沿岸、中央アジア。語源はトルコ人が頭に巻く「Tulipant(ターバン)」だそうです。確かに形がよく似ていますよね。(⌒^⌒)b ナルホド▲庭先に可愛く咲いたチューリップ チューリップがトルコからヨーロッパに伝えられたのは16世紀の頃だそうで、その後オランダを中心に盛んに品種改良が行われ、17世紀になるとイギリスやフランスなどにも普及しました。この頃からチューリップはヨーロッパで異常なほどの人気を集め、盛んに投機売買されるようになります。これがいわゆる「チューリップ狂時代」です。当時の記録に、高値の球根1個とビール工場が交換されたという話が残っているそうです。まさに常軌を逸した話ですね。 チューリップの生産量が増えて、庶民にも気軽に手が届くようになったのは19世紀に入ってからだそうです。オランダ船が出島へ運んだのが18世紀(1720年)頃だといわれているので、まだまだ貴重な時代に日本へやって来たのだということがわかります。(・・)/日本デノ本格的ナ栽培ハ大正時代カラ 今では日本でも春の花としてたいへんポピュラーなチューリップ。童話の世界にもちょくちょく登場するからでしょうか、小さい子供が描く花もなぜかチューリップが多いような気がします。また愛らしいその姿は見ているだけで幸せな気分にしてくれますよね。縁あって大海原を旅し日本にやって来たクローバーとチューリップ。日本の春を美しく彩ってくれるこの植物たちに心から感謝します。

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