第92号【逆さVOCマークの朱印船貿易商・荒木宗太郎】
感動を呼ぶ華麗なパフォーマンスと日本代表の快進撃! 巷は連日ワールドカップの話題でもちきりですが、これからひととき、サッカーも日常も忘れて長崎時空の旅へご一緒しましょう。時代は豊臣秀吉が天下統一した翌年の1588年(天正16)へ。熊本肥後から長崎へ向かうひとりの武士がいました。この男の名は荒木宗太郎(あらき そうたろう/?~1636)。今回の主人公です。(^^)/ハジマリ、ハジマリ
宗太郎自身の話に入るその前に。皆さんは長崎くんちの演し物で、本石灰町(もとしっくいまち)の御朱印船(ごしゅいんせん)をご覧になられたことはありますか? 朱色の豪華な船で船体や帆、船旗にはオランダ東インド会社のシンボル「VOC」を逆さにしたようなマークが記されています。この「逆さVOCマーク」の御朱印船こそ、荒木宗太郎を今に語り継ぐものなのです。
▲長崎駅構内に展示されている
御朱印船(三菱重工長崎造船所製)
▲逆さVOCは
こんな感じ
宗太郎は長崎で出島貿易が始まる直前の時代に朱印船貿易商を営み大成功をおさめた豪商です。長崎の飽之浦(あくのうら)に居宅を構え、長崎惣右衛門と名乗りました。
本石灰町はその宗太郎が朱印船貿易でマカオから運んできた漆喰(しっくい)の原料を荷降ろしする場所だったことからこの町の名前が付いたそうです。(□□)/唐では「石灰」をシックイと発音。
ここで朱印船貿易について簡単にご説明します。秀吉はキリシタン禁教政策の一方で海外貿易の魅力を捨てきれず、1592年(文祿1)、許可状をもって認可する政策をとりました。その許可状(朱印が押されていた)を持つ船が御朱印船です。この制度は鎖国体制強化で日本人の海外渡航が禁止された1635年(寛永12)まで続き、その間、約350隻以上の御朱印船が台湾、フィリピン、ジャワ、カンボジア等、東南アジアの19地域に渡り、各地に日本町(日本人居住地)がつくられるほど盛んに交易が行われました。
宗太郎は勇気ある行動派タイプだったようで、他の貿易商と違い自ら船頭になって海を渡り、東南アジア各地と交易で巨万の富を得ました。そんな中で、何度か訪れたトンキン王国(現在のベトナムの一部)の王に見込まれて、なんと王の娘である王加久(ワカク)をお嫁にもらいます。その王女を連れて長崎に入った時の行列は、多くの侍女や召し使いも同行し、たいそう華やかだったそうです。
▲飽の浦公園側の荒木邸
それからというもの長崎の人々は華やかな行列を見ると「アニオ様の行列のごたる(ようだ)」といったそうです。アニオとは王后を意味する「阿娘(アニヨン)」という言葉が訛ったものです。宗太郎はアニオ様を大事にし、夫婦は生涯仲むつまじく暮らしたそうです。ちなみに二人は命日も同じです。(^_^)/アニオさんが10年長生きしました
さて宗太郎の船が掲げた「逆さVOCマーク」ですが、海賊がオランダ東インド会社と間違えて襲って来ないようにするためと伝えられています。宗太郎の生前はオランダ商館は平戸にありました。東南アジアを駆け巡っていた宗太郎はその頃にわかに東南アジアで力を付けていたオランダの力を見抜き、そのマークの威力を利用することを思い付いたのかもしれません。
( “)/長崎食文化、第3回ターフル料理編も併せてご覧下さい。