第94号【幻の亀山焼】
今回は「亀山焼」についてご紹介します。「亀山」と聞いて、坂本竜馬が長崎で組織した貿易結社・亀山社中を思い出された人もいるかと思いますが、実はこの二つの亀山は同じ意味です。というのも、亀山は当時そう呼ばれていた地名(現:長崎市伊良林2丁目)からとったもので、亀山社中は亀山焼が製作されていた施設の一部を借用したものではないかといわれているのです。(∞)真偽ハ定カデハアリマセンガ…
▲美しい絵柄の皿や碗が作られた
伊良林にある亀山焼の窯跡を訪ねてみました。場所は竹ん芸でも有名な若宮稲荷神社から南へ少し登った高台。亀山社中跡も近くにあります。そこには「伊良林平公民館」が建ち、そばにレンガに似た石が積み上げられていました。「亀山焼窯跡」と記した立て看板の説明によると、それは窯の奥壁部分になるそうです。もとは登り窯だったらしく、その復元想像図を描いた看板もありました。(゜゜)山ノ傾斜ガ登リ窯ニ適シテタ?
▲亀山焼登釜の復元想像図
(地元自治会がつくったもの)
亀山焼は長崎お金持ちの町人らによって1807年(文化4)に開窯されました。当初は出島のオランダ人たちが必要としていた"水がめ"を作って販売するのが目的だったそうです。しかし、間もなくオランダ船の入港が激減し、水がめの製造は中止、代わって白磁染付を製作するようになります。陶工に大村藩の波佐見焼や長与焼に携わる人たちを招き、陶磁器原料は有名な天草石を、文様を描く顔料の呉須(ごす)は中国産の良質のものを使用。そうして作られた製品の底には"亀山焼"、"崎陽亀山製"、"瓊浦亀山製"などの銘が入れられました。
亀山焼の大きな特徴に、木下逸雲(きのしたいつうん)、鉄翁(てつおう)、三浦梧門(みうらごもん)といった「崎陽三筆」と言われた画人らや、豊後(ぶんご/現:大分県)の田能村竹田(たのむらちくでん)といった有名な文人墨客も絵付けを行った美しい絵柄があげられます。現在も愛好家達を魅了し、「幻の亀山焼」ともいわれているそうです。( ==)/旦 イイ~仕事シテマス。
▲亀山焼の窯跡(奥壁部分)
そういえば以前、長崎市立博物館で見た亀山焼には白磁に美しい青でラクダが描かれていました。この他オランダ船やオランダ文字などの図柄があるそうです。伊良林平公民館にも発掘された亀山焼の破片が展示されていて、洒落た文様の皿がありました。それも有名な画人によるものかもしれません。
亀山焼は白磁以外にも積極的に商品開発を行い、青磁やひねり細工、中国の土を用いた蘇州土亀山(そしゅうどかめやま)などを製作しましたが、元々何もなかった所に窯場を開いたこともあって設備等の出費が大きく、経営はずっと苦しかったそうです。途中、長崎奉行所の保護も受けますが、1865年(慶応元年)にとうとう閉窯になりました。竜馬が亀山社中を起こしたのはそれから間もなくのことです。( -_-)旦~ 竜馬愛用ノ湯呑モ亀山焼ダッタソウナ
■参考文献/「~土と炎の里~長崎のやきもの」下川達彌 著
「長崎歴史散歩」原田博ニ 著
「長崎事典」長崎文献社 刊