ブログ

  • 第128号【浦上(時津)街道を行く】

     長崎市の北隣で、西彼杵半島の付け根に位置する西彼杵(にしそのぎ)郡時津(とぎつ)町。 近年、長崎市のベッドタウンとして成長したこの町は、古くから交通の要所として知られ、 江戸時代は浦上街道(別名、時津街道)の道筋として栄えたところでもあります。 (^ー、^)名物 "時津饅頭" オイシカヨ 江戸時代、海外の文物を求めて全国の商人や文人墨客が往来した長崎街道は、 長崎から東に位置する日見峠を経て、矢上~諫早~大村~松原~彼杵、 そして佐賀県の嬉野、福岡県小倉へと続くルートがよく知られています。 しかしこのルートは時代によっていくつかのコースがあったそうで、 その最も古いコースといわれているのが長崎~時津を結ぶ「浦上街道(別名、時津街道)」です。 長崎から北上し、同市内を浦上、滑石を経て時津に至り、そこの港から大村湾を舟で渡って彼杵へ。 それから嬉野へと辿る「浦上街道」は江戸時代の中頃まで大いに利用されていたそうです。 旅人らが海路へと乗り換える時津港の近くには今も大名が休憩や宿泊に利用したといわれる茶屋跡があります。▲1817年に建造された茶屋の跡1817年に建てられたというその古い家屋は改築・修理がされていますが、 石垣や屋敷の門に当時を偲ぶことができます。 (´ー` )街道筋ラシイ風情デス そこから1kmちょっと長崎市方面へ向かったところに、この街道で一番の名所があります。 それは「継石坊主(ツギイシボウズ)」、別名「鯖腐岩(さばくさらかしいわ)」と呼ばれる奇岩で、 高さ20mはある大きな岩の上に、さらに不安定そうに岩が載っていて、今にも落ちてきそうなのです。 (;° ロ°) オトロシカ~(怖い)▲奇岩、鯖腐岩 江戸時代の文芸作家で狂歌師として名を馳せた、太田蜀山人(太田南畝)が、 長崎奉行所の役人として在勤していた時、 この奇岩を見て「岩かどに立ちぬる石を見つつをれば になへる魚もさはくちぬべし」と、 落ちてきそうな岩を怖がり、 とうとう鯖を腐らせたという意味の歌を詠ったのが「鯖腐岩」という名の由来だそうです。 ( ’.’)今モ当時ノママ この奇岩を眺め通った後、旅人らはこの街道最大の難所と呼ばれた「打坂峠」を越えなければなりませんでした。 現在は国道が通り、当時の様子は分かりませんが、起伏が激しい峠道だったようです。 そこを抜けるといよいよ滑石、浦上と長崎の市街地へ入ることになります。 ところでこの街道は1597年に、 豊臣秀吉のキリスト教禁止令によって西坂の丘で殉教した「日本二十六聖人」たちが通ったことでも知られています。 京都や大阪で捕らえられた彼らは、長崎で処刑される前夜、 彼杵から大村湾を横断して時津へ着き、舟中で一夜を過ごしています。 浦上街道は彼らの聖なる足跡を残した最後の道だったのです。 (・_・、) 悲シクモ感動的ナ聖人タチデシタ▲「日本ニ十六聖人上陸の地」の碑

    もっと読む
  • 第127号【松田雅典と缶詰】

     スーパーに並ぶたくさんの缶詰。果物、魚介類、野菜、飲み物、etc…。 現在日本で800種ほどの缶詰があるそうです。 そのまま飲んだり、食べたり、料理の材料や非常食として常備しているご家庭も多いことでしょう。 (^^)缶チャンポンハアリマセンガ。 加工した食材を缶に入れて加熱滅菌。 密封して永く保存するというその作り方を最初に考案したのはニコラ・アペールというフランス人です。 それは19世紀はじめ皇帝ナポレオンが活躍していた時代で、フランス軍の食糧として大いに活用されました。 当初は缶ではなくビンに詰められていましたが、間もなくイギリスでブリキ缶が発明され缶に詰められるようになったそうです。 日本で初めて缶詰を製造したのは長崎の松田雅典という人物で、19世紀後半、明治時代のことです。 雅典は長崎会所の吟味役を務めていた馬田家の次男として天保2年(1832)に生まれました。 成人して婿養子となり、姓が松田に変わっています。 勤め先は長崎の外国語学校「広運館」(※第88号参照)で、 仕事柄、外国人との接触が多かった影響で、日頃から外国製品に高い関心を寄せていたそうです。 そんなある日、フランス人教師のレオン・ジュリーが、本国から持ち込んだ 牛肉の缶詰を食べている場面に遭遇。なぜ、何ヶ月も前にフランスから持って 来た牛肉が食べられるのかとたいへん驚き、ジュリーからその製法を聞き出し ました。そうして試作品としてイワシの油漬け缶詰をつくったのが日本の缶詰 の始まりだといわれています。(^∇^)雅典ハ“日本の缶詰製造の父”!▲日本最初の罐詰製造の地ちょっと登ると県立図書館が。 その当時、長崎は開港して、港周辺に欧米各国の領事館が次々に立ち並びは じめていた頃で、雅典は長崎にやってくる外国船を眺めながら、缶詰ビジネス が、長崎の重要な産業になると考えます。そうして県知事にかけあい、日本初 となる缶詰工場、「長崎県缶詰試験場」をつくったのでした。 (□□)/場所ハ立山ノ県立図書館ソバ 缶詰製造にあたっては外国から機械を取り寄せたり、何度も試行錯誤を重ね るなど相当苦労したようですが、その甲斐あって、のちに外国へ輸出されるま でになります。さらには日清戦争では兵食にも利用されたそうです。 雅典が明治28年に亡くなった後、長崎では大正初期に「トマト・サージン」 が初めて試作され、製品化。昭和30年頃まで海外に広く輸出されています。 もちろんこのトマト・サージンには、雅典の時代に培った缶詰製造の技術が活 かされていたに違いありません。 (^ー^)長崎ハ、イワシ(サージン)ガイッパイ捕レルカラネ▲2種類のイワシの缶詰缶切不要タイプも増えました。

    もっと読む
  • 第126号【ザボンと西山神社】

     冬、食べ頃となるザボンの実。グレープフルーツにも似た爽やかで甘い香りが魅力の果実です。 ザボンの名はポルトガル語のザンボア(Zamboa)に由来。 またブンタン(文旦)とか、それが訛ってボンタンとも呼ばれることもあります。 (〇_〇?ザボン≒ブンタン▲食べ頃のザボンとザボン漬け 2月初め、ザボン発祥地である西山神社(長崎市西山本町)へ行って来ました。 諏訪神社から北の方の高台へ歩いて15分。発祥といわれるザボンの木が、緑に囲まれた静かな境内の下段にありました。 すでに4代目というそのザボンの木は高さ5mほど。大きな実が細い枝をしならせて、沢山ぶら下がっています。 数えると25個もありました。\(’- ’)1.2.3…♪▲ザボン発祥の地・西山神社 ザボンの種子がジャワから唐船に揺られて長崎に渡って来たのは、1667年のこと。唐船船長が種子を唐通事だった廬 草拙(ろ そうせつ:西山神社を建てた人物)へ譲り、 それを境内に蒔いて成長させたものが最初です。 この初代の木は100年近く生き、その間生まれた新たな種子が長崎周辺や島原半島、鹿児島などへ渡って行きました。 時は移り昭和23年、「長崎のザボン売り」という歌謡曲が大ヒットしました。 が、じつは当時、長崎にザボンは少なかったそうです。 というのも大正5年に害虫が発生し、ほとんどのザボンの木が伐採されていたのです。 しかしこの歌のヒットでザボン人気も急上昇。あわてて長崎駅前にザボン売りが登場します。 この時、急きょ用意されたザボンの多くは、かつて初代の種が渡った鹿児島から取り寄せたものだったそうです。 しかし、その後は長崎のザボンも増産され今では特産品となっています。▲西山神社のザボンの木(^o^)鐘ガ鳴ル鳴ル マリアノ鐘ガ… (--;ウ、歌エルノ? ザボンといって忘れてはならないのが、その皮を砂糖漬けにした、こちらも特産品のザボン漬けです。 その昔、贅沢品だった砂糖をたっぷり使う所が、いかにも長崎らしい気がしますが、 本格的に作られるようになったのは明治時代に白砂糖が輸入されるようになってから。 とはいえ、江戸時代には唐伝来の果物や野菜の蜜漬物の手法があった長崎。 たぶんザボンもその材料になっていたと推測され、現代のザボン漬けにつながる下準備がすでに出来ていたようです。 さてザボンの話ではありませんが、西山神社は正面に彦山を望む、知る人ぞ知る初日の出の名所。 そして毎年、元旦くらいに見頃を迎えることから「元旦桜」の愛称を持つ寒桜があるのでも知られています。 訪れたその日、元旦桜が美しい花びらを境内に散りばめていました。 (^ー^)It's Beautiful !!

    もっと読む
  • 第125号【2003長崎ランタンフェスティバル】

     今年で10年目を迎えた長崎の冬まつりは、いつしか“北の札幌雪まつり、 南の長崎ランタンフェスティバル”とまで称されるようになりました。 夕暮れとともに1万2千個のランタンが一斉にきらめきはじめると、 この寒さもどこへやら、皆、明かりに誘われるように街に繰り出しています。 (^∇^)/只今、好評開催中!2/15迄。▲今年から新設された中央公園会場(メルカ築町近く) 今年はメイン会場の湊公園(新地中華街そば)と同規模の新会場として中央公園会場(賑町電停そば)も設けられました。 そのせいか毎年たいへん混雑していた新地中華街周辺もスムーズに人が流れています。 会場はこの他、眼鏡橋会場、鍛冶市会場、興福寺会場など町の各所にあります。▲いろとりどりのランタン 色鮮やかな容姿とアクロバティックな踊りが見事な中国獅子舞、 しなやかな身体で伝統の妙技を次々に繰り広げる中国雑技、そしてお馴染みの龍踊りなど中国の新年を祝う多彩なイベントが各会場で繰り広げられています。 イベント日程は各会場で配布されているリーフレットやホームページを参考にして下さいね。 ( ̄∇ ̄)/人気イベントハ少シ早メニ行クベシ 極彩色の衣装を身にまとい街を練り歩く「皇帝パレード」や「媽祖(まそ)行列」はこのまつり恒例の人気イベントですが、 さらに今年は10周年記念として「中華大婚礼」(2/11、17:20~19:00)が行われます。 これは中国宮廷風の結婚式を再現したもので、 新郎・新婦がのったお神輿を担いで総勢100名がパレードするそうです。 ( ^o^)/媽祖行列ノ蒔キ物ニハみろくやちゃんぽんモアルヨ。さて、メイン会場で楽しんだ後は近くの唐人屋敷会場へ。 会場の道沿いでは中国茶が振舞われていたり、飲茶を気軽に楽しめるお店もありました。 地元の商店街も通常より長く営業しているようです。 福建会館入口には夜の闇に中国の赤いロウソクが灯って、とても幻想的な雰囲気。 会館の奥から中国民族音楽が聴こえて来ました。 人垣で演奏している人の姿は見えなかったのですが、ランタンの夜にふさわしく、 どこか怪しく切ない悠久の音色を響かせていました。▲中国音楽の演奏が行われている福建会館 新たな節目を迎えた10年目のランタンフェスティバル。 各会場をめぐる中で、人の波に飲み込まれるようにして少しずつ進む一台の車椅子利用者の姿がありました。 今後このまつりが少しでもバリアフリー化され、より多くの方をもてなせるように期待を込めて、 『新年快楽&万事如意』!! (^∇^)(訳:あけましておめでとう&願いが叶いますように)▲ランタン装飾された電車▲中国の赤いローソク▲今年の干支羊のオブジェ▲中国茶をふるまう地元の方

    もっと読む
  • 第124号【長崎の節分】

     春の節分が近いこの時期、スーパーなどでは鬼のお面がセットになった節分用の豆がいろいろ売られています。 邪気を払い、春を告げる行事として古くから行われている節分の豆まき。 「鬼は外、福は内」と年男年女がまいた豆を、自分の年の数だけ食べると1年間病気にならないといわれています。 (´ー`)/イツモ食ベ過ギテマス▲スーパーで良く見る節分セット 長崎の人々に親しまれている節分の行事といえば、おくんちで有名な諏訪神社で行われる「節分祭」です。 夕方から豆まきや古い神札の焚き上げ神事等が行われ、大勢の人々で賑わいます。 年男年女による豆まきは、3回位に分けて盛大に行われます。 1年間お世話になった神札やお守りの焚き上げは、地元消防団が見守る中ではじまり、 人々は暖をとりながら燃え盛る様子をしばし見つめます。 炎と一緒にさまざまな想いも昇華させているのでしょう。▲豆まきが行われる諏訪神社の舞殿 ところで長崎の年配の方には節分のことを「年越し」と呼ぶ人がいます。 節分はもともと中国から渡来した歳末の行事。 立春を新しい年のはじまりとする中国の暦からいえば、その前日の夜をいう節分は、いわば大晦日のようなものなのです。 ( ’∇ ’)中国版大晦日デスネ 江戸時代の長崎にはこの「年越し」に行う「お化け」というユニークな習俗があったそうです。 「お化け」といっても幽霊のことではありません。 例えば女性は男装、男性は女装したり、まさに化け合うというもの。 いつもと違う自分になって大いにはしゃいだそうです。 ヒュ~|||-_||Γ (--;違ウッテ 節分では古くから鬼に仮装する者がいて、その仮装に工夫を凝らすうちにこの「お化け」なる習俗が生まれたという説があります。残念ながら長崎では、もう見聞きしなくなりましたが、京都や大坂方面では伝統的な行事として残っているところがあるそうです。▲諏訪神社で売ってる節分の豆(升入り) さて節分の日のユニークな行事といえば、平戸の最教寺で行われる伝統行事「子泣き相撲」も有名です。 紅白のねじり鉢巻きをした1才位の赤ちゃんを向かい合わせて座らせ、早く泣いた方に軍配を上げます。 これは赤ちゃんのけがれのない泣き声が、厄を払う力があるとして無病息災を祈るもの。 土俵に上がっても、眠って起きない子や、なぜかずっとニコニコしている子もいたりして、勝負がつかないこともあるそうです。 行司役のお爺さんと初々しい赤ちゃんとのコントラス!?も微笑ましいかぎりで、見てる方も気分が明るくなります。 まさに春を告げる節分らしい行事です。エーン( ;ロ;)--> ☆ <--(-.、- )ZZZ…Smile-( @^ー^)--> ☆ <--(>0<; )ワーン

    もっと読む
  • 第123号【キリシタンの村・外海町出津へ】

     美しい岬と入り江の村の風景が交互に続く国道202号線。 西彼杵半島の海岸を北上するこの道路は夕日の名所としても知られる風光明美なドライブコース。 その途中に外海町出津(そとめちょう しつ)はあります。 ( ^∇^)/長崎駅カラ、バスデ約1時間30分▲自然が美しい外海町出津(港) 海岸際まで山が迫り、平坦地が乏しい出津の村。 民家と小さな段々畑が山の斜面に点在し、中央の谷間には出津川が流れ、その先に角力灘(すもうなだ)が広がります。 天から光のカーテンが差し込むその紺碧の海と山の緑に包まれたこの谷間の村で、 一際美しい佇まいを見せているのがマルコ・マリ・ド・ロ神父(1840~1914年)ゆかりの出津教会です。 村を見渡す小高い丘に建つ教会は1882年(明治15)建立。 台風の被害をさけるため、高さは低めで堅牢な造りになっています。▲1882年ド・ロ神父は自ら設計・施工した出津教会。白を基調にした教会の外観は日に照らされて輝き、 屋内も信者さんたちによる掃除が行き届いて、きれいで厳かな空気に包まれていました。 (‘ -‘)神聖ナ気持チニナレマス 出津を含むこの外海の地は、かつてキリシタンの迫害に耐えながら信仰を密かに守って来た、隠れキリシタンの里。 フランス人宣教師のド・ロ神父が主任司祭として外海の地へ赴任したのは、1879年(明治12)。 明治政府がキリスト教禁制を廃止した直後の事でした。 当時、ひっそりと貧しい生活をしていたこの地の人々を救おうと、ド・ロ神父は自ら設計・施工して出津教会を建てます。 さらにイワシ網工場や授産施設を設け、診療所を開いたり、ソーメンやマカロニの製造、 メリヤス織機の技術も教えるなど、まさに万能ともいえる知識を注いで村人の生活向上に尽しました。 (^o、^)特産品ノ、「ド・ロさまソーメン」ハ美味シカヨ!▲シスターが奏でるオルガンの音色に感激 もともとはフランスの貴族出身というド・ロ神父。 これらの活動は私財を惜しみなく投じて行われたそうです。 神父の深くて広い人類愛の精神を垣間見る当時の資料は、 出津教会近くにある「ド・ロ神父記念館」で見る事ができます。 この記念館にはド・ロ神父が弾いた貴重なオルガンもあります。 昨年春、修復されたそのオルガンを館内にいらしたシスターが弾いて下さいました。 とても柔らかくやさしい音色が心を打ちます。♪~(;-;)ジーン 帰り際、教会のそばでアマチュアカメラマンの方に出会いました。 「出津の人々は皆、優しくて素朴」、そんな魅力にひかれ、20年近くもこの地に通い、撮り続けているそうです。 ド・ロ神父の精神が時代を越えて出津の人々に息づいているのでしょう。 m(_ _)m案内シテクレタ地元ノ中学生ノ方、アリガトウ!

    もっと読む
  • 第122号【長崎事始め・バター&チーズ】

    私たちが普段いただいているバターやチーズなどの乳製品。 現代の食生活には欠かせないものですが、もともと日本は肉食や牧畜といった習慣がなく、 牛乳をはじめとする乳製品が普及し一般的になったのは戦後になってからだそうです。 ( ’。 ’) 意外ニ遅イネ 日本では明治維新後に紹介されたといわれるバター。 しかし西洋文化がいち早く花開いた長崎にはすでに江戸時代に「バター」に関する記述がありました。 そのひとつで1818年編集の「長崎名勝図絵」に書かれた、 出島で行われたオランダ正月の宴に出された献立には「牛脇腹油揚げ」、 「牛豚すり合わせ同じく帯腸に詰める」、「家鴨丸焼き」などといったご馳走メニューと並んで「ボートル煮鉢物が四つ」というふうに記されています。 (□。□)/ボートル(boter)=バターデス!▲オランダ正月を描いたもの「蘭人饗宴之図」(絵はがきより) 当時、オランダ人は自分達のためにオランダ船で牛を運び入れ、出島の中で飼っていました。 出島の中には牛の乳を使ってバターを作る職人迄いたといいます。 またシーボルトが残した日記には、貯蔵法が悪く悪臭を放っていたボートルを日本人がカステラの上に塗り、 オランダの味がすると喜んで食べたという内容が記されているそうです。 西洋的な臭みがプンプンしてるとか、西洋かぶれの様子を「バタ臭い」といいますが、まさにバタ臭いエピソードです。 r(-◎_◎-)/江戸時代、バターハ肺結核ノ薬デモアリマシタ※弊社ホームページ「 長崎食文化(オランダ料理編)」参照▲熱々のトースト&バター 実は日本には飛鳥時代に朝鮮半島にある国から帰化した医師で、知聡(ちそう)という人物が、 滋養強壮の薬のひとつとして乳の知識を伝えていて、それが乳利用のはじまりといわれているそうです。 さらにその後、奈良・平安時代になると、牛乳を過熱して凝固させた「酥(そ)」といわれる乳製品が登場。 これもやはり栄養をつける食品として貴族たちの間で珍重されたそうです。 この「酥」が、いわゆる今のバターやチーズに近いものだと推測されています。 しかしこの日本におけるバター・チーズのルーツかもしれない「酥」は、 貴族の歴史の衰退と同時にいつしか消えていく運命にあったのでした。 最後になりましたがチーズは、19世紀になってからオランダから長崎に持ち込まれました。 当時は「長命丸」と呼ばれ、バターと同じように医薬品として扱われていたそうです。 ちなみに日本ではじめてチーズが試作されたのは、 その後まもなくの1875年(明治8年)、北海道でのことでした。▲栄養たっぷりのチーズはまさに長命丸!【参考にした本】■「ながさきことはじめ」(発行/長崎文献社)■「食材クッキング事典」(発行/学習研究社)

    もっと読む
  • 第121号【長崎のスローフード】

     皆様、あけましておめでとうございます。 昨日は七草節句。『セリ、ナズナ、ゴギョウ、ハコベラ、ホトケノザ、スズナ、スズシロ』のおかゆを召し上がった方も多いことでしょう。 この七草がゆは胃腸の調子を整え、ビタミンを補給。 お正月のご馳走づくしのあとの身体をいたわる、生活の知恵が活かされた昔ながらの風習です。 (^J^)無病息災ヲ祝ウ、七草ガユ そんな“昔ながらの食”で連想するのが今、何かと話題の“スローフード”という言葉です。 これは伝統的な食材を使った郷土料理を始め、質の良い食材や料理を大切にしよう、 食卓を囲む時間を豊かにしようというもので、どこで食べても同じ、 安くて効率が良いファーストフードの対極にある食の在り方だといえます。 ( ̄∇ ̄)ハンバーガーモ好キダケド… 海の幸・山の幸に恵まれた長崎には、まさに“スローフード”といえる古くから受け継がれた料理がたくさんあります。たとえば、唐墨(からすみ)。 これは約三百年ほど前から主に長崎近郊の野母崎で作られている珍味で、 近海でとれたボラの卵巣を幾日も塩漬けにし乾燥させたものです。 シンプルな製法ながら塩漬けや天日干しの加減など手間ひまもかかり、おいしくつくるのはなかなか難しいそうです。 その技が人から人へ大切に受け継がれ今に至っています。 【□_□】/形ガ唐ノ墨ニ似テルカラ“唐墨”▲日本三大珍味の一つ、唐墨 五島列島には、かんころ餅という古くから伝わる名物があります。 その昔、地元産のさつま芋を2~3mmに薄く切って天日干しにした“かんころ”は五島の人々の大切な主食だったそうです。 そのかんころに、餅米、砂糖、水飴、ゴマを加えてつくったのがかんころ餅で、素朴で懐かしい自然のおいしさが魅力です。 以前は各家々で作られていたそうですが、最近ではずいぶん減ってきたとか。 ぜひとも守り伝えて欲しい味です。▲素朴なおいしさ、かんころ餅 この他、長崎の卓袱料理、島原の具雑煮、壱岐のウニ飯、対馬の石焼き料理など、 その地域に根ざした昔ながらの料理がいろいろありますが、最後に忘れてはならないのが、ちゃんぽん、皿うどんです。 長崎にこの料理が生まれて、およそ1世紀と言われています。 独特のコシのある太麺や揚げ麺に、旬の野菜や魚介類をたっぷり何種類も使った具。 家庭で作るには具材を揃えたり、切ったりするのがちょっと面倒という人もいるようですが、 実はそういった手間ひまをかけるところに、食の喜びや楽しみがあることを教えてくれるのが“スローフード”だといえます。 手間ひまをかけて作る。旬を待つ楽しみを知る。郷土の風味をいただく。 昔は当たり前だったことを今年はちょっと見つめ直してみませんか。 (^^)/食ベルコトハ生キルコト。大切ニシタイデスネ。▲長崎ちゃんぽん(右)・皿うどん本場のおいしさを是非どうぞ。

    もっと読む
  • 第120号【野母崎町の水仙まつり】

     白く凛とした姿と清楚な香り。冬枯れのこの季節に開花して、私たちを楽しませてくれるニホンスイセンは、 古くから茶花としても利用され日本人にはたいへんなじみのある花です。 今回はこのニホンスイセンをおもいっきり楽しめる場所へ行って来ました。 ┌( ^∀^)┘♪出カケルゾ~ 九州本土の最西端にある長崎半島(野母半島)の先端に位置する長崎県野母崎町。 長崎駅からバスで1時間ほど南下したところにあるこの町には、 五島灘を見渡す海際の小高い丘に「水仙公園」が設けられています。 そこには約1千万本といわれるニホンスイセンが一面に植えられ、 開花のこの時期、「水仙まつり(12/15~1/12迄)」が催されているのです。▲水仙公園(長崎県野母崎町) 「水仙まつり」の初日に出かけてみるとまだ5分咲きでしたが十分楽しめました。 時折、潮風が吹くと花の芳香が鼻先をくすぐります。 ニホンスイセンの香りはアロマテラピー効果があるそうで、心身をリラックスさせてくれるとか。 ちなみに昨年、環境省が全国規模で実施した「かおり風景100選」にも、 この花の甘い香りと潮の香りが混ざりあった独特の香りが選ばれています。 (´ー`)香リデ、リラクゼーション▲花言葉は自己愛(主義)野母崎のニホンスイセン 香りもさることながら公園内にある展望所からは沖合いに軍艦島(西彼杵郡高島町の端島)を望む美しい海原を見渡せ景色もばっちり。 町内外から小さな子供からお年寄りまで大勢の人々が集い、さらには北九州や広島方面からのバスツアーも何台か来ていました。 皆、水仙の丘の小道を和やかな表情で行き交っていました。▲水仙公園の丘から望む景色。左上に軍艦島が見える。 町役場の人によると「水仙まつり」は平成3年から毎冬行われ、今年で11回目になるそうです。 植えられたニホンスイセンは、もともと野母崎町に自生していたもので、その数は約1千万本と公に発表していますが、 それはあくまでも当初に植えた球根数で、 今では年々分球しているため1千5百万本はあるのではないかと言っていました。 水仙公園は3つのなだらかな丘が続いています。 園内には椿も所々に植えられ、そろそろ見頃を迎えようとしていました。かわいらしい小鳥たちとも出会いました。 途中、道で一緒になったおばあさんが「このスイセンは1本に9つくらい花がつくけど、 今はまだ半分くらいね」とこれから先が楽しみだという感じで話していました。 帰りに水仙公園のそばの「のもざき物産センター」で「野母崎水仙の石けん」を購入。 水仙の天然精油が配合され、そのナチュラルな芳香を楽しめる肌にやさしい石けんです。 ( ’∇ ’)/オ土産ニオススメ

    もっと読む
  • 第119号【黄金郷の夢の跡!?】

     ヨーロッパ人が新しい航路や大陸を次々に発見していった大航海時代(15~17世紀前半)。 オランダと日本が長崎出島を通して貿易を始めたのはその時代が終盤を迎えようとする1641年でした。 この頃すでに、日本だけでなくアジア諸国にオランダ、ポルトガル、イギリスなどヨーロッパの国々の船がやって来て交易が行われています。 それにしてもヨーロッパの国々をはるばる東方の彼方まで至らしめた大航海時代の原動力は何だったのでしょう。 それは当時のヨーロッパ人の根底に、東の彼方にあるという黄金郷発見の夢があったからという説があります。 その黄金郷と聞いて私たち日本人がすぐに思い浮かべるのは、やはりマルコ・ポーロ(1253~1324)です。 (^∇^)冒険商人!▲冒険家? マルコ・ポーロ イタリアはベネチアの商人マルコ・ポーロは東方に旅した際、 大帝国(元)を治めていたフビライ・ハンの下で17年間を過ごしました。 その時の体験などを綴った「東方見聞録(とうほうけんぶんろく)」という本で彼は日本をジパングとよび「黄金の国」と紹介しています。 ところでヨーロッパにおける、東方の彼方にあるという黄金郷伝説は、 実はすでに紀元1世紀の頃からあり、当時の地理書にも登場しているそうです。 さらにそれ以前にもギリシャやローマでもそういった伝説が存在していたというから驚きです。 もしそれが事実なら少なくとも2000年近くにわたり、 東方の黄金郷伝説への憧れをヨーロッパ人は抱き続けていたことになります。 ( ’.’)人間ノ欲ヤ希望ガ生ンダ伝説カモ? マルコ・ポーロが亡くなり15世紀に入るといよいよ大航海時代へ突入。 ヨーロッパの国々は競って未知の海にのりだしました。 「東方見聞録」のジパングに憧れを抱き、東洋への航海を夢見ていたコロンブスがスペインの船に乗り、 アメリカ大陸を発見(1492年)したのはこの時代のことです。▲オランダ船は長崎近海でも黄金の島を探したかも!? そして16世紀半ばポルトガル人が日本の種子島に上陸します(1543年、鉄砲伝来)。 そしてこの時以来、ポルトガル人は日本の事情を知ることとなり、 日本はいわゆる「黄金郷」でないことがわかったといわれています。 それから約100年後、さまざまな局面を経てオランダと日本における出島貿易が始まるわけですが、 これでヨーロッパ人の黄金郷の夢は消滅したわけではありません。 何と日本よりさらに東方の海や大平洋上にまで探索は行われ、それは19世紀初頭にまで及んだそうです。 人間の未知なるものへの強い夢や憧れが、黄金伝説をつくったとしたら、長崎出島の時代は、 その夢を追った壮大な歴史の跡のひとつともいえ、夢を追い続けることのすごさを感じます。 /( ’ ’ )マダ黄金郷ヲ探シテル?●参考にした本/「世界の歴史8~ルネサンスと大航海時代~」(集英社)「探訪・大航海時代の日本4」(小学館)「黄金伝説ジパングの謎」(多賀一史著:PHP研究 所)

    もっと読む
  • 第118号【坂の町の新しい工夫】

     深く入り込んだ長崎港。それを取り巻く標高300~400m級の山々。 長崎の市街地はその山の斜面上と、ふもとのわずかな平坦地に形成されています。 江戸時代と今の長崎の地図を見比べると、ずいぶん港や河川が埋め立てられて来たことがわかります。 それだけ平坦地が少なかったという証しです。 長崎の斜面市街地を訪れたことがありますか? そこは民家の間を縫うように狭い階段がくねくねと迷路のように続いています。 斜面で暮らす人々の中には稲佐山も顔負けの美しい長崎の景観を毎日眺めている人もいることでしょう。 しかし良いことばかりではありません。 車の入らない住宅地も多く、ちょっとした買い物にも一苦労という方が大勢います。 特にお年寄りや身体の不自由な方々にとっては大きな問題になっているようです。 ( ’’;)急ナ階段ハキツイ グラバー園の近くの南大浦地区では、そんな斜面市街地での歩行を少しでも楽にしようと今年7月、斜行エレベーターが完成・運行しています。その名も「グラバースカイロード」。 石橋の電停近くの上田町とその高台にある相生町を結ぶこのエレベーターは17人乗り。 高低差50m、31度の急斜面を3分45秒で往復します。 階段をテクテク歩いて登れば20分以上はかかるところを約75秒で行くのですからとても便利です。 (^∇^)/朝6時~夜11時30分迄、無料運行中!▲グラバースカイロード 実際に乗ってみて、その快適さに驚きました。静かでスムーズなのです。 途中3ケ所の乗降場所を経て、終点の市立南大浦小学校下(相生町)に着きます。 学生、OL、主婦、お年寄りなど、周辺に住む人々が大いに利用していました。 また、上からの景色はなかなかのもので、今後ちょっとした観光スポットになるかもしれません。 (^ー^)/グラバー園モ近イ!▲東山手から見たグラバースカイロード 宝町電停から歩いて数分のところにある天神町にも、 斜面地で暮らす人々のためにユニークな斜面移送機器が設けられています。町名にちなんで「てんじんくん」と名付けられたそれは、 リフトで昇降するタイプで2人乗りのコンパクトな設計です。 ( ’ー ’)スキー場ノリフトミタイ?▲天神町の「てんじんくん」 地元自治会の管理のもと、朝8時30分から夕方6時半まで運行。60mの区間をゆっくり約3分半で移動します。 利用するお年寄りにはとても好評のようで、口を揃えて「ずいぶん助かってる」と言ってました。 長崎市内に点在する斜面地域の道は狭いので、こういった機械を設置できないところもあるようです。 今後も斜面いろんなアイデアや工夫の実現が望まれるところです。 ( ’∇ ’)/他ニモアル斜面地ナラデハノ工夫ハ、イズレマタ…

    もっと読む
  • 第117号【大浦のお慶さん】

     今回は幕末~明治にかけて活躍した長崎の商人「大浦 慶(おおうら けい)」という女性の話です。 お慶さんは日本における茶輸出の先駆けをつくり、財を成した人として地元では知られています。 ( ’.’)/女傑トシテ有名▲大浦のお慶さん お慶さんは1828年(文政11)、思案橋にほど近い長崎市油屋町の旧家の生まれ。 家は代々油を売る商売をしていたそうです。 しかしお慶さんの時代には家業は傾いていたらしく、 茶の輸出を始めたのもその再興のためだったと一説には言われています。 茶の取り引きはイギリスの貿易商人ウィリアム・オールトとの間で行われました。 当初、オールトからの発注を受けて、お慶さんは一万斤(6トン)もの嬉野茶を手配し、アメリカへ輸出。 そうして嬉野茶はイギリスやアラビアにも輸出されるようになり、 お慶さんは30代にして茶貿易商として莫大な富みを得たのでした。▲オルト邸(グラバー邸そば)それにしても当時の女性としては珍しく、大胆にも外国人を相手に商売で成功したお慶さん。 きっと国際的な感覚を持ち合わせていたのだと思います。 余談ですが、17世紀初めから19世紀頃まで世界の茶市場は中国茶が独占。 その中で日本茶は中国茶と一緒にヨーロッパなどへ運ばれたそうです。 イギリスは紅茶の本場として有名ですが、それはこの中国茶の時代を経てからのことだといいます。 (・・;)意外ダナ ところでお慶さんには坂本竜馬や大隈重信といった、維新の志士たちのスポンサーであったとか、 一晩で婿を追い出した!?というような、まさに女傑と呼ばれるにふさわしい伝説がまことしやかに伝えられています。しかし実際は志士たちとの関わりを示す史料はなく、 婿を追い出したというのも大正の頃に面白おかしく作られた講談から生まれた虚像のようです。 (^o^)ソレダケ突出シタ人物ダッタト… お慶さんは43才の頃、商取り引きで詐欺行為に合います。 これは遠山事件と呼ばれるもので、その取り調べに際し、長崎商人として、 ひとりの人間として義を持って戦ったといわれていますが、 騙した側が士族や役所関係者だったため結果的に不当な責任を負わされ、 その後、大浦家は没落の道を辿ったのでした。 (´`)時代ガ悪カッタ… そうしてお慶さんは不遇のうちに57才で亡くなります。 「大浦お慶」の名が今も語り継がれる最大の理由は、幕末志士や婿とのエピソードではなく、 茶貿易を成功させる源となったボーダレスな感覚を持つ人柄と、 相手が誰であれ、人として信義を貫こうとした生き方が、時代を越えて心を打つからかもしれません。 (⌒ー⌒*)私モ打タレマシタ…▲お慶さんのお墓(高平町)◎参考にした本/図説・長崎県の歴史(発行/河出書房新社)大浦慶女伝ノート(発行・著/本馬恭子)長崎事典~風俗・文化編(発行/長崎文献社)

    もっと読む
  • 第116号【ちゃんこ鍋のルーツ!?】

     12月も近くなりどんどん寒くなっていくとばかり思っていたら、 長崎では寒さが緩み再び秋にもどったような天気が続いています。 そんなお天気の気まぐれは別として、これからの季節は何と言っても鍋料理。 あったかい鍋をみんなで囲んでふうふう言いながら食べるのはこの季節のお楽しみのひとつです。 ( ̄∇、 ̄;)タベタカ~ 長崎ゆかりの鍋といえば「ちゃんこ鍋」。相撲部屋で作られるあの鍋料理です。 季節の魚や野菜、お肉などいろいろな食材をたっぷり煮込むから、おいしくて栄養バランスが良いのが特長です。 これは相撲部屋ごとにいろいろな工夫と味わいがあるようです。 ▲鶏ガラスープであっさり仕立てのちゃんこ鍋ちなみにお相撲さんの作る料理はすべて「ちゃんこ」と呼び、“食事”という意味で使われています。 ところで、なぜ「ちゃんこ鍋」が長崎と関係あるのだろうかと不思議に思われる方も多いことでしょう。 九州場所といえば福岡ですし、その他の地方巡業でも長崎へ来る機会はとても少ないのです。 しかし江戸時代、長崎と相撲界とはたいへん関係が深く、江戸時代の一時期、 長崎は九州で最初の巡業場所だったそうです。 ( ’o ’)意外?▲江戸時代、相撲や見世物などが行われていた梅園天満宮 長崎と当時の相撲界のつながりを示すものとして、ある力士のお墓が長崎市の蛍茶屋近く(本河内町)にあります。 その力士の名は丸山権太左衛門(まるやまごんたざえもん)。 宮城県出身のこの力士は大関(当時の最高位)にまで進んだ強い力士でしたが、 江戸・京・大坂を経て長崎へ着き、小島の梅園で興行した後、病にかかり亡くなりました。 権太左衛門は、今も故郷の宮城県米山では銅像もつくられるほどよく知られた力士のようです。▲丸山権太衛門の墓(長崎市本河内町) さてちゃんこ鍋ですが、そのルーツは中国。 江戸時代に長崎にやって来た中国人が唐人屋敷で作るようになった鍋料理で、その名も「鉗鍋(チャンクヲ)」。 そしてもうご推察のとおり、長崎に巡業で来ていた力士が、手軽でボリュームもあり、 さらに煮込むので伝染病などの心配がいらないこの料理法を持ち帰ったのが、 ちゃんこ鍋のはじまりだと一説ではいわれているのです。 「鉗鍋(チャンクヲ)」が味も呼び名も日本風にアレンジされ「ちゃんこ鍋」へ転じたということですが、 それにしても"ちゃん"という言葉が気になりませんか?  同じ中国がルーツで、いろんな具材を入れるという意味でもちゃんこ鍋は「ちゃんぽん」と共通するものがあります。 これはきっと何か関連があるに違いありません!?  (⌒∇⌒)/ドッチモ、オイシイ、ソレデイイ!

    もっと読む
  • 第115号【ライトアップでキラキラ、長崎の歩道】

     10月から長崎の夜の街並が今、あちらこちらで美しくライトアップされています。 これは『夜も歩いて楽しめる観光地・長崎』をテーマにした県の観光事業のひとつ。 JR長崎駅から長崎港沿いの大波止~出島。 そして長崎県庁から繁華街・浜町を結ぶ歩道の各所で、 ロマンチックな光の演出が往来する人々の目を楽しませてくれています。☆ . 。. : * ・ ° ☆ .。 (*^▽^*)/キレカヨ~※日没~24時(来年3月末日迄) さっそく出島~大波止~浜町周辺を歩いて来ました。 この辺りの光の演出はその世界では著名な照明デザイナーによるものだそうです。 あちらこちらで樹木の形を活かしたライトアップが見られます。 ちなみにライトアップに使用する器具は、樹木や自然環境に配慮したものを使用しているそうです。▲長崎港と稲佐山 長崎港・大波止の大型商業施設「夢彩都(ゆめさいと)」近くにある遊歩道(元船町)は、 幹線道路から建物に隔てられた静かな通路で、 その道沿いに植えられた樹木にはイルミネーションの装飾が施され、 一足早いクリスマスのようです。 ( ’ー ’)♪ジングルベルガ、聴コエテキソウ▲元船町歩道の樹木に施されたイルミネーション 出島も夜の暗さと静けさを邪魔しない程度のほどよいライトがあたっていました。 出島の扇型のカーブを描く中島川沿いの白壁が、昼とは違った幻想的な表情で浮かび上がっています。 近くに架かる出島橋も光のお化粧でとびきりの美人に。シンプルモダンなその姿が中島川の川面に揺れて、 これまた素敵です。▲出島と中島川 あらためてライトアップされた箇所を見て回りながら感じたのは、光の色や明るさの加減、 そして光をあてられる建物しだいで、ずいぶんいろんな表情が楽しめるものだなということです。中でも他と違った雰囲気を醸していたのは県庁坂。 他の場所が黄色や白っぽいライトが多かったのに対し、そこはグリーン系のライトが使用され、 どこかクラシカルな雰囲気が漂っています。 (^ー^)グリーンッテ目ニ優シイネ▲荘厳な雰囲気!?夜の県庁坂 県庁坂から繁華街・浜町を抜け眼鏡橋のある中島川の石橋群へ。 眼鏡橋、魚市橋、東新橋、すすきはら橋など、 各橋の形を上手くいかしたライトアップが見られ、光の演出者の工夫の跡を感じます。▲おなじみ、眼鏡橋 この他、南山手・東山手の洋館などをはじめ浦上天主堂や駅前の西坂公園と26聖人殉教地にも施されています。 これから寒くなるほどに、ますます市民や観光客の心をホットに灯してくれることでしょう。 今回、健康づくりのため、夜のウォーキングをしている人の姿もけっこう見かけました。 ライトアップを楽しみながら歩けるなんて最高です。 ~~~┌( ^ー^)┘イッチニ、っと。▲石橋群

    もっと読む
  • 第114号【路面電車(5系統・石橋~蛍茶屋)】

     長崎の路面電車は市中心部をこまやかにつなぐ足。 市民生活にも観光にも欠かせない大切な存在です。 今回は5つの路線系統の中から観光客の姿がもっとも目立つ「5系統・石橋~蛍茶屋」をご紹介します。 ( ’∇ ’)/長崎観光スルナラ要チェック!▲蛍茶屋で発車を待つ電車 グラバー園へ行く唯一の路線で、 沿線には観光スポットがたくさん点在するこの「5系統・石橋~蛍茶屋」は全長3.5km。 所要時間は約18分と、とても短い区間です。ルートを簡単に辿ってみましょう。 まず孔子廟やグラバー園のすぐ近くにある始発の『石橋』、『大浦天主堂下』を経て、 長崎港を一望する『大浦海岸通り』、そして長崎駅方面へ行く1系統の路線と接続する『築町』へ。 ここで乗り換えする際、忘れずに「乗りつぎ券」を貰えば目的の電停迄100円で行けます。 ┌( ^^)┘新地中華街ハ築町カラ徒歩1分▲唯一の単線区間大浦海岸通り-石橋 『築町』から繁華街のある『西浜町』、そして眼鏡橋や寺町界隈へ行くのに便利な『賑橋』、『公会堂前』、 長崎市民の総鎮守『諏訪神社前』、シーボルト記念館が近い『新中川町』を経て、終点『蛍茶屋』へ到着です。 『蛍茶屋』の名前は江戸時代から大正にかけて、その辺りに蛍茶屋という名の料亭があったことに由来しているそうです。 当時の人々はここで宴会を催したり、長崎街道に入ってすぐのところにあったため旅立つ人を見送ったりしていたそうです。 この「5系統・石橋~蛍茶屋」でもっとも特長的といえるのは 始発『石橋』~『大浦天主堂下』~『大浦海岸通り』が全路線の中で唯一の単線区間だということです。 『築町』方面から『大浦海岸通り』に来た電車は、先に『石橋』へ入った電車がもどって来なければ、先へ進めません。 長崎の路面電車は「信号待ち」もしますが「電車待ち」もするのです。 ( ’ー ’)電車ノ信号待チッテ、珍シイ? この路線では数カ月前、大きな変化がありました。 『公会堂前』の電停にあった陸橋が無くなったのです。それに気づいた時はホントにうれしかった。 電停を利用する度に陸橋の階段を昇り降りするのは、誰にとってもキツイこと。 陸橋のない電停を選んで乗り降りする人もいるといいます。 目の前に市民が集う催しの多い長崎公会堂や市民会館があるので、これからますます利用客が増えることでしょう。▲陸橋がはずされてスッキリした公会堂前 近年、陸橋がとりはずされた電停は他にもいくつかあり、電停自体もきれいに整備されて来ているようです。 利用者にとってはうれしい限りです。

    もっと読む

検索