第132号【勝海舟と長崎】

 明治という新時代の到来に大きな役割を果たした坂本龍馬。 彼と同じ時代を生き、日本を動かした重要人物のひとりに勝海舟(1823~1899)がいます。 海舟といえば1860年「咸臨丸」の艦長として、日本初の大平洋横断航海を達成したことや、 1868年西郷隆盛との話し合いで「江戸城無血開城」を成し遂げた話がよく知られています。 また攘夷論者だった龍馬が、海舟の人柄と先見の明に感銘し、弟子になったことも有名です。 ( ’∇ ’)エピソード多彩ナ人物!



▲本蓮寺。この境内にあった

庵に海舟は住んだという。


 海舟はお江戸の下町、貧乏旗本の生まれ。若い頃、剣術や禅の修行をして心身を鍛え、 オランダの兵学の知識を得るため蘭学を学び、西洋と日本の文化の違いを早くから認識していたようです。 幕末、長崎海軍伝習所(79号参照)の頭取として、30代前半の5年ほどを長崎で過ごしているのですが、 その時、寝泊まりしていた筑後町(長崎駅前)にある本蓮寺には現在、「勝海舟寓居の地」の石碑があります。 (`▽´)/チャキチャキノ江戸ッコデイ。



▲海舟寓居の地の碑


 下っぱ侍だった海舟が一躍、表舞台へ出るきっかけとなったのは、1853年ペリーの来航でした。 浦賀沖で開国を求める黒船の対応に困り果てた幕府は、その対応策を大名や武士たちだけでなく、町民まで広く求めます。 この時、海舟は、軍制の改革と人材育成、 そして江戸湾における台場建設と軍艦の調達を急いで行うべきだという意見を提出したのでした。


 もともと鎖国や士農工商の身分制度をナンセンスだと考えていた新時代の男・海舟の意見は、幕府を動かす力があったようです。


海舟はペリー来航から2年後には長崎の海軍伝習所に派遣されたのでした。 そして当初、2年のつもりが、5年も伝習所に勤務したのは、海舟自身、 長崎に留まることで海軍の知識を学び、世界情勢をオランダの教官らから得るためであった、ともいわれています。


 長崎での海舟の日常の足取りをちょっとたどってみます。 宿舎の本蓮寺から徒歩20分ほどのところに長崎奉行所立山役所が。 そこからさらに中島川へ下って石橋を渡ると寺町通りに出て、 さらにその先には江戸時代の日本三大花街のひとつだった丸山があります。 このルートで海舟も丸山に通った可能性は大いにあります。 ( ̄∇ ̄;イヤ、キットアル!?



▲丸山へ続く思案橋通り

で海舟のオブジェ発見


 さて寺町通り近くには龍馬の亀山社中があります。 龍馬は海舟が長崎を離れた後、来崎しているのでここでの接点はないようですが、 長崎という町を介して、二人が新時代への夢や希望をふくらませたのは想像に難く有りません。 テヤンディ!(  ̄ O ̄) (^_ ^; )ゲニマコト…


◎参考にした本/「長崎事典」、「長崎遊学の標」(長崎文献社)

「日本史新聞」(日本文芸社)

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