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  • 第158号【大光寺に姿三四郎のお墓?】

     黒沢明監督によって映画化もされた、富田常雄作の青春柔道小説の主人公、「姿三四郎」。 151cm、52kgというミニモニサイズながら、相手の力を利用して倒す「山嵐」を生み出し、 講道館四天王の一人に成長するも、ライバル村井半助の娘、乙美とは悲恋に終わってしまう…という、 男気に感服する内容です。(^^;元祖スポ根物? 三四郎のモデルとなる西郷四郎(1866-1922年)は新潟県(当時は会津藩)出身。 なのになぜお墓が長崎に? じつは講道館で活躍後、四郎の生活の中心は長崎に移ります。 そして1902年、同郷に近い二本松出身の鈴木天眼と一緒に「東洋日の出新聞」を創刊。 ジャーナリストとしての道を歩みます。 東洋日の出新聞は努めて分かりやすくという編集方針のもと、1934年まで発行されました。 大手発行の新聞各紙が日露戦争後のポーツマス条約に反対するという状況のなかでも、 日本とロシアの国力の違いを見誤ることなく、条約支持を主張。 「勇気ある少数意見」として、新聞史上にもその評価が残っているそうです。 (□_□;長崎県立図書館ニ資料ガアッタハズ。 第2の故郷となる長崎で20年以上過ごす間、柔道、水泳、弓道などの振興にも努めた四郎は、 晩年を尾道で過ごしましたが、病没後はその半生を過ごした長崎の大光寺に眠ります。 享年57歳、四郎の死を悼んだ恩師嘉納師範は翌年、特別に講道館の六段を授け、その功績を讃えました。▲慶長19年(1614)創建大光寺(長崎市鍛冶屋町)▲近くに保育園もあって賑やかだった大光寺境内▲姿三四郎モデルとなった西郷四郎のお墓

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  • 第157号【黒島と辻町の共通した不思議なネーミング】

     巷で、無駄な知識に「なるほど…」とうなずくことが、少し大切な風潮ですね。 特に名前の由来は大事に守りたいものです。こみくら行ってきました。佐世保駅から松浦鉄道に乗り換えて30分。 相浦港から生活船と貨物便の2種類が運行していて、こみくら、貨物船の「むつ丸」(12人乗り)で50分かけて渡りました。 交通手段がちょっと不便な、それでいて誰もが行ってみたい「黒島」へ。 (^^;長崎-佐世保モ合ワセルト3時間! 農協の黒島支所と佐世保市役所の黒島支所の郵便物の区別がつきづらいという、時間がゆったりと流れる島。 この島には重要文化財の美しい教会、黒島天主堂があり、 長崎に多い教会の中で黒島の教会の塔は王様の冠型をしているのが特徴です。 島が樹木に覆われて黒いから黒島。カトリック教徒が多いからクルス島がなまってクロ島とも言われています。 ところ変わって長崎の浦上地区には辻町という名の町があります。 この町には十字修道院や十字幼稚園があって、 丘の上には踏み絵に心痛めたカトリック信者によって十字架が建てられた、その名も十字架山があります。 …何かピンときませんか?「辻」の文字。 永く親しまれた名前や町名など、町村合併などで簡単に無くしてはいけないような、そんな気持ちになってしまいます。 (□_□)十字架山ハ公式巡礼地ニ指定サレテイマス。▲黒島天主堂重要文化財(国指定)▲有田焼のタイルも使われた教会内部▲公式巡礼地に指定された、聖地 十字架山

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  • 第156号【南山手のレストハウスは清水氏宅】

     こんにちは、初秋どころではない暑さが続いていますが、熱中症(熱中毒症らしいですね)かかっていませんか?  こんな暑さでは丘の坂道の途中にある、グラバー園を始めとする長崎の洋館巡りなんておすすめできません …なんて…そんなことはないのです。 コミクラ名付けるところのため息のエレベータ(斜行エレベータ、"グラバースカイロード"のことデス。)を利用しないテはありません。 (^∇^) ♪ラクチン いきなり垂直エレベータを乗りついでグラバー園の裏口(新入場門)の頂上から見学をスタート! 坂道を下りながら洋館見物ができる。あっちょっと待って。 今回お伝えしたいのは、ひっそりと姿を消しそうだった洋館が、 この「ため息のエレベータ」のおかげで南山手の長崎市民の宝物のような地位を獲得するかもしれないってことです。 〈清水氏宅-石造平家建、寄棟造、桟瓦葺-石造平家建の住宅で長崎居留地においては貴重な構造である。 しかし、改良が著しく、復元困難である。玄関ホールを中心にその周囲に諸室を配した平面で、 ベランダを北側と東側の2カ所に設けていた〉と平成2年の調査書にはありますが、 丁寧な工事修理が施されこのたびめでたく南山手レストハウスとして再生となりました。 (^^;食事ハ出来マセン。念ノ為 完成にあたり長崎市では、この洋館の利用方法を募集しています。 旧香港上海銀行やグラバー園での結婚式を提案してきたコミクラとしてはもちろん、 元清水邸を利用したホームウエディングは素敵だなと思うし、 テレビのロケや写真撮影に使用してもらったり、 図書室のある学童保育もいいかな…といろいろ考えこんでしまいますが、 皆さんならどう活用したいですか?▲市民の活用を待つ南山手レストハウス▲改修前の清水邸▲ため息のエレベーター"グラバースカイロード"

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  • 第155号【ピントコさんの恋 ~ピントコ坂~】

     長崎は坂の町、港を見下ろす南山手の丘に「どんどん坂」、墓地へ続く寺町 の斜面に「ヘイフリ坂」…なんとも不思議な呼び名ですね。そして茂木街道の 一部(上小島~田上付近)、「ピントコ坂」。前者二つについては、ちゃんぽん コラムの読者の皆さんはご存じですよね? (^^;バックナンバーデ探シテネ。 さて、このピントコ坂、これはでこぼこな道という本来の意味よりも、長崎 では唐の貿易商人、何旻徳(カ・ピントク)さんが語源となっています。元禄 2年(1689)に完成した唐人屋敷には、中国経由のキリスト教思想輸入の禁止と 密貿易の取り締まり、長崎の婦女子との風紀上の問題を起こさぬように、との 目的がありました。 ところが、唐人屋敷内でも富裕な「何」氏は、筑後屋(引田屋とならぶ丸山 で最高の茶屋)の遊女登倭(とわ)となじみになり、子をなしましたが、元禄 3年(1690)、偽金づくりの疑いで死罪になってしまいます。哀しみの中、登倭 は亡きがらを坂の近くへ葬り、自らも命を絶ったと伝えられています。その後 二人をいたみ、坂道の途中に「阿登倭(おとわ)の石碑」が建立されました。 (□-□)/近クニハ愛八サンノオ墓モアリマス。 最期に唐人さんが丸山遊女に伝えた、九連環(きゅうれんかん)の歌をご紹介 しましょう。「みよみよ、我にたまいし九連環を、九つ九つ連なる鎖の指輪。 もろ手かけても解きほどかれぬ、小刀で切りても割きかねる、えい、なんとし よう」…唐人と丸山遊女の愛情を唄った俗謡ですが正しい解釈とピントクさん との関連を探して、コミクラは今、奮闘中です。 (><;調ベキレナカッタノ…▲閑静な住宅街の中にある、現在のピントコ坂▲ピントコ坂と愛八さんのお墓の案内板▲ピントコさんと阿登倭さんの墓碑

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  • 第154号【秋の気配 ~どんの山~】

     長崎と言えば居留地があったことでも有名です。 今は埋め立てられて一筋の川になっている大浦川も、昔は小さな入江の姿をしていて、 入江をはさみ長崎港に向かって右側がイギリスなど各国の領事館などがあった東山手、 左側がグラバー邸や大浦天主堂などがある南山手です。 山手と言うくらいですから当然頂上があります。 南山手の頂上が鍋冠山(なべかんむりやま)、東山手の頂上がどんの山です。 南山手の丘から西日に映える東山手の丘を眺めると、 そこはイタリアのナポリか? ポルトガルのリスボンか? といった南欧風の様相を見せてくれます。 (^o^)オ薦メView Point! かつて南山手に貿易商の邸宅が立ち並んでいた時代、東山手はいくつかの領事館を過ぎてオランダ坂を登ると、 ミッション系の私学が丘の大部分を占めていたのでした。 そうして更にロマンチックな街灯のある坂道を登っていくと、長崎の港の見える丘公園「どんの山公園」にたどり着きます。 鍋冠山が長崎港をダイナミックに縦に見せる山だとすれば、どんの山は港を横向きに優雅に見せてくれます。 美しい豪華客船ダイヤモンドプリンセスをたたえた長崎港にホウとため息をつくのも、 フウフウ言って登ってくるからではありませんよ。(;´▽`A``シンジテネ… 正午に「ドン(午砲)」を鳴らして知らせていたので「どんの山」と呼ばれていますが、 風取山というのが本来の名称だったそうです。 名前の通り、頂上での涼しい風は、ちょっと早めに秋を感じる事が出来ますよ。▲南山手側から見た南欧風の東山手▲どんの山から一望できる長崎港▲ドンを鳴らした大砲

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  • 第153号【異国から届いた美少女からの手紙 ~ジャガタラお春~】

     「あら日本恋しや、ゆかしや、みたや、みたや……」 日本への望郷の思いが綴られた手紙が長崎に着いたのは、今から350年程前のこと。 寛永16年(1639)10月、幕府の鎖国政策により、長崎市中に在住していた外国人と、 その家族287人がバタビア(現インドネシアの首都ジャカルタ)へ追放されます。 その中に14歳の少女「お春」がいました。青く大きな瞳に透き通るような白い肌。 お春は美しく、そして頭の良い少女だったそうです。 (□_□)/ジャガタラ=ジャカルタです。 冒頭の切ない手紙は、お春がバタビアからこっそりと送ったものです。 お春は明けても暮れても故郷へ帰ることを祈って年月を送りますが、 最期まで故郷の土を踏むことはできませんでした。 聖福寺(長崎市玉園町)の境内にあるお春の碑には、歌人吉井勇の句が刻まれています。 「長崎の鴬は鳴く いまもなほ しゃかたら文の お春あはれと」 また平戸観光資料館では、現存する4通の内、 3通のジャガタラ文(お春のではありません)が保存・展示されています。 (ノ_・、)望郷の想いにジ~ン…。 ところで、お春は異国の地でどのような生涯を送ったのでしょうか。 21歳の時、平戸生まれのシモンセンと結婚。 東インド会社へ入り、順調に出世したシモンセンは、退職後に持ち船貿易を営み、 バタビア教会長老も務める名士だったそうです。 お春は3男4女をもうけ、金銭的には裕福な生涯を送ったとのことですよ。▲聖福寺境内にあるじゃがたらお春の碑▲長崎の「唐四カ寺」のひとつ。聖福寺

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  • 第152号【映画公開に先がけて ~精霊流し~】

     長崎は8月9日の原爆の日が過ぎると、一気に夏も後半。お盆の15日、精霊流 しを待ちます。長崎の精霊流しは、想像を遥かに超えた爆竹音と「チャンコン チャンコン、ドーイドイ」の掛け声、もの悲しい響きの鉦(かね)の音の中、家 族、親戚、友人に送られて西方浄土に向かうのです。 見物客は、去年、中心部で11万人、精霊船の数は1400隻(県警調べ)だったそ うで、ものすごい人混みに見送られる船は、どれも力作揃い。近年はペットブ ームの影響か、ペットの船も多く見られます。こんな喧騒の中で送られていく 精霊船ですが、よく見ると、船について歩いている家族の様子には初盆の悲し みがあって、鼻の奥がツーンとすることも…。(ノ_・、) 全国的にも有名なさだまさしさんの曲「精霊流し」の悲しいメロディーに、 「全然違うよねぇ」と言っていた人たちも、年を取ってくると!?「そうだよ ねぇ」と曲の意味が分かってくるのです。(^^;年齢ノ質問ハ無シネ。 ちなみに 精霊船に載せる爆竹は箱で買っていくのが一般的で、花火屋さんは この1~2ヶ月で1年の売上があるそうですよ。 さて、今年はさだまさしさんの小説「精霊流し」の映画が完成(来年正月公開)し、秋には全国に先立ち長崎各地で先行上映されます。「長崎ぶらぶら節」 以来の長崎を舞台にした映画に、地元民も期待大! ぜひ皆さんも劇場へ足を お運び下さい。▲お盆前、街のあちこちで見かける風景です。▲長崎駅の映画館に貼られた制作風景▲2枚の映画チラシどちらも印象的です。

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  • 第151号【熱く開催中! ~2003年長崎ゆめ総体~】

     残暑お見舞い申しあげます。と共に、夏のインターハイ(和製英語の愛称だとか)で春の雪辱を果たし、 長崎国見高校のサッカーチームが優勝を飾りました。 長崎に住むものとしては、やはり地元の高校を応援したくなりますので、ニュースに遅れてご報告を。 (^∇^)オメデトー! 今、長崎は、健康的に日焼けした闘志に燃える全国からの高校生たちで、エネルギッシュな活力が満ち溢れています。 なにせ、選手・監督が33,000人、役員・補助員が27,000人、応援者が50,000人の規模。 これが、8月24日まで続きますから、お弁当やさんも大変です。 なんでも日替わりの統一献立(長崎夢総体仕様?)が決まっていて大繁盛だとか。 (・。・;チャンポンモオ忘レナク… 長崎県内各地は、当然、大歓迎モード。 ですから一般の観光客もご相伴にあずかって、ちょっとお得な旅も可能です。 駅などの要所で配付される、本日の対戦表などとは別に、 各種の案内パンフレットには観光地入場割引券がセットされたものもあって、観戦がてらお得に長崎観光というのもおすすめ。 お盆の期間(14~16日)を除けば、県内各地でプロも真っ青の高度な技術のスポーツ観戦が楽しめます。 観戦後には、NAGASAKIのロゴ入り、リストバンドやミニタオルなどの「夢総体グッズ」もお土産にいかが? (^ー^)みろくや商品もヨロシクネ▲長崎駅のグッズ屋さん将来のプレミア品も?▲高校生ボランティアの総合案内所(新地)▲観光前には是非ゲット!割引券も入っています。

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  • 第150号【夏はやっぱりソーメン! ~地蔵祭りの飾りそうめん~】

     橘湾を挟んで島原半島や天草まで展望できる長崎市日吉地区。 その自然豊かな地域に位置する飯香の浦(いかのうら)町・太田尾(おおたお)町で毎年7月に行われる地蔵祭りは、 一風変った儀式が行われます。 飯香の浦の地蔵堂に祭られる飾りは、二対の鎧兜と幔幕、太田尾の地蔵堂には女形と男形の人形。 どちらもそうめんを編み上げて作られます。複雑な工程ですが、所要時間はおよそ3時間。 当然、そうめんが乾燥する前に編み上げなければなりません。 (^◇^;)コリャタイヘンダァ 出来上がりは、組紐細工のような見事な造形。とてもそうめんには見えません。 小麦やそうめんの生産地でもない地域で、ここまで複雑な飾りそうめんは全国的にも珍しく、 また江戸時代中期頃から伝承されたその技は、長崎市の無形民族文化財に指定されています。 夜になると、屋台も並び、三々五々とお参りの人たちが訪れ、夏祭りの夕べのひと時がほのぼのと過ぎていきます。 ちなみにお供えに飾られるのは、飾りソーメンのほかに、 桃の形の饅頭とひまわりと小菊を模った落雁、白い小粒の団子と、おいしそうなものばかり。 お祭りが終わると、これらのお飾りは解体され、各家々に配られるそうですよ。 (^.^;チョット勿体ナイ?▲飯香の浦地蔵祭りの飾りそうめん▲太田尾地蔵祭りの飾りそうめん▲ほのぼの・和やかな雰囲気のお祭りでした。

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  • 第149号【長崎のホテル王は美貌の才人 ~稲佐お栄~】

     明治中期。長崎市稲佐(いなさ)は冬の間、氷に閉ざされるウラジオストックに代わって、 ロシア極東艦隊の基地として栄えていました。 その稲佐でホテルを経営した「稲佐のお栄」こと道永栄(1860~1927年)は、 天草出身で代々庄屋の家柄でしたが、12歳の頃に相次いで両親を失い、親戚を頼って長崎に入りました。 20歳頃から稲佐のロシア村で働き始めたお栄さんは、旅館の女中や食堂の給仕をしながら、 独学でロシア語を身につけるほど賢くて努力家でした。 (^∇^)長崎三大女傑ノ1人デス。 その上、生来きっぷがよく、社交的、色白で目鼻立ちが整った大変な美人であったお栄さんは、 下は水兵から上は将官までロシア海軍の憧れの的でした。 稲佐のお栄さんの名は、ウラジオストック、遠くはモスクワまで聞こえていたそうです。 明治24年(1891)、後の帝政ロシア最後の皇帝、ニコライ皇太子や、ロシア東洋艦隊指令長官クロパトキン少将が、 稲佐を訪問した際も心のこもったもてなしをしたお栄さんは、稲佐にロシア人向けホテルを、 茂木にも外国人向けのリゾートホテルを造り繁盛させます。 経営手腕もさることながら、彼女の人柄が多くの人々を魅了したのだと言われています。 日露戦争(1904~1905年)が始まると、お栄さん一家も数々の迫害を受けますが、 終戦後は延べ9000人以上のロシア軍捕虜の世話を引き受け、ロシア人墓地にも私財を投じました。 国境を越え、地位や名誉にとらわれず、真心込めて人と接したお栄さん…そんなお栄さんに思いを馳せながら、 「お栄さんの道」をそぞろ歩いていたら、さわやかな一陣の風が通り過ぎていきました。 (^ー^)ゴルバチョフ元大統領モ墓地ヲ訪レマシタ。▲ロシア人墓地のある悟真寺(長崎市稲佐)▲お栄さんの碑(長崎市稲佐)▲ゴルバチョフ元大統領も訪れた、ロシア人墓地

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  • 第148号【困ったときのプチだのみ ~お諏訪の森の狛犬さんたち~】

     「苦しい時の神頼み」という諺がありますが、こみくら的には「苦しい時だけ神頼み」という不信神者?! 「苦しい」というほどではないけれど、「困ったなあ」という時には「困った時のプチだのみ」はいかがでしょうか?  秋の大祭「おくんち」で有名な諏訪神社には、いろんなご利益を持った狛犬さんがたくさんいます。 今回は、そんなプチな願いを聞き届けてくれそうな諏訪神社の狛犬さんたちをご紹介します。 まずは、本殿に向かって左手に一対の向き合う狛犬さんたち。足には白いコヨリがたくさん巻かれています。 家出止め、借金止め、さらには受験のすべり止め、禁酒・禁煙など、止めたいことを願う場合は、 狛犬さんの足にコヨリを巻いて、神様にお願いしましょう。 お次は、鳥居の真ん中に鎮座して、口にくわえた筒から水を滴らす狛犬さん。 ここの水は、何でも倍に増やすご利益があるそうです。お金を洗えばお金が増えて、女性が飲むと安産になるとか。 (^ー^;所持金全部洗ッチャイマシタ。 さて、次の狛犬さんは、御用とお急ぎのある方には、とってもありがたい狛犬さん。 お百度参りは願をかける人が境内を百回巡ってお参りするものですが、こちらの狛犬さんは、台座ごとくるくる回ります。 一回転させると、お百度参りの一度に相当するとか。くるくるませば、お百度参りもあっと言う間。 (^。^;)アァ、アリガタヤ。 最後にご紹介するのは、刺抜き地蔵ならぬ、刺抜き狛犬さんです。 お口の中に手を差し入れると、心に刺さった棘(トゲ)を抜いてくれるそうですよ。 ( ̄∇ ̄;抜キタクナイ棘モアル?▲コヨリがブーツみたいな狛▲何でも倍返し!?太っ腹な狛犬さん▲回り舞台で祈願成就▲強面でも癒し系…

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  • 第147号【近未来的廃墟の島 ~軍艦島~】

     灰色の海に重く垂れ込める雲。今にも一雨来そうな不穏な空気の中、船は一路軍艦島へ。 「軍艦島」は、長崎県西彼杵郡高島町にある端島の異名です。 島の周囲をぐるりと取り囲んだコンクリートの防波堤と高層の建築物からなる島影が、 戦艦「土佐」に似ているところから、「軍艦島」と呼ばれるようになりました。 ( ̄o ̄;戦時中、米軍ニ攻撃ヲ受ケタ事モ…。 もともとは小さな無人島に過ぎなかった端島ですが、江戸時代に石炭が発見され、 佐賀鍋島藩が陶磁器つくりの燃料として石炭を採掘するため、人が住むようになります。 その後、三菱が鍋島氏から買取り(明治23)、八幡製鉄所へ製鉄用原料炭を供給するようになりました。 端島は幅160m、長さ480mという小さな島で、最盛期には5000人を越える人がここで暮らしました。 これは当時の東京の10倍近く、世界一の人口密度でした。 住宅不足を解消するために、大正5年に日本最初の鉄筋コンクリート高層アパートが建設され、 以降も次々と高層アパートが建設され、果ては建物の上にまた建物を建築する等され、 独特の立体迷路のような空間を造り上げました。海上産業都市としての往時の活況ぶりが偲ばれます。 やがて、燃料需要が石炭から石油に取って代わるエネルギー改革の合理化の波にのまれ、 昭和49年に閉山し、島は再び無人化しました。跡には昔の名残の高層建築群が残されました。 今なお、映画やドラマに登場したり、写真集が発行されたり、 人々の思いを掻き立てる不思議な廃墟の島は、何かを象徴するかのように、 激しい雨に打たれながら沈黙しています。▲あいにくの曇り空。灰色の海に浮かぶ軍艦島▲日本最初の高層アパート群▲近くで見ると、圧倒されるような迫力ェ

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  • 第146号【伝説の古代樹をめぐる冒険 ~サザンパーク野母崎~】

     博物学者のバックスター博士は、伝説の巨木「古代樹」を探していました。 ある日博士は、東方のある国で発見された古い石版を骨董屋で見つけます。 調べてみると、中から光り輝く種の化石が出てきました。 どうやら化石は探し続けた古代樹の種!? すぐに博士は東方の国へと旅立ちます。 そして、ヤシやアコウ、サボテンなどが生い茂る中、辿り着いたところには、 巨大な木や恐竜の骨が!! \(〇_o)/ こんにちは! まるで、映画「インディ・ジョーンズ」のような物語から始まりましたが、ここは「サザンパーク野母崎」。 長崎の人には、「亜熱帯植物園」と言った方がピンとくるかもしれませんね。 対馬暖流の影響をうけた亜熱帯のような気候をうまく利用された天然の景色に、テーマパークの面白さが加わった広大な県立植物園です。 園内には家族連れが中心ですが、カップルもチラホラ。 かく言うこみくらが誰と来たかはさておき、温室の中の初めて見る不思議な植物に感心したり、 バックスター博士が探した光る種の化石や目のない魚などを探検できる洞窟にわくわくしたり、 岬の突端から大海原を眺めて思いを馳せたり…。こども心と冒険心が甦るような場所です。 さて、冒頭に登場のバックスター博士、地中海風のビジターセンターの中に、冒険の数々がジオラマで再現されていました。 そして博士の書斎は資料室として解放され、貴重な化石見本や多くの書物が展示されています。 ちょっと早いけど夏休みにはイベントも盛りだくさん。要チェックですよ。( ̄∇ ̄)※サザンパーク野母崎は2017年3月に閉園いたしました▲恐竜の骨を象った滑り台良く出来てます。▲映画に出そうな古代樹と吊り橋▲伝説の古代樹を探すバックスター博士の部屋

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  • 第145号【理由ありユ~レイは甘いもん好き?!】

     先週は早々と台風6号が九州地方を襲いましたが、皆様の地域はいかがでしたか?  被害に遭われた方には心よりお見舞いを申し上げます。 さて季節的にはこちらも少々早めですが、今回は長崎に伝わる昔話「飴屋の幽霊」をお届けします。 ひゅ~~(m --)m 時は江戸時代中頃、長崎の麹屋町にある一軒の飴屋に、夜な夜な飴を買いにくる女。 不審に思った主人が後をつけていくと、女は墓場の中で消え、そこから赤ん坊の泣き声が!  急いで墓を掘り返すと、飴を買いに来ていた女の亡骸に抱かれるように生まれて間もない赤ん坊…。 母親の死後、生まれた赤ん坊を幽霊となってまで育てたという、 母の深い愛情と命の大切さを伝える民話として、光源寺(長崎市伊良林)に伝えられています。 光源寺には、幽霊の木像や掛け軸があり、毎年8月16日に開帳して飴を供えます。 この時、お参りに来た方々にも飴が配られ、お参りすると安産になるとか、 この飴を食べると母乳がよく出るという、ご利益があるそうです。 さてさて、幽霊話の続きです。 母の墓の中で生まれた赤ん坊は、父親に引き取られ、大切に育てられたそうで、 そのお礼に再び幽霊が飴屋の主人の枕元に現れ、当時水不足で困っていた町の人のために水の出る場所を教えます。 そこは幽霊井戸と呼ばれ、町の人たちは幽霊に感謝しながら大切に使いましたとさ。 なんだか心がほんわか温まる長崎の幽霊のお話でした。 (^^;全国ニモ似テイル話ガアルソウデス。▲子育て幽霊の民話と幽霊像がある光源寺▲幽霊井戸のあった場所▲飴屋があった麹屋町の一角

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  • 第144号【長崎の気になる木?!】

     夏には心地よい木陰を、秋には美しい紅葉を提供してくれる街路樹。 長崎市の街路樹で一番多いのはナンキンハゼだそうです。 ナンキンハゼは長崎市の木に指定されていますが、名前からも分かるように中国原産の帰化植物です。 帰化植物とは原産国から運び出され、異国の地で繁殖した植物。 古くから、外国との交流のあった長崎には、食用・薬用・観賞用という目的で持ち込まれ、 全国的に栽培されるようになったものもあれば、すっかり野生化して、 長崎の街のそこここで、たくましく繁殖しているものも数多くあります。 長崎には国内唯一という珍しい木もあります。 長崎公園(諏訪神社そば)のトックリノキと出島のデジマノキ(県指定天然記念物)。 文字通り長崎に根を張って、市民に親しまれています。 こうした植物たちが、異国情緒漂う長崎の風景に一役かっていると思うのは私だけでしょうか。 逆に、長崎から遠い国々へ旅立った植物もたくさんあります。 江戸時代にオランダ商館医として来日したツェンペリ(1775年来日)とシーボルト(1823年来日)は、 それぞれ長崎で採取した植物を標本にして「日本植物誌」をつくりあげました。 どちらにも長崎が標本原産地として記録されており、これらの標本の多くはスウェーデンのウプサラ大学、 ドイツのライデン国立植物標本館に今も良好な状態で保存されているそうです。 (´・` )行ッテミタイ……。▲ナンキンハゼの街路樹奥に浦上天主堂が見える▲ユニークなトックリノキ▲天然記念物のデジマノキ

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