第167号【長崎の囲碁と将棋にちなんだ史跡】

 最近、囲碁が静かなブームだそうです。現在、囲碁人口は推定で500万人以上。また将棋の方は、15才以上の愛好者数は1030万人(H13年度:レジャー白書)。どちらもここ数年、愛好者は増加傾向にあるそうです。


 古代中国で生まれた囲碁が日本へ伝えられたのは5~6世紀頃。一方、将棋はインドで生まれ、日本へは8世紀頃、中国(または東南アジア)経由で伝わったといわれています。囲碁も将棋も日本では長い歴史を持つだけあって、全国各地に、時代を超えて語り継がれる名人や名手がいるようです。長崎にも、ちょっとした逸話を持つ江戸時代の棋士のお墓があります。


 長崎から小倉へ向かう長崎街道のスタート地点に近い「一の瀬橋(いちのせばし)」。旅立つ者との最後の別れを惜しむ場所だったこの橋のたもとから、日見峠へ向かう街道筋の途中に「碁盤の墓」と呼ばれる墓があります。




 ここに眠るのは、江戸時代に中国から長崎に来た南京坊義圓(なんきんぼう ぎえん)というお坊さん。この方は塾を開いて碁を教えたと伝えられ、長崎の囲碁界の草分け的存在だったとか。頭部が丸い無縫塔(むほうとう)と呼ばれる形をした墓石は、当時の一般の僧侶の共通した形だといいます。




 実はこの墓石、とても粋なアイデアが盛り込まれています。台石が碁盤になっているのです。今は、摩滅して見えませんが、表面にはちゃんと碁盤の線も入っていました。




 そして花筒も、碁石を入れる碁笥(ゴケ)になっています。あの世でも囲碁を楽しんで欲しいという亡き人への思いが伝わって来るようです。1804年、この墓について狂歌師の太田蜀山人は「この墓は 南京房か 珍房か ごけ引きよせて ごばん下じき」という、歌を残しています。


 「囲碁の墓」から1分ほど街道を登ると「将棋の墓」があります。これは「大橋宗銀(おおはし そうぎん)」という人の墓。正面には、「六段上手・大橋宗銀居士」と刻まれています。大橋は将棋の宗家で、名に「宗」の字を使っていることから、将棋の師匠であったといいます。武蔵国(東京・埼玉)の出身で、賭け将棋をしながら各地を転々とし、1839年に長崎に来たのですが、この時、偽物の通行手形だったため、のちにとがめられ犯科帳にも記載されています。宗銀は、将棋の指南所を開業してもうまくいかず、最後には長崎の材木町(現:賑町)で、行き倒れになりました。身寄りのなかった宗銀の墓は、他の供養塔と同じく、見ず知らずの旅人たちに供養してもらうため、街道筋に設けられたようです。将棋の実力をまともに活かせず前途多難な人生を送った宗銀。それを哀れにを思う人々の気持が彼のお墓を今に残しているのかもしれません。






※ 参考にした本

「本河内の史跡」 小森定行

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