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  • 第188号【事始め~落花生とビール~】

     だんだんと夏に向かうこの季節、仕事が終わってからのビールがますますおいしくなりますね。ビールは冷蔵庫に必ず入っているというご家庭も多く、季節を問わず毎晩欠かさないという方もいらっしゃるように、私たちにとってたいへん身近なアルコール飲料です。そういえば、ひと頃は地ビールブームで、全国各地でオリジナルビールが作られていましたが、日本人がビール好きであることをあらためて思い知らされました。 そんなビールの日本でのルーツを探ってみると、鎖国時代の長崎にさかのぼることがわかりました。オランダ船が出島に運んできたのがはじまりだそうです。「ビール」という言葉もオランダからの外来語で、当時は「ビイル」と呼ばれたり、また、その原料から「麦酒」と訳されて「むぎざけ」とも呼ばれていたとか。現在でも、ビールは漢字でこう書きますよね。 江戸中期の蘭医で、「解体新書」を翻訳したことで知られる杉田玄白は、長崎でビールを飲んだ時の感想を、「にがくて味わうに耐えない」と書き記しているそうです。 そういえば、長崎奉行所の役人が、出島でオランダ船が運んできたコーヒーをはじめて飲んだときもに、「にがくて味わうに耐えない」と同じようなことを言ったと伝えられています。ビールにしてもコーヒーにしても現代の日本人にとっては欠かせない飲み物ですが、当時の日本人の口に合うものではなかったようです。 さて、キンキンに冷えたビールに欠かせないのがおつまみです。これまた、長崎ゆかりということで、落花生などはいかがでしょう。落花生の原産は南米ですが、江戸時代に中国経由で唐船が日本に伝えたという説と、ヨーロッパルートでオランダ船が運んだのではないかという2つの説があるそうです。いずれにしても最初は長崎に渡り、各地に広がっていったと推測されています。 ところで、落花生ゆかりの地である長崎県にふさわしいものが、長崎県大村市にありました。「塩ゆで落花生」という特産品です。地元で栽培された落花生を、殻付きのまま大釜で塩茹でしたもので、殻の中にはほどよい塩加減に茹で上がった柔らかい実が並んでいます。とにかくビールによく合うおすすめのおつまみです。 この夏、ビール&落花生でリラックスタイムを過ごす時、このおいしさが遥か昔に海を渡ってきたことや、日本でのルーツが長崎にあることを思い出してみませんか。いつもの味が、ロマンの味に変わるかもしれません。◎参考にした本:ながさきことはじめ(長崎文献社)、長崎事典~風俗文化編~(長崎文献社)

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  • 第187号【福沢諭吉と光栄寺】

     新緑が眩しいこの季節。眼鏡橋などの石橋群で知られる中島川沿いでは、柳やクスの木が青葉を茂らせ、さわやかな初夏の風に揺れています。今回訪ねた光栄寺(長崎市桶屋町)は眼鏡橋よりも上流にかかる一覧橋と古町橋の間にあります。光栄寺は、幕末、明治期の思想家、福沢諭吉(1835~1901)が、長崎に遊学した際に寄宿した所として知られるお寺です。 豊前中津藩(現在の福岡県東部と大分県北部の一部にあたる地)の大坂蔵屋敷で生まれた諭吉は、藩士だった父を早くに亡くし、中津で下駄づくりや刀剣細工などの内職にはげむ貧しい子供時代を過ごしました。学問(漢学)に抜きんでた才能を発揮し、20才の頃、大坂で蘭方医・緒方洪庵が主催する塾に入門して蘭学を学んだ後、江戸に出て現在の慶応義塾の起源となる蘭学塾を開きます。その頃、英語を独学。のちに幕府の外国方に雇われて翻訳の仕事に勤め、幕府使節に随行し欧米に三回渡りました。 大政奉還後は、新政府から招かれるも官仕には就かず、慶応義塾の経営に専念しながら、活発な文筆活動を開始。「天は人の上に人を造らず~」のフレーズで知られる『学問のすゝめ』(明治5年刊行)は、当時のベストセラーとなり、彼の名声を決定的なものにします。その後、諭吉は人権平等の理念と自由独立の精神を貫く生涯を送ったのでした。 諭吉が長崎に遊学したのは、19才の時の約1年間。洪庵の塾に入る直前のことです。 長崎での様子は諭吉が後に自分の生涯を口述した『福翁自伝』の中の「長崎遊学」の項に詳しく記されています。「長崎で蘭文を読む気はないか」と兄に聞かれ、勉強のできた諭吉は「人の読むものなら横文字でも何でも読みましょう」と自信たっぷりに答えて、兄と共に長崎へ来たのは良かったのですが、abcの26文字を覚えるのに3日もかかったことや、光栄寺の近所に住む砲術家の地役人のところに居候になった際、鉄砲を討つのも見たことがないのに、訪ねてくる諸藩の人に、たいそうな砲術家のごとくあれこれ応対していた話など、自分や他人、物事に対して、どこかユーモアのある暖かな視点で語っています。興味のある方は、ぜひ、御一読ください。長崎で過ごした若き日々が、その後の諭吉の人生に多大な影響を及ぼしたことがうかがえます。また、諭吉が長崎で過ごした足跡として、光栄寺からほど近い所に彼が使ったという井戸もあります。 話は変わりますが、この寺の境内には沙羅(さら)の木があり、毎年5月中旬過ぎ頃、わずか2~3日だけ真っ白な花を咲かせます。平家物語冒頭の『祇園精舎の鐘の声。~~沙羅双木の花の色~』で知られる花です。機会があれば、ご覧になられませんか。◎ 参考にした本/日本を創った人々~福沢諭吉~(平凡社)、長崎遊学の標(長崎文献社)、福翁自伝(岩波文庫)

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  • 第186号【長崎の端午の節句~唐あくちまき~】

     きょうは端午の節句。かしわ餅やちまきを召し上がった方も多いことでしょう。この節句の由来となる中国では古来、この時季、虫が出てきたり悪疫が流行りやすかったため、その厄除けのために門に薬草のショウブをさしたり、薬用酒やちまきを食べて健康を祈ったのだそうです。 長崎では端午の節句が近づくとちょっと変わった形のちまきが、和菓子屋さんや饅頭屋さんの店頭に並びます。普通、ちまきといえばもち米や団子を竹の子の皮で三角形に包んだものを想像しますが、このちまきは、もち米がサラシでくるまれ棒状をしています。「唐あくちまき」とか「長崎ちまき」と呼ばれるものです。 中国と古くから縁の深い長崎は戦国時代末期から、江戸前期に入り唐人屋敷ができるまでの約100年間、唐船の来航がたいへん盛んで、唐人たちが長崎市中に自由に居住していました。そんな中で長崎の人々の暮しは中国の風俗や習慣にいろいろと影響を受けます。さらに唐人屋敷が完成して、唐人たちが皆そこに居住するようになってからも、食、祭、生活習慣など彼らの影響を受け続け、現在の異国情緒豊かな長崎の町の雰囲気が紡がれていったのです。 そんな歴史的つながりを背景に、いつしか長崎で作られ食べ継がれてきたのが、この「唐あくちまき」です。作り方は、「唐あく」を溶かした汁に一晩つけ込んだもち米を、細長いサラシの袋につめて長時間煮ます。煮上がったサラシ袋を切り開くと、ツヤツヤとアメ色に輝くちまきが顔を出します。切るときは、包丁でなく糸を巻くようにして切ると簡単です。もっちりとした食感と、唐あく独特の風味が特徴で、砂糖やきなこ、黒みつなどをつけていただきます。 もち米を柔らかくアメ色にする「唐あく」は、もともと中国で産出する天然のアルカリ性の湖水のことです。現在、長崎では炭酸ソーダをもとにしてつくった固まりが輸入されていて、新地中華街などへ行くと、ちまき用の「唐あく」として売られています。「唐あく」は、ちゃんぽん麺の製造にも用いられていて、特有の匂いとねばりを出す役割を果たしています。でも、ちまき用の唐あくとは、ちょっと違うらしく、ちゃんぽん麺には使用できないそうです。 長崎人に食べ継がれている「唐あくちまき」は、子供の頃はあまり好まなかったのに、大人になって好きになったという人が多いようです。また、「ウイロウみたい」という人もいます。はてさて、どんなお味なのか。ぜひ、長崎で食べてみて下さい。◎参考にした本大日本百科事典(小学館)、中国文化と長崎県(長崎県教育委員会)、長崎県大百科事典(長崎新聞社)、長崎料理歳時記(長崎新聞)

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  • 第185号【島原半島の春野菜~ミニアスパラガス~】

     今、ミニ野菜が静かなブームです。野菜売り場では、芽キャベツや小玉ねぎ、ミニアスパラガス、ミニキャロット、小ナスなど、いろいろなミニ野菜を見かけるようになりました。人気の秘密は、見かけのかわいさだけではありません。普通サイズの野菜に比べて、味も香りも栄養価も劣らないことや包丁いらずで手軽に調理できることなどが魅力のようです。 長崎で生産されるミニ野菜の中で、今、注目を浴びているのがミニアスパラガスです。 長崎県内でも屈指の野菜の産地として知られる島原半島の最南端に位置する地域(北有馬町、南有馬町、口ノ津町、加津佐町、小浜町)で栽培されています。もともとこの地域はアスパラガスの産地として知られたところで、毎年春には旬のアスパラガスをいち早く市場へ送り出しています。 「JA島原雲仙」の方に話を伺いました。「ミニアスパラガスは2年ほど前から本格的に取り組みはじめました。その頃、すでにタイ産のものが出回っていましたが、日本ではどこも作っていなかったのです」。アスパラガス(ミニアスパラガスを含む)を作っている農家の方々は、全員が「エコファーマー認定者」です。これは長崎県が減農薬で人と環境にやさしい栽培に努めている農家を認定したもので、「安心」、「安全」な野菜づくりの証しでもあります。 約10センチくらいに長さに揃えられた島原半島のミニアスパラガス。太さはタバコよりも少し細めです。「ミニアスパラガスは独特の甘味があって、口当たりがやわらかいのが特長ですね」。通常、アスパラガスは茹でていただくことが多いのですが、「焼いて、塩を軽くふって食べるのがいちばんおいしい」とJAの方はいいます。さっそく試してみると、確かにアスパラガスの風味やみずみずしさがいちだんと増して美味!また、「料理のトッピングに使っているという方も多いようですね」。かわいい姿は、おいしさだけでなく料理の見映えにも貢献していました。 実はミニアスパラガスは、ミニサイズ専用の品種ではなく、普通サイズのアスパラガスを栽培する中で、不規則にできる小さいサイズを収穫したものだそうで、いわば普通サイズの副産物なのでした。農家の方の中には、普通サイズに目が慣れているため収穫の際にミニサイズの大きさと長さを確認できる、お手製の目安棒を使って収穫している人もいらっしゃいます。 疲労回復や滋養強壮に効果的なアスパラギン酸や細胞の老化を防ぎ、毛細血管を丈夫にするルチンが含まれているアスパラガス。あなたの健康生活にさっそく役立ててみませんか?◎取材協力JA島原雲仙 南部基幹営農センター

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  • 第184号【長崎水辺の森公園へ出かけませんか】

    ゴールデンウィークにマイカーで長崎へお越しの方々にうれしい情報です。先月末、九州横断自動車道長崎自動車道が、長崎多良見インターチェンジ(IC、長崎市中里町)から長崎IC(同市早坂町)まで延伸。さらに長崎ICから長崎市新地町までを結ぶ「ながさき出島道路」が開通し、長崎市中心部への新しいアクセスルートとして注目を浴びています。「ながさき出島道路」の出入り口(新地町)からは、長崎港、出島、新地中華街、グラバー園、そして長崎県庁や長崎市役所など長崎市中心部にある観光スポットや公的機関へすぐに行けて、たいへん便利です。所要時間も、これまで諫早市から長崎県庁まで一般国道だと約50分ほどかかったのが、長崎自動車道と「ながさき出島道路」を利用すると約25分と大きく短縮されました。この新しい道路を利用してぜひ、訪れてほしいのが「長崎水辺の森公園」です。この春、「ながさき出島道路」の出入り口そばに完成した新しい公園で、長崎港と市街地の風景を見渡すのびやかなロケーションに加え、森のような樹木と季節の花々を楽しめる素敵なところです。すでに大勢の市民が思い思いのスタイルで、のんびりとしたひとときを過ごしています。実は「長崎水辺の森公園」が誕生するまでは、海や港と日常的に親しめるような公園がありませんでした。ですから長崎の人々にとってこの公園は、「港町・長崎」を名実ともに実感できる大切な場所になることでしょう。公園内は「大地の広場」(約2.5ha)、「水の庭園」(約1.2ha)、「水辺のプロムナード」(約2.8ha)の3つのエリアで構成され、大地、海、空、植物など自然との共生を体感できる工夫があちらこちらに施されています。たとえば、ヤシやアコウ、オオシマザクラ、ヤマボウシなど何種類もの樹木が植えられ、海際ながら森の空気を感じることができます。また芝生の広場も随所にあり、つい寝転びたくなってしまいます。裸足で歩くと心地いい、玉石をはめこんだ「ビードロの道」、いろいろな植物のタネの形をした「石のベンチ」、そして山から湧き出た水を噴水やせせらぎとして利用した「水の劇場」。ここでは裸足になった小さな子供たちがワイワイいいながら水と親しんでいました。公園内には大きな水路が通っていて、全部で11の橋がかけられています。その中のひとつ「風待橋」から長崎港沖を見ると、建設中の巨大な「女神大橋」の橋桁が見えました。長崎が「港」を通してまたひとつ歴史を刻もうとしている。「長崎水辺の森公園」は、そんなことも実感できる公園です。

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  • 第183号【サント・ドミンゴ教会跡資料館オープン】

     ポルトガル人やスペイン人などがキリスト教の布教とともに日本にもたらした南蛮文化。その時代から秀吉や家康による禁教政策を経て、オランダ船が来航するようになった出島の時代まで、長崎の歴史の移り変わりを垣間見れる「サント・ドミンゴ教会跡資料館」が先月末オープンしました。 長崎市役所(長崎市桜町)から徒歩5分。桜町小学校内(長崎市勝山町)にあるこの新しい資料館には、同小学校校舎の建設工事に伴う平成12年の発掘調査で出土した江戸時代初期のサント・ドミンゴ教会跡の石畳や排水溝などの遺構の一部がそのまま保存公開されています。出土品には、花十字紋瓦(はなじゅうじもんがわら)やメダイなどキリスト教関連の遺物が数多くあります。当時の長崎とキリシタンとの関わりを物語る貴重な文化遺産だそうです。 家康が徳川幕府を開いたのが1603年。サント・ドミンゴ教会が建てられたのは1609年のことです。熱心なキリシタンだった村山等安(むらやまとうあん)という長崎の代官が寄進した土地に建造されました。この頃(16世紀末から17世紀初頭)の長崎には他に十数もの教会や教会関連の病院がありました。南蛮貿易と布教が盛んに行われていたことがうかがえます。 代官という長崎の有力者の保護を受けていた教会でしたが、江戸幕府の体制が確立していく中で、しだいにキリシタン弾圧が厳しくなり、サント・ドミンゴ教会は1614年の禁教令で、建設からわずか5年で破壊されます。他の教会施設も次々に破壊され、多くの宣教師が殉教しました。 サント・ドミンゴ教会の跡地は、長崎代官の末次氏の屋敷となり(17世紀中期~後期)、さらに末次氏失脚後は、同じく代官職についた高木氏が屋敷を構え(18~19世紀)、約三百数十年にわたり長崎代官屋敷として利用されました。遺構からは食器類などその時代の品々も大量に出土しています。 ところで、「サント・ドミンゴ教会跡資料館」の歴史をひもとくにあたり、重要な人物のひとりとしてあげられるのが、先に登場した代官の村山等安です。等安はキリシタンであることなどを幕府に訴えられ失脚するのですが、それを訴えたのは、次に代官となったが末次平蔵でした。平蔵は朱印船貿易で財をなしていた博多出身の豪商で、南蛮貿易で莫大な富みを権力を得ていた等安との間に確執と争いがあったのではないかといわれています。 等安に関してもっと知りたい方は、「長崎代官村山等安~その愛と受難」(小林幸枝著/聖母の騎士社)がおすすめです。この本は、「サント・ドミンゴ教会跡資料館」の整備にあたり、参考資料としておおいに活用されたそうです。

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  • 第182号【春の風物詩 長崎のハタ揚げ】

     北へ北へとバトンタッチされる桜前線も東北あたり。長崎では今、満開のピークが過ぎたところ。葉が出て花びらが舞い散りはじめています。さて長崎の春といえば、花見と重なるこの頃から5月にかけて「ハタ揚げ」(=凧揚げ)シーズンでもあります。 なぜ、長崎では「凧」が「ハタ」と呼ばれるのか、その由来ははっきりしていません。 各地の呼称をみても、関東では主に「タコ」ですが、東北では「テンバタ」、京阪では「イカノボリ」などさまざまです。ちなみに日本の「凧」は、もともと平安時代以前に中国から伝わったもので、それが津軽凧(青森県弘前)、奴凧(東京周辺)、百足凧(香川県高松)など全国各地で見られる地域性あふれる凧へと発達したのだそうです。 各地に個性的な凧があるとはいえ、かつて子供たちの遊びのひとつとしてごく普通に見られた凧揚げの風景も、今ではめったにお目にかかれなくなりました。そんな中、長崎では伝統行事のひとつとして大切に伝えられ、春の休日ともなると、稲佐山、唐八景、金比羅山といった長崎の山々で市民参加のハタ揚げ大会が賑やかに行われています。 長崎のハタは一説には16世紀の半ば頃、出島にオランダ人の従者としてしてきていたインドネシア人から伝えられといわれています。「ビードロよま」と呼ばれるガラスの粉を塗り付けた糸を使い、空高く揚がったハタ同士が、お互いのヨマとヨマを絡ませて切り合いますこのようなハタ合戦をすることから「けんか凧」とも呼ばれています。 竹と和紙で手作りされる長崎のハタは、「あごばた」と呼ばれる種類のものだそうです。ハタの模様は描き入れるのではなく、その形に切り取った紙を貼ります。図柄はいずれもシンプルで、万国旗をもとにしたもの、外国から輸入された織物や縞の模様をデザインしたもの、また天体や鳥獣、植物、文字などが簡潔な図柄にデザイン化されています。たとえば、日本国旗、旧ロシアの国旗をモチーフにした「日の丸」や「十文字」の図柄。他には「月」、「石畳」、「かりがね」、「桝」などその図柄は全部で200~300種はあるといわれています。 地元のハタ揚げ大会は、毎回大人たち(主におじいちゃん世代)の活躍が目立ちます。 上空でハタを右や左、上や下へと移動させ旋回させるといった技は、確かに熟練が必要。長崎では昔から子供というより大人の遊びだったというのもうなづけます。あなたも。この春、長崎のハタ揚げ大会へ出かけてみませんか?大空に舞い上がる様子を見るだけでも気持ちがいいですよ。◎参考にした本:大日本百科事典~ジャポニカ11巻~、長崎事典~風俗文化編~

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  • 第181号【ハウステンボスのチューリップ祭】

     春のポカポカ陽気に誘われて、ハウステンボス行きのバスに乗り込み、「チューリップ祭」(~4/11迄)へ行って来ました!(^^)/ 長崎駅前発、所要時間1時間、料金片道1,350円 「チューリップ祭」は、ハウステンボスの春の恒例イベントです。広々とした運河と水車と畑一面に咲き誇る100万本のチューリップは、何度見ても新鮮な感動があり、毎年楽しみにしている人も多いよう。スイセン、ヒヤシンス、パンジー、ムスカリといった他の春の花々も素敵に植え込まれ、我が家のガーデニングのヒントが街角にいっぱいありました。 ちょうど春休みということもあり、親子連れや卒業旅行らしき女の子のグループが目立ちます。とにかく絵になる風景ばかりなので、花畑をバックにポーズをとる人があちらこちらに。皆、のどかな自然を満喫してにこやかな表情をしています。 今年のチューリップ祭の見どころは、パレスハウステンボス(オランダの宮殿を再現した建物)の前庭で行われている「チューリップコレクション」です。原種系や希少な品種も含む250種5万本のチューリップが植えられています。この庭園は、夕方6時には美しくライトアップされ、昼とはまた違ったロマンチックな表情のチューリップが楽しめます。 パレスハウステンボス内にあるハウステンボス美術館では、「浮世絵入門展」(~4/18迄)を開催中でした。葛飾北斎や安藤広重などで知られる江戸時代の風俗画、浮世絵は、簡潔な色彩配置、大胆な構図など独特の美しさを持ち、ゴッホをはじめとするヨーロッパの画家たちに大きな影響を与えたといわれています。浮世絵に描かれた名所や歌舞伎役者、女性、四季の暮らしといったものから、簡素ながらも心豊かな時代の日本の姿が感じられました。 場内の各レストランなどではチューリップ祭限定のメニューもいろいろあるようです。今回は長崎産の「とよのかいちご」をたっぷり使ったワッフルセットをいただきました。まさにスィートな春のおいしさです。 中心部にあるアレキサンダー広場では、街路樹として植えられた中国原産の白モクレンが、大きな純白の花を咲かせていました。今年は、例年より開花が少し早かったそうです。ヨーロッパの街並と東洋の花が見せるこの時期だけの美しい競演。その壮観な景色に大勢の人が見入っていました。

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  • 第180号【サッカーの町、国見町を訪ねて】

     全国高校サッカー選手権大会優勝で全国に名を馳せる、国見高校。日本サッカー界が注目する平山相太選手をはじめ優れたサッカー選手を輩出しています。今回は、その国見高校がある南高来郡「国見町」をご紹介します。 長崎県島原半島の北部に位置する国見町。島原半島の海岸線沿いに続く国道251号線で国見町内に入るとサッカーボールの街灯が出迎えてくれます。(^▽^)/さすが、サッカーの町! 国見町の面積は38.20平方キロメートル、人口約11,700人。雲仙山系の主峰「平成新山(雲仙普賢岳)」から、有明海にのぞむ海岸線にかけて広がる風光明美な町です。海側から背後の山をふりむくと、鮮やかな緑色におおわれた畑や丘の向こうに、火山灰をまとった平成新山がくっきりとそびえ、自然の驚異が感じられる雄大な景観が広がります。 町の中心部にある多以良(たいら)港からは、熊本県長洲港とを結ぶ有明フェリーが発着。商店の土産コーナーにはサッカーボールをかたどったモナカやカマボコが売られていました。港から少し山手へ登ったところに、国見高校のサッカーグラウンドがあります。 のどかな畑に囲まれ、近くの牛舎から時おり牛たちの声が聞こえてきます。 見上げればここからも平成新山の姿が。こののびのびとした環境の中で、すばらしいサッカー選手たちがスクスクと育っているのです。 ところで、島原半島は長崎県最大の農業地帯として知られています。国見町もきれいな水と豊かな土壌に恵まれて野菜や果物づくりがたいへん盛んです。当社の通販でおいしいマーコットを提供して下さっている石尾さんもこの町で農業を営んでいます。 畑へおじゃますると、この冬のマーコットの最終分の出荷準備に追われているところでした。こちらではマーコット以外に、減農薬にこだわったレタスも作っています。 イキイキとした表情のレタスの葉をもぎるとガブリというおいしそうな音。食べてみると、しなやかで、シャキシャキとした感じ。石尾さんちはレタスも本当においしいのです。 周囲の畑では、国見町特産の「八斗木(はっとき)ネギ」や「イチゴ」も収穫の時期を迎えていました。「八斗木」とは地名で、主にこの地区で生産される白ネギのこと。 艶があって味も良く、地元だけでなく大坂方面へも出荷されています。 国見町は縄文、古墳時代の遺跡も出土、藩制時代には鍋島藩の支藩も置かれた地区もあるなど歴史的にも興味深い土地柄です。そのお話は別の機会にご紹介したいと思います。◎参考にした本/長崎県大百科事典

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  • 第179号【長崎と鯨】

     「長崎に行けば、うまい鯨が食べられると思って楽しみにして来たんです」。そんなことをおっしゃる観光客の方々が結構いらっしゃると、長崎で鯨専門店を営む「井上海産物・勇魚(いさな)」の女将さんは言います。 鯨肉は、今でこそ捕鯨が制限され価格が高くなっていますが、以前は豚肉や牛肉よりも安かった時代がありました。30代以上の方なら子供の頃に給食で鯨肉の竜田揚げやベーコンを食べた経験がある方も多いのではないでしょうか。 長崎県では、江戸時代に捕鯨業が大きく発展した歴史があります。五島や壱岐、対馬、平戸、生月島といった島の浦々で、捕鯨にたずさわる鯨組(くじらぐみ)と呼ばれる組織がいくつも生まれたのです。鯨組の組織は、海で鯨を捕獲する「沖場」と、陸で漁の準備や鯨の解体加工をする「納屋場」の2つに分かれ、ひとつの鯨組で約九百人を必要としたほど大規模な組織だったそうです。 また明治以降になると、長崎市では英国人貿易商のグラバーさんらが捕鯨事業をはじめ、その後も地元の人たちによって五島近海で捕鯨が行われています。 そういった歴史的背景のもと、長崎では昔から鯨が食べられて来ました。『鯨一頭七浦潤す』という格言のとおり、かつて鯨一頭が多くの漁民たちを豊かにしたことから、鯨は豊漁の象徴、つまり福を運んでくれるエビス様のように扱われていたとか。そのためか長崎では、今でもお正月やお祝事の晴れの席などに鯨の肉を食すことが多いのです。 鯨肉はその部位によって、すえひろとベーコン(鯨の下あごから腹部にかけての縞状の部分で「畝須:うねす」と呼ばれる部位)、さえずり(舌)、百畳(ひゃくじょう/胃袋)百尋(ひゃくひろ/小腸)などがあり、それぞれ味や食感が違いますが、全体的にさっぱりとして意外にクセのないおいしさです。末広がりの形から「すえひろ」と呼ばれるところは「畝須」の上質な部分を茹でたもので、薄くスライスして、酢醤油やわさび醤油でいただきます。「県外に住む長崎出身の方が、懐かしがってよく買われる。もっとも長崎らしい鯨肉なんでしょう」と「勇魚」の女将さん。 ところで鯨肉は牛・豚・鶏などの肉と比べると、高タンパク・低脂肪・低カロリーと三拍子揃ったヘルシーな肉です。鉄分も多く貧血気味の方にはもってこいです。また鯨のベーコンなどには血栓を予防するエイコサペンタエン酸(EPA)や、話題のドコサヘキサエン酸(DHA)が多く含まれています。 今は、少々お高い鯨肉ですが、だんだんと安くなる傾向にあるとか。これを機に、長崎の鯨肉の歴史も、味わいもあらためて見直したいものです。取材にご協力いただいた、鯨専門店「井上海産物 勇魚」の皆様、ありがとうございました。◎参考にした本/FUKUOKA STYLE Vol12~西海の捕鯨~

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  • 第178号【日本初の蒸気機関車アイアン・デューク号】

    日本で初めて、鉄道が開業したのは明治5年(1872)年のこと。東京の新橋~横浜間の29kmを蒸気機関車が走りました。でも、これが日本の鉄道の発祥ではありません。実はこれより7年前の慶応元年(1865)年に英国人貿易商のトーマス・グラバーが長崎で蒸気機関車を走らせていました。その場所は、長崎港沿いにある大浦海岸通り。この地は、安政6年(1859)に長崎が神奈川や箱館とともに開港した時、イギリスやロシア、アメリカ、フランスとの貿易も許されたことから、外国人居留地として洋館建ての商社やホテルなどが軒を列ねた通りです。英国人貿易商のトーマスグラバーは、この開国直後に長崎に渡ってきています。グラバーが長崎で走らせたという汽車は、上海博覧会に出品されていたもので、イギリス製のアイアンデューク号という名の蒸気機関車でした。それを長崎に輸入し、大浦海岸通りに約400メートルの線路を敷き(現在の大浦海岸埋め立て地にある長崎税関付近から松が枝橋付近)、客車2両をつないで人々に走らせて見せたのでした。黒煙をモクモクと吐いて走る汽車に、目を丸くし歓声を上げる見物人たち。地元ではグラバーが、「陸蒸気(おかじょうき)」を走らせているという噂が広がり、連日、大勢の見物人が集まったといいます。グラバーといえば、他にも造船や炭坑など日本の近代化に大きな影響を与えたことで知られていますが、そんな彼が、大浦でアイアン・デューク号をわざわざ走らせて見せたのには、どんな理由があったのでしょう。日本人にこれからはじまる新しい時代の一端を見せたかった?進んだ西洋の技術を知らしめたかった?いろいろと推測できますが、いずれにしてもこのデモンストレーション(試走)は、当時の日本人に大きなインパクトを与え、日本の近代化の牽引力にもなったと想像されます。またこの他、鉄道関連の史跡が大浦海岸通りから徒歩約10分の大波止出島ワーフそばにも残されています。昭和5年(1930)、長崎駅から出島岸壁に至る臨港鉄道が開通し長崎港駅が開業。線路は現在のJR長崎駅から南に約1、1kmほど延びてあり、中島川の河口にかかる鉄橋を渡り、当時、出島岸壁に発着した日華連絡船と連結していました。現在、線路のあった鉄橋はなく、残されているのは橋台の一部です。当時は、東京へ行くよりも近くて安い片道26時間の大都会、上海を訪れる旅客でおおいに賑わったそうです。◎参考にした本/長崎事典~風俗文化編(長崎文献社)

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  • 第177号【大波止の鉄砲ん玉】

    長崎で昔から俗謡として伝えられている「長崎の七不思議」。『寺もないのに大徳寺、山でもないのに丸山、古いお宮を若宮、桜もないのに桜馬場、北にあるのに西山、大波止に玉はあれども大砲なし、立ってる松を下り松』。この七不思議、実は長崎の歴史をひもとく一種の「謎解き問題」でもあります。今回は、その七不思議の中から「大波止に玉はあれども大砲なし」の謎を解明すべく、さっそく出かけてきました。長崎駅から徒歩で10分ほどの場所にある大波止は、五島、高島、伊王島などの島々と長崎市街地を結ぶ近海航路の発着所「大波止ターミナル」があります。この辺は近年、大型商業施設「夢彩都(ゆめさいと)」やウォーターフロントの市民の憩いの場「出島ワーフ」なども誕生し、人々の多様な交流の場としてめざましく変化がみられた地域でもあります。港の景色を一望するその一帯をぐるっと歩き回わっていたら、見つけました!「鉄砲ん玉」。長崎市民(主にお年寄り)に、「大波止の鉄砲ん玉」と呼ばれているこの玉は、「夢彩都」に隣接するイベント施設「ドラゴンプロムナード」という建物の前にありました。人の流れからちょっとそれたその場所で、直径56センチ、重量560キログラムの鉄の固まりは、雨ざらしで、かなり錆びた状態のまま、ひっそりと台座の上に載せられていました。以前は、もっと人通りのある桟橋近くに置いてあったと記憶していましたが、港の開発にともない、大波止内を転々としたようです。言い伝えでは、島原の乱のとき、原城に立てこもった一揆軍を倒すため、当時、唐通事をしていた人物が、原城を地下から爆破させようと提案。それを受けて、寛永15年(1638)に長崎で鋳造された「石火矢玉」だということです。この玉を打つための大砲はたいへん大きなものだったらしく、それを備え付けるために原城の近くで穴を掘っていたら一揆軍に察知され、ほどなくこの作戦は中止に。結局、玉は使われることなく、以来大波止に置かれ長崎の名物のひとつになったというわけです。この玉について長崎市史には、鋳造されたといわれる年から約150年以上も経った寛政4年(1792)、当時の町年寄りらによって、その重さと大きさが公式に計測されたと記されているそうです。さて意外にも!?島原の乱と長崎を結んだ「大波止の鉄砲ん玉」。あまり目立たない存在ですが、実は人知れず、江戸時代から長崎港の盛衰をじっと見とどけてきた「珠玉の歴史証人」でもあったのです。◎参考にした本/長崎事典~風俗文化編(長崎文献社)

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  • 第176号【ユニークな伝統菓子、茂木の一○香】

    陽射しや風にかすかな春の気配が感じられます。でも天候不順が続きやすいこの時期、風邪ひきさんが急増中です!山の幸、海の幸満載のちゃんぽんで栄養をとって、元気に乗りきりましょう!今回、ご紹介するのは長崎の伝統菓子のひとつ「一口香(いっこっこう)」です。江戸時代中期に中国より伝えられた干し菓子で、もとは唐の禅僧や唐船の乗組員たちの保存食だったものです。上下にこんがりと焼き色の付いた丸い形が素朴でいい感じ。手に取って、そっと二つに割ると、あら、驚き!中身がからっぽなのです!そうとは知らず、一口香を初めて口にする人は、「あれっ?あんこを入れ忘れてるわ」と思うようなのです。中が空洞のユニークなお菓子、一口香の発祥の地、茂木へ行って来ました。長崎駅から車で約20分。美しい橘湾に面した茂木の港は、江戸時代には肥後や薩摩の港から長崎へ通じる要港として繁栄したところです。その茂木港へ、ある日、初代市衛門が雑貨商を営んでいた頃、唐船の乗組員達によって彼らの保存食が伝えられたといわれています。それをさらにおいしく香ばしく仕上げたのが1844年創業の老舗、「茂木一まる香本家(もぎいちまるこうほんけ)」のご先祖様だったのです。ひとつひとつが手作りの「茂木一まる香本家」の一〇香(いっこっこう)。その作業を見学させていただきました。厳選の小麦粉で生地をこね、次に中に入れるあんを水飴、黒砂糖、はちみつなどの材料を混ぜてこねます。こね具合はその日の天気に左右されるので、長年の経験で培ったあんばいで水加減を微調整。職人さんが、小さく丸めた生地を軽く平たくして、すばやくあんを入れて丸め、白胡麻の敷かれた木の箱に次々に並べていきます。この時、まだ空洞はありません。銅板にのせられ200度以上のオーブンで、15分ほど焼きます。一〇香の空洞がつくられるのは実はこの時です。焼いて膨れ上がった皮に、中のあんが溶けて内側にくっついてしまうため中が空いてしまうのです。オーブンから出された後冷まし、さらに焼き目を入れ、香ばしく仕上げられます。江戸時代には、長崎の花街・丸山から茂木に通じる「茂木街道」がありました。この街道は文人墨客の往来が多く、茂木の名物となったこのお菓子はお客様に茶菓子として好まれたそうです。その時、一口ほお張ると香ばしいというので、「一〇香」と名付けられたとか。以来、手作りの味を守り続けている「茂木一まる香本家」。人々に長く愛され親しまれ続けている秘けつは「作る人の魂」にあるようです。

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  • 第175号【出島の料理部屋】

    久しぶりに出島へ行ってきました!さすが、長崎の人気観光スポット、小学生からお年寄りまで大勢の観光客で賑わっていましたよ。出島は今、復元計画が進められていて建物も街並も19世紀初頭の再現をめざしています。すでに出島西側には、オランダ船の船長が宿泊した「一番船船頭部屋」、へトル(商館長次席)が居住した「ヘトル部屋」、砂糖などの輸入品をおさめた「一番蔵」、染料などをおさめた「二番蔵」、そしてオランダ商館員らの食事を作った「料理部屋」の5棟が復元され一般公開しています。今回は、その中から「料理部屋」をクローズアップしてみましょう。「料理部屋」といっても、家屋の一角にあるのではなく、小さな木造の平家建てです。中に入ると、板張りの床に調理台として使った大きなテーブルがあり、煮炊き用のかまどが2つ。天井は漆喰(しっくい)を塗って防火策が施され、屋根には煙出が付き、さらに壁の上部には板がすき間を作って張られ風通しよくなっています。出島にいたオランダ商館員ら十数人分の食事が一日に2回、ここで作られ、その隣に建つカピタン部屋(商館長の住まい)に運んで食べていたようです。この調理室はシーボルトのお抱え絵師だった川原慶賀による「唐蘭館絵巻・調理室図」(長崎市立博物館所蔵)をもとに再現したものです。ソーセージやハム(塩漬け肉)といった食材を作っている様子が描かれています。広いテーブルでお肉を刻む複数の商館員や、かまどの火にかけた大鍋をかき混ぜている日本人、鍋の中の料理を瓶(かめ)に移している日本人、すり鉢でスパイスらしきものをすっているちょんまげ頭の日本人と商館員の従者。その他、オランダ商館員がレシピらしき本を読んでいたり、とらえた豚にナイフを突き刺して血抜きをしている様子などが描かれています。この絵は当時の食文化を知る情報が満載のようです。この料理部屋で、スープやパンなど当時としては珍しい数々の西洋料理が作られました。その食事づくりには前述のように3人の日本人が雇われていました。その彼らによって数々のオランダ料理が長崎の町に伝えられたのでした。興味深かったのは、オランダの調理道具です。ヨーロッパでは17世紀から19世紀末まで調理道具はほとんど変化がないそうで、その頃の真鍮や銅製の鍋、やかんなど、まさにアンティークなスタイルの道具が棚に並んでいました。いずれもシンプルでお洒落なデザイン。当時の人の美意識の高さが伝わってくるようです。◎参考にした本「よみがえる出島オランダ商館」(長崎市教育委員会)「出島~異文化交流の舞台」(片桐一男)

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  • 第174号【長崎湾沖を見わたす善長谷教会】

    長崎駅から長崎港湾沿いに国道を南下。約30分ほどで長崎市深掘町に到着。潮の香りに包まれたこの町はぺーロンの盛んな漁師町。町の背後には城山(じょうやま)と呼ばれるなだらかな山が連なり、のどかな自然に囲まれています。長崎市の中心部からちょっと離れたところにある深掘は、江戸時代には佐賀の鍋島藩の支藩でした。現在も当時の武家屋敷跡が一部残っています。歴史的にたいへん興味深い土地柄ですが、深掘については別の機会にご紹介するとして今回は深掘から城山の山道を約50分ほど歩いて登ったところにある善長谷(ぜんちょうだに)教会をご紹介します。山の中腹に建つ善長谷教会(長崎市大籠町善長谷)は木造の小さな教会です。周辺には畑と数件の民家があるだけ。ここからの眺めはたいへん良く、波光きらめく長崎湾沖のパノラマが広がります。特に夕日が沈む時の眺めは格別といわれ、アマチュアカメラマンたちの姿も度々見かけます。教会の外観は、赤紫と白のペンキが塗られ印象的な色合いです。現在の教会は、明治28年(1895)に建てられた木造の教会が老朽化して昭和27年(1952)に再建されたものです。それから半世紀以上も経っているわけですが、手入れが行き届き、厳かで清清しい空気が漂っています。この地の開拓は、江戸時代文久6年(1823)に、7所帯の家族と2人の独身者が移住したことにはじまります。彼ら移住者が鍋島氏より与えられた居住の条件には、山の上にある八幡神社の祭礼を行うこと、藩主用の水汲み役を果たすこと、地元のお寺の檀家に所属することなどがありました。移住者らは実はキリシタンの里のひとつとして知られる西彼杵郡三重郷樫山の出で、隠れキリシタンでした。彼らは藩の義務を隠れ蓑とし、密かに信仰を続けたのです。「善長谷」の地名の由来は、あるお坊さんが、この地で厳しい座禅の修業を行い悟りの境地に至ったことにより「禅定谷」と呼ばれていたのが、いつしか「善長谷」になったという説と、異教徒のことをスペイン語で「ゼンチョ」と発音することが「善長」の語源になったのではないかという説もあります。善長谷の信者たちは、明治維新後に信仰の自由が許されると、宣教師の呼びかけに従い、カトリックの教会に復帰する人もいましたが、別の土地に移り潜伏キリシタンの道を選んだ人もいたそうです。現在、教会の前にある木には、小さな鐘が結び付けられています。お祈りの時間を知らせるために鐘を鳴らす地元の信者さん。信仰を守り続けた先祖の熱意を今に伝えています。◎参考にした本「長崎の教会」(カトリック長崎大司教区司牧企画室)、「長崎の史跡~南部編」(長崎市立博物館)

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