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  • 第218号【長崎温泉・やすらぎ伊王島】

     明けましておめでとうございます。背筋が伸びてフレッシュな気分になるお正月。おせちやお雑煮を食べてのんびり過ごされましたか?寒さはこれからが本番です。風邪をひかないようお気をつけください。 寒さが増すと、恋しくなるのが温泉です。今回は、長崎の観光がてら、また長崎市やその近郊にお住まいの方々が気軽に、しかもお手頃な料金で利用できる公共の宿「長崎温泉・やすらぎ伊王島」をご紹介します。「やすらぎ伊王島」の所在地である伊王島町は、長崎港の沖合いに浮かぶ小さな島で、長崎港の大波止ターミナルから高速船コバルトクイーンでわずか19分のところにあります。 船上からのぞむ長崎市街地の景観を愉しみ、建設中の女神大橋を下をくぐり抜けて長崎港の外に出ると間もなく、伊王島までの小さな船旅は終わります。海を渡るこのひとときは日常のわずらわしさから気分を切り離すのにちょうどいい時間。伊王島の桟橋に降り立つと、頭の中は温泉のことだけしかありません。目の前には美しい海が広がり、背後は小さな山の緑に包まれて、静かでのんびりとした雰囲気が漂っています。 伊王島港から徒歩約3分(送迎バスあり)のところにある「やすらぎ伊王島」は、ホテル&コテージの宿泊施設を備えた温泉処。もちろん日帰り入浴もOKです。施設の近くに源泉があるここの温泉は、地下1,180mの赤崎層(香焼層)から沸き出す天然の湯で、汲み上げ温度は約45度、湯量は毎分700リットルでたいへん豊富です。 だから、浴槽の湯はすべて加温も加水もしない天然のまま。循環もさせていない、贅沢なかけ流しのお湯なのです。毎日の清掃も行き届いてとても清潔な印象です。大浴場には、目の前に海が広がる露天風呂(石風呂)をはじめ露天でひとり風呂が楽しめる釜湯、壷湯が設けられ、屋内には広々とした石風呂やひのき風呂、泡風呂などがあり、好みのお風呂でゆったりくつろげます。 お湯につかると何とも心地良く、舐めてみると少ししょっぱい。海の温泉として知られる小浜温泉の湯に似た湯触りです。この温泉の泉質は、カルシウム・ナトリウム一塩化物泉といわれるもので、神経痛、筋肉痛、五十肩、関節のこわばり、うちみ、くじき、冷え性、疲労回復、慢性婦人病などに効能があるそうです。入浴後は身体が芯から温まり、湯上がりのお肌もしっとりスベスベした感じ。一緒に入っいてたご婦人が、この温泉に通っているうちに腰痛がやわらいだとおっしゃっていました。 「やすらぎ伊王島」の大きな魅力はその安さ。1泊2食付きで7500円から利用できます。食事は地元の海の幸をふんだんに使った鍋や刺身などが好評。日帰りの入浴の場合は、高速船コバルトクイーンの往復分と入浴料金が一緒になったお得なチケット980円(大波止ターミナルで販売)がおすすめです。 ところで伊王島町は、昨日1月4日、「長崎市と合併し、西彼杵郡伊王島町から長崎市の町になりました。この合併を機に伊王島町を訪れる人が増えるといいですね。

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  • 第217号【長崎ことはじめ バドミントン】

      12月上旬、某人形メーカーが、ご婚約が内定した紀宮様や韓流ブームの火付け役となったペ・ヨンジュンさん、メジャーリーグでシーズン最多安打を記録したイチロー選手など、今年明るい話題を提供してくれた人をモデルにした「変わり羽子板」を発表しました。師走恒例のこの話題に、年の瀬を実感した方もいらっしゃったことでしょう。  お正月遊びの定番としてあげられる羽子板(今では遊ぶより、縁起のいい飾り物としているケースが多いようですが…)に関する語が、文献に初めて登場したのは室町時代のことです。「下学集(かがくしゅう)」という辞書で、そこにはハゴイタ、コギイタという読みが記されているそうです。同じく室町時代の「看聞御記(かんもんぎょぎ)」には、公家や女官が羽根つきの勝負をしたことが記されています。つまり、日本における羽子板は遅くとも15世紀には行われていたということになります。  ときに日本のバトミントンとも称されることがある羽子板。羽をつくこの遊びに似たものが、江戸時代の出島で行われていたことをご存知ですか?江戸時代の学者、森島中良(もりしま ちゅうりょう)が、オランダ商館について見聞きしたことを記した「紅毛雑話(こうもうざつわ)」(1787年刊行)の中に、『羽子板並羽根』の見出しで、『~西洋館にて閑暇なる時は追羽根をつきて遊ぶなり。羽子板をラケットといひ、羽根をウーラングといふ~』という内容を記しており、ラケットと羽根の挿し絵も描かれています。 出島の生活の様子を描いた江戸時代の絵巻物「漢洋長崎居留図巻」の中にも、出島で働いていたインドネシア人と思われる人たちがバドミントンのような遊びに興じている姿が描かれています。  バドミントンは、その昔イギリスを中心に発展した競技で、イギリスのバドミントン村に発祥したことから、その地名がそのまま競技名になったそうです。そのさらなるルーツには諸説あるそうですが、一説にはインドのプーナ地方で古くから行われている「プーナ(poona)」が原形であるといわれており、バドミントン村には19世紀中ごろに、インドに駐在していたイギリス人将校らによって持ち帰られたといわれています。  前述のインドネシア人が出島で行っていたバドミントンらしき遊びも、彼らの出身から、「プーナ」が原形であったと考えても不思議ではありません。だとすると、バドミントンの原形は、バドミントンと名付け発展させたイギリスより早く出島の方へ伝わっていたことになります。  このゲームが、日本でイギリスのような発展が見られなかったのは、出島という隔離された場所であったことも要因でしょうが、すでに羽子板遊びがあったことで、それほど珍しく思われなかったからとも想像できますが、皆さんはどう思われますか?現在、出島の一角にはその歴史をとどめる「バドミントン伝来之地」の碑が建っています。◎今年もちゃんぽんコラムをご愛読いただき誠にありがとうございました。新年は1月5日からスタートします。佳い年をお迎えください。◎ 大日本百科事典第14巻(小学館)、ながさきことはじめ(長崎文献社)、長崎歴史散歩(原田博二著、河出書房新舎)

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  • 第216号【江戸時代から変わらぬ味、からすみ】

     長崎を代表する珍味、からすみ。三河のこのわた、越前のうにと並んで日本の三大珍味のひとつに数えられ、昔から長崎のお土産や年末年始の贈答品として多くの人々に愛され親しまれています。 からすみはご存知のように、ボラという魚の卵巣を塩漬けにし、乾燥させたもの。16世紀後半頃に中国から伝えられたといわれており、形が唐の墨に似ていることから、からすみと呼ばれるようになったそうです。からすみのルーツをさらに辿ると中東あたりが発祥ではないかという説がありました。イタリアには伝統食としてボッタガルガと呼ばれるからすみがあるのが知られていますが、もしかしたら、日本のからすみとルーツは同じかもしれませんね。 つやのあるアメ色。ほのかに香る潮の香りと独特の歯触り。そして凝縮された旨味。江戸時代から変わらぬこのからすみの姿と味わいは、不老長寿の妙薬として珍重され、将軍様にも献上されていました。そのからすみをつくっていたのが、老舗「高野屋」です。 創業1675年、長崎市築町に店鋪を構える「高野屋」。初代となる高野勇助氏にはじまり、現在は13代目です。初代がつくりあげた製造法を受け継ぎ、昔ながらの味わいを今も守り続けています。 初代勇助氏は、自分で納得のいくからすみの味づくりに苦心し、野母崎でとれたボラの卵巣を使って何度も製造を試みたところ、ある日、世間にも評判になるほどのおいしいからすみに成功。そのからすみは当時の長崎奉行にも賞賛され、幕府にも献上物と定められ、1712年から1867年までの155年もの間、将軍様のもとへ届けられたのでした。 長崎奉行支配勘定方として長崎に約1年ほど着任したことのある江戸後期の文芸作家の蜀山人(しょくさんじん:本名は大田直次郎。南畝とも号した)も、そのからすみのうまさを歌に残しています。 由緒正しいからすみの老舗「高野屋」。からすみづくりの最盛期を迎えた12月上旬、その製造工場を見学させていただきました。材料はボラの卵巣と塩だけ。製造工程は、ボラの卵巣をいったん塩漬けにし、また塩抜きをして乾燥させるというシンプルなものですが、温度や塩の加減に熟練を必要とし、伝統の味づくりには一切のごまかしがききません。またボラの卵巣は薄い膜で包まれてデリケートなため、やぶらないようにひとつひとつ手作業で丁寧に扱います。ですから、大量生産はむずかしいのです。 天日に干すのは、だいたい10日前後ほど。天候に応じて乾き具合を見極めながら、一日に何度もひっくり返します。からすみ独特の旨味と色合いは、このような手間ひまをかけてつくられています。 べっこう色ともいわれるつややかな色合いと、脂もほどよくのったおいしいからすみ。年末の集いや、新春を寿ぐ食卓にぴったりの一品です。酒の肴だけでなく、ほぐしてパスタにからめてもおいしいですよ。ぜひ、お試しください。◎ 長崎事典~歴史編、風俗文化編~(長崎文献社)

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  • 第215号【ハウステンボスでハッピークリスマス】

     この冬、ホットでロマンチックなクリスマス気分を味わいたいならハウステンボス(佐世保市)がおすすめです。街中がイルミネーションの光に包まれて夢のよう。ハウステンボスは5年前より段階的に場内の宮殿や塔、チャペルなどに光の装飾をほどこして、「光の街」として進化をとげてきましたが、この冬はいよいよその街づくりが完成。今までの冬より一段と華やかにきらめく「光の街」となって、訪れる人々を魅了しています。 その美しい姿は、夜のとばりが降りはじめると次々に姿を現わします。高さ105メートルのランドマークタワーは、上品な光のドレスをまとったよう。そして、運河も、風車も、港の船も、今までにないシックでドラマチックな光が輝いています。この昼とは全く違った幻想的なハウステンボスに、場内各所で「スゴイ!」「キレイ!」の歓声があがっていました。 場内には、クラシカルなタイプからアーティスティックなタイプまで、いろいろなクリスマスツリーも飾られています。中でも人気だったのが街の中心部に位置するアレキサンダー広場のツリー。来場者がそれぞれのメッセージをハート型のオーナメントに記して吊したツリーで、たくさんのラブメッセージが寄せられていました。 多彩なクリスマスイベントも毎日行われています(~12/25迄)。本場アメリカからやってきたゴスペルグループによるライブや、クリスマスナンバーをたっぷり楽しめる「ハッピーホリデーショー」、童話の世界のようなクリスマスストーリーを歌とダンスで繰り広げる「セレブレーション・オブ・ライトショー」などお楽しみは盛り沢山です。 場内には、まだまだハッピーな出会いがいっぱい。絵本で見たとおりの真っ赤な衣装と真っ白なおひげのちょっと太っちょのサンタクロースが突然目の前に現われて子供たちはおおはしゃぎ。また、ハウステンボスには輸入食品や輸入雑貨、陶器、お酒など、魅力的なショップが多彩に揃っているので、お気に入りのショップにも出会えるはずです。 中でも、このプレゼントシーズンにおすすめなのが、アレキサンダー広場沿いに先月オープンしたばかりの「EURO(ユーロ)」というショップです。ドイツ、オランダ、フランスなどヨーロッパ各国の有名ブランドの雑貨が揃っています。大切な人に素敵なクリスマスプレゼントを贈りたいという方は、ぜひ、のぞいてみてください。 ハウステンボス美術館でも、「太陽と精霊の布展」という見応えのある展覧会が開催中でした(H17年1/16迄)。中国・東南アジアのトン族、ミャオ族、タイ族といった少数民族の染織品を多数展示。今も伝統的な生活様式を守って暮らしているという彼らが生み出す、藍色の染や、幾何学的な紋様の織、ち密な刺繍。その洗練された美意識は、どこか日本文化にも通じるようで興味深いものがあります。クリスマス気分とはまた違った趣きの展覧会ですが、ご覧になってみませんか?

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  • 第214号【長崎県平戸ゆかりの武家茶道・鎮信流】

     茶道教室に通っている友人の話によると、どこの流派かをたずねる際、ほとんどの方が、「裏ですか?表ですか?」と聞かれるそうです。ここでいう裏、表はご承知の通り、「裏千家」と「表千家」のことですが、茶道はこの2つの流派しかないと思っている人が意外に多いのではないかとその友人は言います。もし本当にそうだとしたら、日本の文化を代表するものだけにとても残念な話です。 茶道は大別すると、主に町人層によっておこなわれてきた「町衆茶道」と、大名の家で伝えられてきた「武家茶道」の2つがあります。前者に属する流派は、前述の裏千家、表千家をはじめ武者小路千家、江戸千家など。後者は、織部流、遠州流、石州流などがあり、今回ご紹介する平戸ゆかりの鎮信流(ちんしんりゅう)もこの武家茶道の一流派です。 鎮信流の流祖は、平戸藩主の第二十九代松浦鎮信(まつらちんしん:1622~1703)という方です。このお殿さまが藩主となったのは、島原の乱があった年(1637)。当時、オランダとの貿易で栄えていた平戸でしたが、まもなくオランダ商館が平戸から長崎へ移転されて、平戸藩の経営はたいへん苦しくなりました。この時、鎮信公は、財政の建て直しを図るため、商業、農業、漁業を振興し、殖産を奨励。幕府巡国使に「九州で第一の治世」と賞されるまでに至ったそうです。また、山鹿素行に師事し、その兵学を藩に導入するなどしています。 そんな鎮信公は、若い頃より茶を好み、名のある茶人を研究。後に幕府の茶道指南役の立場となり、さらには片桐石州公(石州流)の門に入って道を極め、石州流を基本にしながら他の流派の良いところを独自にあんばいして、鎮信流を興したのでした。「茶道は文武両道のうちの風流なり、さるによって柔弱を嫌い、強く美しきをよしとす。心の修業はこの外にあらじ、昨日の非を知り今日は悟るべきなり」と説いた鎮信公。精神的に強くなければならない武人が、平常心を保ち、強く美しく生きる心を茶道によって養おうとしたようです。 今回、長崎市諏訪神社近くにある鎮信流のお稽古場を見学させていただきました。「おいしいお茶をお客さまにさしあげる。ただそれだけのために一生懸命お稽古しているんですよ」とおっしゃる先生の言葉に、茶道の奥深さが感じられました。流れるように進むお手前の中で、いかにも武家茶だな感じられたのが、おじぎの仕方です。正座した膝の横に、軽く握った手を付いて頭を下げるのです。まさに時代劇で見た武士のおじぎです!その他の立ち居振る舞いも背筋がピンと伸びて清々しく、強さと美しさが感じられました。武家茶にふさわしく質実剛健なものが好まれるという鎮信流。お茶碗も、華やかな絵柄のものはあまり好まれずご当地平戸をルーツに持つといわれる三川内焼や唐津焼、萩焼などがよく使用されるそうです。 「茶を生業にしてはいけない、あくまでもたしなみである」とする鎮信流。長い時を超えて脈々と受け継がれてきたこの武家茶道は、西日本各地に支部があり、長崎市内でも数カ所のお稽古場があります。興味のある方は、鎮信流のホームページhttp://www.chinshinryu.or.jp/へアクセスしてみませんか?◎参考にした書籍/家庭画報(2000年1月号:世界文化社)、大日本百科事典12巻(小学館)

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  • 第213号【長崎刺繍展(長崎市歴史民俗資料館)】

     今年の長崎くんちで「唐獅子踊り」を披露した小川町。親獅子と子獅子の息の合った舞いと、子供たちがあぐらをかいて酒の回し飲みを演じた唐子踊りを披露して、観客をおおいに楽しませてくれました。その小川町の傘ぼこは、約70年ぶりに復元新調されたもので、垂れには当コラムの131号でご紹介した長崎刺繍職人、嘉勢照太(かせてるた)氏による美しい刺繍が施されていました。 長崎刺繍は、江戸時代の貞享年間(1684~1687)の頃に、中国人から長崎に伝えられたといわれています。当時、長崎で盛んにつくられたその刺繍は、日本刺繍がベースにありながらも、京や江戸のものとは趣が違っていました。刺繍の中に綿やこよりを入れて立体感を持たせた技法が珍しく、中国風の図柄も特徴的だったようです。 今では、くんちの傘ぼこの垂れや衣装などでしか見られなくなった長崎刺繍。その歴史の一端を垣間見る小さな展示会「長崎刺繍展」が、長崎市歴史民俗資料館(上銭座町)で開催中です(H16.12/28まで)。明治から昭和初期にかけて製作された長崎刺繍やその下絵など約50点を展示。その中には今回初公開の品も含まれています。 展示品は、東古川町川船飾船頭衣装をはじめ、明治~大正初期に長崎港に入港した外国人向けに製作されたという万国旗、また明治初期に深紅の布に金糸をふんだんに使って豪華に仕上げられた「梅鉢紋」や、昭和初期に長崎の八田刺繍店で製作された折り鶴などがあります。いずれも職人の見事な手仕事ぶりが伝わる力作ばかりです。 長崎刺繍の製作はまず、刺繍に使う絹糸を撚るところからはじまります。糸の色、太さ、撚り方で、糸の表情は無限大。刺繍職人は自らの指先の感覚で、糸を創造していくのです。そして布などに描かれた図柄に沿って、こよりや和紙、綿などを縫い付けて立体感をつくり出し、金糸、銀糸、撚ってつくった絹糸などを使い、時間をかけて細やかな刺繍が施されていきます。この時、デザインによっては、ガラスや金属類なども使い、より豪華で立体感のある表情をつくり出したりもします。 こうして手間ひまをかけて生み出される長崎刺繍には、ひと針、ひと針に職人の心意気が込められています。展示品を見ながら、長崎にかつてこのような作品をつくりだす職人さんたちがいたことを誇らしく思う一方で、時代とともに衰退せざるを得なかった現実にさみしさも感じられます。しかし、嘉勢さんのように時代を超えて、その技と心を受け継ぐ職人さんが生まれたのは、過去の職人さんたちがいつの時代にも通用する感動のある作品を残してくれたからこそなのでしょう。今後の長崎刺繍が、さらに技術が磨かれ、また次の世代へと受け継がれていくことを願わずにはいられません。

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  • 第212号【今年のグラバー家のニュース】

     今月初め長崎の地元の新聞に、長崎県西彼杵郡高島町にあるトーマス・グラバー(1838―1911)の別邸(洋式邸宅)の跡地から、レンガを敷き詰めた通路と思われる遺構などが発見されたという記事が掲載されました。 イギリス人貿易商のグラバーは、安政6年(1859)開港して間もない長崎にやってきて貿易商を営み、日本初の蒸気機関車を走らせたり、ソロバン・ドッグ(修船場)を建設するなど、さまざな事業を通して日本の近代化に大きな功績を残した人物です。 彼の住まいは、長崎市南山手のグラバー園内に残る「グラバー邸」がよく知られていますが、グラバーは、幕末、長崎港の沖合いに浮かぶ高島で炭鉱も開発しており、明治初年にその地(現在陸続きになっている小島)に別邸も建設して居住しました。 目の前には海が広がり水平線に沈む美しい夕日を楽しめたグラバーの別邸は、ずいぶん前に取り壊され、現在は、「グラバー別邸跡」として、訪れた人が憩えるあづまやがあるだけです。この高島町の跡地では、これまで発掘作業が行われたものの、ほとんど何も出なかったと聞いていました。 しかし、今年の発掘調査で、レンガを敷き詰めた通路のようなものや、建物の礎石、庭石などが出土。レンガは、当時長崎で作られた「コンニャクレンガ」(形がコンニャクに似ているためそう呼ばれた)が使用されていたそうです。今後の発掘調査の展開が気になるところです。 グラバーに関する今年の出来事をもうひとつ。6月、長崎市の坂本国際墓地にある「グラバー家の墓地」が長崎市文化財に指定されました。グラバー親子の残した業績は、幕末維新史、日本の近代産業史を知る上でたいへん貴重だということから、その墓地についても文化財と判断されたのだそうです。 晩年を東京で過ごしたグラバーが亡くなった翌年(1912年)に設けられたこの墓には彼の遺骨が埋葬されています。墓石には「THOMAS BLAKE GLOVER」と、グラバーより先に亡くなった妻「TSURU GLOVER」の名が刻まれていました。 隣には、グラバーの息子の倉場富三郎(1870―1945)とその妻ワカが埋葬されている「倉場家之墓」があります。倉場富三郎は、イギリス留学の後、長崎に帰り、父グラバーが亡くなったあとに南山手のグラバー邸に住みました。トロール漁業や遠洋捕鯨など、日本の水産業に大きく貢献。また外国人と日本人の親ぼくを深めるための「内外クラブ」を出島につくったり、魚類図鑑(グラバー図譜)を完成させるなどしています。 その富三郎が亡くなって半世紀も過ぎてからの文化財指定で、何だか遅いような気もするのですが、今もなお、長崎の地に新たな足跡を残し続けるグラバー親子は、やはり長崎にとってたいへん重要な人物であることを、あらためて気付かされます。残された資料も充分でなく、二人の全体像をつかむのは至難の技ですが、謎の部分も含めて彼らを見直してみるのもいいかもしれません。

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  • 第211号【「グッドデザイン賞・金賞を受賞、長崎水辺の森公園】

     先日、秋晴れの休日を楽しむために、「長崎水辺の森公園」へ出かけました。家族や友人と語らいながら園内を歩いている人、犬を連れて散歩を楽しむ人、芝生に寝転がっている人、海を眺めている人など、思い思いのスタイルで人々がのんびりと過ごしています。この光景を見るたびに、本当にこの公園ができて良かったなあと思います。 今年3月、長崎港に開園してまもなく当コラムでもご紹介した(184号)、この公園に、10月1日うれしいニュースが舞い込みました。グッドデザイン賞(建設・環境部門)の金賞を受賞したのです。グッドデザイン賞とは1957年、通商産業省によって創立された、「グッドデザイン商品選定制度」を母体とする、日本で唯一の総合デザイン評価・推奨制度で、升(マス)を思わせる形の中に「G」の文字をデザイン化した「Gマーク」で知られています。社会的、文化的価値の見地から評価して、優れていると認められるものにおくられる「グッドデザイン賞」は、「デザインの力」によって社会全体をより良い方向へ推し進めていく役割を果たしていると言えます。 公園の金賞受賞にあたって、審査員の評価は、子供から大人まで楽しめること、年月が経過すると、やがて水のそばの豊かな森の公園になるよう計画されていることなどがあげられていました。今、植えられている樹木などが成長し、新たな森の表情となっていく。この公園で、人々がほっとくつろぐのは、そんな自然な時間の流れを感じているからかもしれません。 自然石を施した海際では、ザブン、ザブンと打ち寄せる波の音がとても心地よく、そのそばには、白い花びらと光沢のある緑の葉がとてもきれいなハマギクが咲いていました。公園の隣では来年春開館予定で建設中の長崎県美術館が、モダンな外観を見せはじめています。 この日の朝、公園に隣接する松が枝岸壁(松が枝町)には、17年ぶりに長崎に入港した国際観光船「ロイヤルプリンセス」(44,588トン)の姿がありました。白く巨大な(9階建)船体が、太陽の光を浴びてキラキラ輝いています。乗客はアメリカ、イギリス、ロシアなど1,200人近くいたそうです。一行は、2週間ほど前にタイを出発し、シンガポール、香港を経て長崎へ。降り立った乗客たちは市内観光を足早に楽しみ、同日夕方にはこのツアーの最終寄港地である中国・天津へ向かいました。「ボー、ボー、ボー」と太くて低音の汽笛を響かせ、夕日を浴びながら長崎を出港するその様子を、公園のベンチで船が見えなくなるまで眺めている老夫婦の姿が印象的でした。 話は変わりますが、長崎の街ではもうひとつ、今年の「グッドデザイン賞」の受賞作を見ることができます。「超低床路面電車」です。初めて純国産技術で実現したものだそうで、乗降口のステップがないため、だれでも快適に乗降できるユニバーサルデザインになっています。省エネで環境にも配慮しています。「長崎水辺の森公園」と「超低床路面電車」。幸せを感じるそのデザインをぜひ、あなたご自身も体験してください。

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  • 第210号【長崎の秋の魚いろいろ】

     豊かな海に囲まれた長崎県の海岸線は、好漁場の条件とされるリアス海岸。その長さは約4,200キロメートルあり、日本で2番目の長さを誇ります。さらに600近くの島々も擁し、県全域にわたって海釣りの好ポイントが数多くあります。釣り好きの人たちにとっては、まさにたまらない環境です。釣りの経験があまりない人でも、漁場に恵まれているからか、意外な大物が簡単に釣れてしまうこともよくあります。先日、長崎市近郊の釣り場へ初めて小アジ釣りに行ったら、思いがけずクロダイ(チヌ:30センチ)が釣れました!この魚を釣るのは、けっこうむずかしいそうなのですが…。 うれしいことは続くもので、季節ごとに我が家に新鮮な魚介類を届けてくれる五島列島の漁師さんからイセエビが送られてきました。「小ぶりだけど、たくさんとれたので」とのこと。体長15~25センチほどで、イキがよく見るからにおいしそうです。 聞くところによると、日本の大平洋岸に生息するイセエビがどこから来たのかということについて調べ、五島列島がそのルーツではないかと考えている学者さんがいるそうです。五島列島ではイセエビの漁獲量は安定しており、ルーツだと言われれば、確かにそうかもしれないと思える話しです。 イセエビは調理する前は茶色っぽいですが、ご存知のように煮ると鮮やかな赤色になります。その赤がとてもきれいなので昔から祝い事には欠かせない食材です。高価なので普段はなかなか買う機会はありませんが、この時ばかりは贅沢に、刺身とお味噌汁にしました。透明感のあるうす紅色をしたイセエビの肉は、甘い潮の香がします。味噌汁の椀では窮屈とばかりにヒゲがピーンとはみ出しています。脳味噌からでたコクのあるダシは文句なくおいしい。漁師さんへの感謝の気持ちでいっぱいになりました。 その漁師さんからは、秋から冬にかけて水イカ(アオリイカ)も届きます。真っ白な身は厚く弾力があり、噛むとモチモチッとして甘いのです。口の肥えた東京の友人が、これを食べたら他のイカは食べられないと絶賛してくれました。 水イカは一年を通してとれるそうですが、漁期といわれるのは春と秋。大量にとれる年と、そうでない年の差が激しく、ここ数年はめっきりとれなくなったと漁師さんはぼやきます。水イカはそのまま刺身もいいですが、一夜干しもまた格別です。上品な旨味があり、一般に食べられるスルメと比べると臭みがなく、見た目も味わいもふくよかな感じです。「一夜干しする時は、気温が低く強風の日がいい。真っ白なままきれいに乾いて、おいしいんです。でも、ここ数年は暖冬の影響で生ぬるい風の日が増え、1週間ほど干さなければならない時もある。すると色に赤みがかかり、味も少し変わってしまうんですよ」と漁師の奥さんが話していました。 イカは、高タンパク質、低カロリーのヘルシーな食材で、血中のコレステロール値を下げる効果や、肝臓の解毒作用、胆石予防、神経系機能の改善などの効果があるとか。新鮮でおいしい長崎県のイカを、ご家族の健康づくりに役立ててください。◎ 参考にした冊子:「長崎県魚の栄養あるある辞典」(長崎県魚市場協会連合会)

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  • 第209号【郷くんち~竹ん芸~】

     みこしを担いで町を巡行したり、神楽や奉納踊りを披露したりなど、全国各地が神社の秋祭りで賑わう10月。収穫を感謝し、神様にお供えものを捧げる秋祭りの表情は、それぞれの地域の歴史と風土を映し出し実に多彩です。あなたがお住まいの町では、どんな秋祭りが行われましたか? 長崎市では10月7~9日の「長崎くんち」が終わったあとも、市内の約30地区で「郷(さと)くんち」と呼ばれる秋祭りが行われています。11月下旬頃までは、市内のどこかで賑やかな祭り囃子が響き、郷土芸能が繰り広げられるのです。ここ数年、各町とも郷くんちに力を入れているのか、子供も大人も積極的に参加して出し物の練習にはげんでいる様子を見かけます。地域の人々の親ぼくを深めながら、町おこしにもつながる郷くんち。これからの人づくり、町づくりにどんどん活かせたらいいですね。 長崎の郷くんちは、龍踊りを披露する「滑石くんち」、浮立など郷土芸能を奉納する「三重くんち」、「式見くんち」などがあり、それぞれ地域にゆかりある出し物が行われ賑わいます。中でも人気を誇るのが、「若宮(わかみや)くんち」の「竹ン芸」(たけんげえ)です。長崎市伊良林にある若宮稲荷神社の奉納踊りで、長崎市の無形文化財に指定されています。 毎年、10月14、15に行われる「竹ン芸」は、白装束に狐のお面をつけた二人の若者が竹によじのぼって芸をするのですが、そのアクロバティックな妙技を一目見ようと年々見物客が増える一方です。今年もその舞台となる神社の境内には大勢の人が集まり、楽しみました。 200年ほど前、地元の八百屋町が諏訪神社へ奉納したのがはじまりと伝えられる「竹ン芸」。明治に入ってから現在の神社での奉納踊りになったそうです。使用される青竹は、10メートル以上もある太くて立派なもの。1本は強くしなる真竹。もう1本は孟宗竹(もうそうだけ)で、これにはカセと呼ばれる15本ほどの足掛けが、はしごのようについています。まずこの孟宗竹を雌狐が芸をしながら登っていきます。 そのあと雄狐も追い掛けるように登りはじめ、二匹の狐が逆さになったり、扇形をつくったりし、隣の真竹に移ると、泳ぐように両腕をぐるぐるまわしながら前後に竹をしならせます。観客は竹が折れはしないか、狐が足をすべらせはしないかと、冷や冷やしながら演技を見守ります。 狐たちの身体の動きは雄弁ですが、表情を変えない真っ白なお面は、間近で見ると、神秘的でちょっと怖い感じもします。二匹とも同じ面だと思っていたら、鼻の形に雄と雌の違いがあるようです。 「竹ン芸」は、狐の動きに合せて音色を奏でる囃子もすばらしい。この囃子は、長崎市田中町中尾地区の方によるもので、長崎県の無形民俗文化財になっています。唐笛や片側だけに皮をはった太鼓など唐楽器が奏でる音は、狐の芸に合せて曲調が変わります。そのタイミングは合図があるわけではなく、囃子方と狐役がお互いを感じ合いながら上手く合せていくのだそうです。今年見逃した方は、ぜひ来年ご覧ください。

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  • 第208号【秋の味覚 サツマイモと平戸】

     すっかり秋めいてきました。収穫の季節に身体も素直に反応して食欲も旺盛になってくる頃。旬をたーんと味わってこの季節を謳歌しましょう!旬といえばサツマイモもそろそろ収穫の時期。本来の甘さをいかした蒸かしイモや大学イモ、スウィートポテトなど、おかずよりおやつ系のメニューがすぐに頭に浮かぶのは、サツマイモの個性のひとつかもしれません。 甘藷ことサツマイモはいろいろな品種が各地で作られ現代の日本人には親しみ深い食材ですが、原産地は熱帯(中央)アメリカで、15世紀終わり頃コロンブスがトウモロコシなどといっしょにヨーロッパに伝え、それがきっかけでアフリカや東南アジアなど世界中に広がったといわれています。 日本へは中国から琉球(現在の沖縄県)を経て、薩摩(鹿児島県)へと伝わり、そこから江戸中期の蘭学者、青木昆陽(あおきこんよう)がこの作物に関する書を著し全国へ広めたというのが定説のようです。伝来のルートからそう呼ばれるようになったサツマ(薩摩)イモは、やはりそのルートに由来して「唐イモ」とも呼ぶ地域もあり、長崎では「琉球イモ」とか、「南蛮渡りの藷」を意味する「蕃藷」とも呼ばれていたようです。このサツマイモの伝来について、ウィリアム・アダムス(三浦按針)のエピソードもあることをご存知ですか? ウィリアム・アダムスは歴史の教科書でもご存知のように、1600年、オランダ船で豊後(大分県)に漂着した後、家康に外交の顧問として召し抱えられた人物です。1605年頃には、平戸へ来てオランダとイギリスとの通商に活躍しました。 「長崎洋学史」には、1615年に、ウィリアム・アダムスが初めて「蕃藷」を琉球から平戸へもたらしたことが記されているそうです。それは、彼がインドシナへ渡航中に船が破損したため琉球に立ち寄った際に、購入し持ち帰ったものだとか。当時の平戸英国商館長の日誌には、日本でまだ栽培されていない琉球の「蕃藷」を植え付けた、という内容の記載が残っているそうです。 歴史をひもとけばまだまだいろいろな話が出てきそうなサツマイモ。江戸時代には、荒れ地でもたくましく育ち飢餓を救い、戦後には食料不足のピンチを救ったというくらい生きる活力の源がいっぱいです。エネルギーの素となるでんぷんや糖分が主成分で、美肌づくりに欠かせないビタミンCも1本(200グラム)でほぼ1日分の必要量を摂取できます。実を輪切りにすると白い液がじんわり出てきますが、これはヤラピンという成分で便秘予防に効果があります。また、イモ類の中ではカルシウムが多く含まれているほうなので、カルシウム不足が気になる方にもうれしい食材です。煮物や天ぷらサラダなど、さっそく今夜の一品にいかがですか?◎ 参考にした本/ながさきことはじめ(長崎文献社)、からだによく効く食べもの事典(池田書店)

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  • 第207号【長崎さるく博】

     万博とか、博覧会と聞くだけで、何だかワクワクしてしまう。そんな方、多いのではないでしょうか。日本で初めて開催された万博(国際博覧会)は、昭和45年の大阪万博で、以後、沖縄海洋博、つくば万博、国際花と緑の博覧会が開催されましたが、来年はいよいよ「愛・地球博」(愛知博:平成17年3月25日~9月25日)。楽しみですね。 実は、長崎市でも再来年、『長崎さるく博’06』(平成18年4月1日~10月29日)が開催されます。「さるく」とは長崎弁で、「ぶらぶらとほっつき歩く」という意味で、まち歩きを通して長崎の歴史や文化、風俗、生活を体感してもらおうというユニークな博覧会です。国をあげて行われる万博のように先端の技術を展示したり、パビリオンなどを建ててゴージャスに行うものとはまったく違うもので、「さるく」という人間らしいスローな感覚で長崎を見つめ、市民が中心となって作り上げる日本で初めての「まち歩き」博覧会として注目されています。 『長崎さるく博’06』が開催される年は、現在、長崎港に建設中の女神大橋や出島復元の第二期工事、歴史文化博物館などが相次いで完成する予定で、長崎市にとっては節目の年。この博覧会で、「観光長崎」の素敵な未来へ向けて第一歩が踏み出せたら最高です。 長崎の街全体が博覧会の舞台となる『長崎さるく博’06』。今、開催に向けて市内の各所で「まち歩き」が楽しくなる仕組みや仕掛けづくりが行われ、準備が着々と進められています。単に散策するだけにとどまらず、遊びたい、学びたいなど、興味や好みに応じて楽しめるように、多彩な「まち歩き」のメニューが用意されるそうです。 この『長崎さるく博’06』で、大きな役割を果たすことになるのが、「長崎さるくガイド」と呼ばれる地元の案内役の方々です。史跡などの説明はもちろん、地元の人しか知らないとっておきの話もたっぷり聞かせてくれます。 開催に先駆けて、すでに4つの「まち歩き」のマップが作られ、市役所などで配付されています。内容は、南山手のグラバー園周辺をめぐる「居留地コース」、かつての日本三大花街のひとつだった「丸山コース」、お寺が続く通りや古い民家など風情ある佇まいが見れる「寺町・中島川コース」、かつて庄屋がおかれ長崎の中心地として栄えた「鳴滝・新大工コース」。それぞれのマップには、史跡やいろんなお店などの情報が盛り沢山で、いずれもスタートからゴールまで約1時間半ほどでめぐることができます。マップを手に入れて、健康づくりのウォーキングがてら歩いてみませんか? プレイベントも今年10月23日~11月23日と2005年7月30日~10月16日に行われます。今年のプレイベントの期間中は、長崎銀細工、長崎刺繍、ステンドグラスなど長崎の伝統工芸を体験できる催しなど長崎の文化に触れる催しが目白押しです。

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  • 第206号【ことしの長崎くんちの見どころ】

     今年はどんな奉納踊りが見れるのか、ふるまい酒に酔いしれながら本番への期待感に包まれた「庭見せ」。くんち行事のひとつである「庭見せ」は、今年の奉納踊りを担当する「踊り町」の家々が室内や庭を解放し、くんちで使用するだしものや傘ぼこ、衣装、道具などを公開することで、祭りの準備がしっかり整ったことを町内外の人々に知らせるものです。毎年10月3日の夕方から夜にかけて行われ、くんちの踊り町が点在する長崎市中心部は大勢の人出で賑わいます。 そして、いよいよ明日から3日間、長崎・諏訪神社の秋の大祭「長崎くんち」(国指定重要無形民俗文化財)が本番を迎えます。寛永11年(1634)にはじまり、370年目を迎えた今年の踊り町とだしものは、本古川町「御座船」、東古川町「川船」、出島町「阿蘭陀船」、小川町「唐子獅子踊り」、大黒町「本踊り・唐人船」、紺屋町「本踊り」、樺島町「太鼓山(コッコデショ)」です。9月になっても猛暑が続いた今年、この7つ踊り町の本番に向けてのけいこは、とてもきつかったことでしょう。 それでは、各踊り町の見どころをご紹介します。本古川町の「御座船」は、約3トンはあるというヒノキ造りの美しい和船。「二本引き日の丸」の意匠を施した帆が印象的。右に三回転、逆に三回転半も回るという根曵の新しい技に注目です。東古川町の「川船」には、秋の川沿いの風景をイメージさせるススキや花が飾られています。その風情あふれる船の装いに反して、パワーとスピード感あふれる船回しがスゴイ!船歌に合せて船頭役の子供が網打ちをする姿も楽しみです。 出島町「阿蘭陀船」は、鉄琴やドラムなど洋楽器を用いた囃子で、ひときわ異国ムードが漂っています。オランダの国旗がはためく黒い船の重さは4トンを超えるとか。その船体をあえて、ゆっくり回す技が見もの。根曵衆の情熱と底力が伝わってきます。小川町「唐子獅子踊り」は、東長崎の中尾地区に200年以上も伝わる獅子踊り。華やかで、どこか愛嬌のある親子獅子の息の合った舞いが見どころです。獅子踊りの前に登場する、子供たちの愛らしい唐子踊りも見逃せません。 大黒町「本踊り・唐人船」では、その昔、唐人船が海を渡り、長崎に入港したときの風景を再現しています。唐人と日本人の友好を表したという踊りは、日舞とモダンバレエが融合したもの。ドラと鉦(かね)の音色が響く中、華やかな唐船が豪快な音をたてて回される様子も圧巻です。 江戸時代、中島川のほとりに染物屋が多く住んだことに由来する紺屋町の名。「本踊り」の長唄の題目は「稔秋染耀六彩色(みのるあきそめてかがやくむつのいろどり)」。江戸時代、中島川で染めもの仕事をする人々の様子を再現するそうです。最後にご紹介するのは、その勇壮さと豪快さで一番人気を誇る樺島町の「太鼓山(コッコデショ)」です。5色の大きな布団(宝)を乗せた太鼓山を、屈強な男たちが宙に放る技は、鳥肌が立つほど感動的です。 明日は、全国ニュースでも長崎くんちの様子が伝えられるはず。でも、生でご覧いただくのが一番。ぜひ、お出かけ下さい。◎参考にした本/長崎事典~風俗文化編~(長崎文献社)

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  • 第205号【華やかに先祖を送りだす中国盆】

     秋空にくっきりと映える唐寺の黒い屋根と朱色の壁。その参道や境内にぎっしりと飾られた、赤、黄、ピンクの華やかなちょうちん。果物やお菓子が供えられた祭壇では、赤いロウソクの炎が風に揺れ、寺中に立ちこめる竹線香の香煙の中を、華僑の人々が列を作り、厳かに礼拝をしています…。長崎市鍛冶屋町にある唐寺・崇福寺(そうふくじ)で行われた中国盆の光景です。毎年旧暦の7月26日から3日間行われる伝統行事で、今年は9月10日からはじまりました。 朱色の御堂がいかにも唐寺らしい崇福寺は、国宝や国重要文化財などを擁した由緒あるお寺で、中国・福建省出身者のぼだい寺として知られています。毎年、中国盆がはじまると全国から同省出身の華僑の人々が集い、先祖の霊を供養しています。 この極彩色に包まれた中国のお盆は、日本のお盆にはない珍しい習わしが数々見られることもあり、観光客も大勢訪れます。たとえば、本堂そばの中庭には、質屋、文具店、タバコ屋、時計店、金物屋など、36軒のお店の“絵“がズラリと軒を列ねます。これはお招きした霊が利用する、いわば仮想冥界の商店街で、「三十六堂(サンスリュウロン)」と呼ばれるものだそうです。仮想冥界といえば、「五亭(ウーテン)」と呼ばれる小さな5つの祭壇も、そういった類いのものといえます。それぞれの祭壇が倶楽部、女室、男室、新舞台、沐浴室といった役割を担い、祭壇の中は役割に応じたミニチュアの設備が施されています。この「五亭」には、霊を招いて慰めることや、現世の住居に感謝するという意味があるそうです。どうやら中国のお盆は、先祖をもてなす心が、きちんと形になっているところが特長のようです。 先祖にお金を持たせるために、お金を模した紙を燃やすという風習も見られます。あの世用!?の紙幣の束を燃やしていた華僑の方が、「本物の一万円札を燃やした方がご利益があると思うかもしれないけど、この世で使われるお札は、あの世では使えないんですよ」と笑って話してくれました。 中国盆3日目の夜。境内では中国獅子舞が披露されます。子供たちが演じるかわいい獅子舞と、大人たちが演じる本格獅子舞。華僑の人々の間で脈々と受け継がれる伝統の踊りは圧巻です。 お坊さんたちのお経がすみ、中国盆もいよいよ終わりに近付いた夜10時頃、境内で「金山」「銀山」の飾りが燃やされました。「金山」「銀山」とは、円すいの形に仕上げた竹の骨組に、それぞれ金紙、銀紙を張り付けたもので、これも先祖があの世でお金に困らないようにする習わしだといいます。 この様子を見るために見物客が境内に集まっていたところ、点火前に一時的に激しい雨が降りました。ちゃんと燃えるだろうかと心配されましたが、約二百本はあるという「金山」「銀山」は、盛大に燃え上がりました。思わず後ずさりしてしまうほどの勢いで燃える炎と、耳をつんざくような爆竹の音。その中をくぐりぬけるように、先祖の霊は西方浄土へと送り出されていったのでした。◎参考にした本/「時中」(長崎華僑 時中小学校史・文化事誌編纂委員会」

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  • 第204号【ピエール・ロチと長崎】

     ピエール・ロチ(1850~1923)は、今から約100年以上も前のフランスの人気作家です。そのロチの記念碑が長崎市諏訪神社の月見茶屋そばに建っています。 白い円柱型をしたその碑には長崎の港を静かに見下ろすロチの横顔が刻まれています。今回は、このフランスの文豪と長崎の関わりについてご紹介します。 ブルターニュの港町で生まれたロチは、海軍兵学校を経てフランス海軍の軍人になり、小さい頃からの夢であった世界各国をめぐる機会を得ました。そうして訪れた国々を舞台にした数々の小説を書き、19世紀後半のフランスで売れっ子の作家になったそうです。 ロチは日本にも何度か滞在しています。初めて訪れた地は長崎で、1885年(明治18)夏のことでした。ロチはこの街で約1ヶ月ほどを過ごし、その経験をもとに、小説『お菊さん』を執筆しています。長崎滞在から2年後の1887年にフィガロ紙に発表された『お菊さん(マダム クリザンテエム)』は、主人公(作者)が、長崎の街を見下ろす高台の家で、長崎の娘「お菊さん」と共に過ごした日々(「小さな結婚」とロチはいう)について語り描いています。 その内容は、作者の経験をもとに率直に、感性豊かな文章で仕上げられていますが、当時の極東に対する西洋人の先入感がそうさせたのか、または作者自身の繊細さとメランコリーな性格からくるものなのか、主人公はどこか不安感のある憂鬱な感じで物事をとらえていて、日本人も醜く卑小なものとして描いています。 しかしながら、そこには、図らずも明治の長崎の風景や美しい日本の住まいや質素な人々の暮らしが描かれていて、たいへん興味深いものがあります。また、小説の内面的なテーマも、長崎の街での経験を通して「人間の不安感」を描いているように感じられ読みごたえもあります。 さて、長崎での滞在を終えいったん日本を離れたロチは、同年秋、再び1ヶ月ほど日本に滞在したようです。この時、神戸、京都、鎌倉、東京、日光などを訪れたロチは、日本の美術、工芸のすばらしさに感嘆し、『秋の日本的なもの』として書きまとめています。 さて、『お菊さん』には後日談があります。ロチは、初めて長崎に滞在した年から15年後の1900年(明治33)暮れから翌年にかけて再び長崎を訪れていて、この時の話を『お梅さんの三度目の春』「(1905年発表)という小説に書いているのです。お梅さんとは、以前「お菊さん」と暮らした家の家主の奥さんのこと。お菊さんはすでに他家へ嫁いでいて、再会した人々との新たなストーリーが記されています。 15年の歳月は、人も長崎の街も変えていました。この時、50才になっていたロチ自身にも前回とはまた違った哀愁が漂います。長崎とは?人間とは?といったことに興味のある方は、ぜひ、『お菊さん』、『お梅さんの三度目の春』を読んでみませんか。◎参考にした本/「お菊さん」(岩波書店)、「お梅が三度目の春」(白水社)、「長崎の文学」(長崎県高等学校教育研究会国語部会)、「異邦人の見た近代日本」(懐徳堂記念会編)

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