第220号【東海さんのお墓】

 江戸時代の長崎には、中国語を通訳した「唐通事(とうつうじ)」という役人がいました。彼らは通訳だけでなく、貿易品の売買の仲介役や奉行所の仕事などもこなさなければならず、オランダ語の通訳を担当した「阿蘭陀通詞」よりも多忙でした。もちろんその分、給与は「阿蘭陀通詞」より多かったそうです。ちなみに、中国語の通訳が「通事」で、オランダ語の方が、「通詞」とされる理由について、「通事」は、前述のように中国語の通訳者が通訳だけでなく、諸“事”に応対しなければならないところからきたという説があります。また、これとは別に、もともと「通事」の方が最初にあって、後から出てきたオランダ語の通訳との区別をつけるために「通詞」という言葉が使われたと考える人もいるようです。


 いずれにしても、当時の「唐通事」は中国の文化を理解できる教養が必要とされ、詩歌、書画などをたしなむ知識人であったようです。今回ご紹介する「東海さんのお墓」は、そんな唐通事のひとりで、東海徳左衛門という人物が、父母のために建てたお墓です。お墓の場所は、長崎で初めて建てられた教会(トードス・オス・サントス教会)の跡地に建てられた春徳寺(長崎市夫婦川町)の後山です。




 東海家は江戸時代に10代続く唐通事の家柄でした。徳左衛門は、お給与もそれなりにもらっていたでしょうし、家も裕福であったのかもしれませんが、それにしても、このお墓は普通の規模ではありませんでした。それは、目を見張るような大きさで、しかも完成までに約10年(1670~1680年頃)もかかったというのです。お墓造りにそんなに長くかかるのは、よほどのこと。理由は、徳左衛門が細かい指示を出したことで工事がなかなか進まなかったからだと伝えられています。経費も労力も相当かかったに違いありません。


 このことから長崎の人々は、仕事や用事がはかどらない様子を見ると、「東海さんの墓普請(はかぶしん)」とか「東海さんの墓んごたる」(=東海さんの墓のようだ)などと言っていたそうです。


 長崎駅から「螢茶屋」行きの路面電車に乗り、新中川町電停で下車。徒歩5分ほどで春徳寺に至ります。山門前には眼下に広がる長崎の町を見守るかのように大きなクスノキがそびえています。「東海さんのお墓」は、寺院の後ろを囲むようにしてある墓地の一角にありました。




 民家が2~3軒は軽く建てられると思えるくらいの広々としたスペースに、5つのフロアで構成されたそのお墓は、石柱や壁などに中国風の絵柄が彫られ、おおらかな大陸風の趣がありました。お墓の中段の左右に設けられた大きな獅子頭の表情にはどこか愛嬌があり、お墓なのに、のどかな雰囲気さえ感じられます。その目には、かつて金箔が施されていたそうですが、さすがに300年以上も風雪にさらされて、すっかりはげ落ちていました。






 お墓を建てた徳左衛門は、約50年間に及んだ唐通事の役職を勤め上げたものの、その後の消息は不明で、自らが建てたこの東海家の墓地にも入っていないそうです。一体、どのような思いで、このようなお墓を10年もかけてつくったのか知りたいところですが、そういった史料が見当たらないのがとても残念です。




◎ 長崎事典~歴史編~(長崎文献社)、長崎通詞ものがたり(杉本つとむ著)


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